大和岩雄著「秦氏の研究」を読む ―5― 新羅国神を祀る秦氏、敦賀の気比神社、天日槍が移民第一号、宇佐八幡宮vs鹿児島神宮、新羅の花郎が薩摩の兵児二才制度になった?

大和岩雄著「秦氏の研究」を読む ―5― 新羅国神を祀る秦氏、敦賀の気比神社、天日槍が移民第一号、宇佐八幡宮vs鹿児島神宮、新羅の花郎が薩摩の兵児二才制度になった?

 

 


 

 

「三、 秦氏の祀る神社と神々」から読んでいきます。

 

 

P210

 

香春(かわら)の地と香春岳について、『豊前国風土記』逸文は、

・・・・と書くように、「新羅国神」を祀るとあるが、この神社の祭祀氏族は秦氏である。

 

P211

 

香春神社の神官三家のうち、二家の赤染氏は、秦氏系である。 鶴賀氏の「ツルガ」が、

北陸の「ツルガ」の地名にかかわるとすれば、鶴賀氏も渡来系と無縁ではない

 

『日本書紀』の垂仁天皇二年条に、

・・・・其処を号(なづ)けて角鹿(つぬが)と曰(い)ふ。・・・・

この「ツヌガ」が鶴賀と書かれ、現在は敦賀と書かれている。

 

P212

 

香春神社は、宇佐八幡宮の元宮・古宮といわれ、八幡宮と縁が深いが、八幡宮の

祭神誉田別命(応神天皇)は、記・紀によれば、気比の神と名替えをする。 

気比の神とは、敦賀市の気比神社で、ツヌガアラシトが上陸した笥飯(けひ)の浦に

ある。 このツヌ(ル)ガ地方には秦氏が居住しており、秦氏と深くかかわる白神信仰

の盛んな地である。

 

赤染氏と共に、香春神社の祭祀氏族なのだから、この鶴賀氏も秦氏となんらかの縁が

あって、香春神社の神官になったのだろう。

 

==>> 気比神社には、云十年も前に行ったことがあるので、ちょっと復習します。

     https://kehijingu.jp/about/#about2

     「伊奢沙別命(いざさわけのみこと)は、笥飯大神(けひのおおかみ)、御食津

大神とも称し、2千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の土公)に

降臨したと伝承され今に神籬磐境(ひもろぎいわさか)の形態を留めている。」

     「渤海使(ぼっかいし)が相次いで日本海沿岸に来着したので神領の氣比の松原

(現国定公園・日本三大松原)を渤海使停宿の処として、天平神護2年(766

勅によって松原客館が建設され、これを、氣比神宮宮司が検校した。」

 

又、wikipediaには、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%A3%E6%AF%94%E7%A5%9E%E5%AE%AE

「主祭神はイザサワケ(伊奢沙別/去来紗別)で、氣比神宮特有の神である。

神宮の祭神は上古より当地で祀られた在地神、特に海人族によって祀られた

海神であると解されている。一方、『日本書紀』[ 9]に新羅王子の天日槍の

神宝として見える「胆狭浅大刀(いささのたち)」との関連性の指摘があり、

イザサワケを天日槍にあてて新羅由来と見る説もある。」

 

「摂社 角鹿神社 祭神の都怒我阿羅斯等は、『日本書紀』[ 24]において垂仁

天皇の時に渡来したと記されている意富加羅国(任那国)王子で、同書では笥飯

浦に至ったと見える。」

 

・・・説はいくつかありそうですが、少なくとも、半島との交流が盛んにあった

ことは確かなようです。

 

さらに、ここで、上記にある神籬磐境に心惹かれるので確認します。

http://www.nippon-bunmei.jp/amanoiwakura-t4.htm

「神を招き、感謝と祈りを捧げる祭祀を執り行っておりました。それに答えて神

が降臨される依代が、磐境・磐座であり、神籬(ひもろぎ)であり神奈備(かむ

なび)でした。」

「神聖とおもえる岩の点在している所や巨石、大きな樹木、森、山などを依代

(よりしろ)として神が宿られたのです。」

 

・・・この辺りの記述は、樹木信仰、磐座信仰、山岳信仰を連想させます。

私の興味はこの辺りにあるのですが、なかなか・・・・

 

 

P213

 

『古事記』によれば、息長帯姫の母方の始祖は、新羅の王子天之日矛(天日槍)であり、

息長帯姫は新羅王の後裔になっており、新羅の国神をまつると『豊前国風土記』が書く

香春の神とかかわっている。

 

==>> 上記の「イザサワケを天日槍にあてて新羅由来と見る説」との繋がりが

     あるということですね。

 

 

P214

 

平野邦雄は、・・・・「喜田貞吉氏が、天日槍をもって、秦氏族最初の日本移住者

とされたのは、鋭い指摘である」と述べている。

 

 

P219

 

『三国遺事』は、新羅の王都を「徐伐」(ソホル、ソフル)と書く。現在の朝鮮の

首都のソウルも同義で、いずれも神の降臨する聖地をいう

 

『日本書紀』は、天忍穂根(天忍骨)命の子ニニギノ命が降臨した山を、

「日向の襲(そ)の高千穂の添山峯(そほりのやまたけ)」と書き、「添山峯」には

特に注して、「曽褒里能耶麻(そほりのやま)」と訓め、と注している。

 

==>> つまり、朝鮮にしても、日本にしても、神が降臨した聖なる場所を

     朝鮮語の音で記しているという話のようです。

 

 

 

「宇佐八幡宮 ― 秦王国の神から日本の神へ ― 」

 

221

 

「ヤハタ」を「八幡」と書き、その漢字を「ハチマン」と音訓みしたのであり、

「ハチマン」より「ヤハタ」が古い呼称である。

 

P229

 

このように、「ヤハタ」が朝鮮の祭祀とかかわっているのは、「ヤハタ」の信仰は

「秦王国」の人たちの信仰だったからである。

 

P232

 

『豊前国風土記』は、「気長足姫(おきながたらしひめ)」が鏡山に在(いまし)て、

姫の鏡が石になって山中にあるから、「鏡山」という、と書く。

 

この「オキナガタラシヒメ」は、宇佐八幡宮の祭神になっているが、

この原像は「豊比咩(とよひめ)命」であろう。 

豊姫が、香春の新宮の「カラクニオキナガオオヒメオオメノ命」となり、

八幡宮の「オキナガタラシヒメノ命」になったのである。

 

==>> 私のイメージとしては、「八幡」は地名としての「ヤハタ」あるいは「ヤワタ」

     で、「八幡宮」とか「八幡さま」と書いたら神社の「ハチマン」という感じ

     です。

 

     しかし、それにしても、神様たちの名前は、訳が分かりませんね。

     笑ってしまったのは、「豊比咩」の「咩」を「め」と読むってところです。

     羊の口から出る音が「めえ~~~」だから???

 

     こちらにその名前の神社があったようですが・・・・

     http://engishiki.org/chikugo/bun/ckg610103-05.html

     「【現社名】豊比咩神社【旧地】

     【住所】福岡県久留米市御井町御井

     豊比咩神社はこの地に鎮座していたが、昭和11(1936)、ブリジストン石橋家

が別荘「水明荘」を建築する際、隣接地の清水山一帯を(高良大社の要望に応え

)購入したときに廃社され、御祭神(神霊)は高良大社本殿に遷し合祀されたと

いう。」

 

 

p235

 

はじめて「宮柱を立て」たのは、鷹居社からであり、その時、辛島勝乙目・意布売の二人

が、祝・禰宜としてきめられたというから、それまでは沖縄のウダキのように神殿はなく、

きまった神官もなく、辛島郷の人たちが祀っていたのである。

 

p237

 

本来香春の秦氏が祀っていた神(秦王国の神)が、ヤハタの神であり、その神が管制化する

過程で宇佐氏がとりこんだのである。 

 

この内容から推察すれば、日本の神になる以前の八幡は、日本の神でなかったことになる。

 

つまり宇佐八幡は元来韓国の神であったが「辛国の城」に八流の旗を天降して、日本の神

になることができた。 ・・・

 

p243

 

豊国法師が用明天皇の病気をなおすために上京したのは、蘇我馬子の命令で豊国(秦王国)

へ派遣された大神比義の工作によるのであろう。 大神比義は、中央政権と秦王国の間の

パイプ役として、秦王国へ来て、ヤハタの神の祭祀に関与したのであろう。

 

p243

 

大三輪神を祀る大和の大神(おおみわ)氏の祖について、『日本書紀』は、河内の陶邑

(すえむら)の大田田根子と書く。 陶邑は、五世紀前後に渡来して、陶器制作に従事

した人たちの居住地だが、陶邑製作の初期陶(須恵)器は、加羅地域の陶質土器

同じであることは、考古学者の指摘するところである。

 

辛島氏の本拠地は「スエ」村といい(現在の宇佐氏末)、この地には今も「辛島」姓の

人たちがいる。

 

==>> この話の流れでいえば、これはもう韓国の神であったことは決まりでしょうか。

     ところで、大神比義とは何者でしょう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E6%AF%94%E7%BE%A9

     「この祭祀集団の司祭者は雄略朝には豊国奇巫,用明朝には豊国法師として天皇

の治病に参内したと伝えられる。欽明朝のころ大神比義(おおがのひぎ)という

シャーマンが宇佐に入りヤハタ神に応神天皇の神格を接近させたようである。」

 

 

p245

 

辛島氏の本拠地の辛島郷にあったヤハタの神を、土着氏族の宇佐国造の信仰の対象で

あった馬城峯の山麓に移したのは、秦王国の神を日本の神にする第一歩であった。

 

p246

 

天智朝になって、辛島郷から馬城峯山麓の小山田へ移転したのと、辛島氏が朝鮮出兵

の軍に参加させられたのとは、無関係ではない。

秦王国の人びとの日本人化が、ヤハタの神の日本化と重なっている。

 

==>> 第二次大戦の時に、アメリカにいた日系人は、同じような踏み絵を

     迫られたわけですが、この古代においても、同じようなことがあったと

     いうことですね。

 

p247

 

従来、禰宜は辛島氏の巫女がなっていたのに、大神氏の巫女が大仏造立に活躍している

ことからわかるように、秦王国の神が日本守護神になったのは、大神氏主導による。

このような変質過程で、代々辛島氏の役職であった八幡宮禰宜を、大神氏がつとめる

ようになった。

その結果八幡宮神職団の間に争いがおきた・・・・

 

p251

 

八幡神の管制化・日本化の過程で、馬城峯の比売神に変わり、更に神功皇后に擬され

三転している。

 

p255

 

現在の宇佐八幡宮の信仰は、秦王国の信仰を軸に、豊国の海人たちの信仰や、宇佐氏

が祭祀していた馬城峯(御許山)の信仰がミックスしており、更に新羅仏教の影響

強く受けており、複雑な要素をもっているが、中核は秦王国の信仰で、秦氏らの

祭祀する神であった。

 

==>> さてさて、ここで、八幡宮の中では、主導権争いが勃発したようなのですが、

     その結果が次の「鹿児島神宮」という形になっていったようです。

 

 

 

「鹿児島神宮 ― なぜ「大隅正八幡宮」というか ― 」

 

 

p267

 

平安末期の「天承二年四月二十三日牒」によれば、大隅正八幡宮の神官は、漆島・酒井氏

だが、彼らは「宇佐宮神官辛嶋勝氏系統の者」であり、平安末期でも、辛島氏系が正八幡

宮の神官になっている。

 

ところが、宇佐の場合は、平安時代になると、平安初期からの惣家は「弥勒寺権検校職」

であり、神社から排除され、八幡宮の禰宜は、大神氏の女性が独占している。

 

==>> その後に、「弥勒寺権検校職」の職からも排除されて、結局、管制化に伴い、

     宇佐氏と大神氏によって乗っ取られてしまったことが書かれています。

 

 

p268

 

大隅側は、宇佐は「偽」で、こちらこそ「正」だというのに対して、宇佐側は、

大隅も宇佐も、両方が「正」だと主張するように、宇佐側は大隅より「正」の

主張が弱いのは、本来のヤハタの神の祭祀氏族の辛島氏を排除したことで、宇佐八幡側

は負目をもっていたからであろう。

 

==>> まあ、そりゃあそうでしょうね。

     宇佐側は元々の神様を追い出して、乗っ取ったわけですからねえ。

 

     と、いうことで、鹿児島神宮のサイトをチェック。

     https://kagoshima-jingu.jp/yuisyo.php

     「また正八幡宮、国分正八幡、大隅正八幡等とも称し全国正八幡の本宮でもあり

ます。」

「元正天皇奉納(奈良時代)の銅印で、当宮が往時正八幡宮、大隅八幡宮と呼ばれ

ていたことが窺えます。」

 

・・・まあ、公式サイトでは、このように軽く触れているだけで、ご祭神などは

すっかり日本化しているとみてよいのでしょう。

 

     一方で、wikipediaには、ゴタゴタの話も書かれています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E5%AE%AE

     「大隅正八幡の正の字が示すように、鹿児島神宮は八幡宮の根本社だともいわれ

ている。伝承ではかつて国分八幡と宇佐八幡との間に、どちらが正統な八幡かを

巡って争いが起き、宇佐八幡は密かに15人(14人とも)の使者を遣わして国分

八幡を焼かせたという。その際、燃え上がる社から立ち上る黒煙の中に「正八幡」

の字が現れ、それを見て驚き怖れた使者達は溝辺の地まで逃れてきたが、神罰を

受けたのか次々と倒れてその数は13人に及んだ。」

 

 

 

「韓国宇豆峯神社 ― 大隅にあった韓国(秦王国)の神社 ― 」

(からくにうずみねじんじゃ)

 

p273

 

辛国城すなわち蘇於峯は、かの天孫降臨の添(ソホリ)ノ山峯のことであり、

古来霧島山に比定されているが・・・・・

 

p274

 

霧島山は「辛国の城」といわれ、主峯が韓国岳(からくにだけ)と今もいわれているが、

この山の別名が「蘇於峯(そおのみね」である。

 

秦王国の人たちは、大隅国が分国する前の「日向国囎於郡(そおぐん)」の頃から、移住し

ているのだから、この地に最初に入った秦王国の人たちは、霧島山を「ソホリ」の山、その

山麓の地を、「ソホリ」の地としたのだろう。

 

 

p276

 

桑原郡・曽於郡(そおぐん)の秦王国の人たちは、故郷の豊前の秦王国の香春岳・・・と、

霧島山を重ね、霧島山も韓国宇豆峯といたのであろう。

 

p277

 

このように、秦王国の人たちは、大隅、薩摩の地で、加羅・新羅の始祖降臨神話に

ちなんだ山名をつけているが、こうした聖山信仰の神社が、韓国宇豆神社である。

 

==>> 要するに、話の流れから判断すると、秦王国の人たちにとっては、

     香春岳がある豊前が故郷であったのに、追い出されてしまったので、

     移住先の霧島山を韓国岳と呼ぶようになったということのようです。

 

     こちらのサイトでは、若干ニュアンスの異なる記事があります。

     https://www.kyushu-jinja.com/kagoshima/karakuni_uzumine-jinja/

     「創建年代は不詳ですが、養老45年(720-721)の「隼人の乱」から遡のぼる

こと6年前の和銅7年(714)。朝廷に敵対する隼人を教導するため、豊前国

から移民が行われました。その移民となった人々が崇敬して祀のが韓国宇豆峯

神社(からくにうずみねじんじゃ)と考えられています。当時、豊前国の中心を

なしていたのは宇佐神宮(宇佐宮)であることから、その配下を当地へ使わせた

と考えられています。」

     「豊後国からの移民、辛嶋氏が祖神とする五十猛命(いそたけるのみこと)を

御祭神とすること。それらの背景から宇佐神宮との関りは深く、宇佐神宮の由緒

を編纂した『八幡宇佐宮御託宣集』においても「辛国」の名が記されています。

八幡大神は、辛国の城に八流の幡と天降り、日本の神に成ったと伝えています。

また『八幡宇佐宮御託宣集』において記せられる「辛国」は大隅国を念頭にして

いるとされ「辛国の城」は霧島山(韓国岳など))とされています。」

 

     ・・・言い回しがなかなか微妙な感じになっていますね。

     宇佐神宮乗っ取りの争いには触れず、隼人を教導するために遣わしたと

     されているようです。

     「「辛国」は大隅国を念頭にして」というのは無理がありませんか?

 

 

p278

 

五世紀前後から五世紀代さらに六世紀前半ごろまで、伽耶・新羅の地域から豊国(秦王国)

へ入った人々は、豊国の在地の人々と共に、外来の技術と道具をもって、七世紀代に

日向の地へ移住した。 こうした先祖の住んだ地を、豊都彦から宇豆彦に示したのである。

 

豊都彦以前の素盞鳴命(スサノオノミコト)と五十猛命(イタケルノミコト)は、

新羅から渡来して来たという伝承があるので、トップにあげたのである。

 

==>> これは辛島氏の系図の解説の一部です。

     辛島氏の祖をスサノオにしているということです。

     

     「渡来して来たという伝承」については、こちらで確認。

https://kotobank.jp/word/%E7%B4%A0%E6%88%94%E5%97%9A%E5%B0%8A-541600

     「【天王信仰】より

…また一説に行疫神(こうえきしん)であり,祇園精舎の守護神でもある。

日本に伝来した後,素戔嗚(すさのお)尊と習合し,また武塔天神(ぶとうてん

じん)の名称もある。高天原から追放された素戔嗚尊が,海を渡り新羅についた

後,牛頭方という土地に住みつき,牛頭天王と名のるようになったという縁起

(えんぎ)もある。」

 

 

p283

 

三品彰英は、「花郎の本質とその機能」や、「薩蕃の兵児二才(へこにせ)制度」で、・・・・

花郎を奉じる新羅の青年集会と稚児様を奉じる兵児二才(士族の子弟のうち、数え年

十四歳から二十歳までの男子をいう)の集会は似ていると書く。

 

p284

 

天草の乱の際、山田昌厳は子息松之助を大将として、出水境目の主将とした。

時に松之助は年十三歳、類ない美少年である上に、・・・・・

 

天正十二年竜造寺征伐の時、島津家久の嫡子豊久は十五歳の美少年で、当時の「稚児様」

であった。

 

p285

 

新羅と「薩摩・大隅地方との間に直接的な歴史関係」があった。 つまり、大隅地方に、

豊前以外に、もう一つの秦王国があったからであろう。

 

国分と出水と書くが、国分は韓国宇豆神社、鹿児島神社のある地で、秦王国の中心地

ある。 ・・・出水兵児も国分へ来て正八幡宮に参詣し・・・・

 

 

p288

 

新羅花郎集団の伝統を引く島津藩の兵児二才たちは、豊臣秀吉の朝鮮出兵のときには、

「稚児様」を奉じ、先頭に立って韓国に人たちと戦っている。 この事実は皮肉である。

 

==>> 花郎に関しては、wikipediaに以下のような解説があります。

     「花郎(ファラン、かろう)は、新羅で10世紀まで続いた軍事的訓練や精神

修養、教育機関としての青年組織制度またはそのリーダーを指す。」

 

この兵児二才制度については、薩摩川内の出身であった我が母から

話を聞いたことがあります。

戦前の軍国少女であった母は、薩摩出身の東郷平八郎など薩摩隼人の勇猛さを

ほのめかす話だったように記憶しています。

残念ながら、私はへなちょこ男子に育ってしまいましたが・・・・

 

 

では、次回は「伏見稲荷大社 ― 稲荷信仰の白鳥・白狐・狼 ― 」

読んでいきます。

 

 

===== 次回その6 に続きます =====

 大和岩雄著「秦氏の研究」を読む ―6― 稲荷大社はなぜ狐? 稲成りが稲荷 秦氏=ユダヤ人説 オシラ神は北陸なのか東北なのか 松尾(まつのお)大社は特別扱い (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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