武光誠著「古代日本誕生の謎」を読む ―3(完)― 縄文人は平等、弥生人は身分? 縄文人はバイカル湖、弥生人は長江起源、縄文人=精霊崇拝、弥生人=祖霊崇拝、大和朝廷=首長霊崇拝

武光誠著「古代日本誕生の謎」を読む ―3(完)― 縄文人は平等、弥生人は身分? 縄文人はバイカル湖、弥生人は長江起源、縄文人=精霊崇拝、弥生人=祖霊崇拝、大和朝廷=首長霊崇拝

 


 

 


 

「第三章 東北の歴史が語るもの」

 

p212

 

私たち今の日本人は、縄文的思考と弥生的思考との両者を合わせた文化の中で生活して

いる。 日本文化は、決して単一のものではない。 縄文的なものと弥生的なものとが

融合したうえに、さまざまな外来文化を取り入れて、形作られたものだ。

 

弥生的な朝廷は、大王(天皇)を頂点とする身分制を重んじた。 ところが、

縄文的な東北地方の者は、人間平等の考えをとった。

「俺たちは皆、対等の仲間だ。 よそ者の好き嫌いに基づく序列をつけられてたまる

ものか」

 

==>> さて、ここからは、あまり目にすることのない古代の東北地方の話です。

     東北地方では、縄文時代の遺跡が発見されていますから、その意味では

     脚光を浴びているとは思いますが、おそらく、神話以前の日本人の信仰の

     世界が見えてくるのではないかと期待して読んでいきます。

 

p216

 

農耕生活が始まるとともに、精霊信仰に代わって人間中心の宗教が持て囃されるように

なった。 それが、祖霊信仰だ。 祖霊が、太陽の神、水の神、山の神等になり自然物

を支配して人びとを支えるとするものだ。

 

祖霊信仰のもとでは、人びとは平等に生活し得ない。 祖霊の声を聞く者が重んじられた

のだ。 たとえば、邪馬台国の卑弥呼は祖霊のお告げを聞く巫女(シャーマン)だった。

そのような指導者は、治水技術や農事暦がわかり、集落の人びとの農作業を指導しつつ

祖霊を祭った。 そのため、用水を管理して人びとの生活権を握った。そうなると、

集落の祭祀は、政治的性格の強い農政の祭りになっていった。

 

==>> ああ、私はすっかり誤解していました。ちょっと混乱しています。

     祖霊信仰=精霊信仰だとばかり思っていたのです。

     卑弥呼の鬼道とは、上記のようなものだったんですね。

     祖霊信仰と首長信仰の違いは分かったのですが、精霊信仰との違いを理解

     しなくてはいけません。

 

     こちらで、ちょっと先回りして、結論をみておきましょう。

     カンニングです。

     神道(八百万の神)と、アニミズム(精霊信仰)

     http://www.yamatofuji.com/blog/2010/12/post-121.html

     「古来、日本の先住民である縄文人は、生きとし生ける全てのもの、即ち、万物

には精霊が宿るというアニミズムを信仰していたと言われています。

アニミズムとは、汎霊説、精霊信仰などと訳されていますが、私達日本人の中に

は、こういった自然崇拝、精霊崇拝というものが、原点としてあったと思われま

す。

その後、弥生時代には、海を渡って渡来して来た弥生人との交流・融合・混血が

進む中で、八百万の神を信仰する神道というものが体系化されていき、私達日本

人の宗教観というものを、深く形成していったのだと思われます。」

 

・・・つまり、神道というのは弥生時代からの体系化された祖霊あるいは首長

信仰のことだから、縄文時代のものが精霊信仰ということになりそうですね。

     もちろん、祖霊信仰と融合した精霊信仰ということなのでしょうが。

     精霊信仰の間は、皆が平等を愛するということなんですね。

 

     ・・・精霊信仰で思い出すのは、先に読んだアマゾンの未開民族と呼ばれた

     「ピダハン」の精霊信仰の話です。

     D.L.エヴェレット著「ピダハン : 言語本能を越える文化と世界観」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/07/dl_23.html

     「p190

ピダハンが神話に「実証」を要求するという点で、大きな違いだ。 物語が語ら

れるときには、その時点で生存している証人が必要なのだ。

ピダハンが見ているのが目には見えない精霊ではないことがわかる。われわれ

を取り巻く自然のなかに実在するものの形をとった精霊なのだ。

ピダハンはジャガーを精霊と呼び、木を精霊と呼ぶ。

・・・「聖霊」はわれわれが想像するものとは違っていて、ピダハンが口にする

ことはすべて、実際に体験できるものでなければならないのだ。

p191

ピダハンのなかにも、これがたんに猛獣との出会いを語っているにすぎないと

考える者もいるが、多くのピダハンは精霊ジャガーとの遭遇であると解釈して

いる。」

 

・・・これを読むと、精霊というモノは、現代の我々が考えるよりも、

実際にリアルなものであるようなのです。

おそらく古代の日本列島の人びとにとっても、精霊はリアルなものだったと

考えるべきなのでしょう。

 

 

p219

 

原アジア人は、約3万年前氷河時代が中休みになり、約500年間、地球が暖かくなった

時代にアジア各地に広まった。 彼らは陸続きになっていた日本列島にも来て、日本に

旧石器文化を生み出した。 そして、氷河時代が終わる紀元前1万4000年(約1万

6000年前)頃から縄文文化を作って繁栄した

 

原アジア人は背が低く、角ばった顔で大きな目と高い鼻をもっていた。

それが、長身で、細長い顔に小さな目と低い鼻をもつ中国系民族になった。

中国人、ベトナム人、モンゴル人等がそれにあたる。

 

 

p220

 

江南の原アジア人は、春秋時代にようやく呉、越の強国のまとまりを作る段階になった。

しかし、前漢時代に南下した中国人系の民族に故郷を追われた。 彼らの一部は、

弥生中期開始時に日本に来た。 そういった人々も、多少中国人系民族の血が混じった

原アジア人だった。

その後に、中国や朝鮮から移住して来た者もきわめて多い。彼らは渡来人と呼ばれる。

 

p221

 

今では純血種に近い原アジア人は、雲南やタイ、ミャンマー等の奥地にしか残っていない。

 

==>> つまり、このストーリーでは、縄文人は原アジア人であったということですね。

     「原アジア人は背が低く、角ばった顔で大きな目と高い鼻」というのが

     ちょっと気になるんですが・・・

     気になる方はこちらのサイトで復元画像をご覧ください。

     https://rekijin.com/?p=13837

     「最新の研究によると、縄文人は現在で言うバイカル湖、弥生人は長江を

     起源とする人種なんだとか。」

     「現在の日本人は75%が縄文人と弥生人の混血と言われていますが、

     パーツごとにどちらかの特徴が色濃く出ることもあるのだとか。」

 

     ・・・ちなみに、私は、遺伝子検査で「バイカル湖」系であることが

     分かっているのですが、上記にあるように、パーツごとにいろいろと

     混ざっているようです。

 

p226

 

三内丸山遺跡でも、盛んに交易がおこなわれていた。 

 

しかし、三内丸山遺跡の人びとも亀ヶ岡遺跡の人びとと同じく平等な社会を作り、

他の集落を従えて大勢力を築こうとはしなかった

 

p236

 

朝廷の関心が日高見国(ひたかみこく)に向けられてまもない七世紀中葉に、積極的な東北

経営が始まった理由は、おもに外交上の必要性に求められる。

日本は蝦夷(えみし)という夷狄(いてき・文化の遅れた国)を従える小帝国だと主張

するためのものだ。

 

聖徳太子は、隋との国交を開いた時に、「日出処天子、日没処天子に書を致す」と始まる

国書を送り、日本を隋と同列に置いた。

 

・・・太子は、日本を朝鮮の諸国を従える小帝国と位置付けたのだ。

 

==>> 三内丸山遺跡などに代表される縄文人の感覚は、平等主義で近隣の集落を

     支配しようというような考えはなかったけれども、一方、弥生人である

     大和朝廷などのグループは、外部から入ってきた渡来人も多かったからこそ、

     対外的に強硬な態度をとるという政治感覚があったようです。

 

     ところで、上記にある日高見国とはなんでしょうか。

     日本最古の文明?縄文時代の東北に存在した「日高見国(ひたかみこく)」とは

     https://sengoku-jidai-kassen.com/shinwa/20171203/

     「「日高見国」とは、日本書紀にも登場する、日本の東北地方に存在した古代の

です。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征から帰還する際、陸奥国から

常陸国に入るところで「日高見国から帰りて」という記述があります。

つまり日高見国は常陸国よりも北にあったと考えられています。」

ホツマツタエによると、日高見国はこの世に生まれた最初の神「国常立尊

(くにのとこたち)」が世界を創り始めた場所だと説明されています。

国常立はそこに人々を生み出す産屋を建てた」とありますが、これが「青森県

で発見された巨大建築物」と推測されます。

またこの産屋は神社の起源であるとも言われます。

 

・・・これは面白いですね。

特に「この産屋は神社の起源であるとも言われます。」というところが

非常に気になります。 いわゆる古神道の神社ということになるのでしょうか。

 

こちらの動画でちょっとお勉強。

『日高見国(ひたかみこく)』日本国成立以前の古代国家と倭国の関係性

https://www.youtube.com/watch?v=zHB2ImzaYw8

 

そして、これから連想した「古神道」なんですが、

単純に縄文時代の混じり気のない神道と考えると大きな間違いのようです。

こちらのサイトでチェックしておきましょう。

古神道をわかりやすく解説!神道との違いや歴史、参拝すべき神社など

https://mainomichi.com/mblog/ancient-shinto/

「神道自体の歴史は古いですが、実は「古神道」と「神道」区別をつけ始めたの

150年ほど前と比較的歴史は浅いです。」

「神道の起源を明らかにしたいという流派が現れ「古神道」と「神道」を区別

されるようになったのです。」

「平田篤胤や本田親徳らが儒教や仏教を強く嫌い、日本古来の純粋な信仰を

尊ぶ「復古神道」にまとめ上げたことにより祝詞が明確になりました。復古神道

は幕末維新の思想に多大な影響を与えたと言われています。」

 

「現在では、

新宗教で古神道を名乗る宗派

古神道仙法教

古神道本宮身曽岐神社の流れを受け継いでいる宗派

などがあります。神理教や天理教も古神道の一つです。」

古神道と関わりがある神社

<山梨> 身曾岐神社

<神奈川> 大元稲荷神社

<奈良> 石上神宮

 

ただし、別のサイトの解説では、石上神宮に関しては、

「古神道とつながりがあるというより、ひふみ祝詞とつながりが深いという

意味で石上神宮」とコメントがありました。

 

 

・・・せっかくですから、奈良の石上神宮の公式サイトをたずねてみましょう。

https://isonokami.jp/about/index.html

「当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として

古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の

守護神として信仰されてきました。 

総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰がれる御祭神は、第10代崇神

天皇7年に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られました。古典に

は「石上神宮」「石上振神宮(いそのかみふるじんぐう)」「石上坐布都御魂神社

(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)」等と記され、この他「石上社」

「布留社」とも呼ばれていました。」

 

・・・神道なのか、古神道なのかという判断はなかなか複雑のようです。

     インターネット・サイトの中には、古神道という中には「カルト」もあるので

     注意しましょうという警告もありました。

     ご用心ください。

 

 

p252

 

大和朝廷の勢力が確立した後にも、縄文時代特有の精霊崇拝の伝統は日本各地に

根強く残った。縄文的な神々は、やがて神社で祭られるようになり、その多くは、

国司の指導で平安時代までにもとの名前を失い、日本神話に登場する神へと変わって

いった。 首長霊信仰によらない土着の神が、国神(くにつかみ)である大国主命に

変わることが多い。

 

しかし、現在でも日本神話にない神を祭る神社がある。 そのようなところには、

かつての朝廷の支配を受け入れない勢力がいたと考えてよい。 最も広く分布する

縄文的神を荒脛巾神(あらはばきがみ、荒吐神)という

 

==>> おおついにしっかりと出てきました。

     縄文的な神々=荒脛巾神(あらはばきがみ)。

     いままでは、はっきりしなくてモヤモヤしていたのですが、これで

     スッキリしました。

     では、そのアラハバキガミは、どこの神社に行けば会えるのか・・・ですね。

 

p252

 

青森県五所川原市には、荒吐神を祭る洗磯崎(あらいそざき)神社がある。

それは、安東(あんどう)氏の祖神とされるものだ。 縄文的流れを追っていくと、その

多くが安東氏に行き着く。 これは中世に活躍した安東氏が東北地方の蝦夷の流れをひく

最後の勢力だったことを示す。

 

埼玉県さいたま市氷川神社は、武蔵一宮(いちのみや)・・・で、もとは荒脛巾神を祭る

ものだったと考えられる。

そこには、江戸時代末の天保年間まで「荒波々幾(あらはばき)社」という摂社があった

 

==>> 公式サイトが見つからないのですが、こちらのサイトに洗磯崎神社の説明が

     ありました。

     アラハバキを祀る「洗磯崎神社」/青森県五所川原

     https://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/bf984379ed8c83d5457b2b5e0c68bd85

     「御由緒

     安倍、安東氏の祖神である荒吐神を祀った神社であるといわれている。」

     とあります。

 

     埼玉の大宮氷川神社にはお参りに行きましたので、こちらに記録がありました。

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/01/blog-post_18.html

     「2.  氷川神社  1月17日

     拝殿から東門を出たところに、「門客人神社」というのがありました。

これと「楼門」と「随身門」との関わりをちょっと調べてみたんです。

大宮氷川神社の「楼門」にはガードマンのような警護の神様はいません。

一方で、大國魂神社の楼門は「随身門」と呼ばれていて、侍のような神様が門を

守っているんです。この違いは何なんだ・・・ってことが気になるわけです。」

 

「一方、氷川神社の摂社に「門客人神社」がある(現在も氷川神社社殿の東隣に

鎮座)。元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていたもので、アラハバ

キが「客人神」として祀られている。このアラハバキ社は氷川神社の地主神であ

る。現在祀られている出雲系の神は、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んで

きたもので、先住の神がアラハバキとみられる。」

 

・・・なるほど、かなり繋がってきました。

 

p254

 

長野県諏訪市には、手長(てなが)神社と足長(あしなが)神社がある。 そこの神は、

諏訪明神の家来の手長、足長の巨人だと伝えられるが、もとは荒脛巾神と同系統の神で

あったろう。

 

==>> では、さっそく「手長神社」のサイトを見てみましょう。

     http://www.lcv.ne.jp/~tenaga/annai.html

     「手長神社は下桑原(大和・小和田を除く上諏訪地区)の氏神、手摩乳神

(てなづちのかみ)をお祀りする古社です。ご鎮座の起源は古く詳らかではあり

ませんが、諏訪湖の東側一帯は旧石器・縄文時代の遺跡が点在しており、いにし

え人の生活、土地の神に祈りを捧げてきた信仰をほうふつさせます。」

「手摩乳神は『古事記』の八俣大蛇の段に登場する神様で、大山祇神(山の神)

の御子神であり、足摩乳神(あしなづちのかみ)の妃神として、姫神の奇稲田姫

(くしなだひめ)を手撫で足撫でして育てられたことから夫婦円満の神、家内

安全、子育て、ご縁を結ぶ、生業繁栄、手先が器用になる、健康や幸せをお守り

下さる神様として親しまれてまいりました。」

 

「龍王大明神 蛇神とも云われる龍神が祀られています。

御頭御社宮司社 諏訪地方に古代から伝わるミシャグジ信仰の社です。

ミシャグジ神は自然万物に降りて来る精霊とされています。」

 

・・・確かに縄文時代からの神々らしい雰囲気がある神社のようです。

古事記の神様に取って代わられたようですが、wikipediaでは以下のような

記述になっています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E9%95%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE

手摩乳命 (てなづちのみこと)

別名を「手長彦神」といい、諏訪大社の祭神・建御名方神に随従する神。建御名

方神が諏訪大社に祀られる以前からこの地で信仰されていた神とされる。」

「創建の由諸は不明であるが、境内の近くには旧石器時代・古墳時代の複合遺跡

である手長丘遺跡が、境内上方には茶臼山古墳群があり、周辺には古代から人が

住んでいた。」

 

足長神社の説明の中には、以下の記述もあります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E9%95%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE

「また『諏訪資料叢書集録』に収録された「神長本諏方上社物忌令之事下十三所

名帳」の地名と思しき箇所に手長・足長がある事など、先に地名があった所へ

記紀神話の脚摩乳・手摩乳を持ち込んだ可能性もあり、合祭・分祭については

不明確である。」

 

・・・と言うことで、先に地名と足長・手長の神様がいて、

その後日本神話の神様の名前がつけられたということのようですね。

     上記の中にでてきた ミシャクジ神が気になります。

 

p255

 

『肥前国風土記』には、景行天皇が千嘉島(ちかのしま、五島列島)の土蜘蛛を従えた

記事がある。 これは、朝廷が九州の漁民を従えた話だ。 阿曇百足(あずみのももたり)

に捕らえられた大耳(おおみみ)という者が、これから毎年、海産物を献上すると誓って、

「海部(あまべ)」の姓を与えられた

彼らは隼人に似た姿で、変わった言葉を用いていたという。 応神天皇の時に各地の

「海人(海部)」が不思議な言葉を用いて騒いだ記事もある。朝廷の水軍を指揮する

阿曇氏がその騒動を静めた。

 

非農業民や隼人、蝦夷の文化、言語の中には朝廷の理解の及ばぬ部分もあったのだ。

弥生文化の影響をうけなかった彼らは、縄文文化の伝統を引く共通の文化を有していた

のだ。

 

==>> 長崎県出身の私としては、こういう風土記があったことぐらいは知って

     おかないといけませんね。

     https://wanderkokuho.com/201-00728/

     「肥前国風土記は、現在の佐賀県と長崎県の一部にあたる「肥前」の

     風土記で、平安時代に書写された冊子1帖が残る。 「豊後国風土記」や

     他の九州地方の風土記残巻との共通性が多く、大宰府で編纂されたと

     考えられている。」

 

     ・・・こちらに在野の研究家の方のサイトがありました。

     現代語での記述です。

     今の地名につながる話があって、懐かしい感じがします。

     https://note.com/gosanjin/n/n40201d6a680e

     「〇鳥樔(とす)の郷
      ・応神天皇の治世、鳥屋(とや 鳥小屋のこと)をこの郷に作り、様々な鳥を

集めて飼い馴らし、朝廷に献上した
      ・だから鳥屋の郷といい、後に鳥樔の郷といった」

 

     「〇値嘉の郷
      ・郡の西南の海中にある(小値賀島が遺称地)
      ・景行天皇巡検時、志式嶋(平戸島南部)の仮宮にいて、西の海を見る
      ・海中に島があり、煙が多数立ち上っていた
      ・従者の阿曇連百足を派遣して視察させた
      ・島は八十余りあり、その中の二つの島には島ごとに人が住んでいた
      ・第一の島は小近(をちか)で、土蜘蛛の大耳(おほみみ)が住み、第二の島は

大近(おほちか)で、土蜘蛛の垂耳(たりみみ)が住んでいた」

     「・遣唐使は、この停を出発し、川原浦の西の埼である美弥良久(みねらく、

福江島三井楽)の埼に至り、さらにここから出発して西を目指して海を渡る

  ・この島の漁民は、容貌は隼人に似て、常に馬上から矢を射るのを好み、その

言葉は世間一般の人々と異なる

 

     「・郡役所の西に温泉が湧いている(武雄温泉
      ・岩の崖が険しく、人跡稀である(武雄温泉の側の蓬莱山)」

     「〇速来の門(はやきのと)
      ・郡の西北にある
      ・この瀬戸に潮が来る様は、東に潮が落ちれば、西に湧き登り、湧く音は雷の

音と同じ
      ・だから速来の門という(早岐瀬戸)

     

     ・・・しかし、残念なことに、私の出身地である佐世保は出てこないようです。

     Wikipediaで佐世保市の歴史をみると、以下の記述があります。

     「奈良時代に編纂された肥前国風土記によれば、現在の早岐付近に速来津姫

いただく土蜘蛛と呼ばれる土着豪族があり、景行天皇の命により討伐されたと

いう。なお、同風土記には、早岐の特産品としてワカメが挙げられている。」

 

・・・改めて上記のサイトをよく見たところ、これに該当する部分が

ありました。

彼杵(そのき)の郡
      ・景行天皇がクマソ討伐から凱旋した時、天皇が豊前国の宇佐の海岸の仮宮に

いた
      ・従者である神代(かみしろ)の直をこの郡の速来の村に派遣し、土蜘蛛を捕ら

えさせた
      ・その時、速来津姫という人物が現れた」

     「・神代の直は還って来て三種の玉を献上した
      ・天皇「この国は具足玉(そなひだま)の国というが良い」
      ・今は訛って彼杵の郡という
      大村湾は真珠の産地」

 

     ・・・佐世保市は、明治時代に軍港となる前は、寒村だったという話ですので、

     この風土記の時代には彼杵の郡に含まれていたようです。

 

p258

 

東北地方には、その他にも恐山や川倉地蔵のイタコ、弘前市の九渡寺(くどじ)等の

オシラサマ、座敷童子(わらし)等、日本神話では説明づけられない信仰が多い。

それらは、人間と自然とが一体となって生きていた縄文時代の精霊崇拝の系譜を引くもの

と考えられる。

 

精霊崇拝を重んじた最後の豪族が安東家である。

 

p264

 

つきつめて考えれば、北海道と沖縄は江戸時代以降の征服活動によって日本に組み込ま

れたことになる。 琉球神道は中央のものと異なる精霊崇拝と祖霊信仰の性格を強く

もつものだ。 アイヌの宗教には、精霊崇拝の要素が多い。 中世までの沖縄は、日本と

中国の両者と交流をもっていた。

 

人類学者はアイヌや沖縄の人骨は、中央の人骨より原アジア人のものに近いという。

 

p266

 

擦文文化の時代に、北海道と東北の文化の違いが生じた。 そして、擦文文化と、その時期

オホーツク海沿岸に北方から伝わった文化とが融合して、アイヌ文化が作られた。

 

ただし、縄文文化からアイヌ文化に至る時代の社会の発展は連続したものであった。

 

==>> まずは擦文文化(さつもんぶんか)という耳慣れない文化を

     確認しておきましょう。

                https://kotobank.jp/word/%E6%93%A6%E6%96%87%E6%96%87%E5%8C%96-69265

     「擦文土器の使用を指標とした文化。北海道の続縄文文化が東北地方の古墳文化

の影響をうけて変容,成立した文化で,北海道一円から東北地方北部にも広がり

をみせている。この文化の初期に注目される遺構として,江別市や恵庭市など

道央部に発見されている,いわゆる北海道式古墳がある。」

 

擦文土器の写真をこちらで見てみましょう。

https://www.city.kitami.lg.jp/administration/town/detail.php?content=6383

「擦文(さつもん)土器は7世紀ころから北海道で作られるようになった土器

です。同時代の本州で作られていた土師器(はじき)の製法が伝わって作られる

ようになりました。この土器は表面が木のヘラで擦って仕上げられています

この擦ったあとがパターン模様のようになっていることから、この土器は「擦文

土器」と呼ばれています。本州の土師器と全く同じというわけではなく、線を刻

んで描かれる文様などは北海道独自の要素となっています。

 この擦文土器が使われた時代を「擦文時代」と呼んでいます。7世紀ころに始ま

り、12世紀から13世紀初めころまで続いたと考えられています。」

 

・・・上記のストーリーから考えると、原アジア人の文化としての縄文文化

を考える場合は、どうしても東北地方、そして、アイヌや沖縄の伝統文化を

見て行かないと、大和朝廷がつくった神話以前にはいけないようです。

    そしてそれが、ミシャクジ神やらアラハバキ神に重なってくりょうに感じます。

 

p275

 

かつて日本人は、精霊崇拝のうえにたつ縄文文化を共有していた。 沖縄の文化も、

アイヌの文化も縄文文化から発展していったものである。

 

弥生文化の入った地域では、精霊崇拝を発展させた祖霊信仰がつくられ、さらに王家の

手で祖霊信仰が首長霊信仰に発展していった。

 

p276

 

朝廷が支配する地域は、首長霊信仰にたつ文化が発展していった。

 

このように見てくると、日本の古代文化が、大和のもの、沖縄のもの、アイヌのものに

分かれていったことがわかってくる。

 

==>> つまり、縄文人=精霊崇拝、 弥生人=祖霊崇拝、大和朝廷=首長霊崇拝

     という段階を踏んできたということになりそうです。

 

 

p277

 

沖縄に古代日本の信仰の伝統がのこっている点も見のがせない。 沖縄のあちこちに、

御嶽(うたき)と呼ばれる祭りの場が見られる。それは、ふつうは集落の近くの小高い丘

の上か山の中腹の聖なる森につくられている。

 

御嶽は、神が下りてくるとされる岩や巨木のおかれた威部(いび)という聖なる場所と、

その前の御嶽家(おんやあ)と呼ばれる拝殿を中心につくられている。

御嶽のまわりは低い石垣で囲まれており、その正面に鳥居がある。

 

このような御嶽のつくりは、神社のありかたと共通する。

 

p282

 

このようにみてくると、日本文化圏は縄文時代以来のものといえる。

そして、そこをまとめたのが大和朝廷の流れをひく皇室であった。

 

日本史を正確につかむためには、表面的な政争の歴史より、日本文化の大きな流れに

注目する必要がある。

 

 


 

==>> さて、これで日本文化の大きな流れつかむことが出来ました。

     しかし、私としては祖霊信仰の中身がいまひとつすっきりしません。

     ちょっと立ち止まって再確認ます。

https://kotobank.jp/word/%E7%A5%96%E5%85%88%E5%B4%87%E6%8B%9D-90131

     「亡くなった祖先に対する慣習化した信仰と儀礼。死者に対する崇拝とは異なる

     死者がすべて祖先になるとは限らないからである。」

     ・・・たぶん、私がスッキリとしないのは、この点だと思うんです。

     死者すべてではないということですね。

 

     「たとえば、アフリカの母系の民族集団アシャンティでは、祖先として崇拝され

るのは、子供に身近な存在である父親ではなく、法的権威をもつ母方オジである。日本において祖先の霊は、集合的祖先神へ合一していくが、このカミへの変容の

プロセスが祭祀(さいし)形態としての祖先崇拝に対応している。祖先崇拝は日本

でも親族制度、すなわちこの場合は「家」制度と密接に結び付いており、「家」

の永続性と系譜性を支えるために重要な働きをしている。」

・・・ここでは、家制度と結びつけてあるのですが、古代の日本ではそのような

制度はなかったでしょうから、少々疑問が残ります。

 

一般的には個別的崇拝が多いが,これに関連して家族,氏族,民族,国民など

の集団全体によって行われることもあり,英雄などの特定の祖先が他の祖先よ

りも優先的に扱われ,また単なる死霊の概念をこえて神格化される場合もある。」

崇拝の対象となる祖先には始祖・祖神・死者・死霊などの観念があって一定

しないが,おもに祖霊・死霊の祭祀をさす。」

 

・・・これを読んでいると、首長霊信仰の一歩手前という感じにみえます。

p216に述べられていた祖霊信仰の説明、「祖霊が、太陽の神、水の神、山の

神等になり自然物を支配して人びとを支える」という意味の方が、私には

スッキリくるように感じます。

 

     そして、沖縄の御嶽に関連しては、先に読んだ本に次のような記述がありました。

     岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」と「原始の神社をもとめて」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/09/blog-post_27.html

「p212 

現在済州島に残る堂と古代の神社と御嶽とには共通するものがあり、互いに

通底し合っているということだけはたしかだ。 弥生人が朝鮮半島から渡来

した人々だとするなら、堂の信仰がもとであり、それが本土と南島へ波及し、

その古い姿が済州島と沖縄とに残ったと考えることができれば、事は簡単

ある。しかしすでに見てきたように、神社の歴史は縄文まで遡る可能性があるのであり・・・・」

 

・・・確かに、そうであれば「事は簡単」なのでしょう。

そういう話になるのであれば、原アジア人レベルの範囲で考えて、

その延長上に縄文文化があるとしたらどうなんでしょうか。

原アジア人とすれば、もちろん朝鮮半島を含むことになるでしょうから。

 

さて、読み終わりました。

 

この本は、邪馬台国九州説の是非は置いといて、私が知りたい神道・神話以前の

日本列島での信仰がどのようなものであったのかに関しては、かなり示唆に富む

内容であったと思います。

 

今後は、アラハバキ神とかミシャクジ神とか呼ばれている神々がどのようなもので

あったのか。そして、今現在の神社で、どのように扱われているのかを知りたいと

思っています。

 

 

 

===== 完 =====

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント

このブログの人気の投稿

ホテルでクレーマーになってしまう私 草津温泉と伊香保温泉・湯治旅

埼玉県・芝川サイクリングコース、荒川・芝川水門から大宮公園・氷川神社までの橋をすべて?撮影してみた

2023年を 自作の狂歌で 振り返ってみる ー 妻の病気とフィリピン・バギオからの帰国