レイ・ジャッケンドフ著「思考と意味の取扱いガイド」を読む ― 1 意味とは「私たちにあまりに近しい」ものであり、心の中のアクセスできない部分にある

レイ・ジャッケンドフ著「思考と意味の取扱いガイド」を読む ― 1 意味とは「私たちにあまりに近しい」ものであり、心の中のアクセスできない部分にある

 

 


地元の図書館から借りて来た2冊目の本、

レイ・ジャッケンドフ著「思考と意味の取扱いガイド」を読んでいます。

 

 

これは表紙の裏側に書いてあることなんですが、

「意味は柔軟で、臨機応変で、ふつう考えられているよりずっと複雑なものだ。

意味をめぐる従来の考察が行き詰る理由をていねいに解きほぐし・・・」

とあります。

 

私の今の読書テーマは「意味とは何か」なんですが、これを見て、

「こりゃあ迷路に迷い込んだかな」と感じているところです。

 

しかし、この読後の感想をひとことで言えば、この本はなかなかチャレンジングな

本で、「意味」とは何かということについて、かなり大胆に分かり易く迫っている

ように感じます。

 

今まで数冊読んできた中では、一番、私が知りたかったことに迫っているように思います。

 

では、例によって、ダラダラと感想と頭に浮かんだことを書いていきましょう。

 

 

p008

 

話者はただ単に新しい音声を作り出しているわけではない。 (ほとんど)すべての発話

とともにあるのは意味――その発話が表わす思考だ。・・・表現したい新しい思考がある

からだ。 

 

p009

 

同じ言語を話していると思っている人でさえ、完全に同じシステムが頭の中にあるわけ

ではない。 一つには、各人で語彙が異なる。 もう一つには、私たちはふだんから

話し方の違うーー発する音声が微妙に違うパターンをもったーー人たちと会話をしている

という事実がある。 その場合でも、心的文法が十分に近いために、たいていは大過なく

相互理解ができる。

 

==>> 最初の部分ですが、この辺りは非常にすんなりと、私が日頃思っていることに

     寄り添うような感じの進め方なので、抵抗なく読めます。

     そして、「心的文法」という言葉については、先に読んだこちらの本の

     中で、チョムスキーとの関連で出てきました。

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/05/blog-post_31.html

     「p025

チョムスキーは、言語に関する基本的事実を二つ指摘した

第一に、・・・・脳のなかに、有限の単語リストから無限個の文を作り出す処方

箋なりプログラムがあるに違いない。  このプログラムを(従来の、教育上の、

あるいは名文を書く助けとしての「文法」と区別するために)心的文法と呼んで

さしつかえなかろう。 

第二に、子どもは正式の指導を受けることなく、この種の複雑な文法を短期間に

身に付け、はじめて出会う新しい文の構造をも一貫したやり方で理解するよう

になる。 したがって、子どもは生来、あらゆる言語に共通する文法の青写真と

もいうべきものを備えているに違いない。 このいわば「普遍文法」によって・・・・」

 

 

p030

 

発せられた言葉の理解は、音響を特定するだけでなく意味にも大いに依存していることに

なる。 今ではコンピュータに音響を扱わせる方法がかなりわかっているけれども、

意味の方はまだ捉えどころがない

 

p040

 

意味とは何かを明らかにしたいのなら、何を見ればいいのか、そして何を探せばいいのか?

・・・ウィトゲンシュタインは、その著作「哲学探究」において次の有名な発言を

している。 「意味を見るな、使用を見よ」。  この言葉は、言語使用を見てそこで

終わり、というように解釈されることが多い。 なぜなら文脈内における言語表現の使用

のほかには意味などというものは存在しないから、というわけだ。

 

==>> ここではコンピュータによる音声認識の話もちらっと出てきていますが、

     つまりは、音声とそこに乗せられている意味というものの間には複雑な

     関係がありそうだということを述べているようです。

     そして、言語哲学や言語学などでの意味に関する議論も多々あるようですが、

     「これが意味の意味だ」と正面切って答えているような本は、今のところ

     まだ出会っていません。

     いままで読んで来た本の中では、まさに「使用を見よ」というような

     細かい分析的な、学術的な説明が殆どで、私には「それがどう意味と繋がる

のか」という理解が追い付かないものばかりでした。

 

 

p057

 

言語学のいくつかのアプローチでは、語や文の意味を、抽象的な「深層構造」や「論理

形式」の点から解明しようとしてきた。 これらの意味へのアプローチの仕方は違って

いるが、次の一点では一致している。私たちは意味を直接は認識できないということ

――意味は実は隠れたものということだ

 

==>> なるほど、そういうことでしたか。

     「意味は隠れたもの」だったんですね。だから私に分かるわけがなかった。

     それにしても、言語学系の本は、これでもかというぐらいに分析的な

     説明が延々と続く本が多いようです。あれには参りました。

 

 

p058

 

意味が満たすべき仕様の第一は、それが言語の発音された(かつ/または、書かれた)

形と結びついているということだ。 「これ」という形には意味がともなっているが、

「ろれ」という形には意味が結びついていない。語を語たらしめているのは、それが

発音可能な音声――「音構造」もしくは「音韻構造」――と意味のペアをなすという

ことだ。

 

p059

 

発音と意味のペアはどこに存在するのか。 

言語への日常的視点からすれば、言語は「外部世界」にあり、意味もまたそこにある

19世紀末の論理学者ゴットロープ・フレーゲはこの視点を主張し、英米の言語哲学者

たちはそれに倣ってきた。 

私はこれに異を唱えたい。 認知的視点からすると、話者が語や文を使うことができる

ためには、それを頭の中にもっていなければならない。 だから意味もーー発音と

意味の結びつきとともにーー話し手の頭の中に入っていなければならない。

 

==>> これは、読んでいると「全くその通り」と言いたくなるのですが、

     実は、私自身は、この本を読む前までは、言語や意味は「外部世界」にある

     ような心持ちでいました。 頭の近くの空間にプカプカ浮かんでいるような

     イメージでした。 ですから、おそらく、上記の論理学者や言語哲学者の

     本を読んでいたら、「外部世界」にあると思い込んでいたでしょう。

     哲学や科学の歴史というものは、そんなものなのでしょう。

 

 

p062

 

翻訳は意味を保持しなければならない

 

意味についての要求事項の三つ目は、語や文を別の言語に翻訳するときには意味が

保持されていなければならないというものだーーそもそも翻訳とはそういうものだ。

・・・だからと言って、イディッシュ語のすべての語について日本語に直接対応する

訳が必ずしもあるわけではない。 どきにはイディッシュ語の単語を翻訳するのに、

日本語ではより長い句が必要になることもある・・・

 

こういうことを聞くと、言語間で完全に翻訳することはできないと反対する人が必ず

でてくる。 確かに、多くの場合、特に文学や詩を翻訳する場合、翻訳しているものの

微妙なニュアンスすべてを伝えることは難しい。

 

==>> 通訳や翻訳については、私自身が企業内での仕事としてやっていましたので、

     ここに書かれていることは骨身に沁みてわかります。

     私が実際にやったのは、企業内での英文マニュアルの日本語への翻訳や、

     日本語からの英訳、そして、お客様に同伴しての通訳でした。

     翻訳の場合は、原文に書かれている内容の意味をまずは理解できなくては

     いけませんから、必要な場合は現場でどのようなことがあるのかを確認する

     ことも必要でした。

     しかし、書かれていることの範囲で翻訳するわけですから、あまり余計なこと

     は書けません。

     一方で、通訳の場合は、元の言語で話されたことは短いけれども、その意味を

     伝えるために説明が長くなってしまい、何か違うことを通訳しているのでは

     ないかと疑われるような雰囲気もありました。

     社外の通訳者がやる場合には、そのまま直訳的な通訳になるのでしょうが、

     仕事の中身が分かっている社内の通訳者の場合は、かなり長く説明的になる

傾向があるのではないかと思います。

 

     文学や詩の翻訳については、私にはほとんど信じられないものです。

     例えば、有名な日本の小説が、数十カ国で翻訳されて販売されたなどという

     話を聞くと、どこにそれだけの翻訳者がいるんだろうと不思議に思います。

 

p065

 

意味の決定的な性質とは、隠れたものであるということに尽きる。

 

・・・言い換えれば、音―意味ペアの意味サイドは、それと結びついた音声が有意味で

あるという感覚を生み出すことを除けば無意識のものだ。

 

p073

 

語や文の意味は視覚的イメージをときには喚起するが、意味のすべてが視覚的イメージ

ということはありえない。 よって私は、意味は(大部分は)隠れたものだという主張を

支持する。

 

・・・意味がもつ効果は、私たちがそれによって行いうることの中に見出すことができる。

私たちは世界の中の物を識別し、カテゴリー化することができる。 

 

・・・逆説的なのは、私たちはその形は意識しないのに意味を把握しているということだ。

 

==>> 確かに、じっと反省してみると、私の場合は、視覚的イメージと言葉が

     結びついて出てくるということはそんなに多くはないように思います。

     つまり、何かが頭の中に出てきて考えているときは、ほとんどが頭の中に

     自分の声が聞こえているからです。

     しかし、世の中にはフォトグラフィック・メモリー、ついまり、映像で

     記憶し、映像で考えている人たちもいるそうなので、その場合にどうなるのか

     が気になります。

 

 

p094

 

一般に、語は概念を表わし、概念もまた話し手の頭の中にあるとされる。

ここでは意味と概念をひとまとめにして、語の意味とはすなわちそれが表現する概念

であると言おうと思う。

 

同様に、文は(完結した)思考を表現していて、思考もまた話し手の頭の中にあると

一般に言われる。そこでこの場合にも両者を結び付けて、文の意味とはすなわちそれが

表現する思考であると言おう。

 

==>> ここで、意味=概念であり、文の意味=思考であるとしています。

     意味=概念は、納得ですが、思考の方はいまひとつ呑み込めません。

 

 

p094

 

・・・とはいえ、すべての概念や思考が語や文の意味とは限らないということははっきり

させておく必要がある。 多くの概念や思考は言語でうまく表すことができない

あなたの机の明暗のパターンの詳細、あるいは・・・クラリネットがどんな音色か、と

いった思考なり概念なりはそうした例だ。

 

p095

 

このような種類の概念・思考は語という言語単位との結びつきなしに頭の中にそれ自体

で存在しうる。 だが概念・思考が発音と結びつくことが可能である場合には、

そうした音の連なりに対応した意味としてはたらくと言いたい。

 

==>> 「多くの概念や思考は言語でうまく表すことができない」というのは、

     特に私のような凡人には多いと思います。

     おそらく、それが出来るのは、芸術家のような才能のある人達なのでは

     ないかと思います。

     一方で、「言語単位との結びつきなしに頭の中にそれ自体で存在しうる」

     いうのは、どういう状態なのかがイメージできません。

     言葉にならずにモヤモヤしたような状態でしょうか。

     概念・思考が 言葉や発音に結びつかない状態ということですしね。

 

p097

 

言語とは概念や思考と発音を結び付けるシステムのことだ。

だから概念や思考自体は発音をもっているわけではなく、発音と結びついている。

言い換えれば、思考は言語のようなものではなく、言語の一部として機能するものだ。

 

・・・けれども認知的視点に立ち、言語が人間にとってどのように機能するかを問う

ならば、発音の特徴はきわめて重要だということがわかる。 それは思考を伝達する

ために不可欠な媒介なのだ。

 

==>> 先に読んだ本では、手話というのは自然言語のひとつであるとのことでした。

     つまり「言語とは概念や思考と発音を結び付けるシステム」の中の「発音」を

     「文字」や「手話」と換えてみいいわけです。 そしてさらに、

「概念や思考自体は発音をもっているわけではなく、発音と結びついている」

     という文の中の「発音」を「文字」や「映像」と置き換えても良い筈ですね。

 

     上記にある「思考は・・・言語の一部として機能する」という文は

     私には今一つぴたっと入ってきません。

     「言語は思考の一部として機能する」ならばすっと入ってくるのですが・・・

     (これは、文脈的には、「思考は言語のようなものだ」とか「思考の言語」と

      言われていることに対する著者の疑問・反論として書かれている部分です)

 

 

p106

 

プラトンは語の意味とは神ならぬ人間にはアクセス不能な、永遠の本質(=イデア)である

と考えた。 例えば、「犬」の意味は「犬性」という永遠の本質だというわけだ。

見方によっては、意味とは隠れたものであるという主張を、プラトンも支持している

ことになる。

もしあなたが言語を外在的なものと考えるなら、永遠の本質という考えはそれなりに

意味をもつだろう。

 

だがちょっと待ってほしい。・・・・「文」や「足の爪」の永遠の本質が、地球上の生物と

いえばバクテリアしかいなかった時代にも存在したのだろうか。

 

p107

 

私はその代わりに、意味とは「私たちにあまりに近しい」ものであり、心の中のアクセス

できない部分にあると提案したい。 もっと率直な言い方をするなら、「意味とは大部分が

無意識的なものだ」という主張だ。

 

==>> 私はここで、ちょっと自嘲的に笑ってしまいました。

     プラトンのイデア論が好きなので、この著者の主張をプラトンも支持している

     と書いておいて、あっさりひっくり返しているからです。

 

     そして、無意識的で頭に浮かんでくるのは「阿頼耶識」です。

 

     横山紘一著 「阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/01/blog-post_26.html

     「p040

ii)もう一つは内的な原因が必要です。 なぜなら、「ものA」という影像が

外から心の中に入ってきたのではなく、なんらかのそれを生じさせる原因、すな

わち、「ものA」として認識させるだけの原因が心の中に存在していなければな

りません。その内的な原因を唯識思想は、心の最下層である阿頼耶識に、正式に

は阿頼耶識の中の種子・・・に求めるのです。 それを、「一切は阿頼耶識から

作られたものである」と主張するのです。」

 

・・・この著者のレイ・ジャッケンドフさんの考え方がどういうところに

流れているのか分かりませんが、もしかしたら阿頼耶識に辿り着くのでは

ないかと秘かに期待したりもしています。

     もちろん、阿頼耶識、唯識は形而上学ですから、基本的に異なることは分かって

     いるのですが・・・・

 

 

p109

 

ウィトゲンシュタインも・・・

 

かれが本当に「言いたかった」こと、つまり「意図した」ことは、言葉による表現を

与えるよりも前にすでに心のどこかに存在したのだと。

 

――この見方は、言語とは独立して何らかの意味が存在することを含意する

 

 

p110

 

発音と意味はどちらも私たちの心の中にある。 語や文の発音は、誰かがそれを実際に

声に出したときに私たちの意識に入ってくるが、それだけでなく内なる声が「話して

いる」ときにも同じことが起きる。

 

・・・発音のまとまりが実際に有意味であるときでも、私たちはその意味を直接に

知覚することはできないのだ。 私たちが意味の存在を意識するのは、発音が意味と

結びついた知覚可能な「取っ手」としてはたらくからに他ならない。 

 

・・・(他のイメージ、特に視覚的イメージも思考の「取っ手」としてはたらきうる。

そのため人々はしばしば視覚的イメージもまた思考であると考えがちである。・・・)

 

 

・・・思考の「取っ手」としてはたらく発音の切片は「有意味性」という意識的な

感覚を伴っている。 この感覚はthitfendleのように、何に対しても「取っ手」

としてはたらくことのない発音のまとまりを聞いたときには生じない。

 

==>> ここで「取っ手」という言葉が出てくるのですが、これは意味と発音を

     繋ぐための目印とかタグのような感じかなと思います。

     発音や視覚的イメージの側にそのような目印があるという構図でしょうか。

     しかし、この辺りの描写は、科学的というより、かなり形而上学になって

     いませんかね?

 

     上記の中のthitfendleは実際には無い架空の語であるようです。

 

p112

 

ここで便宜上、<意味の無意識仮説>という言い方で・・・・・

 

〇 発音は意識的なものである。

〇 それは意識的な有意味性の感覚をともなっている。

〇 それは無意識的な意味――発音が表わす思考や概念――と結びついている

 

・・・クオリアという言い方を好む読者ならば、<意味の無意識仮説>は、いわゆる

意識的な思考と結びついたクオリアは、概念的ではなく音韻的な性格をもつのだと

解してもよいだろう。

 

==>> ここは著者の核心の部分になっている<意味の無意識仮説>なんですが、

     ある発音は意識的で有意味でありながらも、無意識的な意味とも結びついて

     いるということのようです。

     クオリア・・・の部分で、「概念的ではなく音韻的・・・」というのが

     理解できません。

     クオリアというのは、私の理解では、「今、ここ、質感のある感覚・経験」で

     あろうと思うのですが、それが「音韻的な性格をもつ」とはどういう意味

     なのか・・・

 

 

 

既に「第二部 意識と知覚」に入っているのですが、

次回は 「16 <意味の無意識仮説>を検証するいくつかの現象」から読んでいきます。

 

 

==== 次回その2 に続きます ====

 レイ・ジャッケンドフ著「思考と意味の取扱いガイド」を読む ― 2 意味とか思考とかいうものが意識されない、 <意味の無意識仮説>とは何か (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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