横山紘一著 「阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門」 ― その1 アビダルマ、ヨーガとは分析科学? 「縁起の故に空である」
横山紘一著 「阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門」 ― その1 アビダルマ、ヨーガとは分析科学? 「縁起の故に空である」
意識とは何か、意識の志向性とは何か、というのが今の私の読書テーマなんです。
意識といえば無意識、無意識といえば唯識の阿頼耶識。
以前から唯識論は気になっていたのですが、ここにきてやっと真面目に読んで
みようという気持ちになりました。
まず唯識論というのを概観してみます。
「唯識学会」のサイトです:
https://www.yuishiki.org/%e5%94%af%e8%ad%98%e8%ab%96%e3%81%a8%e3%81%af/
「唯識論とは
a. 仏教の人間学であり、人間とは何か?を説いた心理学ともいえる。
b. 唯識学は、信じることよりまず理解することを教える。
c. 唯識は、現実の自分を、立ち止まって凝視することから始まる。現実の自分とは、自分の
根底(無)の部分を含む存在の全体の働きを自覚することである。
d. スイスの精神医学者ユングは、「自分の体験するものはすべて心的現象にある。人間の心
という永遠の事実の上に自分の基礎を築くために、自分という主観的存在(本当の無の
自分)の、もっと独自にして内奥の基礎を知り、これを認識したい」という思いから、
精神医学を始めた。
e. 仏陀のいう「自らを灯とし帰依処とせよ」とは、本来の自分を見つめ、それをより
どころとしなさい、ということ。」
そして、唯識とはどんな考え方かをもう少しみてみると:
https://kotobank.jp/word/%E5%94%AF%E8%AD%98-650103
「唯識とは、自己およびこの世界の諸事物はわれわれの認識の表象にすぎず、認識以外の
事物の実在しないことをいう。『十地経(じゅうじきょう)』に「この三界は心よりなるもの
にすぎない」といわれるようにである。われわれに認識されている世界は自己の認識の内
なるものであり、他方、自己の認識の外にあるものをわれわれは知ることができないので
あるから、世界とは自己の認識の世界にほかならない。インド仏教四大学派の一つである
瑜伽行(ゆがぎょう)派(あるいは唯識学派。中国・日本では法相(ほっそう)宗とよばれる)
はかかる主観的観念論哲学を説いた。」
・・・もう、これだけ読めばわかったような気分になってしまいます。
お釈迦さんの形而上学的内容については「一切不説」「無記」という考え方に
通じるようでもあり、現代の科学的考え方のようでもあり、面白そうです。
日本ではインド瑜伽行派(唯識派)の思想を継承する法相宗がこの唯識を説いているよう
です。日本における現存する宗派の中で、もっとも古い宗派だそうです。
大本山は奈良県の薬師寺と興福寺なんですね。修学旅行で行くような有名なお寺です。
では、前置きが長くなりました、さっそく読んでいきましょう。
p027
心を深層から解明した<唯識>は、煩悩という問題に関してだけでも、次のような四つ
の段階に分けて問います。
1. 煩悩がなぜ生じるのか。
2. 煩悩にはどのような種類があるのか。
3. 煩悩をなくすメカニズムはどのようなものか。
4. 煩悩をなくす具体的な方法や生き方とはどのようなものか。
これらの問題に対して詳細に考究して、その結果をみごとに組織化・体系化したのです。
そのような心科学として、仏教でありながら、科学と哲学と宗教の三面を兼ね備えて
いるのが唯識思想です。
==>> いや~~、まさに、このアプローチは宗教というよりも、かなり科学的な
感じがします。 私は以前から、仏教は宗教というより哲学だと思ってきました
が、ここに至っては、仏教は科学だと言いたくなりそうです。
p029
また、科学とは、一つの対象を分析してその構成要素を追求する人間の営みである、と
定義するならば、阿毘達磨(アビダルマ)仏教という概念の中にある阿毘達磨がまさに
それにあたります。
阿毘達磨はサンスクリットのアビダルマの音写で、ダルマとは「存在するもの」、アビは
「分析する」という意味です・・・・
==>> ダルマさんぐらいしか知りませんでしたが、アビダルマにそんな語源が
あるとは驚きました。
まさに、存在分析科学という感じなわけですね。
p040
(ii)もう一つは内的な原因が必要です。 なぜなら、「ものA‘」という影像が外から
心の中に入ってきたのではなく、なんらかのそれを生じさせる原因、すなわち、
「ものA‘」として認識させるだけの原因が心の中に存在していなければなりません。
その内的な原因を唯識思想は、心の最下層である阿頼耶識に、正式には阿頼耶識の中の
種子・・・に求めるのです。 それを、「一切は阿頼耶識から作られたものである」と
主張するのです。
==>> う~~ん、この「種子」というのは今の言葉で言うなら脳のニューロンとでも
なりますかねえ。
p044
*2 ― <唯識>は原因(縁)として次の四種を説きます。それをまとめて四縁と
いいます。
因縁
等無間縁
所縁縁
増上縁
このうち、・・・・心の中にA‘という影像を生じる原因として、外的なものであるAが
増上縁にあたり、内的な原因が因縁にあたります。 唯識思想が起こるまでは、この因縁
は何なのか、といろいろ考究されてきましたが、<唯識>は、因縁とは阿頼耶識の中に
ある種子であると説いて、因縁に関する論争に終止符を打ちました。
==>> 「外的なものであるAが増上縁」というのが気になりますが、先に進みます。
一応、意味だけは確認しておきましょう。
https://kotobank.jp/word/%E5%A2%97%E4%B8%8A%E7%B8%81-552568
「①
倶舎論に説く四縁の一つ。他のものの働きを助長進展させる縁。
② 中国、唐の善導の説いた浄土門の三縁の一つ。阿彌陀仏の本願の力をいう。
阿彌陀如来の名号を称念することにより、罪障消滅し、臨終の来迎(らいごう)に
報いられるとする阿彌陀如来の本願。」
・・・・「他のものの働き」というのが、ちょっと気がかりですが・・・
p045
「縁起の故に空である」とは、存在するものは、無量無数の縁つなわち“原因”によって
生じたものである(それを「縁起」といいます)から、その生じたものは「空」である、
すなわち実体として存在しない、という仏教の根本教理です。
・・・ある物の動きをとらえる私たち人間の視覚も、物の動きそのものを、心が鏡の
ようにそっくり映し出しているのではなく、脳の中の無数の細胞やその細胞から成り立つ
数多くの視覚野が原因となって生じていることになり、視覚がとらえた物とその動きとは
幻影であって、実体として存在しない、すなわち空である、と彼は、このように実験で
自ら覚ったというのです。
このことは、いまの脳科学の成果からしてまちがいないと証明されています。
==>> 確かに、今まで私が読んできた本を思い出せば、ここに書かれていることは
そうであろうと納得ができます。
最近の科学では、動物の眼にこの世界がどのように見えているかということも
次第に分ってきて、人間とはかなり違った世界に見えているそうですから、
人間に見えていることが本当に実在するものかというのは結構怪しくなって
いると言えるかもしれません。
おまけに、人間であっても、さまざまな感覚が、人それぞれであることが
分って来ていますので、唯一絶対の客観的実在というものはかなり怪しく
なっているということにもなりそうです。
p053
「すべては心を離れたものではない」ということができます。
このことを<唯識>の用語で、一切不離識といいます。
つまり「心の中にある」というのは「心を離れてはいない」ということです。
簡潔にいうと、「中にある」とは「離れてはいない」という意味での「中」であると
いうことができます。 すなわち、この場合の「中」とは、三次元の空間的な中では
ないのです。
p062
「自分は思う」というときの「自分」がそうです。
また「隅田川がそこに流れている」といえば、「隅田川」という「もの」が存在する
と思ってしまいます。でも存在するのは、滔々と流れる水の流れだけです。
言葉は対象そのものとぴったり一致せず、あくまで対象を、抽象的に比喩的にいい表す
ことしかできません。
p063
<唯識>では、心を大きく、
1. 心
2. 心所
と二つに分けます。
このうち「心」は「心王」ともいわれ、次の八つの心、すなわち識を立てます。
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識
心所というのは・・・心(心王)とともにはたらく細かい心作用です。 そのような心作用
として、<唯識>は五十一種もの心所を立てます。
p064
とにかく唯識は、現代の心理学に劣らず(現代の心理学とは異なってというべきか)、
精密な心理分析を行っているのです。
==>> 仏教では感覚器官を五蘊という言葉で呼んでいるんですが、この唯識に
至っては、さらにそれを五十一もの心所というところにまで細かく分類して
いるんですね。 「心所」という言葉から私がイメージするのは、脳の分野
というようなものですが、さて、実際はどうなんでしょうか。
「心所」の内容については、こちらでどうぞ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E6%89%80
一方で、最新の脳科学では、脳の構造と機能をどこまで追求してきたのか:
「脳の部位と役割」
この辺りを読んでいると、なんだか、感覚器官や脳の機能をコンピュータの
システムに置き換えて研究している人の本を思い出します。
前野隆司著 「脳はなぜ「心」を作ったのか」 を読む
― 2 小びとが分散処理するニューラルネットワーク
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/09/blog-post_97.html
「p76
カリフォルニア大学サンフランシスコ校・・医学部・・神経生理学教室の
リベット教授・・・
p77
リベットの実験結果を信じるならば、人が「意識」下でなにか行動を「意図」
するとき、それはすべてのはじまりではない。 「私」が「意識」するよりも
少し前に、小びとたちは既に活動を開始しているのだ。 言い換えれば、「意図」
していると「意識」することを人に感じさせる脳の部分は、脳内の小びとたちの
活動結果を受けとって、自分が始めに「意識」したと錯覚していると考える
しかない。
・・・ついに、最後の砦、「意」も、「知」や「情」と同様、無意識にいる「運動
準備」や「意」の小びとたちの結果を、「意識」が受動的に見ている作用に過ぎ
ないらしいという事がわかった。」
==>> この実験について詳しい説明は本を読んでください。
ついに、「意図」ぐらいは自分の意志でやっていることだろうと
思っていたら、その自分の意志すらも「小びと」たちの作用による
ものだと言うんです。 まあ、冗談としか思えませんが、研究者は
冗談とは思っていないそうです。
短く言えば、人間は「小びと」によって操られているって話です。
どうしましょうか・・・・・
もしかしてマトリックスでしょうか?
p071
唯識思想を打ち出した人びとは、ヨーガという実践を通して自らの心の奥深くに沈潜して、
阿頼耶識という根本心を発見したのです。
そしてその阿頼耶識から一人一宇宙のすべてが生じると主張するに至ったのです。
p073
言葉を心の中に浮かべて、その言葉が指し示す「もの」は「一体なにか」を追求して
いく、これが、ヨーガ(瑜伽)という実践の内容です。
ヨーガは、なにか超能力を身に付けるなどといった神秘的なものではなく、ものを
観察し思考する方法なのです。
==>> 瑜伽行派については、こちらです:
https://kotobank.jp/word/%E7%91%9C%E4%BC%BD%E8%A1%8C%E6%B4%BE-144960
「インド大乗仏教の一流派。唯識派ともいう。弥勒 (マイトレーヤ) を祖とし,
般若の空思想を根底にヨーガの修行 (瑜伽行) を基礎とし,唯識説を説いた。
中観派と並んでインド大乗仏教の二大潮流をなしている。略して瑜伽派とも
いうが,正統バラモン系統のヨーガ学派とは別のものである。第2祖無着
(アサンガ) とその弟世親 (バスバンドゥ) は,多くの書を著わしてこの派の
立場を確立宣揚した。」
世親さんについては、浄土真宗にも関係があるようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E8%A6%AA
「唯識思想を大成し、後の仏教において大きな潮流となった。また、多くの重要
な著作を著し、地論宗・摂論宗・法相宗・浄土教をはじめ、東アジア仏教の形成
に大きな影響を与えた。浄土真宗では七高僧の第二祖とされ「天親菩薩」と尊称
される。」
この本の著者である横山紘一さんのインタビュー記事には、こうあります:
「唯識に生きる①唯識の歴史と基本思想」
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-766.htm
「要は日本仏教の根本思想であるというふうに言うことができます。比叡山に
おられた法然(ほうねん)(浄土宗の開祖:1133-1212)、それから親鸞(しんらん)
(浄土真宗の宗祖:1173-1262)も唯識を勉強されていますし、あと道元(どうげ
ん)(曹洞宗の開祖:1200-1253)禅師―禅の道元ね、それからあと空海(くうかい)
(真言宗の開祖:774-835)―真言の弘法大師空海ですね。そういう方も全部唯識
を勉強されています。」
「自分の心の中に起こってくるメカニズムを静かに自分の中で観察し分析して
いくと、論理がやっぱり人間にとってすばらしい力を持っているんですよね。
論理を持っている人間のありようというのを、高くありがたく思いましょうよ。
すごいなって、人間として生まれてすごいなとね。そのために唯識を勉強しな
きゃいけない。唯識は全部論理で展開してますからね。」
・・・・つまり、ヨーガというのは、神秘的なものを求めているんじゃなく、
きわめて科学的・論理的な傾向があるということのようです。
では、次回はこの「ヨーガによる深層心の発見」をさらに読んでいきます。
=== 次回その2 へ続きます ===
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