レイ・ジャッケンドフ著「思考と意味の取扱いガイド」を読む ― 2 意味とか思考とかいうものが意識されない、 <意味の無意識仮説>とは何か

レイ・ジャッケンドフ著「思考と意味の取扱いガイド」を読む ― 2 意味とか思考とかいうものが意識されない、 <意味の無意識仮説>とは何か

 


 

レイ・ジャッケンドフ著「思考と意味の取扱いガイド」

「第二部 意識と知覚」の「16 <意味の無意識仮説>を検証するいくつかの現象」

に入ります。

 

<意味の無意識仮説>というのが著者の主張するところであって、

認知科学的視点で解き明かしていくというスタンスなのですが、意味そして無意識という

どちらもいわば形而上学的な臭いのする言葉なので、どこまで実証的なのか、そこに

興味があります。

 

p115

 

意味は私たちの頭の中にあって、それを使って推論を行ない、その文が描く場面を表わす

絵を選ぶことができる。 だがそれは無意識的であるために、他の文で重ねて説明する

以外に意味を記述する手段はない。 言い換えれば、二つの文は同じ一つの無意識的な

思考と結びついた二つの異なった「取っ手」だということだ。

 

p116

 

<意味の無意識仮説>についてのもう一つの視点は次の有名な引用にもとづいている。

「言葉に出すことがわかるまで、考えていることを知ることなどできるだろうか?」

これは普通、言葉にするまでは思考が形成されないということを言うために引用される。

言い換えれば、思考と言語は同一というわけだ。 

 

だがこの引用が本当に言わんとするところは、人は思考をーーそれが何かを知らない

のでーー言葉という衣をまとって現れるまで意識していないということだ。それ以前の、

思考が音韻という「取っ手」を得る前の段階では、思考は無意識的なものなのだ。

 

==>> ここで<仮説>の主旨を書いてあります。

     意味は無意識のうちにイメージを選ぶ。

     「他の文で重ねて説明する以外に意味を記述する手段はない。」

     意味・思考は、言葉になる前までは意識されない。

     意味・思考が、音韻という「取っ手」と繋がって意識される。

     ・・・ということのようです。

 

     意味がそういうものであるということは、ほぼ納得できますが、

     「重ねて説明する以外に意味を記述する手段はない」という意味の持つ特性が

     かなり重要になりそうな感じがします。

 

 

p117

 

意味は想像される発音と結びついていなければ形のない存在となる。

発音との結びつきなしには、意識に残るのは有意味性の確信だけだ。

 

手話の話し手にとっては思考とはどのようなものだろうか?

私が聞くところでは、頭の中で音が聞こえる代わりに、手の動きを感じたり見たりする

のだというーーそれは手話にとって音声言語の発音に相当する。

 

単語や名前を思い出せないときには、「喉元まで出かかる」状態にあたる、「指先まで

出かかる」とでも呼べそうな感覚を経験するという。

これはまさに<意味の無意識仮説>の予測と合致する。

 

==>> ここでは、音声言語と手話言語の比較をしています。

     「のど元まで出かかる」と「指先まで出かかる」は同じ状態であって、

     そこには意味・思考の「有意味性の」確信があるのだけれども、言葉である

     音声あるいは手話に繋がらないかぎりは意識されないということですね。

 

 

p118

 

・・・先天的なろうで、手話に接したことのない人たちから得られる。

かれらが成人してから手話を学習したのであれば、それ以前の思考がどのようなもの

だったかを尋ねてみることができる。

 

・・・ニカラグア手話のドキュメンタリー番組・・・こうした境遇にあった人が、

・・・「考えるというのがどんなことかさえわからなかった。 考えるということは、

私には何の意味ももたなかった」と述懐していた。

もちろん彼も手話によって話すことができるようになる以前から思考能力はあったに

「違いない」・・・・しかしーー<意味の無意識仮説>の予測するとおりーー 彼は

そのことを意識していなかった。

 

==>> これはBBC放送のドキュメンタリー番組からの情報をもとにした説明です。

     音声も手話のような記号もない世界に生きている人たちにとっては、

     意味とか思考とかいうものが意識されないことを述べています。

     私自身も、通常は私の声が頭の中で文をつくって考えていますし、

     音声だけでは判別のつかない同音異義語のようなものについては、どんな漢字

     だったかをイメージして区別しているような気がします。

     ですから、音声や記号・文字がなければ、意味・思考を意識することは

     ないだろうということは理解できます。

 

p119

 

だから思考を言葉に変換する前の段階では、私たちは「思考の進行」を意識するのが

せいいっぱいで、その思考が「何」であるかまでは正確には把握できない。

そうして文を発話すると、それが表わす思考を、意図した思考内容と無意識のうちに

比較し、その発話が不十分だという感覚をもつことにもなる。

 

==>> このことは確かにそうだと思います。

     そして、このような比較をするというのは、私自身も今この感想文を

     書いている最中にもやっていることです。 

つまり文の推敲をしているということになります。

     もっと正確な説明の仕方があるんじゃないかという思いです。

     一旦書いてみても、「いや、これじゃないな」とか「なにか足りない」とか

     いう感覚は、頭の中に無意識のうちにある意味・思考と比べているという

     ことなのでしょう。

 

p138

 

認知的視点からすれば、ある言語表現は心の中の三つの関連したデータ構造、すなわち

音韻論(発音)、統語論(文法)、意味論からなっている。

 

・・・意味論は意味を概念単位によって組織化する。 概念化された物体や人格(例えば

ライオンやクマ)は、概念化された状況や事象(例えば追いかけるという出来事)の中で

ある役割を演じる。 意味論は思考に関わるデータ構造であるーーそれは私たちが世界を

理解する営みの他の部分と結びついている。

 

<意味の無意識仮説>によれば、これら三通りのデータ構造のうち、思考の経験と最も

近似するのは音韻論である。

・・・言い換えれば、意味よりもイメージされた発音のほうが、意識的な思考の主要な

認知的相関物である。

 

==>> ここで私はちょっと意外だなと思いました。

     私は「意味とは何か」ということを考えていましたので、まさかここで

     意味論ではなく音韻論の方が認知的視点からはより関係が深いと言っている

     ことに驚きました。

 

     ちなみに、ここでは、音韻論については次のように書いてあります。

     「音韻論は表現を言語音のパターンとして組織化し、音節、語、句へと

     まとめて、イントネーション(声の音程の高低)をかぶせる。」

     説明しています。

     私がいろいろと検索していた本は、すべて意味論の本でした。

 

     私は過去に十数年間日本語教師をしていましたが、統語論(文法)の本は

     読んでも、音韻論(発音)の本は嫌いでしたので、ほとんど読んだことが

     ありません。 関連本で音韻についてのページがあっても、ほとんど

     飛ばし読みをしてきました。

     そして、今は「意味とは何か」がテーマなので、意味論系ばかりを

     狙っていたのです。

 

p139

 

肝心なのはその発音が「何らかの」意味と結びついているという事実だけである。

この意味で、有意味性の感覚はひとえにこの結びつきの存在にかかっているのであり、

それが結びつく先である思考に依存しているわけではない。

 

p142

 

この図は二つの新しい部分が加わっている。 一つは「有意味性のモニター」で、

それは発音と思考の間に結びつきがあるかをチェックする。

 

・・・モニターは発音と結びついた「有意味」の感覚を意識の認知的相関物として登録

する。 このような有意味性の感覚を「特性タグ」と呼ぶことにするーーそれは経験の

全体的な性格を表わすものだ。 

 

二つ目の新しい部分は「イメージのモニター」で、それは発音と耳から入る聴覚入力の

間の結びつきの有無をチェックする。

 

==>> これは著者の主張である<仮説>の説明なんですが、ここに書かれている

     ような二つの「モニター」というものが実際に人間の脳内で機能している

     のかどうかについては、一切書いてありませんので、あくまでも<仮説>

     であるようです。

     できることなら、脳科学的に「こういうモニターの存在が確認されました」    

     と言って欲しいところです。

 

 

p145

 

要するに、言語をもたなくても思考をもつことはできるが、私たちの意識が形を得るのは、

思考そのものから直接にではなく、内なる声の発音を通じてである。 だから思考と

意識は一つのものなどではない

 

意識についての伝統的な見方からすると、この結論は正気のものとは思えないだろう。

 

・・・<意味の無意識仮説>は、真に思考の経験に注意を払うことにもとづいている

のであり、意識とは何やら「深遠」なものだという先入観から出発しているのではない。

 

==>> 意識というのは人間だけじゃなく動物や虫などにもあるのでしょうから、

     思考と意識は別のものだろうと思います。

     思考は内なる声の発音、あるいは自然言語としての手話のイメージなどを

     通じて意識されるというのも、その通りだろうと思います。

     「意識とは何やら深遠なものだ」という先入観は私にもありますが、

     それがあるからこそ「意識とはなにか」とか「意味とはなにか」という素朴な

     疑問も出てくるわけです。

     そして、この著者の仮説が、唯識や阿頼耶識とどのような関係になるのかが

     非常に気になります。

     どこまで科学的、実証的なのかという観点から・・・・

 

p146

 

意識は一種の「執行部」の役割、つまり心の活動が困難に出会ったときに監督する権限

をもつという考えである。 ここでとられているのは、ある活動が自動的になっていくに

つれて、意識にのぼらなくなるという考えである。 例えば、自動車の運転を学習して

いると、しだいにブレーキはどこかなどということを考えることはなくなり・・・

 

p147

 

私の想像では、執行部の活動は実際には「意識」というよりは「注意」の機能だ

運転を学習した後ならば、あなたは自分の足がどこに置かれるかには注意を払わないし、

海辺の情景の中にあるすべてが意識にのぼっていたとしても、そこに注意を払うとは

限らない。

 

==>> ここで著者は、いくつかの哲学者や神経科学者による仮説理論などを

     紹介して、それに対する著者の考えを述べています。

     

 

p150

 

私の考えでは、これらの見方はみな、人が頭の中で言語として「思考を聞く」という

経験に注意を向けていない点で問題をかかえている。

 そして言語を話題にするときには、意味・発音に関わる二つの全く異なるデータ構造

を分けて考えることをしない。

 

「執行部」や「広域作業空間」理論においては、意識が果たすことが望まれる役目を

受け持つのは意味のほうである。 だが実際に意識にのぼるのは、もう一つのデータ

構造すなわち発音のほうなのだ

 

==>> ここで、著者は、p138にあった「認知的視点からすれば、ある言語表現は

心の中の三つの関連したデータ構造、すなわち音韻論(発音)、統語論(文法)、

意味論からなっている。」の中で、特に音韻論つまり発音が重要であることを

再び述べています。

一方で、他の理論においては、意味論を重視していると考えているようです。

 

ここで「執行部」理論と言っているのは、過去に読んだ本に出ていた

ジュリオ・トノーニの「総合情報理論」みたいなもののことを言っているのかな

と思います。

渡辺正峰著「脳の意識、機械の意識」

https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/11/blog-post_83.html

 

過去に読んだ本の中では、こちらの「小びと」理論が好きです。

前野隆司著 「脳はなぜ「心」を作ったのか」

― 小びとが分散処理するニューラルネットワーク

https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/09/blog-post_97.html

 

「p42

しかし、脳内のたくさんの小びとたちが行う「知」「情」「意」の処理に「注意」

というサーチライトを当てるためには、「意識」は、たくさんの小びとたち

すべてが何をやっているのかをトップダウンに把握している万能かつ巨大な

システムでなければならない。だから、「私」が脳の中の一部分に局在するとは

考えにくい。この問題を、脳のバインディング問題、という。 バインディング

とは、結び付けること、という意味だ。 

p43 

そもそも「意識」が主体的に小びとたちの仕事を結びつける、と考えること自体

が間違っていると思う。」

 

 

p159

 

発音は意味と結びついているときに有意味であると感じられる。 それは意味への

意識的な「取っ手」としてはたらく。 同様に、視覚表層は視覚的意味と結びついて

いるときに有意味と感じられる。 それは視覚的意味の意識的な「取っ手」として

はたらく。

 

・多義的な句や文は二つの異なる意味と結びついている。 ネッカーの立方体や

アヒルウサギのような多義的な視覚表層は、二つの異なる視覚的意味と結びついている。

 

==>> 私がまだ理解できずに、もやもやしているのは、この「取っ手」という

     機能のことです。 それがどのように可能なのかという点が分かりません。

     なので、この点が「深遠」な不可思議な形而上学的なものに見えてしまう

     のです。

 

p160

 

私たちはこの結びつきをおおよそ次のようにして作り上げる。 思考と意味は二つの

相補的な種類の心的表象(またはデータ構造)を利用する。 一方は私が「空間構造」

と呼ぶもので、視知覚および視覚的イメージとより密接に結びついている。

もう一方は私が「概念構造」と呼ぶもので、言語とより密接に結びついている。

 

p161

 

空間構造は物体の細部にわたる形、空間の中での物体の配置、そして物体の動き方

などを扱う。 

 

・・・概念構造は・・・・知人のことを記憶に留めて消息を追う、物体をカテゴリー

(たとえば「犬」)に割り当てる、出来事を参与者の動作へと分割する(例えば、クマが

ライオンを追う)、などである。 単語と結びついた意味要素に加えて、・・・単語と

結びいていない意味要素もすべてコード化される。

 

p163

 

例えば「蚊」という単語の意味を考えてみよう。 概念構造は、それが一種の昆虫であり、

人を刺して血を吸う、病気を媒介する、などと教えてくれるだろう。

しかしこの種の情報は、蚊の姿を見たときに(「ほら見て、首に蚊がとまっている!」)

それと識別するための助けにはならない。 だから、単語は記憶の中で蚊の外見

結びついている必要がある。 これはまさに空間構造の得意分野である。

 

蚊がどんな羽音を出すかも知っているだろう。 これはおそらく「聴覚構造」とでも

いうべきものと結びついてコード蚊されているはずだ・・・

・・・つまり単語の意味、およびそれと結びついた知識は何種類もの構造を含んでおり、

それらはすべて相互に連結しているわけだ。

 

p166

 

だが次のことは銘記してほしい。 二つの構造のどちらも、意識の認知的相関物ではない。

そうではなくて、意識にとって関連性のある構造は、言語においては発音、視覚においては

視覚表層なのである

 

==>> ここでは、何種類もの「構造」があることを述べています。

     その中で特に重要なのが「空間構造」と「概念構造」であるとしています。

     そしてさらに、意識にとっては発音と視覚表層が重要な役割をもっている

     ということのようです。これは音声言語と自然言語としての手話に相当する

     のではないかと思います。

 

 

p185

 

脳の損傷の一種で、「相貌失認」と呼ばれる症例を示す人たちは、・・・・

実際には親近性のある顔とない顔に対して、異なる反応をすることが示されている。

つまり記憶が消去されたかのような状態とは違う。 それでも、相貌失認の人たちは、

見せられた写真の中の人物について、誰が誰だか全くわからないと真剣に答えるのである。

 

かれらのもつ障害は、明らかに心/脳の中で親近性が登録される部分に存在する。

顔の形は見えていても、あらゆる顔が新奇に感じられるのだ。

 

==>> 私が「相貌失認」という言葉を知ったのは、テレビドラマ「相棒」を観た

     ときでした。 ここでの説明で判断するに、相手の顔は見えているけれども、

     見る度に初めて会った人の顔だとしか見えないということのようです。

     ドラマの中では、顔では判断できないけれども、着ている服や身につけて

     いるもの、あるいは相手の動作の特徴などによって誰であるかを概ね見分ける

ことができるということでした。

 

 

p190

 

何世紀にもわたって、多くの人々が人間が自由意志をもつか否かについて論争してきた。

 

・・・認知神経科学から最近得られた証拠は、この燃え上がる論争にさらに燃料を投下

することとなった。ある実験によれば、私たちの意志的動作の感覚は、脳が動作の実行

を始動してから数百ミリ秒後に生じるらしいことが報告されている。 そして適切な

実験装置があれば、行ったはずのない動作を意図的にやったと考える(つまり「意図性」

のモニターが点灯する)ように欺くことができる。 

 

この種の証拠を大量に検討した上で、ダニエル・ヴェグナーはこの問題についての彼の

考えを「意識的意志という幻想」という本の題名に表明している。

 

==>> ここでは、自由意志が幻想であるということについて、著者の考え方は

     反対であることを述べています。

 

     自由意志は幻想だということに関しては、こちらのサイトに記載があります。

     なぜ「自由意志など存在しない」と科学者は主張するのか?

     https://gigazine.net/news/20201102-free-will-science/

     「リベットが「筋肉の運動」「脳の活動」「被験者の記録時間」を比較したところ、

まず、「脳の活動」「被験者の記録時間」の2つは「筋肉の運動」より前に発生し

ていることがわかりました。これ自体に驚きはありませんが、この研究結果で

重視されたのは、「被験者の記録時間」よりも「脳の活動」の方が0.5秒ほど

速いということでした。これは、「人が『この瞬間に決めた』と認識する前に

すでに脳は行動を決めているのだ」と解釈され、人間に自由意志は存在しないの

だという主張につながりました。」

 

この著者とは反対に、「自由意志があるというのは幻想だ」と考えている

脳科学者・茂木健一郎さんの動画をこちらでご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=g9ct-lTecAQ&t=83s

 

     ・・・こういうのを見ていると、この著者の「自由意志はある」という

     考えは かなり分が悪いような感じがします。

 

 



では、次回は「第三部 指示と真理」に入ります。

 レイ・ジャッケンドフ著「思考と意味の取扱いガイド」を読む ― 3(完) 合理的思考は直観的思考に基礎をおく? 概念構造こそが意味だ (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

==== 次回その3 に続きます ====

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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