渡辺正峰著「脳の意識、機械の意識」を読む ― 1 「あなたはニューロンの塊にすぎない」、こんなシンプルなものなのに・・・

渡辺正峰著「脳の意識、機械の意識」を読む ― 1 「あなたはニューロンの塊にすぎない」、こんなシンプルなものなのに・・・

  

渡辺正峰著「脳の意識、機械の意識」

なぜ人間は感じるのか? 「意識の問題」とは?

人工的に意識は作りだせるのか? ・・・・を読んでいます。

 

 


 

pi

 

未来のどこかの時点において、意識の移植が確立し、機械の中で第二の人生を送ることが

可能になるのはほぼ間違いないと私は考えている。

 

==>> これは「まえがき」の部分なんですが、いきなりこんな文言が出てきて、

     私はびっくりしました。 

 

P

 

しかし現時点では、意識の移植は、我々人類にとってはるか彼方の夢だ。

意識を宿す機械の目処はついていない。 そもそも、意識の原理がまるでわかって

いない。

 

==>> ああ、ほっとしました。

     と言うよりも、いままでいろいろと読んできた本の中で、ここまで

     意欲的な意識に関する本はなかったので、驚いています。

 

pii

 

二つほど仮説をあげるなら、哲学者デイヴィッド・チャーマーズ(1966~)は

あらゆる情報が意識を生むと主張しており、神経科学者のジュリオ・トノーニは統合

された特殊な状態にある情報のみが意識を生むと唱えている。

 

==>> この二人のことが書かれている本は、既に私も読みました。

     チャーマーズとトノーニについては、こちら:

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/12/post-3ec8ec.html

 

     「「組み合わせ問題(抄)汎心論の取り組むべき課題

デイヴィッド・ジョン・チャーマーズ

p27

汎心論とは、基礎レベルの物理的存在が意識経験をもつという見方だ。

・・・汎心論はおそらく、唯物論と二元論の両方の長所を兼ね備えるとともに、

いずれの短所も共有しない。とりわけ、じゅうらい二元論の根拠としては認識論

的な直観が、そして物理主義の根拠としては因果論的な直観があげられてきたが、

汎心論はこのふたつの直観の両方と合致しうるのである。」

 

     「p38

ジュリオ・トノーニの総合情報理論によれば、情報の統合の度合いと意識状態

とを関連付ける原理が存在するが、これもまた創発的汎心論の一形態と解釈

されうる。なぜなら、トノーニの原理が根本的な自然法則であるならば、マクロ

経験が特定の物理的配置から強い意味で創発することになると考えられるから

である。

==> このトノーニさんの統合情報理論については、以前に読んだ本の中に

出て来ましたので、こちらを参考にしてください:

「意識はいつ生まれるのか」を読む - その3 

右脳と左脳、意識を測る統合情報理論

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/11/post-249733.html

 

pv

 

意識には、意識ならではの難しさあある。 DNAの二重らせん構造を発見し、その後、

意識のかがくの黎明期に大きく貢献したフランシス・クリック(1916~2004)の

言葉、 「あなたはニューロンの塊にすぎない」の意味をぜひ噛み締めてほしい。

 

==>> ところで、この著者がどういう人かといいますと、

     渡辺正峰さんは、「気鋭の脳神経科学者」とされていますが、経歴をみると、

     東京大学工学部卒で、東京大学大学院でも工学系の准教授、そしてドイツの

     研究所の研究員などを勤め、専門は脳科学ということが書いてあります。

     医学系かと思っていたら、最近は脳は工学系なんですかね?

 

pvi

 

意識の問題に突破口を開くための提案とは、機械の意識をテストするための新たな手法

を指す。 その先に見据えるのは、機械への意識の移植だ。

 

pvii

 

脳科学の幼少期が終わり、大きな転換点を迎えている時代に立ち会えたことに筆者は

興奮を覚えている。

 

==>> なかなか、挑戦的なテーマですね。期待できそうです。

     機械でなんか作れそうだという自信があってのことでしょうから、

     少なくともその意識をどのように作れるかという構想はあるはずですもんね。

 

 

「第1章     意識の不思議」

 

p005

 

このデカルトの言う「我」こそが、本書の対象とする意識である。 意識を問ううえでの

出発点であり、ただ一つ、存在の揺るぎないもの。 たとえそれが瓶詰めの脳の中に

あったとしても、半導体デバイスに実装されていたとしても、自身の存在について想いを

巡らせたとき、「我」は間違いなく存在する

 

p006

 

このような時代にあって、コンピュータにはその片鱗すら実装されていないもの、

科学者や哲学者によっては、未来永劫実装されないだろうとしているものがある。

それは、モノを見る、音を聴く、手で触れるなどの感覚意識体験、いわゆる「クオリア」

だ。

 

p007

 

難しいのは「クオリア問題」のほうだ。 なぜ脳をもつものに、そして脳をもつもの

だけに、クオリア=感覚意識体験は生起するのだろうか。 ・・・いわば、デジタルカメラ

は視覚クオリアをもたない。 

 

==>> さて、デカルトの「我思うゆえにわれあり」の我というのは、このクオリアの

     ことなんでしょうか。 いわゆる「今、ここ、質感のある」感覚である

     クオリアですね。

     

 

p008

 

鍵を握るのは、われわれの脳も所詮は電気回路にすぎず、デジタルカメラとの間に

決定的な差はないという驚愕の事実だ。 クオリア問題の本質については・・・・

 

==>> この本は2017年の初版なんですが、この著者は脳はニューロンの塊で

     あり、電気回路にすぎぬと言っています。

     しかし、今までに読んできた本の中には、ニューロン一辺倒であった

     脳医学が急速に脳の梱包材だと思われていたグリア細胞に大きな機能が

     あるのではないかとの流れになっているという話もありました。

     まあ、おそらく、この著者はグリア細胞も含めての電気回路だと言って

     いるのだと思いますが。

 

     R・ダグラス・フィールズ著「もうひとつの脳」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/12/post-3151c1.html

     「p21

・・・データにはひとつだけ違いがあった。ニューロンではない細胞の数が、

脳の四領域すべてにおいて、アインシュタインの脳では群を抜いて多かったのだ。

一般の人の脳組織サンプルでは、ニューロンではない細胞は平均で、ニューロン

二個に対して一個の割合だったが、アインシュタインの脳のサンプルでは、その

二倍近く、すなわち、ニューロン一個に対して一個程度の割合で非神経細胞が

見られた。その違いが最も顕著だったのが、アインシュタインの脳で優位な側の

頭頂葉皮質から採取したサンプルで、そこは抽象的概念や視覚心象、複雑な思考

が生起する脳領域だった。」

 

p009

 

私たちは、世界そのものを見ているわけではない。 私たちが見ているように感じるのは、

眼球からの視覚情報をもとに、脳が都合よく解釈し、勝手に創り出した世界だ

 

・・・色はあくまで脳が創りだしたにすぎず、外界の実体は電磁波の飛び交う味気ない

世界だ。

 

==>> この部分を読んでいると、なんだか仏教で言われている五蘊と六処

     連想します。 いずれにしても、こういう感覚器官がそれぞれに受けた

     刺激を脳の中でさらに加工して人間の意識として映し出されるという

     ことですね。     

 

     馬場紀寿著「初期仏教―ブッダの思想をたどる」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/11/blog-post_13.html

     「p183

五蘊説の文脈では、五蘊という五つの要素のいずれにも主体は認められない

しかし、五蘊の四番目に挙げられる「諸形成作用」(行)が五蘊(色・受・想・

行・識)をそれぞれ「作り上げる」と説く。 つまり、主体はないが、諸要素と

しての自己を「作り上げる」作用の存在は認められているのである。

十二支縁起の文脈では、「無知」(無明)を第一原因として、「諸形成作用」を

含む五蘊と六処とが「渇望」を起こして、繰り返し「生存」を生み出す。」

 

「般若心経」の本

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/12/post-ba59.html

「五蘊の中の「受」=視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚・心作用の六つ
        = 眼・耳・鼻・舌・身・意
        = 六根
        = センサー

上記の6つの感覚装置がとらえる対象領域・範囲が色・声・香・味・触・法 

の六境である。(この中の「法」は、心の働きが向うところの意味)

上記の 6根+6境=十二処 となる。

さらに、十八界 という言葉は、上記の 感覚装置(根)と対象領域(境)に

加えて、それらの認識作用として眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の6識が

加わって 合計18界になるのだそうです。」

 

p013

 

肝心なのは、その裏にあるクオリアの真実だ。

モグラのあなたが見る、そのぼんやりとした景色は、実際の世界とは似て非なるものだ

退化しきった目が懸命にかき集めた視覚情報をもとに、モグラのあなたのちっぽけな脳が

精一杯創りだしたものである。

現実から掛け離れたぼんやりとした視覚世界、これこそがクオリアだ

 

==>> モグラの脳に外界の景色がどのように映っているのか、どうやって確認した

     のか分かりませんし、それが人間のそれとどのように違っているのかも

     分りませんが、多分そうなのでしょう。

     大空を飛ぶ猛禽類の鳥たちが、地面を這う小動物を見つけて急降下する

     わけですから、人間よりもある意味で目が良いことだけは理解できます。

     動物それぞれに眼の機能が異なっているのでしょう。

 

p017

 

患者「DB」が術後に得た奇妙な能力は、人間の脳にも、クオリアを伴わない視覚処理

があることを物語っている。 ・・・DBは完全に視力を失った。・・・

 

不思議なのは、見えないことは承知のうえで、近くにある対象物の位置や動きを無理矢理

に答えてもらうと、かなりの正解率で当ててしまうのだ。 当てたDB本人が、その

当てずっぽうの当たり具合に驚いている。

 

p018

 

本人の意識としてはまったく見えないなか、脳の視覚処理は確実に進んでいたことになる。

 

==>> これは「盲視」と呼ばれる現象らしく、「一人称的には盲目、それでいて、

     三人称的には見えている」ものだそうです。

 

     この本では、「両眼視野闘争」―クオリアを伴わないヒトの脳の視覚処理・・・

     などの解説がされています。 人間の視覚がいかに不思議なものかを

     体験できる実験が書かれています。

 

p022

 

ちなみにクオリアは五感に限られたものではない。 他にも、思考の感覚意識体験、

記憶想起の感覚意識体験などがある。 ・・・・人が長考するときに頭が研ぎ澄まされ

るような「あの感じ」、妙手が閃いた刹那の「あの感じ」・・・・顔を見てなかなか名前が

思い出せず、喉元まで出かかったときの「あの感じ」・・・・

 

==>> このようなクオリアは電子頭脳にはないものであると書いてあります。

     おそらく冷や汗をかいたときの「あの感じ」なんかもクオリアなんでしょうね。

     AIが冷や汗をかくなんて想像すらできないですけど・・・

     AIが「あっ、やっべ~~」なんて頭を掻く様子はとても思い浮かべられない

     ですよねえ。

 

p023

 

脳からいかにしてクオリアは発生するか。 その問いの真の難しさを実感するためには、

脳の何たるかを知らなければならない。

まずは、脳を構成するニューロンの振る舞いについて見ていこう。

「我」を成り立たせるための何らかの仕掛けがそこには隠されているのだろうか。

 

==>> と言うことで、この後は、いろいろと脳の構造やら機能やらが解説されて

     いますが、その部分はここではスキップします。

 

p043

 

ニューロンからニューロンへと情報を橋渡しする化学物質は、神経伝達物質と呼ばれる。

・・・・化学調味料などに含まれるグルタミン酸もその一種で、「味の素」を食べると

頭が良くなるといった昔の風説は、このあたりがもととなっているようだ。

 

==>> 味の素は大昔にいろいろと都市伝説みたいなのがありましたけど、

     あれはどうなったんでしょうねえ。

 

     検索してみたら、ありました・・・・

     http://umaibo.net/ul/basic/seiji/ajimoto.html

     https://drkojou.com/health/post-5081/

 

 

p047

 

一つのニューロンは、平均して数千に及ぶニューロンからシナプス入力を受けている。

また、一つのニューロンは、一秒間に数回から数十回、多いときには100を超える

頻度で電気スパイクを出力する。 単純計算すると、ニューロン一つあたり、毎秒

10万個にも及ぶ電気スパイクが到着していることになる。

 

到着した電気スパイクのそれぞれは、シナプスを介して、プラスもしくはマイナスの

電位変化に変換される。 あたかも、ものすごい勢いでアクセルとブレーキが踏まれて

いるような状態にある。

 

p048

 

ここでのポイントは、電気スパイクの伝える情報が、その有無、すなわち0か1かの

二種類の値しかとらないことだ。

 

この問題を解決してくれるのがシナプスだ。 0か1かの情報は、シナプスの作用で

マイナスからプラスまでの連続的な値をとるようになる。・・・その値は、出力先の

ニューロンごとに異なり、さらにそれぞれに調節することが可能だ。

 

==>> いやはや、まあ凄い能力のあるコンピューターが我々の脳の中にあるん

     ですねえ。 これが、先に読んだ本で「小びとたち」がそれぞれの部署で

     サクサクと仕事をこなしていると書いてあったことですね。

 

     前野隆司著 「脳はなぜ「心」を作ったのか」 

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/09/blog-post_97.html

     「p77

リベットの実験結果を信じるならば、人が「意識」下でなにか行動を「意図」

するとき、それはすべてのはじまりではない。 「私」が「意識」するよりも

少し前に、小びとたちは既に活動を開始しているのだ。 言い換えれば、「意図」

していると「意識」することを人に感じさせる脳の部分は、脳内の小びとたち

の活動結果を受けとって、自分が始めに「意識」したと錯覚していると考える

しかない。

・・・ついに、最後の砦、「意」も、「知」や「情」と同様、無意識にいる「運動

準備」や「意」の小びとたちの結果を、「意識」が受動的に見ている作用に過ぎ

ないらしいという事がわかった。」

 

 

 

p051

 

ここで伝えたかったのは、個々の具体的な生体メカニズムではない。 伝えたかったのは、

脳を構成するニューロンには、「我」を脳に成り立たせるような魔法の仕掛けは一切

見当たらないということだ。 脳は、ちょっとばかり手の込んだ電気回路にすぎない

 

p052

 

かくもシンプルなニューロンの働きから「我」はどのようにして生まれるのか

この素朴な疑問こそが意識の科学のメインテーマである。

 

==>> ほお~~、「ちょっとばかり・・・」とか、「シンプルな・・・」とか、

     素人には巨大な迷路みたいで怖気づいているのに、勇ましい指揮官で

     よかったなあ・・・という感じです。

 

 

では、次回は「第2章 脳に意識の幻を追って」に入ります。

 

 

=== 次回その2 に続きます ===

 渡辺正峰著「脳の意識、機械の意識」を読む ― 2 クオリアの分離、ニューロンの「ずぼらさ」、学習は幼い内に (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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