レイ・ジャッケンドフ著「思考と意味の取扱いガイド」を読む ― 3(完) 合理的思考は直観的思考に基礎をおく? 概念構造こそが意味だ

レイ・ジャッケンドフ著「思考と意味の取扱いガイド」を読む ― 3(完) 合理的思考は直観的思考に基礎をおく? 概念構造こそが意味だ

 

 


レイ・ジャッケンドフ著「思考と意味の取扱いガイド」

「第三部 指示と真理」に入ります。

 

 

p231

 

現代版の認知的視点は、生物学的進化論的視点と共同戦線を張り、人間の心は遺伝子

変異と自然選択という心の介在しない過程によって今あるようになったと主張する

この説明では、私たちを考え出し創造した神は必要ない。

 

・・・・つまり、道徳規範は言語と同様に人間の心の産物である。

 

・・・あなたの生には意味がない。 実際、(あなた)などというものさえなく、

ニューロンの塊が相互作用し、たまたま「自我」という都合のよい計算結果に収斂

したものが存在するにすぎない

 

さて。 この理解と、もう一つの理解――あなたは存在するだけでなく重要で、あなたの

生には意味があり、それは神聖でさえあり、・・・・・という世界観があるなら、あなたは

どちらを選ぶだろうか?

 

p232

 

多くの人は「もし科学が私は存在しないし善悪はないなどというのなら、科学など

地獄に堕ちろ」というだろう。

そして私が思うに、学校で進化論を教えることにあれほど広範囲の大衆から抵抗が

あるのは、一つにはこのためである

 

==>> このあたりの議論を読んでいると、仏教というのはいかにも科学的な

     哲学のように見えてしまいます。

     なにせ「空」ですからね。 「自我」などは滅却すべきものですからね。

 

     そして、すぐに頭に浮かんでくるのは、リチャード・ドーキンス著の

     「神は妄想である」という本です。

     そこにもアメリカが抱える進化論vs創造論の教育現場における危機的な

     争いがあることが書かれていました。

     リチャード・ドーキンス著「神は妄想である」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/03/post-5d9d05.html

     「この本の第一印象を私の結論として書いてみますと、以下のようなものに

なろうかと思います。

1.      アメリカという国がいかに恐ろしい宗教国家であるのかを初めて知った。

 進化論を信じている人がアメリカ国民の10%にも満たないということは驚き

以外のなにものでもない。日本が曲がりなりにも政教分離を保って、科学教育を

実施していることを有難いと思う。

2.    欧米で「私は無神論者です。無宗教です。」と発言することがいかに恐ろしい

結果を招くことになるかを知っておく必要がある。このことについては、以前か

ら「あなたの宗教はなんですか」聞かれた場合に、海外で、無宗教だと返事を

すると変な顔をされるということは知っていたのですが、これほど重大な意味

があるとは全く知らなかった。」

 

 

 p232

 

日常的視点は、人が肉体に加えて「魂のこもった」何か、その人にアイデンティティを

与える何かをもっているという主張を貫く。 認知的視点はそれなしで済まそうとする

――なぜ私たちがヒトを魂の観点から理解あるいは概念化するのかを説明する必要は

残るのだが、どちらかの視点が間違っているのかとなれば、他のすべての場合と

同様、それはあなたの目的次第だ。

 

p233

 

認知形而上学は本を取扱うのと同じやり方で人間を取扱わなければならない。

・・・二つに分けた一方の肉体はその内容特徴によって物理的領域に位置づけられる。

もう一方の心/魂/霊魂/自己はその内容特徴によって別の不可思議な「人格的」領域

に位置づけられる。

私たちは自分と他人をこんな風に概念化しているようだ。

 

==>> ここは確かにそういうものだろうと思うのですが、私の目的という観点から

     言うならば、意味とか意識とか呼ばれるものを二元的にではなく一元的に

     科学の立場で統一してもらえんもんだろうかというのが希望なので、

     認知形而上学という方向性は、今はちょっとご遠慮したいんですけどねえ。

 

p246

 

真理に対する日常的視点は、一つのことを正しく理解している。 真理は文と世界(ある

いは少なくとも何らかの世界)との対応を必要とする、ということだ。 しかしこの

視点は、世界にある二つのものの間に・・・いかにして対応が存在しうるのかは教えて

くれない。

 

認知的視点に立てば、もっとうまくできる。 文を真だと判断するという行為について

考えよう。

 

p247

 

視覚的な入力と視覚表層のつながりによって「実在」の特性タグがもたらされる。

視覚表層と空間構造のつながりによって「有意味」の特性タグがもたらされる

だからあなたはその視覚表層を外界に実在する有意味なものとして経験する。

 

私が文を言う際に発する音に反応して、あなたの心は発音を構築する。 それは意識の

認知的相関物だ。心はまた、概念構造と(この場合は)空間構造も構築する。

 

==>> ここでは、日常的視点と認知的視点を比較しているのですが、

     一応表面的には理解できるような気もするのですが、特性タグというものが

     どのような機能を持つのか、そして「取っ手」と呼ばれるものとどのように

     異なるのかについて、私には腑に落ちていません。

     まあ、しかし、そのようなプロセスを通じて真理が理解されるのだという

     ことのようです。

 

p266

 

以上のことを全部まとめて得られる結論は、究極的には自分の直観を信じる他ないという

ことだ。

 

純粋に明示的な合理的思考という理想を実現することは、論理的にも心理的にも不可能

ある。 私たちが合理的思考として経験するものは必然的に直観的判断という基準に

支えられている。 自分が論理的であるかどうかを判断するためには直観が必要なのだ!

 

・・・歓迎できない議論と感じるかもしれないが、それが人生というものだ。

 

p267

 

一般的に合理的思考と呼ばれるものは、直観的思考からなる膨大で複雑な背景なしでは

生じ得ない。 直観的思考は意識内では「ああ、そっか」とか「いや違う」という形で

のみ現れる。 すなわち、合理的思考は直観的思考の代わりではない。 むしろそれは

直観的思考に依存しているのであり、また直観的思考を洗練または強化したものとして

はたらいている。

 

==>> おお、すごい結論になりつつありますね。

     最終的には直観で決められてしまうという話のようです。

     なんだか、それですっかり納得してしまいそうなのですが、それだけでは面白く

     はないですね。

 

p267

 

私たちは二つの推論の仕方、ときに「システム1」と「システム2」と呼ばれるものを

もっている。 システム1は高速で、労力を必要とせず、自動的、無意識的と考えられて

いる。 それは私が直観的思考と呼んでいるものにうまく対応する。

システム2は低速で、相応の労力を必要とし、制御の利いた、線的で意識的――そして

人類特有――なものと考えられている。 それはまさに私が合理的思考と呼んできた

類の推論を行なう。

 

p268

 

発音は思考そのものの速さに比べると低速なので、合理的思考もまた低速である。

思考は無意識的なので、思考への意識的なアクセスは、発音のように意識にのぼる

「取っ手」がある場合に限って得られる

 

==>> ここで、著者の言いたいところが、システム論のような言い回しになって、

     やっと分ってきました。

     しかし、直観的な思考に頼らざるをえないということが、システム1の

     仕業だとするならば、結局自由意志は無さそうだし、意識の下の世界と

     いうことになりそうなので、阿頼耶識のような形而上学の世界に入って

     しまいそうですね。 そういう理解でいいんでしょうかね。

     システム論で最後まで行ってもらいたいんですが・・・・

 

 

p270

 

ましてや実験のすべてを自分で行うわけではない。多くの場合は他の科学者を信じるほか

ない。 どの<一般常識>を信じるべきかを決める作業だけでも、時には専任の仕事に

なりうる。 現実的な理由で、私たちは「認識の分業」を受け入れ、他者が行なう真理

判断に賭けるほかない。

 

人生の他の部分についてはどうか? ベッドで寝る前に読む小説を選ぶとき、あなたは

合理的見地から選んでいるだろうかーーそして、そうすることは可能だろうか?

 

==>> これは 「37 合理的思考を私たちはどのくらい実際に行なっているのか」と

     いう章に書いてあります。

     確かにこれは日々の生活の中でそれぞれがどのような根拠に基づいて判断して

     いるかという話になります。 特に、過去2~3年のコロナ禍でのさまざまな

     考え方や、なかでもアメリカの政治にからんでアメリカを分断にまで追い込ん

     できたと思われるいわゆる陰謀論をどう判断するかにおいては、単なる認識論

     などの話に終わらず、世界政治に影響を与える深刻な状況になっていると

     見えます。

     私自身は、科学的根拠でしか人類が共有できる真理はあり得ないと考えて

     いますが、宗教やイデオロギーが絡んでくるとその科学的根拠すら歪め

     られてしまうのが現実の世界のようです。

     少なくとも、過去の歴史を振り返れば、宗教やイデオロギーで人類が

     共存できる社会は築けないようです。

 

 

p278

 

ノーム・チョムスキーは・・・・コミュニケーションはほとんど関係なかったという論陣を

張っている。 彼にとっては、主要な革新とは構造化された思考であった。 彼が「外在化」

と呼ぶものーー自分の思考を聞こえるように声に出す能力――は後の発達であったと

考える。 だが彼にとって「外在化」は発音を含んでおり、それこそは合理的思考を可能

にする「取っ手」を提供するものである。 したがって、目下のストーリーでは、

チョムスキーは誤っていると言わざるを得ない。

 

私としては、言語能力はコミュニケーションの強化のために発達したもので、それに直結

する思考の強化は副効用であった、という立場をとりたいと思う。

 

==>> これはどちらが先かという問題のようですから、進化の過程を実証するには、

     タイムマシンに乗って見に行くしかないのでしょうが、私としては

     コミュニケーションをするためには、まず自分の思考が意識されないことには

     始まらないと思うので、「外在化=自分の思考を聞こえるように声に出す能力」

     が先に生まれて、それを口を通じて、あるいは自然手話を通じて、他の誰かに

伝える能力はその後ではないかなと空想します。

     その意味では、「言語能力はコミュニケーションの強化のために発達した」と

     言う著者の主張と同じになるかもしれません。

 

 

p281

 

合理的思考とは文の関係性についての直観的判断と同程度にしか信頼できないのである。

 

p282

 

常に推論を検証するーーすべての関係性を疑い、それが意味をなすことを確認するーー

ことが奨励されるのはそのためである。

 

あいにく、特に自分の推論が好みの結論へと向かっているときには、いとも簡単に

自己満足に陥る。 議論に欠点を見つけようと必死になりがちなのは、自分の好みでは

ない結論を出している他者の推論に対するときだけである

(心理学者はこれを「確証バイアス」と呼ぶ。)

 

==>> これはまさにここに書かれているとおりだと思います。

     自分を含めて、自分の考えが正しい筈だと信じ込むのは、誰にでもある

     ことであろうと思います。

     それが宗教的な信念やイデオロギーへの確信に基づくものであればなおさら

     のことなのでしょう。 そして、今まで読んだ本にもあったように、

     その信念なり確信が脳の中に埋め込まれてしまった考えであるとすれば

     なかなかそれから抜け出すことは出来ないと推測できます。

     いわゆる疑似科学や陰謀論もこれに類することかもしれません。

 

     伊勢田哲治著「疑似科学と科学の哲学」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/02/post-923cf0.html

     「p18

簡単にルースのあげる科学の特徴(ルースの線引き基準)を見ておこう。

a. 自然法則の探求

b. 自然法則による経験的な世界の説明

c. 経験的な証拠と比較されテストされること

d. 反証不能ではない

e. 理論は一時的なものであり、理論に反する証拠があがってきた場合には、

         理論をかえる余地があること。

超自然的な「無からの創造」を理論の中心に据え変更不能と考える創造科学は

このすべてに反している、とルースは論じる。」

 

 

 p284

 

それは日本の伝統音楽をクラリネットで演奏するように頼まれたときのことだ。 すべて

の音符を正しい拍子と旋律で演奏することは問題なくできるのだが、それで何が起こって

いるのかについては手がかりがなかった。 私の演奏はぎこちないと同時に理解ができて

おらず、どう改善すればよいのかもわからなかった。日本人のホストもそれはわかって

いたはずだ。 それはまるで発音表記だけを見て、日本の詩を読み聞かせようと

しているかのようだった。

 

==>> これは意味が分からないままに演奏した著者本人の体験を語っています。

     一応楽譜通りに演奏はできるのだけれど、その意味内容をさっぱり理解

     していない場合の感覚について語っているわけです。

 

     これに似た感覚の経験は私にもあります。 私が日本語教師養成学校で

     修了試験の一環として模擬授業をやった時のことです。

     一応ストーリーとしては10分ばかりの授業をやったのですが、自分が

     何をやっているのか、頭の中が真っ白になってしまったのです。

     つまり、その授業の内容進行に関して、意味が解らず、自分が授業を

コントロールできていないという感覚でした。 自分を失っていたと言える

かもしれません。

 

 

p288

 

仲間たちと私の間で、ブラームス作品の記号をどう解釈するかについて合理的な議論を

しているという事実であるーー私たちはその作品をどう演奏するかについて、意識的に

推論をはたらかせているのだ。 しかしこの合理的議論は直観的判断に始まり、直観的

判断で終わっている。 始まりは、直観的な「ん?」という反応から引き起こされる。

「これはなんだか違って聞こえる」という感覚だ。

 

そして私たちが辿り着く結論は、文についての真偽判断ではなく、音楽についての直観的

判断だ。 「よし、よくなったぞ!」や「いや、まだ何かが違う!」といったように。

 

==>> 確かに、音楽という芸術などの場合には、このようなことが行なわれている

     だろうと推測できます。

     「合理的な議論」をやっているその中身は直観的な判断であるというのも

     理解できます。

     一方で、このような直観的判断というものが、科学の分野でも同じように

     あるのかという点が問題です。

     上に書いた「ルースのあげる科学の特徴」ということに照らして、直観的判断

     というものが許容されるのでしょうか。

     少なくとも、複数の研究機関が同じやり方で実証的に確認できなくては科学的

     あるいは合理的とは呼べないようにも思います。

     「意味とは何か」という疑問についての科学的解明というのが、今のところ、

     実証的にやること自体不可能なのかもしれません。

     だから、この本に書かれている認知的アプローチにも、なんだか形而上学

     的な臭いがついて廻るように私に感じられるのかもしれません。

 

 

p305

 

私たちが合理的思考として経験するものは、言語と結びついた思考から成っている

思考そのものは意識的ではない。 実は意識的なのは思考と結びついた発音という

「取っ手」であり、それに加えて、発音に有意味性と確信を添えるいくつかの特性タグ

である。 そしてある文が他の文からの論理的帰結であるーーすなわち自分の推論が

合理的であるーーという意識的な感覚は、それ自体では直観的判断である。

だから合理的思考は直観的思考に対する「代替物」ではないーーむしろそれは直観的思考

という基盤の上に乗っているものだ。 やや偶像破壊的な言い方をするならば、理性とは

言語によって強化された直観なのだ。

 

・・・おそらく最も重要なことは、合理的思考が質問を発する能力を与えるということだ。

直観的思考は「ん?」という心の動きーー何かがおかしいという感覚――以上のものは

ほとんどもたらさない。

 

p306

 

合理的思考は、言語が提供する「取っ手」を使うことで、「ん?」をより明示的で

精度の高いものにし、さまざまな代替案に焦点を定め、仮説から導かれる帰結を把握し、

より多くの細かい部分に注意を払うことを可能にしてくれる。

科学を行なうには合理的思考が必要だ。 直観を理解するにも合理的思考が必要だ!

 

==>> う~~ん、この著者・レイ・ジャケンドフさんは、なかなか読者へのサービスが

     うまいですね。 

     私が、これどうなるの?というドン詰まりに迷い込んでくると、上記のように

     ちゃんとフォローしてくれます。

     つまり、私としては、合理的思考vs直観的思考という対立軸でしか考えない

     のですが、それを二重構造に組み替えて、おまけにそれが科学的な考え方

     となっているのだと教えてくれているわけです。

     ありがたや、ありがたや・・・

 

 

p308

 

基本的なもの、すなわち物理的存在ですら形を失う。 原子よりも小さい視点から見れば、

物理的存在は大部分がからっぽの空間にすぎない。 

 

認知的視点からは、私たちは特定の空間構造が指示参照ファイルおよび何らかの特性タグ

と結びついたときに物理的存在を知覚する。 

見てのとおり、これらの二つの視点がもたらす答えは、お互いにとって完全に無関係な

ものだ。

 

p309

 

もし複数の視点を混同し始めると、奇怪な決めつけをすることになる。

日没は存在しない。 言語などというものは存在しない。 自由意志などは存在しない。

真実など存在しない。 この世のすべては私の心が創り出したものにすぎない。

<私>などというものは存在しない。 などなど。

 

大切なのは、今の目的にどの視点がふさわしいのかを問い続けることである。

 

==>> ここは「43 複数の視点をもって生きることを身につける」という章です。

     トンボのような複眼で生きなさいってことでしょうか?

     確かに目的に応じて視点を変えてみることは必要だと思います。

     しかし、一方で、物理学の世界で、量子力学と相対性理論を統合するような

     次の世代の理論が求められているのと同じように、様々な視点の世界を

     統合するような理論を求めるのもまた人類の性質のような気もします。

     特に私のような単細胞の人間にとっては、シンプルな眼鏡が欲しいところです。

 

 

p309

 

最期に、視点を俯瞰する視点から考えると、すべてを包括するような、視点にしばられ

ない(世界についての真理)は存在しないと認識することは大切である。

私たちがこの世界に対して抱く疑問は、相互に矛盾しない答えの集合体へと一元的に

収斂するわけではない。 この世界を理解する際には異なる複数の方法があり、

その中のあるものは一定の問いに対してよりよく機能し、また別のものは他の種類の

問いに対してよりよく機能するというだけのことだ。

 

これは<知の問題>にとって理想的な解決ではないが、これが私たちにできる最善で

あるから、そうした事態と共存するすべを身につけるのが吉である。

 

==>> あらら~~、やっぱりこの著者は読者フォローが凄いですねえ。

     結局トンボの複眼で世界を見なさいってことですよね。

     そういう複数の視点で世界を見るしかないよって話ですね。

     そしてそのほうが「吉」なんだそうです。

     ・・・まあ、現実はそうなんでしょうね。 判りました。

 

 

やっと一冊を読み終わりました。

図書館から借りてきた二冊を読み終わりました。

返却日も迫っています。

 

「意味とは何か」という私の疑問について、これはなかなか良い本であったと思いますが、

まだまだ靴の外から足を掻いているようなもやもや感が残っています。隔靴掻痒ですね。

 

 

以下は「訳者後書き」です。

 

p312

 

「物が見える」ということを、光が目を通して網膜に達し、信号が視神経から脳へ至る過程

を含む視覚のメカニズムから考えると、絵が動いて見えることを(そしてもちろん、普通の

絵が止まって見えることも)科学的に説明する可能性が開ける。

これが認知的視点の一例である。

 

なお、認知的視点は本書冒頭で「話すことや考えることについて「脳から見る」という立場

と規定されているが、脳といってもここで問題となっているのは、神経細胞やその結合

といった脳のハードウエアに関する(狭義の)神経的視点からの話ではない。

 

そのハードウエアが実相するデータ構造とその処理を考えるのが認知的視点であり、

「機能的視点」とも言われるものである。

 

p313

 

例えば、私たちがある物の存在を認めるのは、認知的視点からいうと「特定の空間構造

が指示参照ファイルおよび何らかの特性タグと結びついたとき」・・・である。

 

・・・脳が空間構造や指示参照ファイルをどのように実装しているかを説明できたと

したら、それは神経的視点によって認知的視点を説明したことになる

神経細胞のはたらきは物理学・化学によって説明されうる。

 

ただし、それでは物理的・化学的視点だけあれば他の視点は不要かというと、「それぞれの

視点は強みと弱みをもっており、いずれも私たちがものごとを理解するときに独自の

役割をもって寄与し、どれ一つとして他のどれかに完全に還元することはできない」と

のべられていることから明らかな通り、少なくとも著者はそう考えてはいない。

 

==>> つまり、目的次第で視点を変えなきゃだめだってことのようです。

     私が求めているのは、多分「神経的視点によって認知的視点を説明」し、

     「物理学・化学によって説明」されることなのでしょう。

     つまり、還元主義的なのかもしれません。

 

 

p314

 

日常的視点では意味は外部世界にあるはずである。そう考えると、例えば「水たまり」

という語の意味を外部世界に求めるなら、それは水たまりの集合(あるいはそれが

関わる何らかの関数)だというような考えに研究者が行き着くことは不思議ではない

――認知的視点からは、そういった集合や関数がどういう意味で頭の中にあるのかが

疑問に思えてくるのではあるが。

 

ジャッケンドフはこのような日常的視点とは明確に袂を分かち、概念構造こそが意味だ

と考える。

「概念構造が世界の中の何かの記号だとか表示だとかということ、つまり、何かを

意味するのだということを明確に否定しないといけない。 むしろ、概念構造こそが

意味なのだと言いたい。 概念構造は、推論や判断を助けるなど、まさに意味がする

はずのことをするのである。 すると、言語が意味を持つのは、概念構造と結びつく

からだということになる」

 

p315

 

一つは<意味の無意識仮説>である。

意味は意識できないのだから、指示参照ファイルのような見たことも聞いたこともない

ものを導入せざるを得ないのである。

そしてもう一つは、認知的視点に自覚的であることである。「認知的視点は・・居心地

良いと感じるまでは相当の労力を要するのである」・・・本書が「思考と意味の取り扱い

ガイド」と題されたゆえんは、私たちが認知的視点から意味と思考について考えること

を「居心地よく」するための手ほどきだからだと言ってよいだろう。

 

==>> この「あとがき」には、

     「意識できないものを意味として措定することは、認知言語学者を自称する者

     にとってさえ躊躇わされるかもしれない」

     と訳者が書いているのです。

     それはそうだろうなと素人の私にも推測できます。

     だから、この本に書いてあることは私にとっては、唯識とか阿頼耶識とか

     いう仏教の形而上学のように感じられるのかもしれません。

 

いずれにせよ、チョムスキーさんとジャッケンドフさんの本をあと何冊か読んでみないと

まだまだ理解が追い付きません。

 

近い内に下のような本を読んでみる予定です。



 


 


ツンドクが増える一方です・・・・

 

==== 完 ====

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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