半村良著「妖星伝」を読む ―6― 人道の巻 ― 時間が空間に対して支配力を持ち、終末が近づく

半村良著「妖星伝」を読む ―6― 人道の巻 ― 時間が空間に対して支配力を持ち、終末が近づく

 

 

半村良著「完本妖星伝3―天道の巻・人道の巻・魔道の巻」を読んでいます。

 


 

「人道の巻」

 

 

p571

 

目に見えるものこそ正しい・・・そう思っていました。 目に見え、手で触れられる物

こそがこの世で最もたしかなものかと思っていたのですが・・・」

 

夢の中でも物を見る。 人や物に触れることだってあるのだぞ」

 

「ええ、たしかにそういわれればそうですね。 見たり触れたりできなければ信じられ

ないということは、おのれを信じられぬことと同じようなものなのでしょうな」

 

「見ろ、俺とお主の影が道にある。 影も実在するのだ。 だが影に触れられるか。

触れられまい。

・・・

「また鴉が啼いている。 あの啼き声も実在するが、手で触れられぬし、目にも見えん。

呪いも祈りも実在するが、社前にぬかずいて合掌する者が呪っているか祈っているか、

お主にはたしかめようがあるまい」

 

==>> ここは、ちょっと微妙な表現があります。

     確かにそうだと納得することもできるし、突っ込みを入れることもできます。

     ここでは、視覚と触覚だけを取り上げていますが、嗅覚や聴覚や味覚を通して

だって実在を主張することはできます。

     「影に触れる」ことだって、出来るということもできます。

     少なくとも、リアルな五感は、クオリアという意味においては信じることが

     できそうです。

 

     しかし、夢の中で見たり、触ったりというのは、その対象が実在していると

言えるのか。 それはいわゆる脳の中で作られるマトリックスの世界

いうべきでしょうか。リアルと言うのは憚られます。

「呪いも祈りも実在する」というのは、どうでしょうか。

呪いとか祈りというもの自体が実在するかどうかは、ちょっと怪しい感じも

しますが、呪いの言葉とか祈りの言葉というものであれば、口から音声として

出てくるという意味においては実在すると言えるのではないでしょうか。

声には出さず、頭の中で念じた場合はどうなのか。

おそらくそれは、意識的な行為として念じた場合には、実在していると呼んで

いいのではないかと思います。

つまり、脳が勝手に、夢の中でのように、念じるということではないからです。

 

628

 

「思うさま駆けられるのだ。 駆けることよりほかに、俺たちの生き方はあり得ぬ

俺たちは生まれつきの船なのだ。 大日をのせ、駆けに駆けてくれるわ」

 

鬼道衆の霊はしだいに一体化しつつある。 まだ辛うじて自他の別が残ってはいるが、

それもやがて消え、彼らはひとつのものとなり、寸分の狂いも隙もない船体となって、

無窮の世界へ駆動して行くだろう。

 

==>> 私にはいまひとつ理解できない部分なのですが、おそらく、この鬼道衆という

     のは、大昔に地球にやってきた宇宙人・補陀洛人が、その生存を続ける為に

     そのDNAを地球上の人類の中に残したものが鬼道衆なのではないかと

     思うわけです。

     そして、その補陀洛人は、肉体を持つ存在から、肉体を解脱した存在へと

     進化しているわけですから、この鬼道衆というのも、いずれは肉体を

     離れ解脱した知的生命体へとなる運命にあったというべきでしょうか。

     ここで再度思い出すのは、こちらの本です。

     

     「神と人をつなぐ宇宙の大法則」―我々は完全調和が破れた世界に住んでいる

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post_10.html

     「p58

・・・死んで魂だけの存在になれば、距離も時間も関係なくどこにでも行ける

わけですね。

そうです、魂は完全ですから。 完全調和の一部ですからね。

魂の状態になって見てきたとき、認識力はまったく同じですか。

同じにあったそうです。 ただ、個性はだんだんなくなるといっていました。

・・・それで彼(木内さん)は「ヤバイ、このままだと完全調和と合体してしま

う」と思って、東京の病院にある自分の身体のほうを意識して、やっと戻れた

そうです。

・・・死ぬと個性はだんだん消えるんです。」

 

・・・ようするに、この著者の半村良さんは、この木内さんの体外離脱の

体験を参考にして、鬼道衆の複数の霊が一体化していくという構想を得たの

ではないのかと思います。(木内さん以外の人の体験からかもしれませんが)

しかし、そこでちょっと腑に落ちないのが、鬼道衆以外の地球人の人たちの

変化です。 鬼道衆と同じように、霊が一体化してしまうのか

その場合、地球上で肉体が死亡したかたちで、この宇宙船に乗った者は

霊が一体化してしまい、一方で、二人の僧のように、生きたまま宇宙船に

乗った者たちは、意識が完全調和に一体化せず、個体として生きられるのか?

ちなみに、補陀洛人は一体化せずに個体としての霊の意識があるわけだし。

そのあたりの、半村良さんの仕分けがどうなっているのやら・・・・

 

 

p629

 

見ろ静海、人は未来でも走っている。 おのれが走るために生を享けたことにまだ

気が付かず、おのれに似た物を作って走らせている。 箱の形の車が走る。鉄路の上を

長い箱が走る。水の上を滑る船が走る。空を翼をひろげた鉄の船が走る。月に向かって

走る。 星に向かって走る。

 

・・・・おのれ自身が肉を脱すれば、光よりも早く走れることに気づかぬのだ

そもよ、死を欲せ。 霊となれ。 ただ死ぬだけでその苦悩から脱することが

できるのだ。 肉が滅して霊が残ることに薄々気づいてから久しいというのに、

まだ判らぬのか。

 

 

==>> この部分についても、「臨死体験」に関する次のような話の中で、

     時空を超えた飛行体験の話が出てきました。

 

ギャラップ著・丹波哲郎訳「死後の世界」

https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/02/blog-post_14.html

p184 

この女性の場合、最終的にこの世に戻るかどうかを自分で決める力はほとんどなく、

より偉大な力によって戻るように指示されたといえよう。 ところが、偶然の一致が

どうかはわからないけれども、彼女は超次元的世界らしきところをすばらしいところ

言いながらも、本当はもっともとの世界にいたいと心から願っていたのだった。

 

==>> アメリカの場合は、あの世にいっても、いろいろと制約があったり、階級が

     あったりと、自由の国としてはあるまじき世界じゃないですか?

     もっとも、現実の世界がそうなんだから、あの世も同じだとしても不思議では

     ないのですが。せめて、あの世ぐらいは自由であった欲しいですね。

 

     日本では、臨死体験といえば木内鶴彦さんが一番有名みたいです。

     「木内鶴彦さんが臨死体験で見た真実」

     https://reisikantei.com/ufo/kiutituruhiko/

     この方の場合は、時空を超えて、それもご本人の意のままに、大昔や未来まで

     観て廻っているようですから、これが日本型の臨死体験だとするならば、

     私は絶対に日本型の方がいいですね。

 

 

p631

 

「早く見とうございます。 他の星々を、宇宙のありようを」

「生ある者は儂らだけだ。 しかとこの目で見て、もし戻れたら人々に教えずばなるまい」

・・・

「霊の船でございますよ」

・・・

黄金城の陋(ろう)で生じた霊船だ。 黄金丸でよかろう」

 

==>> ここで語られているように、この宇宙船・黄金丸に乗っているのは、

     多くの鬼道衆たちと、死んだ地球人、そして生きている地球人は二人の僧だけ、

     という形になっています。

それに、元々は外道皇帝だと思われていた何人かの補陀洛人たちも、

おそらく大日などという呼ばれ方をして一緒にいるらしい。

(あと2~3度読み直してみないと、明確には読み切れません・・・

 しかし、全7巻のこの大作を再度読む気力はありません。)

 

 

p664

 

「大日の船だよ」

何のことかよく判らなかった。

 

「そうだ。 俺は船の材料だった。 父、母、祖父、祖母・・・そして俺という命を

産み出す一番源に至るまで、みな船の材料でしかなかったのだよ」

・・・

「そう。人間だった。 人間は結局船だったのさ。 俺はお主にそれを知らせたくてな」

 

・・・桜井俊策にいったつもりなのに、もう俊策は栗山にとって存在していなかった。

そのかわり別なものが見えていた。

 

たくさんの人々が、しっかりと体を寄せ合い、恐ろしいほどの緊密さで結合しているのだ。

それは人間の隙間という隙間を完全に埋め尽くし、そのうえ他者との空隙すら消滅させて

いたのである。

 

栗山はそれを眺めているうつに陶然となった。 美しいのだ。 あまりにも美しいのだ。

 

==>> これはいろいろと連想させる部分ですが、まず連想したのは、

     リチャード・ドーキンスの「人間はDNAの乗り物」だという「利己的な遺伝子」

     という本です。

     こちらのサイトで確認しておきましょう。

     リチャード・ドーキンスの「利己的遺伝子論」とは?

https://gene.s-se.info/selfishgene?msclkid=71515079ce9b11ec91cb2d45646acacf

     「生物個体は、遺伝子によって利用される乗り物に過ぎない

と表現し多くの人々に衝撃を与えたのだ。

生物個体は寿命が来れば消えてなくなるが、遺伝子は子孫に受け継がれ不滅な

存在であるからこそ、「遺伝子こそが主役であり、生物個体は遺伝子の乗り物

に過ぎない」と表現したのだ。

生き残り戦略によって生き残るのは、「生物個体ではなく遺伝子なのだ」と。」

 

 

     そして、もうひとつは、既に上記にリンクを貼った、「臨死体験」や

     「幽体離脱」関連の本に出てくる、霊の一体化、あるいは霊が完全調和の

     宇宙に戻っていくという考え方です。

 

 

 p667

 

進化の目的がこの船であって、すべてがこの船のために生まれ、生き、そして死に

・・・。 この船が去った後は、ただ惰性で生き続けるしかないのですね」

 

・・・栗山は船に向かってまた叫んだが、その声が消えたときには船も消えてしまっていた。

「日円がいた、信三郎がいた、天道尼がいた・・・・鬼道衆の全部がいた。 そうか、

あれは外道皇帝の船なのか」

 

==>> 栗山というのは一揆侍として農民一揆を手助けする侍なんですが、

     いままさに死のうとしているところで、黄金丸に乗っている者たちの姿を

     見たわけです。見たといっても、霊的な力が働いているわけですね。

     

     「進化の目的がこの船であって・・・」という部分は、「利己的な遺伝子」との

     関係でどう理解すればいいのか・・・・

     それとも、そういう発想とはまったく無関係に、この本のストーリーから

     考えれば、大昔に地球にやってきた補陀洛人が、地球上の生物の進化の中で

     生きのびることによって、最終的にこの船を作って、宇宙の何らかの危機を

     知らせるという目的だったということになるのでしょうか。

 

p677

 

「やはり、この星の因果律の乱れは、あの船を生み出すためだったのだな」

「まだ粗雑な段階にいる霊を材料にして船を造るとは、思いきったことをしたものだ」

「彼はそれほど緊急にこの星を脱出する必要があったのだろう」

「どんな緊急なことかはしらないが、この星を見ろ。 生命が溢れ返って手がつけ

られない。 ひとつの平凡な星を、これほどまで醜く変えてしまったことの責任は

どうするつもりなのだろう」

 

・・・監視者たちは凝霊船を追い、すぐ並行に並んだ。

 

 

p678

 

「恐るべきことが起こっている」

・・・

時間が空間に対して支配力を持ち始めている

「まさか・・・・・」

「それを知らせようとして、あの星を汚染したのだ。 他に方法はなかった」

 

・・・「まさに全宇宙は非常事態を迎えようとしている。 時間がひとつの意志を持ち

はじめたのだ」

 

・・・すでに亜光速に達していた彼らは、さっと散って虚空に消えた。全宇宙に警告

しなければならないのだ。

 

p679

 

・・・時間がひとつの意志を持ったとすれば、・・・・・

時間は自己の存在を強化するために変化を促進させようとする

過去から現在、未来へと向かう時間の方向性がそうさせるのだ。 すべての変化が速まり、

時流が加速される。

 

すべてはそれと気づかぬ間に、終末へ向かって加速されてしまうのだ。

 

==>> ここでやっと、大昔に地球にやってきた宇宙人が、どういう目的で

     地球を「汚染」したのかの理由が語られています。

     「時間が意志をもった」という由々しき問題を宇宙に警告するため、

     ということだそうです。

     ・・・と言われても、なにがどう重大問題なのかは、さっぱり分かりません。

     もしかして、いわゆる「終末」というものが急激に近づいてくるぞと

     いう「終末論」的な話なのでしょうか。

 

 

p800

 

「俺は判ったよ。 ここは天下の、いや、宇宙の中心だったのだ。 俺もお前も、

世の中の片隅でひっそりと生きていたつもりだったが、結局は俺たちが宇宙の中心だった

のさ。 一人一人が、めいめいの宇宙の真ん中にいるのだ。 片隅でひっそり、などと

いうわけには行かないものなのだなあ」

 

「だったらなおさらのこと、元気を出してくださいな」

だが、かつて朱雀のお幾と呼ばれた女にとって、栗山の命のほどが判らぬ筈はなかった。

お幾ははっきりと栗山の死を感じていたのだ。

 

==>> この一揆侍である栗山の言葉は、私もおそらくこれが真実だろうと思うのです。

     一人一人が宇宙の中心にいるという考え方です。

     

     私は18歳で上京してビジネス英語の専門学校に通ったのですが、

     その2年間は新聞販売店に住み込みで仕事をしながら通学しました。

     新聞の配達ですから、雨の日も雪の日もあったわけですが、その時には、

     重いゴム製の雨合羽(レインコート)を着て、暗い穴倉の中から、小さな

     覗き窓を通して、世界を覗き込みながら、ひたすら自転車をこぎ、走って、

     配達をしていました。

 

     この頃に思ったのですが、人生というのは、私という覗き穴から

     世界を覗き込むことなんではないかと思ったのです。

     そして、それを、いろいろと本を読んで、今風に表現するとするならば、

     「今、ここ、質感のある」純粋な経験は私を宇宙の中心とする根拠になる

     という考え方でしょうか。

 

・・・・さてさて、やっとのことで、第6巻まで読み終わりました。

この「妖星伝」は、著者によれば、1巻から6巻までを書くのに、まる7

かけたのだそうです。

そして、最後の第7巻については、 最終的には第一巻から20年の年月がかかって、

平成10年(1998年)の完本初版になったようです。

妖星伝1巻は1977年、妖星伝7巻は1995年の出版になっています)

 

ということで、次回は最終巻である「魔道の巻」を読みましょう。

 

==== 次回その7 に続きます ====

 半村良著「妖星伝」を読む ―7の1― 魔道の巻 ― 科学は実証することから、より正しい主観を求める時代へ?? (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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