半村良著「妖星伝」を読む ―7の1― 魔道の巻 ― 科学は実証することから、より正しい主観を求める時代へ??
半村良著「妖星伝」を読む ―7の1― 魔道の巻 ― 科学は実証することから、より正しい主観を求める時代へ??
半村良著「完本妖星伝3―天道の巻・人道の巻・魔道の巻」を読んでいます。
さて、いよいよ最後の第七巻である「魔道の巻」を読むのですが、
その前に半村良さんが
「妖星伝完結編について: 死こそ救いなら、愛とは生命の愚かしさだ」と
いうイントロを書いていますので、ここから読んでみます。
p811
なぜこの地球にだけ生命があるのだろうか。 他にも生命のある天体はあるとしても、
なぜそれがかくも稀れなのか。 生命のある天体はそれだけ他より恵まれているのか。
もしそうなら、なぜ生きるということがかくも苦しいのか。
・・・我々が他の生命を啖って生きているのは明白であるのに、その上でなお愛の
如きものがあるのは妖しい限りではないか。
p815
あなたはなぜ生きているのだ。 なぜ早く死なないのだ。 他を啖わずに生きて
行けると思うのか・・・。 このことを娯楽の形で表すことは、私にはまだできない。
それこそ、死んでもできないだろう。
それなのに、妖星伝はまだ完結していない。
完結編を今までと同じ物語の線上にあると考えておいでの読者も多い筈だ。 しかし、
それはまったく形式の異なる小説になってしまうのだ。
==>> ここで、半村良さんは、第一巻を書いた時から完結編がどうなるかが
判っていたという、本音というか全体の構想についての種明かしをしています。
「まったく形式の異なる小説」と書いてあるように、完結編である第七巻は
ほとんど別物と見えるぐらい異なるものになっています。
p822
一人の高僧がいて仏の教えに忠実であったとする。 その場合僧の世界観はおのずから
偏るのではなかろうか。 しかもこの場合、仏はすでに存在せず、ただ観念の上だけに
いる。 それでいてなお、他の日常は仏に引きずられ、仏と世界点を共有しようと
欲する。
・・・仏に引かれる僧の世界線をなお、物理現象の一つとして説明し得るのか。
・・・勿論、私は無神論者である。 神の実在はとうてい信じられない。 しかし・・・
・・・天体は主観を以って自らの世界線を選ぶことはなかろう。
・・・人が主観に徹したとき、光速という物理の壁は突き破られ、四次、あるいは
五次元の時空を駆け廻ることができるのではあるまいか。
p823
霊船黄金丸が妖星伝の最終部分で天界を遍歴するとき、私は時空連続体の恒常化が
物質の変化、すなわち時間を加速し、終末への意志を以ってしまうことを語ろうと
思っている。
==>> この部分の前段については、なんとなく密教の宇宙観を連想させます。
「天体は主観を以って・・・」の中段については、人類の肉体が素粒子で
構成され、そこになんらかの因果律があるのなら、主観というものも
なんらかの客観の内側に収まるんじゃないかとも思います。
そして、後段の「時空連続体の恒常化」ですが、理解不能です。
さて、ここからがいよいよ、完結編である第七巻です。
「魔道の巻」
p828
船体と化した知性体の殻は、霊化した場所にそのままうちすてられ・・・・
・・・しかし霊船の核としてその内部にとじこめられた二つの生命は、殻を持ちながら
宇宙へ旅立つという苦痛を味わうことになった。
とじこめられた者、日円と青円は・・・・
p829
速度、重力の苦痛にのたうっているのは二人の肉体で、彼らはこのときようやく
肉と霊の分離を体験していた。
「十王経は偽経だそうな」
・・・
「ではこれは幻なのでしょうか」
「いや、われらの知識がこれを見せているのだ。・・・・・」
==>> 多分私が読み落としているのでしょうが、この日円と青円の二人の僧が、
なぜ生きたままこの霊船というか宇宙船に乗っているのか、ここに来ても
まだ判りません。
しかし、ここで「肉と霊の分離を体験していた」と書かれているのですから、
死ぬということではなく離脱というか解脱というのか、まあ、そういう形で
地球を脱出しているということらしいです。
p838
「心のはたらきのなきところ、時はなしとされる。 したがって刹那も念も同じことだ」
日円はおのれに説きなおすようにそういった。 いかにも、仏の教えでは心のはたらき
から独立した時間は認めていない。
==>> 私自身は、過去にいろいろ仏教関連の本も読んできたのですが、
仏教における時間論というものには格別に意識的には出会わなかったように
思います。
そこで、インターネットで検索して、仏教における時間論と現代科学的な
時間論がどうなっているのかを調べてみます。
「仏教 的時 間 と科学 的時 間 の考 察」
「そ の他,素 粒子世界 における不
確定性原理,カ オスの問題 確率論的統計学,
情 報論等 の問題 もや は り,新 鮮で,且
つ,きわめて重要 な問題を提起 して
くれ る題材 である。要す るに,こ れ らの問題 をひっ くるめて言えぽ,現 象
は,時 間的に,ま た空間的に連続的
である とは限 らず,断 続性 ももっている とい うことであ る。」
「縁 起 の 法則 は 現 象界 のす べ て の 法(有 為 法)に 適 用 可 能 で
あ る。」
「全 宇 宙 に遍 満 す る普 遍 な る性 質,ブ ラ フマンに 外 な らな い
の で あ る。 か く して,梵 我 一如 が達 成 す る。そ の よ うで
あ る
か ら,永 遠 な る時 間 は,極
小 で あ る ア ー トマ ンを 通 じて の み,
認 識 され る。」
「謂わゆ る 〈縁起の型〉 その ものは,〈 もの〉 と くもの〉 との相互の
関 係を表す形式 であって,時 間性を含む ものではない。 それ では,縁 起に
時間性は存在 しないのか,と いえば決 してそ うではない。」
「すべての現象は,数限 りない因 と縁に支 え られ て生 じ,持 続 し,変 化
し,消 滅 して行 く。 この ように,お
互いに依存関係を結び合いなが ら
あ らた な展開を してゆ く現象のあ り方が 〈縁起〉であ り,現 象を絶え
ず展開せ しめ る力が く行〉 である。 こ うして,現 象が展開 して行 く中に
生→住→異→ 滅へ と,また,有 情の場
合には生→老→病→死へ
と推移す る
不可逆的時間 の流れが存在す る。」
「 だか ら,精 神や物質の区別無 く,こ れ らを一様に活性化せ しめ る宇宙 の
力が存在す るはずであ る。 この力を科学は,秩 序か ら無秩 序化へ と移行
す るエ ネル ギーの流れ とし,そ の法則を 〈エ ン トロピーの法則〉 と考 え
てい る。仏教では,こ の力を 〈行〉(samsk穩a)で ある となし,そ
の法則を
〈縁起〉 であるとみな してい る。 しか し,仏 教 は,但 だ単に現象の法則化
に満足 した ので もない し,そ うす るこ とが究極 の 目的で もない。 」
・・・・ここで初めて、仏教における時間論というものを読んでみたのですが、
私の理解するところでは、「現象が変化するところに時間がある」というのが
仏教的な考えなのかなと思います。
そして、小説の上記にあったように「いかにも、仏の教えでは心のはたらき
から独立した時間は認めていない。」と言うのも、この考え方の上にあるように
思えます。
p850
霊化したものにとって、外界の値はすでに無用のものとなっているのだ。 とすれば、
客観による値はすでに必要がない。 霊にとって重要なのは、ただおのれの主観のみ
なのだ。
しかし、霊船が次に接近したものは、内部を慈悲で満たした焔網荘厳の星よりも、もっと
烈しい力を見せつけるものであった。
・・・連星である。 しかも二つの星はすでに限界を超えた接近のしかたをしていた。
p870
霊船は日円、青円の二人を乗せて、宇宙のさまざまな形態の星々を観察させてくれた。
僧たる者として、星々のありように接するたび、・・・いちいちそこに大日如来の
存在を感じていたのだ。
p871
大日の第一義は宇宙の実相をいう。 第二義として日輪を仏陀の象徴としてとらえて
いうものである。
また大日如来は真言密教の教主にして、おとは太陽の光照をあがめたことから、のちに
宇宙の根本仏の呼称になったとされる。
==>> ここの「客観による値はすでに必要がない」というのには驚きました。
ここで、日円と青円の二人の僧は、生きたまま霊的存在となって
宇宙船で木星の近くと飛行したりしているんです。
霊的な知的生命体にとって、客観が無用だというのはなぜなのか。
肉体というものに縛られて、その五感でしか外界を捉えることしか
できないからゆえの主観なんじゃないか、と思うからです。
それがなくなったら、客観あるのみなんじゃないか・・・と。
そして、その二人の僧が大日如来を感じたというのは、おそらく
そこになんらかの「法」がある自然の法則があるということなのでしょう。
p872
意志も持った時間・・・それはいったいどういうことか。
・・・時間は自己の存在を強化するために、変化を促進させようとする。
・・・すべての変化が速まり、時流が加速される。
すべてはそれと気づかぬ間に、終末へ向かって加速されてしまうのだ。
p875
物質を含まぬ時空連続体はあり得ぬ、と日円は考えているのだ。
p876
「力は質量に等しい。 熱や光も質量にかわりうる。物質の質量は不変のものなの
じゃよ。 ・・・質量がある以上、重力が生じておる。 ・・・そこに必ず時間が
生じるのじゃ。・・・時間が物質の変化の量だというのはここのところだ。・・・」
「時空とは、物質の容器のようなものでございましょうか」
==>> この辺りの表現は、江戸時代の二人の僧の言葉ではなく、まったく現代の
宇宙物理学論議になっています。
過去の6巻とこの最後の第7巻がまったくスタイルの異なるものだという
ことが明らかになっています。
p883
意識の連続性こそが、俗界にあっても善悪理非を見きわめ、正しく生きることに直結
していたのだ。
人はえてして意識を欠いたまま生きることがある。 その連続性を欠いてしまうのだ。
しかしそれでも生命は保てる。日円らの思う意識とは、一介の生命として、その生命を
保つための動作ではないのだ。
日円は俗世にあるとき、青円によくいった。
「息をすることなどは、おのれの命にまかせておけばよい」と。
==>> 個人的には、私の場合、70年を振り返ると、「意識を欠いたまま生きる」こと
が多かったように思います。 無意識の意識に任せて生きて来たというべき
でしょうか。 たまには、いわゆる自由意志を使ったことも、人生の曲がり角
ではあったように記憶していますが、それ以外は、遺伝子による自動運転に
任せっきりだったような気がします。
p885
生命にはたしかに霊魂が準備されている。 しかしまだ 知性が未熟な生命の霊魂は、
いたずらに母星の局所にかぼそく明滅して、結局は消え去ってしまう。
・・・日円と青円もその点では、まだ霊船の保護を必要としている。 外道皇帝は
その二人を、霊船に必要な観測機器として乗せたようだ。
==>> やっと、この二人の僧がこの宇宙船に生きたまま乗せられたのかの理由
らしきことが出てきました。
しかし、作者のその真意がまだ分かりません。
観測機器とはどういうことなのか。
p890
空谷はすでに幾万もの星々を、そのように餌食にしてきたことであろう。
そのため因果の地平が閉じ、時の流れさえ停止して見える。
「色同士が互いに引き合う重力こそが、ひょっとするとこの宇宙を統べる大日の姿
なのやもしれぬのう」
・・・「引かれておりますぞ。 師よ、落ちていきます」
青円が悲鳴をあげた。 日円もさすがに緊張して黒い球に見える空谷のありようを探った。
「落ち着け、霊船がみずから進んでおるのじゃ」
==>> 空谷というのは黒い球、つまりはブラックホールのことのようです。
そこで、ブラックホールと時間の関係をちょっとこちらのサイトで
お勉強してみます。
http://xn--ols97e46f0m4a7qr.xyz/2016/05/29/post-1326/?msclkid=ea097454d13411ec802f4c606a84b474
「ブラックホールでは時間が大幅に遅れ、光すら飲み込む重力であるため、
外から見れば、ブラックホールの表面では時間が完全に止まっているように
みえます。」
「もしブラックホールに宇宙船が吸い込まれてしまったら、外から見ると宇宙
船はブラックホールの前でずっと静止しているように映ります。」
「では、宇宙船に乗っている人はどうしているのかといえば、通常通りの時間が
流れているだけです。」
・・・これが本当であれば、日円さんも青円さんも、なにも怖がることは
ないわけですね。
もう少し具体的な映像で雰囲気を知りたければ、こちらの映画が良いかも
しれません。
『インターステラー』を分かりやすく解説
https://ciatr.jp/topics/30241?msclkid=cc51c5cfd13611ec84dd39a8b84badfc
「映画『インターステラー』最大の功績は、この未知の天体“ブラックホール”を
科学的検証のもと映像で表現したこと!正直なところ、ブラックホールに
クーパーのように落ちたらどうなるのかは、誰も知らないわけです。その後は
まさに想像の世界。」
「クリストファー・ノーラン監督は、『インターステラ―』は宇宙の映画では
なく、家族の映画だと主張しています。この作品の撮影中、監督にとって初めて
の子が生まれていました。彼はこの作品の冒頭シーンを見た時、脚本を書いた頃
とは全く違う感情が出てきたと語っています。」
・・・この映画と同じように、この半村良さんの妖星伝も、人類あるいは
すべての生命の愛についてというのがテーマなのかもしれません。
p892
かつて生命が海から出て陸に這い上がったように、知性が生命を維持するための肉から
脱して、知性自体で存在しうるようになるとすれば、それは物質の進化とはいえまいか。
外道皇帝は捺落迦の生命の進化に介入し、その一部を霊化させてしまったらしい。
それは正常な進化の過程から逸脱したかたちを取ったものであろうが、霊船が発進した
ことは、外道皇帝の意図が実現したことになる。
脱物質、生命の進化はそれをめざしていたのだ。
p893
空谷にある凍てついた部分を、霊船は難なく乗り越え、因果律の狂った空谷の世界を
突き進んで行く。
・・・「見よ青円。 我らは色にあらず。 さすれば空谷にあってさえ潰されずにおるわ」
==>> ここで、二人の僧は、ブラックホールを通り抜けるのですが、
二人の僧は、肉体を離れ、すでに霊的な知的な生命体になっているようです。
「色」というのは物質、肉体のことですから、「色にあらず」と言って
いるようです。
p897
「物質は不増不滅の中にとらわれている」
その思念の一部には、エネルギーの不滅ということが強く感じられた。
「エネルギーが不増不滅なら、宇宙に始めも終わりもない」
p898
日円はその思念の主に対して問いかけた。
「あなたは何者ですか」
すると相手は淡々と答える。
「知性だ」
・・・
「時空を必要としない者。それが知性だ」
・・・
「きみらはナラカの局地に集められ、特別な保護のもとに生育してここへ来た」
・・・
p899
「これがきみらの原始的生命の基本だ」
・・・
「遺伝子・・・」
「DNA」
・・・
「交合し、繁殖し、知性のみの存在に至るべく、けなげに生きてきた生命だ」
==>> エネルギー不滅の法則を語る「知性」なるものが出てきました。
「時空を必要としない者。それが知性だ」ということであれば、
それは時空を超えて飛び回る霊であると言えるでしょうし、
もし個性が消えるのであれば、「完全調和の世界」のなんらかの存在と
言えるのかもしれません。
それは、「臨死体験」や「幽体離脱」のところでいろいろと読みましたし、
「神と人をつなぐ宇宙の大法則」や「神の物理学」などで読んだこととも
呼応する内容であるようにも思います。
そして、さらに、ここで遺伝子のことが出て来たことから言えば、
リチャード・ドーキンスさんの「利己的な遺伝子」がベースにあるのかも
しれません。
(この「魔道の巻」は1995年、「利己的な遺伝子」は1976年の出版です
から半村良さんはきっとこれは読んでいたのでしょう。)
p900
「般若心経は生命が知性のみの存在になり得ることを確約している。 悟りとは生命進化
の究極を指していたのだ。 神聖咒禁経は、それをいささか詳細に説明したに過ぎない。
進化の途上にある生命に対して、その行く先を詳しく説明しすぎれば、往々にして難解な
ものになり、それを受ける者に誤解を生じさせやすいのだ。 だから般若心経の二百
六十六文字のほうが分かり易いはずなのだ。 咒の一語をよく観るがいい」
「呪いの意味ではないのですね」
「そうだ。 咒には持続するという意味がある」
「意識の連続性ですね」
「そうだ。生命は営々として、意識の連続性を得ようと進化してきた。・・・・・」
==>> おお、般若心経にそんなことが確約されているとは知りませんでした。
神聖咒禁経というのは、おそらく著者の創作だろうと思います。
また、「咒には持続するという意味がある」というのがどこから来ているのか
分かりません。
「意識の連続性を得ようと進化してきた」というのは、それを得ようとしたきた
かどうかは分かりませんが、結果的にそのように単純な生物から人間のような
意識を持つ動物になってきたことは、そうであろうと思います。
だだ、自分のことを振り返ると、既に述べたように、ほとんど無意識に
生きて来たようにも思います。
もちろん、いろいろとその時その時で考えながらの人生ではあったかと
思いますが、いわゆる自由意志によるものだったかと言われるとあやふや
になるということです。
いずれにせよ、私の場合は、この小説でいうところの解脱にはかなり
遠いことだけは確かです。
p901
「宗教を与えたのですね」
「たぶんな。 だが日本列島の近辺でしか、それは正しく育たなかった。空を観ずる知性
を完成せよと、生命進化の道筋をさし示しているのが般若心経だ」
「故知般若波羅蜜多、是大神呪。 故に知るべし。 般若波羅蜜多は大神呪なり。
こうして肉体から離脱し、純粋知性となってすべての物理現象を超越した存在になって
みれば、これはまさに確約だ。 生命進化の行く手を明確にさし示しています」
==>> 「日本列島の近辺でしか・・・」とか「生命進化の行く手を・・・」という部分
は、過去に読んできた何冊かの「般若心経」関連本の中には、関係しそうな
話はなかったように思います。
なので、なぜこのような二人の僧の会話にしてあるのかは分かりません。
一応、話の流れとしては、補陀洛人という宇宙人であった外道皇帝が
たまたま日本に不時着して、「進化の操作を、日本列島に限定した」と
書いてあって、必要以上の苦しみを与えたから、憐みを感じて般若心経を
与えた・・・というような理由にしているようですが・・・
p902
「生命は自己を複製しながら進化を続けていた。 それを輪廻と見た段階もあるが、複製
によって連続しているからには、一時的な個体の問題などは無視してもかまわないわけだ。
外道皇帝のしたことはそれなのだ。 最終的にナラカの生命は物質を離れ、物理的世界に
対して超越した存在となる得るのだ」
「慈悲や救済とは、そのことの約束だったのですね」
==>> これは正にドーキンスさんの「利己的な遺伝子」の世界ですね。
ここで外道皇帝とは宇宙人・補陀洛人のことであり、ナラカというのは
宇宙人が地球につけた名前ということになっています。
最終的に人間がここで書いてあるように肉体から解脱できて、知的、霊的な
存在になるかどうかは、人間の未来の科学にかかっているのかもしれません。
p902
科学は実証することから先へ進んで、想像することへ移って行くだろう。 客観を重んじた
時代から、より正しい主観を求める時代へ進んで行くのだ。
==>> これはかなり飛躍のある、それこそ創造的な想像と言えるかもしれません。
主観というものが肉体に囚われた考え方だとするならば、肉体から解脱して、
霊的な存在となり、「神の物理学」に書かれているような完全調和の世界に
統一された意識として存在するようになったとしたら、それこそが真の客観
と呼べるのかもしれませんが・・・・
さて、この最終巻である第七巻は物凄い情報量があるので、その7の1と7の2に分けて
感想文を書きたいと思います。
===== 次回その7の2 に続きます =====
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