半村良著「妖星伝」を読む ―4― 黄道の巻 ― この地獄のような星は清掃しなければならない。 奈落迦の陋(ろう)、薄伽梵(ばがぼん)
半村良著「妖星伝」を読む ―4― 黄道の巻 ― この地獄のような星は清掃しなければならない。 奈落迦の陋(ろう)、薄伽梵(ばがぼん)
半村良著「完本妖星伝2―神道の巻・黄道の巻」を読んでいます。
「黄道の巻」
p414
「そして黒神は、統べる者の役に立たぬどころか、おのれの地位を危うくさせる敵だ。
そのために闇に追いやられ、鬼と呼ばれてしまう」
青円は生唾を吞み込んだ。 捕吏の目をかいくぐって長年つき従った師日円の本音が、
この雁坂峠の闇の中で吐き出されようとしているのである。
「わが宗を見よ。 わが教えに従わぬ者の施しを受けず、わが教えを信じぬ者に力をかさぬ
と論じたため、切支丹同様闇に追われたではないか」
==>> これは日蓮宗の不受不施派の僧、日円と青円の会話なのですが、
師日円が、自分の派は、黒神だと言っているわけです。そしてそれが鬼道にも
通じると述べているんです。
それが、最終的にこの二人が宇宙人・補陀洛人の宇宙船に乗ることになる
伏線、理由なのかもしれません。
p445
栗山は苦い顔になった。
「・・・・しかし、鬼道衆が俺と同じ方角へ歩んでいるのが気になるのだ。 ひょっとする
と、俺が考えている夢の国とは、実は新しい地獄なのではあるまいかな」
・・・「・・・上下の別が無くなり、万民平等の世となれば、たしかに百姓町人、
どんないやしい家に生まれついても、物をいうのはその人間の力だ。・・・」
・・・「それは太閤秀吉がすでにやって見せた。尾張の在の土民の小倅が天下を取った。
・・・太閤の時代はどうだった。 血で血を洗い弱者を強者がくらい合った戦国の時代
ではなかったか」
・・・「それは鬼道衆が望む世の中ではないのか」
==>> この栗山というのは、一揆侍と呼ばれている侍なんですが、虐げられている
農民たちに一揆のやり方を指南するコンサルタントみたいな侍なわけです。
しかし、一揆の目的が上下のない平等な世の中をつくることだとしたら、
その結果がどうなってしまうのか、ということを思い描いているわけです。
結局は、能力のあるものが能力のないものを喰らう世界になってしまうのでは
ないかと疑問を持っているのです。
今の感覚で言うならば、自由主義社会か専制主義社会かという選択でしょうか。
あるいは、民主主義社会か社会主義社会かと言えるかもしれませんが、ちょっと
ニュアンスが違ってきますね。
つい最近、このような雑誌を読んだのですが、今現在進行形の世界政治に
おいても、上記のような対立が、国民や人類を分断しているようです。
p463
まさにそれは、鬼道の象徴である破戒仏そのものであった。
緑色の髪をした童児は、男女両性の性器を具備しているのである。
・・・緑色の髪の童児は、宙に浮いてしだいに大きく変わっていく。急激な成長だ。
一年の成長が数瞬のうちに果たされているらしい。
胸乳の張れ、豊満な女のものになった。 陽器は屹立したままさらに巨きくなる。
==>> これは、「お宝さま」と呼ばれる、宇宙人・補陀洛人と思われる生命体が
育って変化していく様子を描いているのですが、実にエロチックな描写に
なっています。まさに破戒仏という感じですが、これは古代インドの宗教や
密教の理趣経の内容にも通じるものが書かれているようにも見えます。
そのことは、こちらの本で読みました。ご参考まで。
定方晟著「インド宇宙誌 ― 宇宙の形状、宇宙の発生」 ―
「エロ本」のような密教の世界
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/12/blog-post_14.html
「p207
タントラ教は秘密と象徴に満ちた教えである。 したがって、密教とも呼ばれる。その教義はしばしばセックスと結びつき、好奇と非難の対象になる。
よくいわれることだが、この教えは門外漢には理解がむずかしい。 タントラ教
の師たちも正式に入門した弟子にでなければ、教えを説かないという。」
p506
―― しかし、歪みの調節機構がなくなったらこの星の生物はとたんに自滅へ向かって
走り出すぞ ――
―― 結局そのほうがよかろう。 いずれにせよ、我々が信号の判読をすませたら、
この地獄のような星は清掃しなければならないのだからなーー
・・・飛翔物はしばらくの間、じっと天道尼の近くに静止していた。
天道尼は相手が何もはたらきかけてこないのに、しだいにいらだったようであった。
「えい」
鋭い気合とともに、天道尼が右手を振った。 黄色味を帯びた塊りが飛び、銀色の
飛翔体に当たって裂けた。一瞬後、轟音がして熱風があたりの草をなぎ倒した。
しかし、飛翔物は小ゆるぎもせず、急に消えたかと見えた。
==>> これは、宇宙船に乗っている補陀洛人が地球という星を探査・分析している
様子と、地上にいる天道尼の様子が描かれています。
この天道尼は、最終盤で非常に重要な役割を持っているのですが、どうも
何世紀も大昔に地球にやってきた補陀洛人のDNAを受け継ぐ存在である
ようです。 尼ということなんですが、超エロチックな役割を演じることに
なります。
p679
「そうかもしれぬ。 太古には、ひょっとするとすべての人類が鬼道衆のように遠話など
を用いていたのかもしれぬ。」
「太古に文字がなかったというのは、そのためかもしれませんな」
「文字どころか、言葉も要らぬ時代があったかもしれん。 考えてみれば、人の歴史を
辿ると、我々はその一番奥に、神代という時代があったとしているではないか。 神代とは、
そういう念力の時代の記憶がいまに残った言葉なのかもしれんぞ。 念力を自在に使う
者は神にも等しいではないか」
・・・「言葉が念力の源を塞いでしまったのですか」
「かもしれぬ。なぜならば、言葉はひとにとって道具だ。 道具の一つだ。 声を聞いて
おのれの意志を人に伝える道具だ」
・・・「言葉が道具なら、文字はさらに道具だ。・・・・」
==>> ここに「遠話」という鬼道衆がつかう秘術みたいなことがでてきます。
今風に言えば、テレパシーといえばいいのでしょうか。
遠くに離れた人の間で、話たり聞いたりする術なんです。
これ以外にも遠くのものが見える能力もあったり・・・・
鬼道衆というのは、念力、妖術が使える忍者みたいな描写がされています。
言葉というのは実に不思議なものですね。
頭の中に、なんらかの意味が湧き上がって、概念みたいなものができて、
それがその人間が生まれた地域での言葉を探して、音声にして他者に
話すわけですね。 文字にして書くこともあるでしょう。
言葉はその地域のものですから、どこで生まれるかによって、変化するわけ
ですが、生成文法のチョムスキーさんによれば、その地域言語を学ぶ前の
段階で、すでに生得的な言語が赤ちゃんには備わっているんじゃないかって
ことらしいんです。
もし、そのような生得言語があって、それが地域言語に拘わらず人類共通の
ものだとしたら、脳の中に浮かび上がってくる概念みたいなものを
電気的に変換するヘッドセットみたいなものが発明されたとしたら、
それを電波で飛ばして、「遠話」が言語の垣根なしに出来るようになるの
かもしれません・・・・妄想です。
p694
「仏は欲心を去れと説いている。 世人はその欲心の意味をことさらに狭く解釈して
いるようだ。 狭く解すればそうむずかしい教えではないからな。 あり余るほどの
富を欲しがるな、限度知らずの立身出世を望むな。 妻以外の女体を欲しがるな、という
ことだからな。
しかし教えの本質はそんなものではあるまい。 心を肉から解脱させるためには、
生きる欲すら棄てよと説いているのだ。 生きながら生命を否定することは
至難のわざだが、仏はその必要を教えている。 恐らく仏はこの世の秘密を解明した人
なのであろう。 その大いなる秘密の扉の向こうにあったものは、たぶん、生命は悪、
という原理なのではなかろうか」
==>> 自然界に弱肉強食があり、人類が戦争に明け暮れるかぎり、生命は悪である
ということになるのでしょう。
お釈迦様の考え方については、過去に読んだ原始仏教の本には下のような
ことが書かれていました。
「ブッダのことば」(スッタニパータ)
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-4c5c.html
「30. 病、餓え、気候変動などを耐え忍ぶことを求めているが、釈迦自身
戦争については恐怖を感じている。」
「14. 座禅をして、瞑想し、「戒律の規定を奉じて、五つの感官を制し、
そなたの身体を観ぜよ(身体について心を専注せよ)。 切に世を厭い嫌う者
となれ。」
「3. 「空」の考え方は仏陀自身にあって、「事物のうちに堅固なものを見出
さない」と言う言葉がある。すべての<識別作用の住するありさま>を知りつく
した全き人(如来)は、かれの存在するありさまを知っている。 すなわち、
かれは解脱していて、そこをよりどころとしていると知る。つねによく気をつけ、
自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。 そうすれば死を
乗り超えることができるであろう。」
・・・これを読む限り、お釈迦様は、生命は悪であると考えているとは
見えませんが、世界に実体はない、空である、ということですから、
生命も空であるという、つまり生命を否定していると解釈できないことも
なさそうです。 ただし、戦争は怖いと思っていたようです。
p695
「・・・・権力とは要するに人の力の一種だ。 つまり人だ。 欲望を持って行動し、
その欲望をある程度達成した者が、さらにその立場を維持し続けようとして行使する力
にすぎぬ。 維持し続けるためには、時の趨勢というものもよく見なければならぬし、
歴史の必然というようなものもよく知ってそれらを活用しなければならぬ。しかし
それまでのことだ。 利用しているだけで、本質は人だ。 人の欲望だ。・・・・・」
==>> これは、まさにアメリカの前大統領やロシアの現大統領に当てはまりそうな
考え方ですね。 自分の思うようにならなかったら、武力に訴えてでも
それを実行しようという欲望です。
上記のニューズウィークの雑誌を読めばそれがよく理解できます。
p738
「ポータラカでは、この星のことをナラカと名づけているそうです」
・・・
奈落迦(ならか)。
地獄の意味である。 ・・・・
「補陀洛の人はここを奈落と呼んだのか」
・・・
「その奈落迦の、ここは陋(ろう)だ」
・・・
「・・・ここはその陋の中。 薄伽梵(ばがぼん)と申します」
・・・・
薄伽梵は婆伽婆とも記し、破浄地と訳すほかに、自在、熾盛、端厳、吉祥、尊貴などの
意を与えられ、時には阿弥陀仏の異称とされることもある。 ・・・・・」
==>> ここでは、補陀洛人(宇宙人)が地球のことをナラカと呼んでいるが、
地獄という意味をもたせたのは人間だとしています。
「奈落迦の、ここは陋(ろう)」という言葉が出てきますが、陋の意味は
「いやしい/せまい/面積が小さい/心がせまい」となっていまして、
はっきりとは分りませんが、小説の内容から判断すると、地球に付随している
異次元の狭い所というような意味ではないかと思います。
そこに、二人の僧が生きたまま入り込み、死んでから入った者たちと
話をしている場面なんです。
鬼道衆たちが黄金城と呼んだ異次元空間に入り込んでいるわけです。
さて、ここではどうしても、薄伽梵(ばがぼん)が気になりますね。
すぐに頭に浮かぶのは「バカボン」のパパなんですが・・・・
辞書によりますと:
https://kotobank.jp/word/%E8%96%84%E4%BC%BD%E6%A2%B5-113518
「ばがぼん【▽薄×伽×梵】 《〈梵〉bhagavatの音写。世尊・有徳と訳す》
1 仏の称号。
2 インドで、仙人や貴人に対して用いる呼称。」
ちなみに、バカボンのパパも、こちらの解説では、お釈迦様にちょっと
絡めているみたいです。 後付けの説とも書いてありますが・・・
https://dic.pixiv.net/a/%E3%83%90%E3%82%AB%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%91
「赤ん坊のころは人類史上、最大の天才といって差し支えない頭脳の持ち主で
あった。何せ、生まれてすぐに「天上天下唯我独尊」と言葉を発し、それどころ
か経済新聞を読んで内容を理解し、おまけに自分で立って歩いていたのだから
凄まじい物である。」
p741
塔には入口らしいものがどこにも見当たらなかった。 しかし、塔をとり囲む十二の
門からは、黄金を敷きつめた、なめらかな帯のような未知がその塔に集中して伸びて
いた。 静海、久恵、俊策、そして日円、青円の順でその道の一本を塔へ進んで行く。
・・・次の瞬間には壮麗な伽藍の中にいた。・・・黄金の壁が視界をさえぎって、もう
外の景色は見えない。
p742
その時、天頂から一条の薄桃色の光が降り、それが宙空の一点で膨らんだかと思うと、
たちまちひとつの像が現われた。
「大日・・・・」
・・・
久恵が光輪を発する。 すなわち謂う。
「そうです。あなたがたのいう大日如来、大日覚王こそ、このお姿を垣間見ることの
できた者が伝えひろめたものなのです。 ・・・・・あらゆるものに遍在して時間、空間、
因果の制約を離れたおかたです。 主観ではあなたがたの内にもこのお方がおわし、
客観ではすべてを超越した存在です」
==>> 鬼道衆が黄金城と呼んでいる地球の異次元空間に入ってきました。
するとそこは、上記のような黄金の壮麗な伽藍になっていて、大日如来の
ような存在がそこにいた・・・・というお話です。
大日如来ですから密教ですね。
p767
「この陋(ろう)は、大日、すなわち外道皇帝の心。そうに違いない。 さすれば陋の
数は無限に近い。 一人一人の心が陋と化すのだ。 ・・・・おのれの内奥で、おのれの欲
を充足させるために、人はいかなるものも生み出す力を有しているのだ。
・・・
「そうです。 欲こそがナラカの秘密でしょう。 欲がナラカの生命を激しく進化させて
きたのです。 かくありたいと願う生命ひとつひとつの欲が、次の生命を望むかたちに
変化させ続けたのです。」
==>> 無限に近い陋(ろう)ということからイメージするのは、
密教の曼荼羅の無数の仏の絵です。
そして、それは、生き物を構成する無数の細胞のイメージでもあったり、
あるいは、無限の宇宙の銀河なども連想させます。
p796
「すべて鉱物なのです。 動物も植物も、鉱物の変化したもの・・・・一時の状態に
すぎません」
「動、植物も焼けば灰になる。 たしかにその通りだ」
「仏の教えが肉からの離脱に触れているのは、そのせいでしょう」
「肉とはすなわち、動物と植物か。 肉からの離脱とは鉱物であることをやめることだな」
・・・・
「お教えくだされ。 鉱物からの離脱とは何を意味するのでございましょうか」
「星からの離脱だ」
p797
「・・・・遠い昔の人間は、山や石、あるいは川といったようなものにも、そこに宿る
霊を見たではないか。 それがいまでは、無機なるものには生命がなく、したがって霊も
あり得ないと断じてはばからない。 ・・・・・おのれの生命の仕掛けもろくに知らぬ
ものが、なぜそんなことをいえようか。 ・・・・一木一草もない岩だらけの世界にも、
知恵ある者が存在するかもしれぬではないか」
p798
「・・・・はじめおのが肉を愛し、肉あることで悦びにひたっていられた生命も、いつかは
おのれの肉を否定したくなる。 肉が苦悩をもたらすからだ。 煩悩・・それは肉あること
が招き寄せる生の煩悩ではないか」
==>> この第4巻のタイトルは「黄道の巻」なんですが、この「黄道」とは
どういう意味なのでしょうか。
Wikipediaには下のような説明があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%81%93
「黄道(こうどう、英: ecliptic)とは、天球上における太陽の見かけ上の通り道
(大円)をいう。」
「地球から見た空を一つの球体とみなし(これを天球と呼ぶ)、諸々の星座を
天球の地(じ)と考えると、太陽はこの天球を一年かけて一周するようにみえる。」
・・・このタイトルにどのような作者の意図が表現されているのかが分かり
ませんが、少なくとも話の内容が天体や物理学のような話になってきています。
「すべて鉱物なのです」ということを「焼けば灰になる」ことからの推論だと
しても、江戸時代(ここでは吉宗の時代)に、そのような知識が実際に
あったのかはやや疑問です。
つまり、生き物の体が原子番号に表されるような鉱物というものを想定して
いたんでしょうか。
まあ、これはSF小説ですから、なんでもありということなんですが。
肉=鉱物=星=煩悩であり、それからの離脱が、結局仏のいう解脱という筋の
話になっているようです。
そして、この話に出てくる補陀洛人という宇宙人は、肉体のない知的存在、
あるいは霊的な存在として描かれているというべきでしょうか。
しかし、鉱物ということにしてしまうと、実体があると思ってしまうので、
もう一歩最先端物理学を前提にしないと、空とか霊とかいう話としては
もの足りないかもしれません。
さて、これで、全7巻の内の4巻まで読み終わりました。
次回は、「妖星伝3 ― 天道の巻、人道の巻、魔道の巻」を読んでいきます。
==== 次回その5 に続きます ====
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