定方晟著「インド宇宙誌 ― 宇宙の形状、宇宙の発生」 ― その6(完) 未成年は立ち入り禁止、「エロ本」のような密教の世界

定方晟著「インド宇宙誌 ― 宇宙の形状、宇宙の発生」 ― その6(完) 未成年は立ち入り禁止、「エロ本」のような密教の世界


定方晟著「インド宇宙誌 ― 宇宙の形状、宇宙の発生」を読んでいます。

 


 

「第一章     タントリズムの宇宙観」

 

p207

 

タントラ教は秘密と象徴に満ちた教えである。 したがって、密教とも呼ばれる。

その教義はしばしばセックスと結びつき、好奇と非難の対象になる

 

よくいわれることだが、この教えは門外漢には理解がむずかしい。 タントラ教の師たちも

正式に入門した弟子にでなければ、教えを説かないという。 

 

==>> 空海さんが最澄さんにある経典を貸さず、親しい付き合いも終わった原因

     これだったようです。

     「その1」で以下のように書きました:

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/12/blog-post.html

     「p11
     「理趣経」についてはこちらで:

     https://kotobank.jp/word/%E7%90%86%E8%B6%A3%E7%B5%8C-148707

     「真実の知恵(般若)の極致(理趣)は現実の愛欲や欲望をそのままの形で汚れ

ないものとして肯定できる立場(一切法自性清浄)である。この苦楽を超越した

絶対境(大楽)が悟りであると説く。日本の真言宗では最も重要な経典。」

 

そして、空海さんが最澄さんに貸し出さなかった経典がこの「理趣経」の

「理趣釈経」とされています。

要するに顕教と密教の違いを際立たせる部分であったわけですね。

 

「理趣釈経」最澄に渡るのを恐れた密教禁断の経典

http://www.ocn1.net/yamamtso/newpage51.htm

「最澄はついに「理趣釈経」の借用を依頼して、空海はこれを厳しい態度で断り

ます。(これはその後空海と最澄の決別の要因の一つにされています)

 

「理趣釈経」(りしゅしゃくきょう)

空海の唐での密教の師である恵果のそのまた師(ヤヤコシイ)である不空が

「理趣経」を訳したもので、その中には「性欲の肯定」・「性欲および性交こそ

が菩薩の位」という内容が盛りこまれているのでした

恐らく空海はこの経典がもし外に出て、例えば、性交そのもが成仏へつながって

いくなど間違った解釈がなされるのを恐れていたといわれています。

空海にするとまさに教義の秘奥の経典。その経典を安易に最澄であろうと貸し

出すわけにはいかなかったことは想像できます。」」

 

p207

 

インド思想の精髄はなんといっても汎神論的一元論である。 ウパニシャドの「梵我一如」

の教義はこの思想の典型を示す。

 

ウパニシャドのあとにサーンキヤ哲学が現れた。 この哲学は根本実在として「純粋精神」

(プルシャ)と「根本原質」(プラクリティ)の二原理を立てた。しかし、・・・・

「ヴィシュヌ・プラーナ」は、この二原理をともにヴィシュヌ神の顕現と説くことにより、

サーンキヤ哲学を一元論化してしまった。

 

==>> 私の理解では、「梵我一如」は「即身成仏」と同じなんですが、

     過去に読んだ本の中にこのような記述がありました。

 

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/08/post-71872e.html

     9.「空海密教の宇宙―その哲学を読み解く」 宮坂宥勝著

     「「・・・要するに、顕密の相違は固定的、不変的なものではない・・

・・法身の内奥の覚りの絶対智(内証智)の境界(境地)を説くのが密教で、

それ以外のすべての教えは顕教だというのが大前提になっている。」

「宇宙生命そのものを宗教的実在とする法身仏という絶対者の自覚の内実は、

他のいかなる者も知り得ない絶対界であるから究極の秘密である、というのが

空海が説き伝えようとしたところなのである。」」

 

     「梵我一如」と「即身成仏」の共通点や相違点を直接述べているサイトが

      なかなか見つからないのですが、こちらにやっと見つかりました。

 

     密教の即身成仏は作り話(小川一乗)

     http://fallibilism.web.fc2.com/061.html

     「密教の本尊は、大日如来ですが、その大日如来というのは、大宇宙の生命その

ものなのです。そして、その大日如来という大宇宙の生命が、実はこの私の生命

となっているというのです。ですから、これは完全にインドの宗教体系としての

梵我一如と同じ考えです。」

「あくまでも仏教という立場を取りながら、密教を完成させていくのが空海で

す。その空海が、即身成仏という仏道をつくっていくわけです。・・・

(小川一乗『大乗仏教の根本思想』、法蔵館、1995年、pp. 411-417)」

 

     ・・・・私がいままでにいろいろ読んできての理解は、この小川一乗さんと

ほぼ同じだと思います。僭越ながら・・・

 

 

p208

 

かつては真理は頭で理解されるだけであった。 いまや真理はからだ全体を駆使して理解

される。 文字どおり体得されるのである。 視覚的な手段としてはマンダラやヤントラ

が用いられ、聴覚的な手段としてはマントラが用いられ、からだ全体を使う手段としては

ニヤーサ(按手)やアーサナ(座法)が用いられる。 

 

==>> いろいろと知らない言葉が出てきました。

     まず「ヤントラ」です:

     https://belcy.jp/57509

     「ヤントラとは神々の姿を幾何学的に描いた図形のことです。」

     

     次に「ニヤーサ」です。

https://kotobank.jp/word/%E3%83%8B%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%82%B5-110364

     「ヒンドゥー教のシャクティ派でいう手の動作。性力とされる女神を行者の身体

に導入するために,マントラ (真言) ,ヤントラ (護符) などとともに重要な

ものとされる。」

 

     そして「アーサナ」とは:

https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%8A-25034

     「インド哲学用語。坐法。ヨーガ8実修法の一つ。坐法によって身体を安定不動

にさせる。ヨーガ学派ではさまざまな坐法を説き,32種あるといわれるが異説

もある。」

 

     ・・・おそらく、私が月に一回参加している真言宗のお寺での「阿字観会」

     これらを用いた簡便な修行法ということになりそうです。

     https://www.youtube.com/watch?v=GQ4y_L-QYTg

     私が参加しているのも「真言宗智山派」のお寺なので、この動画とまったく

     同じやり方です。

     私の場合、いわれるようなイメージができず、足も痛いので、一年経っても

     まったくあきまへん・・・・

 

 

<<< さて、ここから先は未成年者は閲覧禁止地区に入ります (笑) >>>

 

p209

 

タントラ教は宇宙の生成、発展を男女の性的結合になぞらえて理解する

いわば大宇宙を人間という小宇宙に重ね合わせて解釈するのである。

 

p210

 

タントラ教徒たちは、あおむけに横たわるシヴァ神と、その上にまたがるカーリー女神の

像をもっている。 男神と女神の性器は結合されている。 門外漢には変態性欲の表出と

しか見えぬこの表現(絵画あるいは彫刻)も実は深い真理を伝える手段である

男神はサーンキヤ哲学の「純粋精神」(プルシャ)を表し、女神は「根本原質」(プラクリ

ティ)を表しているにちがいないのである。

 

そもそもサーンキヤ哲学においては「純粋精神」は「見る」こと以外はなにもしない

「非活動者」である。それに対して、「根本原質」は「活動者」であり、「純粋精神」

と結合することにより、さまざまなものに展開する。

 

==>> この部分を読んでいると、なにやら純粋精神=遺伝情報で、根本原質=細胞

     という建付けを連想します。あるいは、五感によって「見る」ことそのものが

     すべての宇宙の活動の元であるような印象も受けます。

 

p217

 

タントラ教徒たちは自我の観念を脱して、一なる世界に帰する手段を、性的恍惚のなかに

発見した。 性的結合によって人は忘我の境に達する。 それはまさに多なるものが一に

なったときの境地を表している。 この忘我の境地に到ったとき、人は自分をも、相手をも、

世界をも意識しない。 この瞬間に殺されたとしても、人は苦痛を感じないかもしれない。

 

・・・多の世界は迷妄の世界であるから、自分も、自分以外の存在も、すべて無に帰した

とき、真の「有」が実現するのである。 それは相対的な有無を超えた有である。

 

・・・このような性的解脱の手段は成就法(サーダナ)と呼ばれ、儀式化されている

修習物(サーダカ、行者)が師(グル)の指導のもとに、シャクティすなわち女性修習者

(サーディカー)を相手として、この儀式をおこなう。 女性は低階級のもの、他人の妻、

さらには生理中の女性が好んでえらばれる。 それはあらゆる社会的・道徳的・審美的

拘束を打破し、真の自由をえることを意味するからである。 

 

==>> ようするに、平たく言えば、聖職者など他人の面前で、その指導の下に、

誰とも知らない相手とセックスという「儀式」を行なうってことのようです。

     ・・・とても、「忘我の境地」に入れる環境とは思えませんが・・・

 

     ところで、ここの「グル」などの密教の言葉が出てきていますが、

     それですぐに連想するのはあの「オウム真理教」ですね。

     反社会的秘密の新興宗教というイメージが、このような儀式を連想させます。

     お若い方は知らないかもしれないので、こちらで詳しくご覧ください:

     https://www.moj.go.jp/psia/20140331.aum.top.html

 

 

<<< この本はあくまでも学術的な宗教の本なのですが、ここから先は、抜き書きが

<<< 非常に「エロ本」のような表現になりますので、セックス未経験者は

<<< 入室禁止です。 抜き書きが卑猥な感じになってしまうのは、この本の

<<< 著者の責任ではなく、抜き書きをしている私にあります・・・・>>>

 

p219

 

タントラの成就法でおこなわれる・・・式次第は・・・・

 

修習者とシャクティ(女性)は沐浴する。 シャクティは化粧し、からだの各部に

種々の香料を塗る。

 

・・・マントラを唱えて自分がシヴァに同化したと感じる。 ニヤーサとは指で

自分のからだの各部に次々と触れていくことである。

 

p220

 

修習者は、自分はグルの右膝の上にあり、シャクティは左膝の上にあると想像しつつ、

シャクティと抱擁しあう。 修習者はシャクティの乳房を吸い、「甘露をのむ」。

 

・・・マントラを唱えつつ、シャクティのからだの各部 ― 右つまさきから頭頂まで、

そして頭頂から左つまさきまで ― に触れ、シャクティのからだを礼拝する

 

次にヨーニ(女陰)の礼拝がおこなわれる

 

・・・修習者は完全なる放棄のうちに、自我意識、自尊心、欲心などのすべてを失う。

 

・・・マントラの誦唱とともにリンガ(男根)崇拝がおこなわれる

 

・・・修習者はシャクティの胸に触れながら、フリームというマントラを百八回唱え、

続いてヨーニに触れながら同じことをする。

 

P221

 

・・・さあ私はいまあなたに命令します・・・

あなたの世界リンガを世界ヨーニとして私の畑のなかに植えることを。・・・・

あなたはシヴァで、私はシャクティです。・・・・

 

シヴァとなった修習者はシャクティに、抱擁、接吻、挿入、等の九つの花を贈り

ながら、「私はシヴァ」と唱え続ける。 ・・・・できるかぎり長く結合を続け、

儀式の最後にあたってマントラを唱える。

 

p223

 

以上はムカージーの説明の紹介であるが、私にわからないのは射精はどうなるかという

ことである。

・・・ローソンによれば、ある派は射精を認め、ある派は射精を認めず、そのエネルギー

を精神化するよう命じている。

 

・・・集団的な性的儀式がある。 何組かの男女が円輪を作っておこなうもので、

チャクラ・プージャー(円輪崇拝)と呼ばれる。

 

p224

 

日本では平安時代に武蔵(東京)の立川で立川流という真言宗系の「秘密邪教」が発生

した。 現代では、アメリカや日本で大麻パーティーや乱交パーティーが流行している

ようであるが、これもインド密教の影響をうけているであろう。

 

==>> ちなみに、この本は1985年の初版になっています。上記の流行とは

     おそらくその時代のものであろうかと思います。 

     オウム真理教については、wikipediaには

     「1983年(昭和58年)夏(28歳)、阿含宗脱会。東京都渋谷区桜丘に、

サイコロジー(心理学)・カイロプラクティック・仙道・ヨーガ・東洋医学・

漢方などの塾「鳳凰慶林館」を開設、塾生は女性に限定されており、ダイエット

美容や健康法が中心だった。松本はこの時「麻原彰晃」と名乗り始める。

1984年(昭和59年)2月、「鳳凰慶林館」からヨーガ教室「オウムの会」へ

と鞍替えした。

1988(昭和63年)から1995年(平成7年)にかけて、坂本弁護士一家

全員を殺害したり、信者・元信者へのリンチ殺人や信者の家族の拉致監禁殺害を

繰り返したほか、毒ガスサリンを用いた松本サリン事件や地下鉄サリン事件

など日本犯罪史上最悪とされる一連のオウム真理教事件を引き起こした。」

とされていますので、同じ時期かと思われます。

 

p226

 

リンガとヨーニの結合に対応するものとして、半男半女の神(アルダナーリーシュヴァラ)

があげられるかもしれない。 シヴァ神の一顕現であり、その神像は左半身に乳房と

豊かな腰をもち、右半身は平らな胸とひきしまった腰をもっている。

 

・・・ちなみに半男半女の観念はギリシャにもある。 プラトンの「饗宴」のなかに、

人間はもとは完全形からなっていたのに、あるとき二つに分かれ、一つは男に、一つは

女になった。 両者はかつての己れである一部を恋しがって、互いに求めあうように

なった、と。 

 

==>> このプラトンの話は、私が二十歳の頃に読んで、ベター・ハーフを恋い求める

     行動の源であるとの理解をしました。

     日本でいうところの「赤い糸」ですね。

 

 

p239

 

「マントラ」(真言)は短い神聖な言葉を意味し、わが国では真言宗の名にもなっている。

この短い言葉に宇宙の真理が集約されているというが、どうしてそういうことが可能な

のか。

 

一つには宇宙の創造は波動から始まるからであろう。・・・ヤントラの中央の一点は

最初の鼓動を意味する。 人間の耳に聞こえなくても、すべての運動は音であり、

すべての存在に音が伴う。

 

==>> これに関しては空海の著書に以下のようなものがありました。

 

     空海著 加藤精一編 「即身成仏義」、「声字実相義」、「吽字義」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/02/post-7535b7.html

 

     「== 「吽字義」==   

p103

阿字の義とは、・・・阿字はすべての文字の母ともいえますし、すべての声の

本体だともいえますし、つまりすべての存在の源といえるのです。

「大日経疏」巻七にも「最初に口を開いて音を出せば、まず阿の声が出ます。 

もし阿の声が無ければその他のすべてのことばは存在しなくなります。この故に

阿は、すべての声の母となるのです」といっています。この故に、阿字を離れて

一切の言葉は無く、一切の諸法も空無であることが知れます。 これが阿字の

字相であります。」

==>> 阿という文字がなければ、言葉は無く、諸法もない。だから、阿と

いう字にはすべてが含まれるという意味のようです。

     

 

p241

 

一般に海外では、「タントラ(教)」と「密教」(エゾテリック・ブディズム)という二語は

厳密に区別されることなく用いられる傾向が強い。 しかし、わが国の真言宗の人たちは

両語が同義語とされることには抵抗を感ずるにちがいない。

 

・・・もし「タントラ(教)」という言葉が本書に紹介したようなラディカルな教義を

意味するのであれば ―― そして実際インドや欧米の学者はそのような意味でこの語を

使用しているが ――、真言宗の人たちは「密教はタントラ教ではない」と主張するで

あろう。・・・この立場からすれば、「密教とは初期のタントラ教である」、もしくは

「タントラ教とは後期の密教である」ということになろう。

 

==>> 私は今は一応 真言宗の準檀家ということになっているんですが、

     いままでにいろいろ仏教関係の本を読んできて感じているのは、

     真言宗はたしかに密教であって、「理趣経」がそのベースにタントラ教を

     持っているみたいだなということです。

     だから、空海が最澄に「理趣経」を貸さなかった理由もそこにあるのでは

     ないかと思うわけです。

     「理趣経」を秘密にすればするほど、タントラ教じゃないかと言われるのも

     無理からぬところかなと思います。

 

p242

 

真言家は密教を次のように二系統に分けている。

大日経(理論面、教相) ―― 右道

金剛頂経(実際面、事相) ―― 左道

後者から男女の愛を肯定する「理趣経」が生まれた。

このことは真言宗がヒンドゥー教のタントリズムの運動に密接に結びついていることを

示している。

そもそも大乗仏教全体の歴史がヒンドゥー教の歴史と密接に並行しているのである。

大乗仏教のいわゆる顕教はヒンドゥー教のプラーナの思想に並行し、密教はヒンドゥー教

のタントラの思想に並行している。

 

p244

 

明治時代以降、チベット仏教が日本に紹介されたとき、日本の仏教徒は自分たちの

知らぬまに、仏教があまりにも変身をとげていたことに驚嘆したのである。

 

==>> ここで、日本の真言宗の位置づけがはっきりして、私はすっきりしました。

     日本仏教はかなり前から葬式仏教と揶揄されていますし、それは事実だとも

     思います。一方で、世界の中でみればかなり「ガラパゴス化」もしている

     のではないかと思います。特に鎌倉仏教以降はその傾向があるのかなと

     思います。それはそれで、日本の実情を背景に生まれたのですから

     良いことだと思いますが。

 

p247

 

人間は ―― なんと愚かなことよ ―― 生殖行為をまるでなすべきことではないか

のように、まるで罪悪ででもあるかのように、くらがりの湿った世界に追いやったのだ

だが、われわれヒンドゥー教徒は違う。 われわれは生殖行為は謳歌すべきもの、

称えるべきものでこそあれ、決して忌まわしいものではないことを発見した数少ない

民族の一つなのだ。 生殖行為のなかに美と生命があり、宇宙の真理が宿されている

―― これがわれわれの哲学なのだ。

 

==>> 確かにこれはおっしゃる通りだと思います。

     お釈迦さんは、一応しっかり結婚して、子どももいて、その後出家して

     いますが、「すべてを捨てて修行をしなさい」って言っていますしねえ。

     空海さんは、結婚したという話はなさそうですが、性的なものを肯定する

     教義を日本にもたらしているんですねえ。

     一方で、さんざん性的煩悩に悩まされた親鸞さんは、結婚しちゃったし。

     浄土真宗は妻帯OKになってますしね。

     キリスト教は、カトリックでは神父ですから、結婚できず、それが原因か

     どうかは知りませんが、いろいろと陰湿なことが起こっているらしいし。

     まあ、結局陰湿な教義が陰湿なものを引き起こすってことでしょうか・・・

 

 

「エピローグ」

 

p253

 

インド人の宇宙観にとって大事なことは、個別的存在は唯一絶対者の仮の現れに

すぎないということである。・・・・実体としての「自我」を否定する思想、すなわち

無我の思想は、世にいわゆる「西洋思想の行きづまり」を打開する可能性をもつだろう。

 

・・・無念・無想・無分別の境地を真理とするインド人にとって、真理は「考えること」

のさきにはない。

 

p254

 

真理は言葉では把握できない、真理を表わすために言葉を使うなら、せめて

「・・・に非ず、・・・に非ず」という形で使うべきであるという趣旨のことを

ウパニシャドの哲人ヤージュニャヴァルキヤがのべている。 仏教哲学界では

ナーガールジュナが言葉について鋭い批判をおこなった。

 

しかるに、西洋では最近に至るまで、言葉への反省がおこなわれなかった。

 

==>> 最近の思想を読んでいると、相対性理論や量子力学の発展に伴って

     上記の「西洋思想の行きづまり」という言葉がなんとなくわかるような気が

     します。 素人目に見て、哲学思想などがかなり神秘主義的な感じに

     なってきているように見えるからです。

     その筆頭が、もしかしたら「汎心論」(汎神論ではありません)のような哲学

なのかもしれません。

     

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/12/post-8d6b95.html

     「p175

原子は「意識である」という表現は奇妙に響くが、フッサールが言いたいのは、

原子は意識を持つということだろう。そう理解すれば、原子は身体という性格を

備える(つまり意識を持つ物的対象である)という発言とも辻褄があう。」

「p176

形而上学的な観念論とは、ごく大まかにいえば、

(1)存在するものの全体のうちでもっとも根本的なのは心的なものであり、

(2)物的なものはこの心的なものに対して派生的ないし二次的である、という

立場である。

(2)によれば、どんな物的なものの背後にも心的なものがあり、物的なもの

がこの世界のそこらじゅうにあるのと少なくとも同程度に心的なものがそこら

じゅうにあることになる。 これを(1)と組み合わせれば汎心論の一般的な

主張になる。」

「p176

「イデーンI」のいくつかの箇所で、フッサールは、意識は世界の存在よりも

根本的であり、後者は前者に対して二次的であるという見解を表明する。」

 

 

さて、このエロ本みたいな学術的「インド宇宙誌」はいかがでしたか?

 

実は、私が二十歳の頃に読んでいた哲学入門の本は、いわゆる西洋哲学の本でして、

デカンショで有名な、デカルト、カント、ショーペンハウエルのようなものでした。

 

その当時、上智大学でフッサールの「現象学」についての講座があったので、私は

聴講生として教室に座っていたことがあったのですが、その「現象学」というものが、

なんとなく分りもしないのに心理学的な臭いがしたもので、好きになれず、すぐに

やめてしまいました。

 

そして、そんなフッサールの現象学が、50年を経た今になって、亡霊のように

私の前に出て来たのです。

それが、まさか仏教や密教となにか底辺で繋がってくるとは思ってもいませんでした。

 

今後、いろいろな本を読んでいく中で、バラバラになっている知識の断片が

どんな形にまとまっていくのかが楽しみです。

 

 

=== 完 ===

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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