前野隆司著 「脳はなぜ「心」を作ったのか」 を読む ― 1 無限の宇宙の中に一人ぽつんと浮かんでいるような孤独感
前野隆司著 「脳はなぜ「心」を作ったのか」 を読む ― 1 無限の宇宙の中に一人ぽつんと浮かんでいるような孤独感
前野隆司著 「脳はなぜ「心」を作ったのか ― 「私」の謎を解く受動意識仮説」
を読んでいます。
この著者は、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授です。
今までに私が読んできた脳や意識の本は、哲学者、脳科学者、神経科学者、数学者などが
著した本でした。しかし、映画「マトリックス」などでご存知のように、AIやシステム
の分野が、脳や意識、あるいは心というものに関連して、SF映画の世界であるにせよ、
SFは未来の現実を先取りしているという過去の歴史もあるので、その未来と開発の
現場がどうなっているのかを知りたいと思って読んでみることにしました。
私は、理系の文章には弱いので、どこまで理解できるかは置いておきます。
では、例によって、気になる部分を抜き書きしながら、勝手な妄想を書いていきます。
ちなみに、この著者の講義の動画がありましたので、こちらでどうぞ:
(572) 意識は幻想か?―「私」の謎を解く受動意識仮説 - YouTube
====
p13
無限の宇宙の中に一人ぽつんと浮かんでいるような孤独感にさいなまれたことを、
今もありありと思い出す。 このことを毎日のように考えていたのは、小学校二年生
くらいまでだった。 いつしか、そんなことはどうせわからないことだとあきらめ、
・・・・それから何十年も生きてきた。 まさかそれが幻想だとは気づかずに。
==>> まずはここで私は驚きました。
一言でいえば、私とは正反対の人です。
私は小学生の時にそんなことは微塵も感じたことがありませんし、大人に
なってからも孤独感に苛まれたことなど記憶にありません。
しかし、その代わりに、「人生って夢の中にいるみたいだ」と感じたことは
何度もあります。まさに幻想じゃないかと思ってきたわけです。
だから、死んだら目が覚めるんじゃないかとも思ったりもします。
もしかしたら、それは、小学校3年生の時からずっと強度の近視で、
世の中がぼんやりと見えていたせいかもしれません。
一方、我が家の相棒に尋ねてみたところ、この著者と同じように、
小学生の頃から死に対する恐怖感や孤独感があって、眠れないこともあった
といいます。
p14
私がこの本で述べる心の考え方には、これまでの哲学者や認知科学者たちのものとは
決定的に違う点がある。 従来の心の考え方は、心はだいたいこんなものだが、核心の
ところはまだわからない、とか、複雑すぎてすぐには作れない、というような煮え切らない
ものばかりだった。 本当にはわかっていなかったのだ。
これに対し、私の考え方によれば、心が実に単純なメカニズムでできていて、作ることすら
簡単であることを、誰にもわかる形で明示できる。 ・・・だから、近い将来、心を持った
ロボットを簡単に作れるようになるだろう。
==>> こりゃまた、凄いですね。
確かに、私が今まで読んだ本の中には、こんなにハッタリをかました本は
ありませんでした。 (ハッタリかどうかの判断はできませんけど・・・)
どんな展開をしていくのか楽しみです。
p18
脳科学者の松本元によれば・・・心は、「知」「情」「意」「記憶と学習」「意識」の
五つから成るという。
p20
「記憶」はもちろん、覚えること、心理学の用語でいうと、「記憶」には宣言的記憶
と非宣言的記憶がある。 文章のような記号やイメージを使って表せる(宣言できる)
記憶と、表せない記憶、という意味だ。 宣言的記憶にはエピソード記憶と意味記憶
がある。
エピソード記憶とは、日記のようなもので、・・・・・意味記憶は、辞書のようなもので、
モノやコトの意味の記憶だ。
・・・エピソード記憶がもとになって意味記憶が形作られるのではないか、とも
いわれている。
p21
実は、心の五つの働きのうち、今述べた「知」「情」「意」「記憶と学習」は、コンピュータ
やロボットだって、多かれ少なかれやっている。
p22
これに対し、今のコンピュータがまったく持っていないのは、心の五つの要素のうち、
最後の挙げた「意識」だ。
==>> ここは、心あるいは脳の働きの分類ですが、特に問題はありません。
確かに不思議なのは「意識」です。
私が今まで何冊も本を読んで来たのは、この「意識」について知りたいからです。
それが、これから解きほぐされていきます。
p23
つまり、「意識」とは、「知」「情」「意」「記憶と学習」全体を主体的に統合する作用だと
一般に考えられている(私はそうではないとかんがえるのだが・・・・)。
==>> 「意識」に関しては、いろいろな科学者が様々な説を出しているようですので、
「一般に考えられている」のかどうかは、私には分かりません。
私が過去に読んだ本の中で「意識」に関するものは以下のようなものがあり
ました。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/06/post-0915f1.html
R・ダグラス・フィールズ著「もうひとつの脳」
「ニューロンを支配する陰の主役「グリア細胞」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/12/post-37ab4c.html
マルチェッロ・マッスィミーニ/ジュリオ・トノーニ著
「意識はいつ生まれるのか」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/11/post-b68b10.html
スタニスラス・ドゥアンヌ著「意識と脳」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/10/post-fdadbb.html
茂木健一郎著 「記憶の森を育てる 意識と人工知能」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/08/post-1d8fbe.html
ロジャー・ペンローズ著
「ペンローズの<量子脳>理論―心と意識の科学的基礎をもとめて」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/09/post-c19e1a.html
ロジャー・ペンローズ著
「心は量子で語れるか」―21世紀物理の進むべき道をさぐる -
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/09/post-142859.html
中村昇著「ホワイトヘッドの哲学」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/09/post-78182f.html
坪倉優介著「記憶喪失になったぼくが見た世界」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/09/post-51fabb.html
p27
私は、宗教的二元論などというものは前近代的な思想であって、ほとんどの現代人
(特に、宗教を信じない人の多い日本人)はこれを信じてはいないのだろうと思って
いたが、意外とそうでもないようだ。 ある日本の大学教員が心理学の授業中に調査
したところによると、学生の30%は、心は脳の作用だということを信じなかった
(つまり、霊魂は脳とは独立と考えている)という。 潜在的二元論者といっていい
だろう。 死後の世界や占いを信じる人も、潜在的二元論者といっていいかもしれない。
==>> 私自身は、「心は脳の作用だ」と思っていますから、その意味では一元論者
ということになるのでしょうが、潜在的二元論者でもありますね。
しかし、上で言ったように、この世の方が夢なんじゃないかと思っても
いますので、夢から覚めるという意味においては、宇宙は一元的な
ものと言えるかもしれません。(その記憶が残るかどうかは別にして)
p28
つまり、「意識」とは脳のどんな情報処理の結果で、どんなふうに説明できるか、
ということが心の最大の謎であり、これが明快に説明できたなら一元論の勝ち、つまり、
私たち人間は心のことがわかったといえる。
p30
まだ解明されていない「意識」の主要な謎とは、ずばり、
1.<私>の不思議
2.バインディング問題
3.クオリアの問題
p31
「私」が「自分」に宿るのはわかるが、どうして<私>が「自分」なのかがわからない。
==>> さて、ここから分かりにくい話に突入していきます。
特に、<私>と「私」は異なる意味で使われていますので要注意です。
p33
「私」は、前野隆司の現象的な意識のことだが、<私>とは、そのなかから、ものやこと
に注意を向ける働きの部分を除いた、自己意識について感じる部分のことだ。
つまり、<私>とは、自己意識の感覚――生まれてからこれまで、そして死ぬまで、自ら
が生き生きと自分の意識のころを振り返って、ああ、これが自分の意識だ、と実感し続ける
ことのできる、個人的な主体そのものーーのことだ。<私>を振り返って、ああ、<私>だ、
と感じる、再帰的な意識の状態のことだ。
==>> つまり、簡単に言ってしまうと、自分を意識する私が<私>で、それ以外の
私は「私」ということになりそうです。
言い換えれば、心の内にある、私を見ているもう一人の私が<私>ということ
になりそうです。
p34
思考実験をしてみよう。 ある朝起きてみると、脳の中の<私>、つまり、自己意識を
つかさどる部分が他人の脳に移植されていたとしよう。 すると、<私>の肉体が
前野隆司ではなくなったばかりか、記憶を意識する「私」も他人のものに移り変わって
いるはずだ。 つまり、<私>は<私>のまま連続だが、「私」も「自分」も昨日までの
前野隆司のそれではなくなってしまったということになる。
どうして<私>は、前野隆司の自己意識として「私」の中に宿ったのだろう。
千年前に生まれた人の自己意識だったとしても、今の隣の家の住民の自己意識だったと
してもよかったのに。
==>> これは架空の思考実験でしかないのですが、もしあり得るとしたら、こういう
ことになるのでしょう。 記憶喪失をしたご本人が書いた本です。
下に具体的な現実の例を挙げてみましょう
上にもリストアップした本です。
坪倉優介著「記憶喪失になったぼくが見た世界」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/09/post-51fabb.html
「p18
なにかが、ぼくをひっぱった。おされてやわらかい物にすわらされる。
ばたん、ばたんと音がする。とつぜん動きだした。
外に見える物は、どんどんすがたや形をかえていく。
(これは、誰かに引っ張られて、自動車の中の椅子に座らされ、ドアが閉まり、
走り出す様子です。誰かに、ではなく、なにかが引っ張ったとかいてあります。)
上を見ると、細い線が三本ついてくる。すごい速さで進んでいるのに、ずっと
同じようについてくる。しばらくすると、こんどは四本になった。
急に、いままで動いていた風景が止まった。すると、上で動いていた線も止まる。
さいしょと同じ三本になっている。みんないっしょにきてくれたんだ。
(車窓から見える電線を書いていると思われます。 「いっしょにきてくれた」
という表現が独特です。 もしかしたら、自分が人間であることも、
細い線が人間ではないことも、区別がつかない状態なのかもしれません。)」
・・・これは、実際に事故によって記憶をすべて無くした人の手記での記述です。
この記述を見るかぎり、「私」も「自分」も無いことが分かります。
そして、<私>も無いように見えます。
ただ、そこには自他の区別も出来ないような「クオリア」だけがあるような
描写であるように読めます。
つまり、五感だけが今、ここ、質感のある感覚であるクオリアを感じているの
ではないかと見えます。
p36
三十歳ぐらいのころ、哲学者永井均の本「(子ども)のための哲学」を読むと、同じ疑問が
書かれていた。 ・・・永井先生に連絡を取ったものだ。 同じようなことを考える人は
多くはないもののそれなりにはいるそうだ。 そして、この問題は独我論(自分がいなけ
れば世界もないのではないか、という疑問についての哲学)の一種(変種!?)であると
いうことを知った。
==>> 私はこの永井均著の「なぜ意識は実在しないのか」という本を読みました。
そして、「ウィトゲンシュタイン入門」も読みました。 しかし、書いてある
ことがさっぱり理解できませんでした。
今でも、気になったところに付箋をたくさん貼ったまま、本棚にツンドク状態
になっています。いずれ、もう一度読み直さなくてはいけません。
ひとつだけ感想として頭に残ったことは、「自分で哲学しなさい」という
戒めの言葉が本から伝わってきたことだけです。
そのように書いてあるわけではないのですが・・・・
=== その2 に続きます ===
前野隆司著 「脳はなぜ「心」を作ったのか」 を読む ― 2 小びとが分散処理するニューラルネットワーク (sasetamotsubaguio.blogspot.com)
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