半村良著「妖星伝」を読む ―2― 外道の巻 : あるがままに生きることが美しいと される世にあっては、鬼こそ有徳の者

半村良著「妖星伝」を読む ―2― 外道の巻 : あるがままに生きることが美しいと

される世にあっては、鬼こそ有徳の者

 

 



半村良著「完本妖星伝1―鬼道の巻・外道の巻」を読んでいます。

 

 

p414

 

「法も道も教えも術も、いずれはおなじまやかしでございます」

「ほう、思いきったことをいう」

「ならば申しましょう。 僧は仏法が世を救うと称します。 そう称して教えを説いて

おります。 しかし、まことに仏の教えが世を救うならば、まず困るのは僧自身

意次は高笑いをはじめた。

 

==>> ここで意次というのは、田沼意次のことなんです。

     Wikipediaには下のような解説があります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E6%AC%A1

     「田沼時代の政策は幕府の利益や都合を優先させる政策であり諸大名や庶民の

反発を浴びた。また、幕府役人のあいだで賄賂や縁故による人事が横行するなど、

武士本来の士風を退廃させたとする批判がおこった。都市部で町人の文化が

発展する一方、益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄し、都市部へ流れ込ん

だために農村の荒廃が生じた。」

 

・・・このような時代背景の中で、この小説は鬼道や外道による世の乱れを

描いているということになります。 徳川吉宗の時代の話になっています。

 

     「まことに仏の教えが世を救うならば、まず困るのは僧自身」というのは

     面白いですね。 確かにそうだろうなと思います。 仏法僧という言葉は

     ありますが。

 

 

p423

 

三人はギョッとして田中の顔を見た。 日蓮宗不受不施派は、切支丹と同じように

過酷な弾圧を受け続けている。

 

・・・二人の僧が、江戸を背にして甲州街道を行く。

「江戸の鬼道衆は、沈時術に気付いたでございましょうか」

いったのは青円、答えるのは日円である。

「瞬時に物を消す術がないとすれば、遅かれ早かれ沈時術に思い至るだろう」

 

==>> 日蓮宗不受不施派については、前回の1で調べました。

     そして、その派の二人の僧が出てくるのですが、この小説の中で、最後まで

     この二人が重要な役割をもっていることになります。

     最後の巻では、いわば宇宙飛行士みたいな役割までやることになります。

 

     沈時術というのは、一瞬の間、その場の時間を止めるという術なんです。

     ただし、私には、その術をかける本人や同行人だけが、なぜその術の中で

     術に掛からないのかが理解できません。

     周りの敵は全員その術にかかって動きが止まるのに・・・・

 

 

p426

 

時の王者は国を守ると称してまずおのれを守り、守ると称して他国を攻める

商人は、人が求めるからと称しておのれの利をはかり、医者は人の病いを治すと称して、

臨終の枕もとにすわる。 僧もまた利に応じて読経の長短を勝手にし、年回回向と称して

死者をむさぼりくらうこと鬼に等しい。 さすれば、あるがままに生きることが美しいと

される世にあっては、鬼こそ有徳の者であり、神は塵のごとく静かにして無用かつ

よこしまなものであろう」

 

==>> これは僧・日円のせりふなんです。

     この最初の一行なんかは、まさに今、現在進行形のロシアのウクライナ侵攻

     のようなものでしょうか。

 

     「あるがままに生きることが美しいとされる世」とは、いつの世のことでしょう。

     なんとなく、今の日本の世相は、そんな言葉に溢れているように思います。

     もしそうならば、「鬼こそ有徳の者」という理屈になりますね。

 

p452

 

それが咲けば人が死んだ。 天変地異があいつぐ報らせであり、必ず大飢饉が生じて、

人々は大地の泥を食うほどになるという、おそるべき凶花であった。

正体は竹の花である。

 

開花は六十年ごととも、その倍数年とも言われ、冷害、干ばつ、火山の噴火、大地震、

大火、疫病など、ありとあらゆる災忌が襲いかかってくることが知られていた。

・・・それが地獄の花とされるゆえんでもある。

 

==>> これをインターネットで検索したら、こんなサイトが見つかりました。

     https://indeep.jp/flowers-of-bamboo-is-blooming-everywhere-in-japan-2019/

     「120年に1度しか咲かない「竹の花」が日本各地で開花し続けている。そして

歴史から見るこの示唆は不吉などではなく「完全なパラダイムシフト」への徴候

かと 投稿日:2019424日 更新日:2019108日」

いっせいに花開き、そしてすべて枯れてしまう

竹は一つの竹林で一つの命をもっていると言えます。長い間地下茎で竹林を

広げ、ある時いっせいに花を咲かせます。若い竹も年老いた竹も同時です。

そして種子を残し、すべて枯れてしまいます。竹林が丸ごと消えてしまうため、

もとに戻るには1015年の長い時間がかかります。」

「今年になってから、日本各地で、竹の花が咲きまくっているのですね。」

1960年代に、日本各地で一斉に竹の花が咲いた時には、「日本の竹の3分の

1が枯死してしまった」という出来事があったことが、日本気象協会のサイト

tenki.jp の記事に記されています。」

 

・・・・つまり、2019年ごろから竹の花が咲いているらしい。

この小説の中では、この「泥喰い」つまり大飢饉や農民一揆が起こる舞台背景

として描かれています。 そして、そこに鬼道衆が火の油を注ぐという構図です。

 

 

p519

 

「それよ。 つきつめれば、僧とは夢を見ている人間だ。 その夢を語り、人にも夢を

見させる。 結局それしかない。 儂は近ごろよくそう思うのだ」

「この世の汚れはあまりにひどうございますからな」

「なんの。 この世は汚れてなどおらぬ。 汚れているのは命だけだ

 

==>> これは僧・日円の言葉です。

     現代に生きる日本人がどれほど宗教に没入できるかどうかは知りませんが、

     私の場合は、「僧とは夢を見ている人間だ」という言葉に賛成です。

     私がまだ三十代だった頃、米系石油メジャーの仕事をやめて、僧侶になろうか

と考えたことがありました。

 

     新聞に「僧侶求む」と広告が出ていたので、面接に行ったんです。

     そこで、面接官である坊さんに言われました。

     「あなたのような純粋な考えを持っている人は修行道場のようなお寺に

     行ってください。 今時のお寺では、経理の知識ぐらいないと務まりません。」

     そして、それから何年か経ったころ、私は石油会社の通信室勤務から経理部勤務

     へ異動になりました。

     やっと、僧侶になれる条件が出来てきたわけです。

     英文経理ができる僧侶というのも面白かったかもしれません。

 

p588

 

「時に天正十三年十一月二十九日」

・・・・

「地震。十一月二十九日、帰雲城は秀吉との講和が成った祝宴を張っていたという。

その時大地震が起こった。 越中、加賀はおろか、京や讃岐あたりまでが大揺れに揺れた

という。 先に申した貝塚日記にも、そのことが記されている。 帰雲城は城下の町なみ

もろとも、一瞬にして山津波に呑み込まれ、以来今日までその所在が判らない」

 

「なるほどねえ。 で、その帰雲城が黄金城だとなぜ判るんです」

・・・

「飛騨はもともと黄金の国だ」

 

==>> さて、この黄金城ですが。 私はてっきり作家の創作だと思っていたら、

     Wikipediaにありました。

     https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E9%9B%B2%E5%9F%8E

     「帰雲城(かえりくもじょう、かえりぐもじょう、きうんじょう)は、現在の

岐阜県大野郡白川村三方崩山の下、保木脇(ほきわき)にあった日本の城である。

内ヶ島氏の居城であったが、1586年(天正13年)の天正地震による山崩れで

城と城下町が全て埋没した。

「天正131129日(1586118日)に天正地震が起き、帰雲山の崩壊

で埋没。被害は埋没した家300戸以上、圧死者500人以上とされる。当日城内で

祝宴が行なわれており、難を逃れたのは所用のため不在だったわずか4人と

言われる。城主の内ヶ島氏理ら一族は全て死に絶えてしまい、この瞬間をもって

内ヶ島氏は滅亡した。また、内ヶ島氏の領内に金山があったことから、城崩壊と

ともに埋まったとされる埋蔵金伝説がある。」

 

・・・う~~ん、なるほど。 埋蔵金伝説もあるということで、黄金城という

発想が生まれたわけですね。

 

 

p593

 

この天体の生命相が宇宙的標準から見て明らかに奇形であることです。私はこれが

操作されたものであると考えています。 何者かが一定の意図のもとに行なわせた

生命過剰現象です」

小太郎は黙って頷く。

「となるとその何者かは、ここの人々が、なかんずく鬼道衆がいっているような、千年

二千年の時間ではなく、もっとずっとはるかな過去から、この世界を操作していると

いわねばなりますまい。 なぜなら、このような生命相は、この星に生命が発生した

直後から手を加えねば作り得ないからです」

 

==>> これは、宇宙人(補陀洛人)である星之介が、同じく補陀洛人である小太郎に

     高度のテレパシーで語りかけている場面です。

     何千年、あるいは何万年、はたまた何億年も昔に、おなじ補陀洛人が

     地球に舞い降りて、そこで何等かの操作をした結果が、この過剰な生命に

     溢れる地球の姿になったのではないかという筋書きです。

 

 

p597

 

「・・・・・カタリと呼ばれる地底の小世界を作って、自分の正気とこの星の生命に

対する計画をはっきり示しておきながら、いったいどこへかくれてしまっているので

しょうか」

すると小太郎は、微笑しながら右手の人差指をたてて、くるくるとまわして見せた。

「螺旋・・・・・」

星之介がじっとそれをみつめた。

「そうですか。 彼は生命の中へかくれているのですね」

・・・

遺伝子の中へ見をかくす。 それはうまい考えです。 それならせわしなく一世代

ごとに他の生命体へもぐりこまずにすみます。 時限装置をしかけたように、何世代かで

現われればいいのですから」

なんということであろう。 外道皇帝はまだこの地球のどこかに存在しているのだ。

それも、誰かの遺伝子にひそんで・・・・・。

 

==>> ほお~~、そうですか。

     これはおそらく、リチャード・ドーキンスの下記の考え方をヒントにしている

     のではないかと思います。

     https://gene.s-se.info/selfishgene

     「「生物個体は遺伝子の乗り物に過ぎない」とは?

利己的遺伝子論がドーキンスの理論のように言われるのは、ドーキンスの表現

が刺激的だったことも理由の一つだ。

 遺伝子は利己的な振る舞いをする。そして生物個体は、遺伝子によって利用

される“乗り物”に過ぎない。と表現し多くの人々に衝撃を与えたのだ。」

 

半村良さんは、宇宙人二人に会話をさせることによって、現代の最先端の

科学論を時代劇の中に埋め込むという歴史怪奇SF小説を可能にしている

わけですねえ。

 

p600

 

鬼道衆は戦乱をのがれてこの国に亡命した王女恵が、父君聖明王の没後、童男と称する

人物と結婚し、その二人の間に生まれた子が、すなわち外道皇帝であったという。

童男(どうだん)はその後満天星(どうだん)と考えられ、鬼道衆はその名の植物を

共通のしるしとして用いるようになる。 そして、百済の王女恵から発した鬼道の系譜

には、まず役行者でしられる修験道の祖役小角(えんのおずぬ)が現われる。

 

その役小角がひらいた聖地のひとつに熊野があり、紀州にことさら修験道と深くかかわっ

ている。 また伊賀も忍びの里として知られているが、忍者たちもまたおのれの系譜を

役小角あたりへさかのぼらせている。

つまり、紀伊は鬼道ゆかりの地ということになり、後に南朝がその土地へ関係を持つ。

 

==>> 小説の中では、王女恵とされていますが、歴史上の人物としては

     聖明王の次男ということになっているようです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E7%8E%8B_(%E7%99%BE%E6%B8%88)

     「『日本書紀』には欽明天皇16年(555年)2月に聖明王(聖王)が亡くなった

ことを知らせるために威徳王が送った使者として恵の名で現れ、威徳王の弟で

あることを記している。」

 

小説の中では、「百済の王女恵から発した鬼道の系譜には、まず役行者でしられ

る修験道の祖役小角(えんのおずぬ)が現われる。」と書いてあるのですが、

インターネットでいろいろ検索しても、それらしき説明はありません。

王女としたところから創作になっていると考えればいいのでしょうか・・・・

 

 

p745

 

「しかし、明らかにわが補陀洛の痕跡がある。 ナガルとムウルが入るずっと以前のものだ」

「汚染はひどいか」

「驚くべきものだ。 無残なまでに生命で満ち溢れてしまっている。 あらゆる生命が

生命をくらって生きている始末だ。醜い世界だ」

 

「母船へ戻ろう」

母船とは、彼らが自分の肉体である円盤からすら離れて存在しうる、一種の安息所に似た

空間である。 補陀洛人はそこで純粋な知性体、すなわち霊魂のかたちで互いに意志を

通じ合わせることができる。

 

==>> 「生命で満ち溢れてしまっている」というのが汚染であるという価値観を

     この宇宙人たちは持っているわけです。 おまけに、その生命同士が喰ったり

     喰われたりしているということですね。

     人間が野菜を食べるのも、生命を喰っているということになるわけです。

     

     そして、この宇宙人、補陀洛人はどんな生命体かと言えば、肉体を持たない

     魂だけの存在であって、高度なインスピレーションみたいなもので意思疎通を

     しているという設定です。

     このような存在としての人間という考え方は、臨死体験などの経験者などに

     よって、語られているようです。

     ギャラップ著・丹波哲郎訳「死後の世界」を読む ― その4 「悪魔を信じる」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/02/blog-post_14.html

「p184

日本では、臨死体験といえば木内鶴彦さんが一番有名みたいです。

「木内鶴彦さんが臨死体験で見た真実」」

 

また、物理学者の中にも、そのような考え方の人がいるようです。

 

理論物理学vs仏教哲学 「神と人をつなぐ宇宙の大法則」を読む

https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post_10.html

「p58

・・・死んで魂だけの存在になれば、距離も時間も関係なくどこにでも行ける

わけですね。

そうです、魂は完全ですから。 完全調和の一部ですからね。

魂の状態になって見てきたとき、認識力はまったく同じですか。

同じにあったそうです。 ただ、個性はだんだんなくなるといっていました。

・・・それで彼(木内さん)は「ヤバイ、このままだと完全調和と合体して

しまう」と思って、東京の病院にある自分の身体のほうを意識して、やっと戻れ

たそうです。

・・・死ぬと個性はだんだん消えるんです。」

 

p748

 

その最後のものを、二千年前とも一千年前ともいって、鬼道衆が伝えているのである。

いま久恵の胎内に在る者こそ、弱肉強食のこの世の掟を定め、緑濃い野山を作り、

魚の群れる海を作り、かくも素早く人を作りだしたその本人なのであった。

 

同時にそれは他の世界にはあり得ぬ地獄を作りだした者でもある。 多すぎる生命は

瞬時も休まぬ生存競争の舞台を生み出した。 互いに殺し合い憎み合い、わずかな愛に

慰めを得るしかない。

 

p749

 

生命の疎をもって常態となすこの宇宙人にとって、ここはいったいどういう意味を持つ

のであろうか。

 

==>> 鬼道衆と呼ばれる怪しい術を使う一族によって外道皇帝と呼ばれる

     ものは、大昔に地球にやってきた宇宙人という設定になっているんですが、

     その江戸時代の地球の状況をみている同じ星からやってきた宇宙人の

     目には、いかにも地獄のような星であると見えているわけです。

     生命が過剰で、溢れすぎているから、互いに喰い合う地獄になって

     しまっているというように見えている。

 

 

では、次回は、 「妖星伝 第二巻の 神道の巻」 を読んでいきます。

 

 

=== 次回その3 に続きます ===

 半村良著「妖星伝」を読む ―3― 神道の巻 ― あり得ぬ神にすがりながら、なおかつ殺し続けている、地獄としての地球という星 (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

 

 

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