半村良著「妖星伝」を読む ―3― 神道の巻 ― あり得ぬ神にすがりながら、なおかつ殺し続けている、地獄としての地球という星
半村良著「妖星伝」を読む ―3― 神道の巻 ― あり得ぬ神にすがりながら、なおかつ殺し続けている、地獄としての地球という星
半村良著「完本妖星伝2―神道の巻・黄道の巻」を読んでいます。
p57
蛇丸が歩み進んだ分は、確実に過去として溶暗しつづけている。
「人の世もこれと同じことなのか」
奇怪なことに、そうつぶやく蛇丸の体が、しだいに縮んでいくようであった。
それは、蛇丸がこの道の四壁を単純なものとして認識した時と、まったく逆のかたちを
取っていた。
・・・蛇丸はたしかにその道のありように畏敬の念を覚えていた。単純無類のその道が、
実は人の生きる道そのものと同じようだと感じたとたん、彼は世界の大きさを知った
のである。
「このようなとほうもないものをこしらえた者は、いったい何者であろうか」
いまや巨大な空間の底に、豆粒ほどもない大きさとなって歩き続ける蛇丸は、そう
つぶやいていた。
・・・
「神よりも大いなるもの・・・・」
蛇丸はいまやあるかなきかの卑小な存在として宇宙を観ていた。
==>> この蛇丸というのは鬼道衆の一人なんです。
敵対する鬼道衆の縄張りに潜り込んで、宇宙人が作った地下の秘密基地
みたいなところに侵入するのですが・・・・・
p74
「九十九通りの生きざまを通り抜けた」
「なんと仰せられる。 九十九通りの・・・」
「カタリを求めて胎内道に入り、赤目に追われて九十九の穴を通った。 ひとつとして
同じ穴はなかったが、みな人の生きざまであった。 人の・・・いや、生き物のだ」
老僧は明らかに緊張していた。 常になく鋭い声で僧の一人に衣服の用意を命ずると、
その男の前にひざまずいて再び尋ねた。
「胎内道へ入られたのか」
==>> これが何かと言えば、外道皇帝と呼ばれる宇宙人が、大いなる昔に
地球に到着し、人間、いやそれよりもずっと前の生物の進化の途中に
DNAとなって姿を隠し、生物の進化の生きざまを、その胎内道という
地底の秘密基地に「カタリ」として残していたようです。
p75
裸行上人。 紀伊熊野に深く根づいたいい伝えである。
裸行上人が熊野に現われて仏教を弘めたのは、遠く仁徳帝の頃であったという。
一般に仏教伝来の年とされているのは第二十九代欽明帝の十三年であり、仁徳帝は
第十六代、したがって世にいわれるより二百数十年も早いことになる。
その裸行上人が那智大滝一帯を霊域とさだめ、このあたりを観音浄土、すなわち
ポータラカと命名したことになっている。 那智の補陀洛山寺はそのポータラカを
あてた名であった。
==>> さあ、ここで補陀洛山寺と裸行上人についてチェックしましょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%9C%E9%99%80%E6%B4%9B%E5%B1%B1%E5%AF%BA
「補陀洛山寺(ふだらくさんじ)は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある、天台宗
の寺院。補陀落とはサンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の
音訳である。」
「仁徳天皇の治世にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人によって開山
されたと伝える古刹で、平安時代から江戸時代にかけて人々が観音浄土である
補陀洛山へと小船で那智の浜から旅立った宗教儀礼「補陀洛渡海(補陀落渡海
とも)」で知られる寺である。」
「補陀洛は『華厳経』ではインドの南端に位置するとされる。またチベットの
ダライ・ラマの宮殿がポタラ宮と呼ばれたのもこれに因む。中世日本では、遥か
南洋上に「補陀洛」が存在すると信じられ、これを目指して船出することを
「補陀洛渡海」と称した。」
p77
青岸渡寺に稀代の名僧が出現した。
そういう噂が瞬くうちに近在の村々に拡まっていった。
「裸行上人の生まれ変わりだそうな」
==>> このお寺もwikipediaに解説がありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B2%B8%E6%B8%A1%E5%AF%BA
「青岸渡寺(せいがんとじ)は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山にある
天台宗の寺院。山号は那智山。
ご詠歌:補陀洛(ふだらく)や岸うつ波は三熊野(みくまの)の 那智のお山に
ひびく滝津瀬(たきつせ)」
・・・・著者・半村良さんの想像力、連想力の凄さでしょうか。
宇宙人(補陀洛人)が古代につくった地底基地で「カタリ」の正体を見た
蛇丸という鬼道衆が、滝の中に裸で現われて、この青岸渡寺の坊さんたちに
崇められる名僧になるという筋書きです。
p146
「たとえばその昔、上宮乳部之民と申さば、上宮聖徳太子ご養育の者どもを指します」
日天は空を仰いて喚いた。
「なんと、なんと・・・・なんと。 なんと鬼道は京の帝一族にかかわっておるのか」
・・・
「たしかに勝道上人は白光を発して飛ぶ、あの灯明皿のような物に会ったのであろう。
でなければ、厳朝という名を勝道に改めたりはせぬ。 勝道・・・それはおのれの先達
に法道の名があったことを知ればこそつけられた名に違いない」
・・・
法道仙人と呼ばれている。 聖徳太子と同時代の人である。
・・・
史書によれば、最も早い仏教布教者の一人であり、この国の人ではなかったように
記されており、役小角もこの仙人の門下から出ている。
==>> この小説の中では、時々天皇家と鬼道の接触をほのめかす表現が出てきます。
鬼道の大元が宇宙人であって、生物のDNAに潜り込んで生き延びてきた
という構想ですから、熊野周辺を背景として、南朝の天皇家を結び付けるのも
ありかと思います。
ところで、ここに出てきた「白光を発して飛ぶ、あの灯明皿のような物」と
いうのは宇宙船、UFOのことを描いているようです。
宇宙人=外道皇帝=補陀洛人=ポータカラ人=観音浄土の人というわけです。
これはまったくの道草ですが、先日云十年ぶりに日光に散歩に行ったところ、
こちらのような名前のお店がありました。
補陀洛(ふだらく)本舗という和菓子屋さんでした。
このサイトに興味深いことが書いてありました。
「補陀洛(ふだらく)とは
今から約千二百年程前(天平神護二年)、日光を開かれた「勝道上人(じょう
どうしょうにん)」が男体山(なんたいさん)を補陀洛山(ふだらくさん)と
命名されました。
後に二荒山(ふたあらさん)と転化し、さらに音読により二荒山(にこうさん)
となり、「弘法大師(こうほうたいし)」により日光山(にっこうさん)と改名さ
れました。
つまり「日光」という地名の源と云われております。」
勝道上人についてはこちら:
http://jpsekaiisan.com/category2/entry180.html
法道仙人はこちら:
https://kotobank.jp/word/%E6%B3%95%E9%81%93%E4%BB%99%E4%BA%BA-1138179
「兵庫県加西市にある一乗寺を中心に活躍したという伝説上の仙人。6世紀半ば
に,天竺の霊鷲山から渡来した仙人で,方術を駆使し,特に「飛鉢の法」を行った
ことで知られる。」
・・・飛鉢の法・・・などというのがなんだか分かりませんが、UFOを
連想させますね。
「飛鉢法(ひはつほう)」がこちらにありました。
https://kotobank.jp/word/%E9%A3%9B%E9%89%A2%E6%B3%95-1400002
「《信貴山縁起絵巻》飛倉の巻が描く,命蓮(みようれん)が鉢を飛ばして長者
の米を倉ごと運んでしまう話は,古く大江匡房《本朝神仙伝》の,比良山の僧が
仙道を学び飛鉢法を行う話とつながる。」
・・・なんと、お布施となるべきお米を、一方的に強奪するUFOみたい
な器なんですね。おそろしい術です。
p176
「この星のひみつは、因果律の乱れにあったのだ」
彼ら補陀洛人たちは、とうにこの星の生命進化が突然変異に頼っていることを知って
いた。 しかし、それがこの星の単なる現象ではなく、この星の存在そのものを示す
ひとつの信号であるとは、いままで考えてもみなかったのである。
「生命の系全体が信号になっていたのだ」
p177
「どうする」
暗黒の虚空に浮かんだ母船の中で、補陀洛人たちは協議をはじめた。
彼ら補陀洛の精神文明を破壊する惧れのある、ムウルとナガルを追ってここまでやって
来たのであった。
・・・
「この星の生命相の醜怪さが、何らかの情報を伝えようとした高度の知性体によるもので
あるとすれば、宇宙道徳に反して未熟な天体の生命進化に重大な介入を行ない、あえて
汚染したことの意味はひじょうに大きいとしなければなるまい」
==>> これは、地球という星が、宇宙全体の中でのルールからすれば
「醜怪」なものになってしまっているのだが、それがどのような意味をもつ
信号なのか・・・という点が、私にはさっぱり理解できません。
「この星の生命進化が突然変異に頼っている」という点が問題なのか??
小説の流れを私なりにつないで考えると、
ムウルとナガルという補陀洛人は、なんらかの「補陀洛の精神文明を破壊する
惧れのある」二人であって、それが地球に逃げて来た。
それを逮捕すべく、ここで協議している補陀洛人たちが宇宙船にいる。
そこで、この地球という星に、大昔から住んでいる外道皇帝と呼ばれる
補陀洛人の痕跡があって、その二人の逃亡者をなぜかかくまっている・・・
というような状況らしい。
p205
いずれにせよ、生命進化の窮極のかたちとして、肉体を不要のものにした補陀洛人にも、
その不滅の生命活動を一時停止させてしまう方法が残されていた。
それが極低温である。
その温度領域では、水素が液化し原子の熱運動が零に近くなる。 超流動や超電気伝導
が起こり、この星の人々がいう霊魂すら、それらの現象に支配されて自律性を失う。
==>> これって科学的に正しい話なんでしょうかね?
極低温になると、霊魂すら動きが鈍くなってしまうってことですよね?
以前読んだこの本のこの部分を思い出してみます。
保江邦夫著 「神の物理学 甦る素領域理論」 ― 湯川秀樹の「素領域理論」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post_65.html
p13
・・・同期の鬼才・中込照明・・・・彼が苦節数十年の孤独な研究によって
生み出した唯心論物理学の抽象的な理論である「量子モナド理論」の緻密極まり
ない数学的枠組みがあったからこそ、そしてそれが現代物理学の根底に巣く
っていた量子論と相対論の未解決の難問を見事に解決したからこそ、それを
すばらしい手本として形而上学までを包含しうる素領域理論の柔軟な理論的
枠組みを作り上げることができた・・・・・
==>> まず最初に、保江さんが、どのような人脈の中でご本人の
「素領域理論」を作り上げてきたのかについて書いてあります。
そもそもこの「素領域」という考え方は日本初のノーベル賞受賞
をした湯川秀樹博士による発想だとのことです。
その後、この著者である保江さんが、湯川門弟として研究を
継承したようです。
https://kotobank.jp/word/%E7%B4%A0%E9%A0%98%E5%9F%9F%E7%90%86%E8%AB%96-90431
「四次元時空を分割不可能な最小領域 (素領域という) に区分し,
エネルギーが加わって励起された素領域が素粒子であるとみなして,
素領域間のエネルギーの授受によって素粒子の生成・消滅などを論じ
ようとした試論。 1966年湯川秀樹により提唱された。」
=====>> 上に書いてあった、「四次元時空を分割不可能な最小領域 (素領域と
いう) に区分し,エネルギーが加わって励起された素領域が素粒子である
とみなして」・・・ということから、凡人たる私が妄想すれば、
「極低温になると、霊魂すら動きが鈍くなってしまう」と言うことが
できそうな気がするんですけど・・・・・
p225
「その最も大もとには何があるのだろう。 なぜ人はこの世に生を享けたのだ。
なぜ・・・人とはこの世の大勢の人のことだ。 俺もお主もその一人でしかなく、
大きな河のように過去から未来へ流れる命の流れがあるのだ。 なぜそのような
命の流れができたのだ。誰が作ったのだ」
「木が生え葉をつけ実を生じる。 それをなぜだと訊いても判る道理がない」
「判らなくても知りたいのだ」
「無理をいう」
玄斎は笑った。
・・・
「俺の見るところ、鬼道は人間発祥の根本にかかわっている」
==>> ここは栗山と玄斎の会話なんですが、栗山の素朴な根源的問いは、
もしかしたらこの著者である半村良さんのテーマなんじゃないかと
感じます。
栗山って誰?なんですが・・・一揆侍ということになっていまして、
各地で発生する農民の一揆をサポートする侍のNPOみたいな感じかな?
玄斎は戸田玄斎で僧侶だと思うんですが、読み直して相関図を描いてみないと
よくわかりません。 読み直す気力はありませんが・・・・
足利学校にあるという古文書を探したいという怪しげな僧侶・・だったかな。
p230
「そうだ。 この星に生まれたら、他を殺さねば一刻も生きられないのだ」
「だからこの星の者は神を作った」
「憐れだ。 全宇宙でも、これほど悲しい命はないぞ」
「あり得ぬ神にすがりながら、なおかつ殺し続けている」
「歩けば虫を踏み潰す」
「恐ろしいことだ」
「神を欲するわけだ」
==>> この巻は「神道の巻」ではあるんですが、それらしき描写が出てくるかと
いうとそうでもないんです。
そこで、ここに「神」という言葉が出てきましたので、一応神道になんらかの
教義みたいなものがあるのかを再確認しておきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93
「神道(しんとう、しんどう)は、日本の宗教。惟神道(かんながらのみち)
ともいう。教典や具体的な教えはなく、開祖もいない。神話、八百万の神、自然
や自然現象などにもとづくアニミズム的・祖霊崇拝的な民族宗教である。
自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、
その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。」
・・・はい、教義と呼ばれるものは無いんですね。
「だからこの星の者は神を作った」という上記の言葉は、日本の神道ということ
にはならないような感じもするんです。
仏教であれば、明らかに「不殺生戒(ふせっしょうかい), - 生き物を故意
に殺してはならない。」という戒律がありますね。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にも、「汝殺すなかれ」はあるようです。
モーセの十戒の6番目の戒律になっています。
この十戒での「汝殺すなかれ」は、宗派によって微妙に意味が異なるようですが、
基本的には「人間を殺すな」ということのようです。
その意味でいうならば、この小説での「だからこの星の者は神を作った」の意味
は、仏教あるいはモーセの十戒のことであって、神道ではないように思えます。
p278
肉体から解放された彼らの生命は、いともかるがると星々の間を飛び交う自由を得ている。
しかし、本質的に肉体を失ったものの闘争のかたちを、日天や信三郎がどう理解できよう。
日天たちのそばの草の上に座った小太郎と星之介の体は、すでに魂の脱け殻といっても
さしつかえない状態である。 彼らの精神はその借りものの肉体を踏み台として、夜空の
どこかへ跳躍して行ってしまっている。
東の持国天王は小太郎の精神であった。 南の増長天王は石川星之介。 その両者は
協力して闇の旦那である北の多聞天王にたち向かっていた。
・・・しかし、多聞天王である闇の旦那は虚空の一角にひそむ母船に在り、他の補陀洛人
たちの助勢を受けている。
==>> この小説では、どっちが善人でどっちが悪人なのかがはっきり書かれている
わけではないので、この場合に小太郎と星之介が、母船を背景にしている
闇の旦那との戦いに、どういう意味で闘っているのかがはっきりしません。
また、ここでなぜ、持国天と増長天vs多聞天という構図にしてあるのかも
意味不明です。
こちらに四天王の説明がありますが、広目天を除いたものがここに出てきて
いることになります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B
「四天王は早くから日本でも信仰されていた。『日本書紀』によれば仏教を
めぐっておこされた蘇我馬子と物部守屋との戦いに参戦した聖徳太子は、
四天王に祈願して勝利を得たことに感謝して摂津国玉造(大阪市天王寺区)に
四天王寺(四天王大護国寺)を建立したとされる。」
・・・ここでも、聖徳太子の時代の仏教vs神道がらみの話を連想させる
事柄が書かれていますので、著者にはなんらかの意図があるのでしょう。
p379
天道尼は優しい微笑を浮かべていった。
「ただ、外道皇帝の作った輪廻蔵は、巨きな髑髏の形をしているそうです。 それは、
前に立つ者におのれの居場所をくわしく教え、おのれが本来何者であるかを詳しく
知らせるといいます」
なぜか、その細い声はかなり離れた栗山たちの所にまで届いていた。
「カタリのことだ・・・・」
栗山は愕然としたようにいった。 紀州胎内道の、あのおぞましくもまた不可思議な
体験が蘇ったらしい。
==>> カタリとは宇宙人・外道皇帝が作ったと思われる「語る髑髏」のことなんですが、
それが紀州胎内道とある宇宙人の秘密基地みたいなところにあるわけです。
そしてそこは、赤目と呼ばれる、人類が退化したような生き物によって
守られているんです。
ところで、ここに出て来た天道尼というのも正体不明の人物でして、
鬼道衆なのかあるいは補陀洛人なのか、はっきりとは分りません。
しかし、最後には、黄金城とも宇宙船とも思われる異界に入るための
重要なカギとなる人物で、壮絶な最期、破戒仏のような最期をとげることに
なります。
p390
「・・・・宇宙一般の考え方からすれば、それは正しくない。 鬼道衆がこの世の美を
美と観ぜず、この世の幸福を悪と感じてこれを滅ぼそうとするのは、外の世界の考え方
に立脚している」
「地獄の星・・・・」
「「そうなのだ。 ここはまさに地獄そのものだ。 だが、我々もようやく気付いたの
だが、この星ももとからいまのような地獄ではなかったらしい。 はじめは宇宙によく
ある、ごく平凡な生命相を持つ星だったようだ」
「なぜそれが・・・」
「このようにした者がいるのだ。 この平凡な星に、生命を溢れさせ、いまのお主らの
ような知性体を発生するまでに仕上げた者がいるのだ」
「それが外道皇帝なのでございましょう」
「そうだ」
==>> ここで、この小説の核心部分にふれるような会話が出てくるのですが、
それでもなお、何の目的でこの外道皇帝とされる宇宙人が、地球を地獄の星に
変化させたのかが理解できません。
まだまだ、この本は7巻の中の3巻目ですから、いずれそれが解明されるの
でしょうが・・・・
基本的な考え方は、宇宙一般の美しさからすれば、地球という星は汚された星
になってしまった地獄であるから、醜く不幸な星であるというのが正常な
見方であって、それが鬼道衆の見方であるということのようです。
p402
「物の変化」
「そうだ、物が変化することがすなわち時だ」
「それはおかしゅうございましょう」
青円は反論した。
「時がうつろうからこそ物も人も変化するのではございませぬか」
「さて、その逆を儂は考えていたのだがな。 かりに、物のまったくない場所を考えて
みよう。 そこで果たして時がうつろうであろうか。 かりに時がうつろうたとしても、
いったい何によってそれをたしかめるのだ」
==>> さあ、ここは日円と青円という二人の日蓮宗不受不施派の僧の会話になって
います。 この二人は鬼道衆ではないのですが、なぜか最後には宇宙船に
乗って宇宙旅行をするという不思議な役回りになっています。
それが何故なのかは、私には最後まで分かりませんでした。
この本がいかに哲学的な本なのかというのがこの辺りに出ているように
思います。あるいは、物理学的というべきかもしれませんが。
子どもの頃は時間がゆっくり移り変わり、高齢者になるとあれよあれよと
いう間に時が過ぎてゆくというのは、ここに書かれているような「物の変化」
なのかもしれません。
つまりは、意識されるモノゴトが多い間が時はゆっくりと流れるような
気がします。
さて、「神道の巻」を終わりました。
しかし、どこが「神道」だったのかが、私にはピンときていません。
次回は、「黄道の巻」を読んでいきましょう。
==== 次回その4 に続きます ====
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