李在鎬著「認知言語学への誘い」を読む ― その2 ヂルバル語では、「バラン」という言葉は、女性、火、危険物を意味する? イヌは食べ物か「人」か
李在鎬著「認知言語学への誘い」を読む ― その2 ヂルバル語では、バランという言葉は、女性、火、危険物を意味する? イヌは食べ物か「人」か
李在鎬著「認知言語学への誘い ― 意味と文法の世界」を読んでいます。
「第2章 視点と言葉の意味」に入ります。
p22
「もの+を+始めました」というパターンは、見かけとは違った特殊な事柄を示す
ことが多い・・・・ものの部分に入る名詞の解釈に意味的な付加現象、つまり動詞との
関係で、名詞に別の意味解釈が加わることがある。
p23
a.
メールを始めました。
b.
ピアノを始めました。
c.
ダンスを始めました。
・・・「通信手段としてメールを使い始めました」
・・・「ピアノを習い始めました」
・・・「ダンスを習い始めました」・・「ダンスを踊り始めた」
実際の使用文脈を見ない限り、その意味を確定することができない。
==>> 「ピアノを始めました」の場合は、「ピアノを教え始めました」でもいいし、
「ピアノを作り始めました」でもいいし、職業によって別の意味で使え
ますね。 ダンスの場合なら、「ダンス教室を始めました」の意味にも
使えまし、「いままでは、日舞でしたが、ダンスをやり始めました」という
意味にも使えます。 やはり、文脈ですね。
p024
「冷やし中華を始めました」に始まった一連の議論から、日常の言語表現が持つ難しさ
を垣間見ることができる。
・・・「言葉の意味とは何か」というのは簡単なようで実に難しい問いであり、言葉を
専門的に研究する者にとってもその問いに即答できるものは少ない。
・・・「意味」という存在は物理的に経験することができない。 意味は目で見て確かめる
こともできなければ、触って感じることもできない。 だからといって、意味というものが
言語にとって存在しないかと言えば、それも極論ということになるであろう。
==>> 確かに「意味」って何なのでしょうねえ。
それが知りたくて、この本を読んでいるんですけど・・・・
実感的には、脳の辺りにありそうな感じがしますけどね。
難しい本や不思議な本を読んでいて、その意味をひねりだそうとすると、
頭が痛くなりますから、それが証拠です。
p027
言語表現の意味を外部世界との対応づけのみで捉えるアプローチは、単純すぎる部分
があり、言語の複雑さや多様性を捉えるモデルとしてはやはり不十分であるという
ことになる。
==>> ここで書かれている例文は:
「この本は面白い」「この本は高い」「この本は汚い」というものです。
面白いのは内容、高いのは値段、汚いのは装丁の外側、というように、
外部世界だけでは表現できない内面的なものということになります。
p029
認知言語学では、発話者であり、認知主体である私たちがどのような見方や視点で
世界を捉えているかという視点から新たな意味のモデルを構築し、研究を進めてきている。
・・・出来事と実際の発話の間には必ず認知をする私たち自身が介在するからである。
・・・個々の発話者が自らの立場を踏まえて再解釈したものであるという見方ができる。
==>> 立場によって意味が違ってくるという文例が書いてあります。
a.
かなり良い値段で車を買った。
b.
かなり良い値段で車を売った。
・・これは、買い手と売り手の立場の違いです。
意味的には、買い手は安いと思い、売り手は高いと感じているという話。
p043
助数詞は多種多様である。 その証拠として現代日本語に限っただけで、500種類以上
の助数詞があると言われている。 ・・・助数詞は個々の発話文脈に対して非常に柔軟
である。
「3本の鉛筆」
「3本のチューリップ」
「3本のサッカーボール」
「3本のコブラ」
「敗者復活戦で1本の魚しか検量してもらえなかった」
「漁師が3本のマグロを解体した」
「母が3本のサンマを買ってきた」??
==>> ここでは助数詞が非常に多いこととともに、その使われ方はかなり
柔軟であることも書かれています。
上の例で言えば、漁業関係者が魚を本と数えるのは自然ですが、
一般家庭の母親が買い物の際にサンマを本と言うのは不自然に感じられると
いうことが書いてあります。
助数詞にはどんなものがあるか:
「ものの数え方」217種類まとめ
https://origamijapan.net/origami/2018/02/19/kazoekata-list/
こういう数え方を気にしていたら、しゃべれなくなりそうですね。
p045
助数詞のカテゴリー化には(対象の物理的な属性だけでなく)、話し手の「視点
(perspective)」が深く関与していることを示す言語現象・・・・
p046
「一試合で3本のホームランを打った」
「彼は今年だけで3本の論文を書き上げた」
「彼は毎日3本のラジオ番組に出演している」
「今日は3本の電話に対応した」
「一週間で3本のビデオを観た」
「彼の議論は3本の柱によって構成されている」
==>> ここでは、「数える対象が具体的な形状を持たないもの」を本と数える
場合と、 「電話による交信の回数」「ビデオ作品の数」「言語化されない柱
の数」を数えるケースを例示しています。
こういう使い方は、日本語教師として「なぜか」を教えるのは無理ですね。
「長い物」は「本」と数えると言う形状による数え方から外れますから。
p048
助数詞の使用が単に対象が持つ外的特徴に基づく受け身的な使用としての側面だけで
ないこと、 言語の使用者による積極的な意味づけのプロセスや主体的な解釈の
問題が深く関与していることを示唆すると言える。
p049
助数詞には、話し手の主観性が多分に反映されており、助数詞の複雑な用法は人間と
環境の相互作用によってもたらされるという指摘が見られる。
ペットとして犬や猫を飼っている人の中には、動物であるにもかかわらず「匹」では
なく、「人」で数える場合がある・・・・
==>> ここの「まとめ」としての一つには、
「規範的な制約のみでは記述しきれない現象が存在すること」と
書いてあります。
ペットをパートナーと呼び、「人」と数えるのは、確かに人間と動物の
「相互作用」と呼ぶしかないのかもしれません。
「第3章 カテゴリー化と日常言語」
p052
オーストラリア原住民の言語であるヂルバル語では、バランというカテゴリーがあり、
そこには、女性、火、危険物が含まれるという。 女性と火と危険物が一つのカテゴリー、
一つの意味的な群れをなすということは、当然ながら、何等かの点で、これらすべてに
共通する特徴があるということになるが、それは何だろうか。
・・・バランは「女性、火、危険物」に加えて「カモノハシ、フクロアナグマ、
ハリモグラ」などの成員を含むカテゴリー名であると指摘されている。
==>> この解釈については、いくつか考えられているようですが、なんとなく
分るような分からないような概念ですね。
動物も含めて、「取り扱い注意」ってことでしょうかね?
p055
カテゴリーをめぐる論争の歴史は非常に古く、主として哲学や認知科学の分野で盛んに
議論されてきた。 研究史の観点から見た場合、アリストテレスの範疇論に代表される
古典的なカテゴリー論からウィトゲンシュタインの家族的類似性モデルを経て、
ラボフによるファジーカテゴリー理論やロッシュによるプロトタイプ理論に至る
までの流れを理解する必要がある。
・・・典型的な例として数学の「奇数」と「偶数」のようなカテゴリーを考えると
分かりやすい。
・・・しかし、古典的カテゴリー化モデルでは私たちの知的広がりが説明できないと
哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは指摘しており、家族的類似性に
基づく新たなカテゴリー化モデルを提案している。
p057
ゲームというカテゴリーの特徴としてウィトゲンシュタインが指摘しているのは、
必要十分な共通の特徴を見出すことが困難だという点である。
==>> まあ、内容はそのとおりだと思うんですが、一番驚いたのはここに
ウィトゲンシュタインの名前が出て来たことです。
既に入門書を読んで、感想文を書いた哲学者ウィトゲンシュタインですが、
私には難し過ぎて結局理解できませんでした。
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/01/blog-post_99.html
その哲学者の名前がこんなところに出てくるとは・・・・
もっとも、下にリンクで確認してみると、『論理哲学論考』『哲学的文法』など
言語学関連の論文もあるようですし、「以後の言語哲学、分析哲学に強い影響を
与えた。」と書いてありますので、不思議なことではないのですが。
p061
食べ物のカテゴリーを考えてみた場合、豚や卵といった成員は疑うことなく、典型的な
成員であると言える。 一方、馬についてはどうだろうか。 カエルについてはどう
だろうか。 さらにイヌについてはどうだろうか。 これらの成員を食べ物と捉える
かどうかは個人の経験や個人がおかれた文化圏によっても異なる。
==>> まあ、これはちょっと世界を見わたせばすぐに解ることですが、さらに
日本国内においてすら地域的、個人的には、特に最近は異なるのでしょう。
私が日本語を教えた時にも、単語のカテゴリー分けを、絵カードを使って
学習者に答えさせながらやったのですが、結構笑いが取れる授業になります。
特に、「食べるもの」なのか「動物」なのか、という区分です。
私が住んでいたバギオ市は、高原避暑地でありまして、元々山岳民族が
住む山岳地帯なのですが、そこではドッグ・マーケット、つまり犬の市場が
昔から伝統的なものとしてあって、「食べるもの」に入るわけです。
(今は一応条例で禁止されていますが・・・)
それに、猫なんですが、私が住んでいたアパートの大家さんちで働く
お兄ちゃんに聞いてみたところ、低地にある彼の田舎では、猫を布袋に入れ、
そのまま大鍋で茹でて「食べるもの」にしていたそうです。
(今はさすがにないと思いますが・・ないとは断言できません・・)
ちなみに、もう二十数年ぐらい前には、バギオの勤めていた会社の眼の前にある
大衆食堂で犬肉を煮込んだものを食べたことがありますし、海辺のレストラン
で、犬肉の酢漬けを食べたこともあります。シメサバのような感じです。
p065
スキーマに基づくカテゴリー化モデルである。 スキーマとは、人工知能の分野では
特定の構造を持った知識あるいはその表現方法のことを指すが、認知言語学においては
(複数の定義があるが、もっとも一般的な定義で言うなら)より抽象的で簡略化された
表象のことを指す。 たとえば、「他動詞」は「壊す」や「決める」に対するスキーマ
として位置づけられる。 また「動詞」は「他動詞」に対して、スキーマということに
なる。
p066
認知言語学では、スキーマの考え方とプロトタイプの考え方、さらには現実の拡張事例
を融合させつつ、よりダイナミックな関係性を捉えるため、独自のモデル化を行なって
いる。
==>> ああ、面倒ですねえ。 カテゴリーまではピンとくるんですが、
スキーマだとかプロトタイプだとかカタカナ用語が出てくると、意味をとる
のが、私としては難しくなってしまうんです。
言語学の分野なんだから、日本語で熟語を作って意味が解り易い形に
してくれないもんですかねえ。
昔、特に明治の頃に、さまざまな翻訳語を漢字で作った先人は本当に偉い
とつくづく思います。
漢字の熟語だと、その意味のイメージが、すぱっと入ってくると思いませんか。
まあ、言語学の分野だけの話じゃなく、一般のニュースなどに出てくる語彙も
同じなんですけどね。 カタカナ言葉が多すぎて、意味がとれません。
p071
認知言語学の研究成果によって、多義性の問題は単語や語彙の問題に限られることなく、
句や文といったさまざまな言語的単位において同様に観察されることが明らかになった。
そのことから多義性の問題は意味論研究の中核であるべきと再評価されるようになった。
==>> 同音異義語だけではなく、おなじひとつの語彙にも複数の意味があったり、
それが文脈によっては意味が変わったりしますから、大変です。
特に、うちのような高齢者二人の家庭内の会話は、極端に省略された会話に
なっていますので、どういう意味で発しているのかが度々分からなくなる
ことがあります。
よく言われている高齢者の会話としては、
「あれ、なんだったっけ?」、「あれって何?」、
「この前、あそこに行ったときのあれだよ」、「あそこってどこ?」
・・・これで分かるようなら、相当な以心伝心ですけどねえ・・・
この以心伝心を媒介する「意味」はどこに浮かんでいるのでしょう。
では、次回は 「第4章 イメージと言語表現」に入ります。
=== 次回その3 に続きます ===
李在鎬著「認知言語学への誘い」を読む ― その3 「きれかった」は「違くない?」、 NHKよお前もか! 生成文法と認知言語学 (sasetamotsubaguio.blogspot.com)
========================
コメント
コメントを投稿