永井均著「ウィトゲンシュタイン入門」を読む ― その1 私はなぜこの私なのか、なぜ隣のあの人ではないのか?
永井均著「ウィトゲンシュタイン入門」を読む ― その1 私はなぜこの私なのか、なぜ隣のあの人ではないのか?
正直言って、私には永井均さんの本は理解を超えているんです。
実は、既に以下の2冊をそれぞれ1~2回は読んでみたのですが、さっぱり頭に
入ってきませんでした。
「なぜ意識は実在しないのか」
「これがニーチェだ」
そこで、なんとか理解の糸口になる本がないかと探して、この「ウィトゲンシュタイン入門」
を読むことにしたのです。 なぜかと言うと、永井均さんがウィトゲンシュタインに
影響を受けたと書いていたからです。
ということで、既に3回は読んだのですが、それでも分からない。
この4回目の読書で、無理やりに感想文を書きながら、少しでもヒントになる文章が
ひっかかってこないかを試しにやってみようと思います。
従って、文脈が理解できない本の内容は支離滅裂になる可能性の方が高いことを
あらかじめお断りしておきます。
まず、何が私にとって理解不能なのかということなんですが、
ひとつは、永井均さんの感性の鋭さが、生来私にはなさそうだと気付いたこと。
もうひとつは、「入門」と書いてあるのですが、著者も断っているように、単なる一般的
な哲学入門の本ではなくて、読者も一緒に哲学しなさいという本なんです。
つまり、知識としてウィトゲンシュタインの哲学を読むということではなく、この本を読み
ながらあなたもあなたなりの哲学をやりなさいということのようなんです。
私が永井均さんの名前を知ったのは、「汎心論」という哲学があるということを知った
現代思想という雑誌からでした。
「「汎心論 : 21世紀の心の哲学」を読む その1 物理的存在が意識経験をもつ」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/12/post-3ec8ec.html
「p22
なぜ私は過去の私の体験を、他者が体験を語るのを理解するときのように、生々しさ抜きに
表象することができないのか。
・・・
哲学的には、それはできなくはない・・・・つまり、自分の体験を思い出すときにそういう
ふうにしか思い出せない人を記憶ゾンビと呼ぶなら、記憶ゾンビは可能です・・・
・・では、記憶ゾンビの人は何を失うのか。
・・・これはクオリアの欠如という有名な問題なのですが、その問題の本当の意味は何かと
いうことについて、かつて「なぜ意識は実在しないのか」という本を書いたのですが、
残念ながらほとんど理解されていません。」
==> 今、ここ、という質感を伴うクオリア、意識。それが欠如したら、哲学的には記憶
ゾンビと言うらしい。AIには、このクオリアを実現することはできないという
科学者と、実現できるという科学者がいるようですが。さて、どうなるのでしょう。
上記の「なぜ意識は実在しないのか」という本を早速注文しました・・・・が、
多分わたしには理解できないのだろうと思います。
(途中まで読みましたが、異次元のような感覚なので、一旦ギブアップしました。)
==>> ということで、ギブアップしていたのです。
ご本人も「なぜ意識は実在しないのか」という本を書いたのですが、残念ながら
ほとんど理解されていません。」とはっきり書いているように、私にも理解は
出来ませんでした。
前置きが長々となりましたが、ゆっくりと理解のキッカケを掴むために
この「ウィトゲンシュタイン入門」を読んでいきます。
p008
哲学がどんなに魅力的なものか、一度も「哲学」をしたことがない人に、何とか伝え
たいと思った。しかし、とりわけウィトゲンシュタインの哲学は、彼と同じ問いを
みずから持ち、彼と同じように徹底的に考えてみようとする人しか受けつけない、
という側面を持つので、それは至難のわざであった。
だから当然、この本はまた、解説書や概説書ではない。
==>> まず、しょっぱなからこれですからねえ。
「おめえさんには資格がないよ」と言われているようなもんです。
ウィトゲンシュタインという哲学者がどのような人かはおいおい分かって
くると思いますが、今までに3回ばかり読んだ全体的な印象で言うならば、
ウィトゲンシュタインが右往左往しながら哲学した軌跡を永井均さんが
突っ込みを入れながら一緒に哲学しているという感じです。
p009
哲学にとって、その結論(つまり思想)に賛成できるか否かは、実はどうでもよいことなの
である。 重要なことはむしろ、問題をその真髄において共有できるか否か、にある。
優れた哲学者とは、すでに知られている問題に、新しい答えを出した人ではない。
誰もが人生において突き当たる問題に、ある解答を与えた人ではない。 これまで誰も、
問題があることに気づかなかった領域に、実は問題があることを最初に発見し、最初に
それにこだわり続けた人なのである。
==>> ここを読むと、やっぱり私には無理だという思いが強くなりますね。
私が今までにいろんな本、特に哲学や宗教関係の本を読んできたのは、
どのような思想があるのか、自分の漠然として疑問になんらかの答えを
出してくれる本はないか、私好みの文章で「ああ、これだ」と感じる
考え方がないか、と探しているような読み方ですからね。
つまりは、その表現が私の感性に合っているかどうかという判断ですね。
p010
どんな哲学も、その真髄は少数の人にしか理解されない、というより、そもそも少数の
人にしか関わりを持たない。 だが、もしウィトゲンシュタインがあなたに関わりを
持つとすれば、それを知らずに人生を終えることは、無念なことではないか。
そのために、この種の「入門書」があると言えるだろう。
==>> 確かに、「そもそも少数の人にしか」関わりを持たない、理解されないと
いうことは理解できるような気がします。
多分、自然科学の最先端の理論なども、そのようなものではないかと
感じます。 実際、アインシュタインの相対性理論にせよ、量子論などの
最先端理論にせよ、本当に理解しているのは世界に数えるほどしかいない
そうですから。
ただし、自然科学の場合は、その新しい理論を元にして、数十年後には
なんらかの技術革新という領域で具現化されるということはあるかも
しれません。
まあ、そこまで大袈裟に言わなくても、いつも同じ家の中に一緒に暮らして
いる家族のことだって、分かっているのかとマジで訊かれたら、
「わかりませ~~ん」というほかはないですからね。
p015
それは、かんたんに言えば、「私はなぜ、今ここにこうして存在しているのか」という
問いであった。 小学校の三、四年生のころ、自分でも問いの意味がよくわからない
ながら、よくそんなことをぼんやりと考えていたのを覚えている。
p016
小学校高学年から中学生になるころには、もっと明確に「なぜこの子(つまり永井均)
が自分であって、隣にいる子が自分ではないのか」という疑問をしばしば考えた。
・・・だが、もっと不思議なことは、まわりの誰もそんなことを不思議がっているように
は見えなかったし、学校の勉強では、どの教科でも、いつまでたっても、そんな問題を
とりあげそうにない、ということだった。
==>> 私に関していえば、このような疑問を持ったことは七十を超えた今まで
ほとんど一切ありませんでした。 それだけぼ~~っと生きてきたということ
だと思います。
しかし、我が家の相棒は、小学生の頃にこの永井均さんと同じことを考え、
そして、死というものがとても怖いものだったと言います。
私は死を怖いと思ったことはありません。
幼い頃に、友達と遊んでいて、崖から落ち、医者から「ご臨終」を宣言
されて、一度死んでいますので・・・・
おそらく、この本は私よりも、我が相棒の方が頷けるものではないかと
思います。
そこで私の、この本を読む動機付けとしては、共感することよりも、
このように感性が異なる、あるいは脳のニューロンネットワークが異なる
人の発想がどのようなものなのかを知りたいという方向になってきました。
平たく言えば、好奇心です。
p017
私が言いたかったのはこういうことだ。 これまで無数の男女がセックスして、無数の
子どもが生まれてきた。 これからも生まれてくるだろう。 そのうち一人が私であった。
しかし、私など生まれてこないこともできたはずである。 現に1951年までは、
私がいない世界が続いていたし、2100年には、またまちがいなく私のいない世界が
存在しつづけるであろうから。
しかし、どういうわけか、私は生まれ、今ここにこうして存在している。
そして、それは永井均という名づけられたこの人間が生まれたということとは別のこと
である。 なぜなら、永井均という名のその人間が生まれていながら、それが私でなく
他人(というよりむしろ単なる一人の人間)にすぎない、という状況は十分考えられる
ことだからである。
==>> これは本当に不思議なことだと思います。
そして、ここがこの本のポイントになる内容であるようです。
私の理解の範囲内で言い換えるならば、永井均という名前の人間が
なぜ私なのか、私でなく別の人間が永井均として生まれてもよかったのでは
ないかということかと思います。
つまり、私という意識を持っているこの私は、なぜ隣の10歳の女の子
ではないのか・・・というような意味合いかと思います。
話をちょっと拡大して考えてみると、こちらのサイトによれば、
https://www.jamstec.go.jp/sp2/column/04/
地球が生まれたのは46億年前で、生命が生まれたのは「38億年前頃、ついに
生命が海の中で誕生したようです」と書いてあります。
意識というものが何億年前にどのような生物の時点で発生したのかは
分かりませんが、仮に生命の誕生とともに意識が生まれたとすれば、
その時から営々として繋がってきた遺伝子が、その棲み家である身体を
乗り換える度に、新たな意識を持ちながら、今ここに生きている私という
意識になっている。 つまり、その意味においては、私の意識は
38億歳である筈なのに、ほんの数十年の意識でしかないという話に
なるのかもしれません。
前世の意識というものがある人は別ですが・・・(ほぼ妄想です)
p019
「・・・しかし注意せよ。 ここで本質的な点は、私がそれを語る相手は、誰も私の
言うことを理解できないのでなければならない、ということである。 他人は「私が
本当に言わんとすること」を理解できてはならない、という点が本質的なのである。」
==>> これはウィトゲンシュタインの独我論に関する記述だそうです。
ここだけを読む限りにおいては、他人が本当に言わんとすることは理解
できないということだけは、私も若い時から感じています。
昔の歌にこんな歌がありました。
「長谷川きよし 黒の舟唄」
https://www.youtube.com/watch?v=0DLzaR5NONU
この曲は男女の間の関係ですが、所詮他の人間の思いは分からないものだ
というのが私の思いでした。
そういう思いがあったせいなのか、私が高校生の頃の座右の銘のひとつは
「耳を澄まして生きていこう」というものでした。
そして、上京して新聞店に住み込んで学校に通っていた頃には、特に雨や雪の
日に雨合羽を着て新聞配達をしながら、雨合羽の中に閉じこもって、その窓
からこの世界を覗き込んでいるような思いにとらわれたことがありました。
喩えてみれば、宇宙の外から宇宙の中を覗き込んでいるような感覚でした。
要するに、この世に生の身として生きている実感がなかったのかもしれません。
実際に小さい頃から、暑さ寒さをあまり感じない、というより鈍感な子ども
だったと記憶しています。そんな私を笑いながら、一回り以上歳上の姉が
私の着せ替えをしてくれました。
p021
以前には、「私に見えるもの」や「私の意識」の外にあるものが存在すると言えるか
どうかが、独我論をめぐる最大の問題であった。 そして、そうしたものが存在すると
言えれば、独我論は否定されると考えられていた。 今ではそうではない。 そんな
ことが言えても、独我論が否定されはしない。 問題の焦点は、独我論を語ることの
できる「私」とはいったい誰なのか、という点にある。
・・・問題はただもっぱら、そういうふつうの意味で、ものを見ているといえる無数の
意識主体のうち、今ここでほんとうにものを見ているこの私をどう区別できるか、
という一点に集中している。「私に見えるものだけが・・・」と強調されたその「私」
とは何であるか、それが問題のすべてなのである。
==>> この部分の私の理解は以下のような感じです。
私の意識が捉えている世界が存在していると認めるのであれば、それを
他の無数の人たちも見ていると考えられるので、その意味で独我論と
いうのは否定される。
しかし、独我論の意味が変わったということらしい。
おそらく、私が感じている、いわゆるクオリアと呼ばれている純粋な
実感や今ここの質感を伴う感覚を経験しているこの私という意識主体は
他の人たちと異なるものだと言い切れるのか・・・ってことでしょうか。
p022
だが問題は、一般的に想定できるそういう自我たちのうちの一つが、他の自我たちとは
まったく違ったあり方をしたこの私である、という点にあるのだ。 だから、問題の
「私」は、あくまでも今ここにいるこの私ただ一人を意味しているのである。
p023
ウィトゲンシュタイン解釈者たちもまた、現象学者たちと同じ地点から思考を始める
ので、彼がその光の部分でそもそも何を断念し、何を「語りえぬもの」と見なしたのか、
がちっとも理解されない。 だから、「言語ゲーム」とはこの断念によって成立する
ものなのだが、その言語ゲームの内に何が隠されて=示されているのかも、ちっとも
理解されない ―― 私にはそう思われたのである。
==>> 「現象学者たちと同じ地点から・・・」ということになると、
私自身は現象学がどんなものなのかをきちんと理解しているわけではない
のですが、今までに読んできた本に感染しているとするならば、おそらく
「クオリア」などという言葉を理解したつもりであることから言えば
現象学的な理解をしようとしていると言えるのかもしれません。
それではダメだと永井均さんは言っているようです。
「言語ゲーム」については、あとからいろいろと出て来ます。
p024
この「私」はまた、いわゆる超越論的(先験的)主観ともまったく違う。 超越論的
主観とは、素材としての世界に意味を賦与することによって世界を意味的に構成する
主観である。
・・・ウィトゲンシュタインは、そのような主体をまったく想定していない。 イメージ
的に言えば、むしろその逆の主体を考えた方が近いだろう。 つまり、すでに「机」「地球」
「恋愛」「日本」「永井均」といった意味に満ちた世界に対して、一挙に実質(それが
実現するための素材)を賦与することによって、形式としての世界をこの現実のこの
世界(=私の世界)として存在させる主体、というようにである。
==>> 私はこの「意味に満ちた世界」というのが分からないんです。
なので、この本に触発されて、「意味」というものが一体全体なんなのか
が急に知りたくなって、こんな本を買ってしまいました。
私は、これらの本をパラパラとめくってみて、非常に憂鬱になっています。
これはとんでもないところに迷い込んでしまいそうだなという不安です。
いずれにせよ、一度は読んでみようと思っていますが・・・・
p027
第二は、倫理的善悪や宗教的な存在、あるいは形而上学的問題など、総じて世界を
超えているという意味で「超越的(トランスツエンデント)なもの」と総称できる
「語りえないもの」の領域である。 ウィトゲンシュタインの独我論は、むしろ
こちらに関係する。
==>> ここで、倫理的という言葉は除いて、宗教的とか形而上学的とかいう
私にとっては馴染のある語彙が出てきたので、なぜかホッとしています。
上記の意味論などは言語学の領域なので、日本語教師をやっていた私と
しては本来なら喜んで飛びつくべき領域なのですが、苦手なんです。
それでは、次回は 「第一章 生い立ち」を読んでいくことにします。
=== 次回その2 に続きます ===
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