李在鎬著「認知言語学への誘い」を読む ― その3 「きれかった」は「違くない?」、 NHKよお前もか! 生成文法と認知言語学

李在鎬著「認知言語学への誘い」を読む ― その3 「きれかった」は「違くない?」、 NHKよお前もか! 生成文法と認知言語学

 

李在鎬著「認知言語学への誘い ― 意味と文法の世界」を読んでいます。

 

 

 

「第4章 イメージと言語表現」

 

p074

 

認知言語学では、意味を重視した言語分析を行っている。 ここで言う意味とは、

・・・外側に客観化された対象を指すのではなく、認知の主体である発話者の心の中

に存在するものであると位置づけられている。

 

・・・まず、私たちは身体を介してさまざまなことを経験する。 その具体的な経験は

非常に複雑な構造をなしているが、その中には繰り返し表れる比較的単純な一定の

パターンや形、規則性が存在する。 この一定のパターンたるものは大雑把な絵の

ように形成され、運用されると考えられており、これを指して、イメージ・スキーマ

呼ぶ。 イメージとは「絵」に、スキーマとは・・・細部を省いた表示に相当する。

イメージ・スキーマは、人間の五感から得た情報を抽象化し、構造化されたものである。 

 

==>> 「意味とは・・・発話者の心の中に存在するもの」という点は、私が知りたい

     意味の意味を解き明かしてくれそうな雰囲気があっていいですね。

     スキーマという言葉は初めてなので漠然としか理解できませんが、大雑把な

     理解としては、構造的にはそんなものかなと思います。

     私自身がなんとなく思うのは、意味というのは自分の意識の向かう方向と

     いうのか、志向性に関連して、思考の材料である音声とか文字が、自分の

     記憶や現在の状況に基づいて、構成されるものかもしれないなというぐらい

です。

     

p083

 

認知言語学が向かっている方向性として次の問題意識がある。 言葉で言葉を説明する

ことで生じる矛盾とそれに伴う難解さに対して、認知言語学のイメージ・スキーマは、

二次元のより身体化された図式でもって、認知主体の心の中に内在する意味たるものの

姿をリアルに捉えていくことを目指している

 

p085

 

イメージ・スキーマは、経験に基づいて発生するものであるため、個人差が存在すること

は容易に想像できる。 ただ、それがどこまでかという問題については、認知言語学内で

共通した見解は存在しない。 

 

・・・イメージ・スキーマは言語を生成し、理解する根源であるという立場に立っている

ため、それが個々人によって全く異なった様子をしているとなった場合、相互の

コミュニケーションは成り立たないことになる・・・・・

 

==>> ここでちょっと気になる「生成」という言葉が出てきました。

     そこで、認知言語学と生成文法の違いをちょっとこちらのサイトで

     チェックしておきます。 構造主義言語学というのもあるようです。

     「構造主義,生成文法,認知言語学の3角形」

     http://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/2017-01-30-1.html

     「20世紀の近代英語学の主流を形成したのは,構造主義言語学 (structural

linguistics),生成文法 (generative_grammar),認知言語学

(cognitive_linguistics) 3本柱である.言語史上,この順序で現われ,

台頭してきた.」

・・・このサイトの解説をみる限り、私としては、私の目的に叶うのは

認知言語学なのかなという感じがします。

 

ところで、「個々人によって全く異なった様子をしているとなった場合、相互の

コミュニケーションは成り立たない」という部分なんですが、

私は、厳密に考えてみると、「コミュニケーションが成り立っている」と勘違い

しているんじゃないかと感じます。その勘違いがなければ共感はできません。

育ちも経験も教育も様々に異なっている人の間で、言葉に載せている意味と  

いうものは異なってしかるべきなので、本当のところは分かり合えないのでは

ないかと思うからです。

 

 

 

「第5章 言葉とレトリック」

 

 

p099

 

メタファーは単に文学作品に特化した表現形式の問題というよりは、概念動詞の類似性

に基づく私たちの思考法の一つであるという見方ができる。 すなわち、議論という

抽象度の高い概念を戦争や旅、容器といった具体的な概念でもって理解するという思考法

であり、それは私たちが想像する以上に体系的であり規則的である。

 

メタファーは単なる言葉の問題を越え、人間の認知や思考の問題を考える上で、重要な

対象である・・・・

 

==>> 「メタファー」とは、辞書によれば、

     「メタファーとは、あからさまな比喩表現を使わない喩えのことである。英語の

metaphor 暗喩や隠喩と呼ばれており、修辞技法の表現として知られている。

メタファーの語は、心理学や哲学の分野では、精神分析の考え方に基づき、

「行動や夢のイメージの置き換え」という意味で使われる。」

「隠喩(いんゆ)、暗喩(あんゆ)ともいい、伝統的には修辞技法のひとつと

され、比喩の一種でありながら、比喩であることを明示する形式ではないもの

を指す。」

・・・つまりは、あからさまではない喩えということになりますか。

     意味構造が似ているものを使うということでしょうかね。

 

p106

 

メタファー的写像・・・・「議論は戦争である」というメタファー認識を例に考えて

みた場合、これは戦争が議論に写像されることはあっても、その逆はないという

考え方である。

 

領域間の写像において、具体的出来事から抽象的出来事を理解する方法の自然さに

比べ、抽象的事象から具体的経験を理解するのは、認知の自然な流れに逆行するものであり、

不自然である。 こうした認識の一方向的な性質こそが、メタファーにおける写像の

一方向性を動機づけている。 

 

==>> これは納得できます。「戦争は議論である」というのはほぼ意味不明ですし。 

具体的な経験があれば、それを使った喩えはお互いに理解しやすいでしょうね。

ただし、その経験が共有されていればもっとも強い効果があるでしょうが、

この例で言えば、戦争体験世代と戦後世代の間では、微妙な話になった場合は、

難しさがでてくるのではないかと思います。

     

 

 

「第6章 用法基盤としての認知言語学」

 

 

p108

 

同じ単語が性別によって違う意味に結びつくという事実は非常に面白い。少し一般的な

観点でこの「負け犬」の例を捉えた場合、使用場面こそが言語表現に実質的な意味を

与えるということを示唆しているように思われる。 この当たり前にも思える事実が、

これまでの言語研究ではあまり重視されてこなかった。

 

 

・・・理論的観点からの言語研究では、長年の伝統として「言語の構造的側面」と

「実際の使用の問題」は分離して記述すべきだと考えてきた。 こうした発想の典型例

構造主義言語学でいうラングとパロールという概念である。

ラングとは、ある言語社会の成員が共有する音声・語彙・文法の規則の総体である。

一方のパロールとは、ラングが具体的に個人によって使用された実体である。

 

==>> 「負け犬」という言葉の例が述べられています。

     これはどのような人たちの間で、どのような場面で語られるかによって

     大きな意味の違いが出てくることを述べています。

     広い意味での文脈ですね。

 

     そして、そのような意味の違いにまで踏み込んだ言語学は、構造主義言語学

     ではなく、認知言語学の方であるということのようです。

     ちなみに、元日本語教師として言うならば、日本語の規則を知っておく

     ことはもちろん必要ですが、実践的な日本語を教えるという点では

     パロールの方がより重要になるかもしれません。

 

 

p109

 

用法基礎モデルとは言語の構造的特徴は使用に応じて動的に変化するという認識のもとで

提案されたボトムアップ的言語モデルである。 言語モデルといっても実際の分析手法

を規定するというよりは、言語構造に対する考え方を示したものである。 

 

p111

 

ラネカーは実際の言語使用における話し手の存在を重視しており、この話し手の知識は

文法においても直接的に反映されていると考えている。 そのため、あらゆる言語単位

を体系的に扱ってこそ意味があると考えている。 この考え方を貫き通すなら、文法は

単なる形式的な規則として捉えるのではなく、意味との関係性を含めた包括的な言語

使用の状況を捉えるものでなくてはならない。

 

==>> この辺りは、より具体的な言語表現の方が、抽象的な表現よりも

     意味を伝えやすいということを言っているようです。

 

p113

 

認知言語学では、((c)のスキーマの重要性を否定するわけではないが)(a)のような

抽象度の低い具体的なスキーマから言語表現を捉えることも必要であると考えている。

 

・・・その最大の理由としては、抽象度が高くなればなるほど、その実在可能性が薄い

と考えているからである。 これは意味との対応で考えてみると分かりやすい。

 

==>> ここでの(c)と(a)はどんなものかといいますと:

     (c) XがYにZする

     (a) 人が場所に行く

     と書いてあります。

     これで意味を取れと言われたら、もちろん(a)の具体的な方ですね。

 

     実際のところ、私が日本語を教えた中でも、文型として「人+所+~する」と

     いう型を使いました。

 

p116

 

(1)   のような現象に対しても従来とは違う一般化ができるようになる。

 

(1)   a.それってちがくない

b.中学時代に見た海は本当にきれかったと思う。

 

(1a)は若者言葉によくみられる拡張事例で、規範性を問題にしないなら、十分に

慣習化された日本語表現である。 (1b)は関西地方でよく聞く表現であるが、

(1a)と同様に慣習化された日本語表現であると言える。 用法基盤の分析に

おいては、こうした逸脱した表現に関しても具体的な使用文脈における相互作用の結果

であり、拡張表現の一つとして規定する

 

==>> 元日本語教師としては、こういうのは非常に困るんですよねえ。

     こういう言い方を日本全国の日本人の何割が使っているのかにもよりけり

     なんですが、一応「正しい」日本語を教えなくてはいけない日本語教師と

     しては、こういう若者言葉は困るんです。

     なので、日本語教師を生真面目にやっていると、ノイローゼみたいに

     なってしまいます。

 

     ところが、かのNHKの幼児番組ですら、このような言葉を使うスタッフが

     いるらしい。 うちの相棒が憤慨していました。 お先真っ暗です。

     日本語教育では、形容詞については、「い」形容詞と「な」形容詞(形容動詞)

という区別をつかって、いわゆる日本語文法のルールに沿って教えるわけです。

 

外国人向けには、このように正しい日本語を教えているのに、当の日本人の

幼児には「ルール違反」な日本語を教えているかっこうになってしまっている。

いわゆる「ら」抜き言葉は、もはや、それこそ「慣習化」が進み過ぎて

「生きている言葉」の宿命ともいえる変化をしているわけですが・・・・

     (NHKは字幕で一所懸命「ら」抜き言葉を訂正しているんですけどね)

     その慣習化の程度を日本語教師として確認するには、やはり辞書にそれが

     掲載されているかどうかを基準にするしかありません。

   

     ところが、「きれくない」の場合は、こちらの辞書によれば、

     「大阪弁」として「きれ(く)」が掲載されているんですねえ。

     話がますますややこしくなります。

     https://www.weblio.jp/content/%E3%81%8D%E3%82%8C%E3%81%8F

     「綺麗く。「綺麗」の形容詞的活用。きれして、きれなる、きれかった。

「きれくする」のウ音便形である「きれゅうする」は存在せず、「きれする」

または「きれぇする」と言う。」

・・・

もちろん、標準的日本語としては、「綺麗」は「綺麗な」で、「な」形容詞と

なっていますので、否定形は「綺麗ではない」「綺麗じゃない」と教えます。

     上記で「形容詞的活用」と書いてあるのは、慣習的な日本語では「綺麗」を

     「い」形容詞とみなして活用しているということになります。

    ちなみに、中学国語では、このように教えています:

    国語文法|「きれい」は形容詞?|中学国語|定期テスト対策サイト (benesse.jp)

 

p120

 

子供が周囲の人びとから発せられる言葉のみを手掛かりに、言葉を覚えていくと考えた

場合、次の矛盾に出くわす。 日常の会話は非常に短絡的であるため、量や質いずれの

面でも、言語を習得する上で、十分な材料とは言えない。 それにもかかわらず、子供は

なぜか複雑な構文を操りながら、いずれ正しい文法を習得する。 なぜ日常会話のような

量的にも質的にも貧弱な刺激(学習用の入力データ)から、それまで聞いたこともない

複雑な構文が使えるのだろうか。

 

 

p121

 

この問題に対して生成文法がたどり着いた答えの一つが「言語獲得装置」というもの

である。 ・・・・生まれながら言葉を覚えるため持っているとされる脳内装置である。 

この装置が実際の言語表現に触れることで起動し、いずれは完全な文法が習得できる

いう考え方である。

 

==>> この部分については、私はやや疑問があります。 こう書いてあるという

     ことは、おそらくそれなりのデータや研究結果があってのことだろうとは

     思うのですが、それにしても、「それまで聞いたこともない複雑な構文が

     使える」ように、自然になるとは思えません。何歳児を対象に述べられている

     のか分かりませんが、少なくとも日本においては、保育園、幼稚園、小学校

     などにおいて、かなりの教育がされている筈だと思うからです。

     ただ単に、周りの大人たちの会話を聞くだけの環境を想定する方に

     ムリがあるのではないかと感じます。

 

     そして、ここで生成文法が出てきました。

     脳内装置があるだろうということには賛成できますが、それだけで、

     「いずれは完全な文法が習得できる」というレベルまでいけるのか

     どうか、はなはだ疑問に思います。

     それに、「完全な文法」という意味が、私にはよく分かりません。

 

p122

 

さて、用法基盤に基づく言語習得の研究においては、言語獲得装置のような理論的仮定

は可能な限り排除し、認知能力に支えられた学習に基づく言語習得モデルを提案している。

 

・・・子供は(単純に親の言語的刺激のみならず)身振り、手振りを含めたさまざまな

情報を積極的に利用していることを実証的に示している。 特に、指差しという行為が

初期の言語習得にとっていかに重要な役割を果たしているかを実証的にしめしている。

 

==>> ここが生成文法と認知言語学的解釈との違いであるようです。

     私自身が教えていた教授法は、日本語だけで日本語を教える直接教授法

     でしたので、ここで述べられている身振りや手振りに加えて、絵カードも

     使いましたし、様々なゲーム方式であったり、寸劇を作って学習者に

     役者の動きと発話をやってもらったりしました。

     つまり、認知言語学的アプローチで日本語を教えていたことになりそうです。

 

 

では、次回は「第7章 文法現象へのアプローチ」から読みます。

 

 




=== 次回その4 に続きます ===

 李在鎬著「認知言語学への誘い」を読む ― その4(完) これは日本語教師にお薦めの本です。生成文法は全く別の次元の言語学です (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

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