永井均著「ウィトゲンシュタイン入門」を読む ― その6 自己中な言語、日本語堪能なライオンはどんな肉を持ってくるか

永井均著「ウィトゲンシュタイン入門」を読む ― その6 自己中な言語、日本語堪能なライオンはどんな肉を持ってくるか

  

「3 言語ゲームへ ―― 解体」 に入ります。

 

 

 

P132

 

「言語と文法との関係は、ゲームとゲームの記述との関係、つまりゲームの規則との

関係に似ている。」

 

文法における語の位置がその語の意味ではないのだ。 なぜなら、文法は語の使用の仕方を

一般的に記述するが、その語の本当の意味は、言語ゲームにおける語の使用そのものの

内にしか示されないからである。

 

ゲームを構成するすべてを規則として取り出すことは、原理的に不可能なのである。

言語ゲームは規則の体系ではなく、規則の記述は、実際に遂行されているゲームに対して、

常に事後的かつ部分的にしか為されないのである。

 

==>> この部分は、私には、非常に分かりにくいのですが、元日本語教師としての

     経験から考えてみると以下のようなことなのかなと思います。

 

     日本語の文法なるものがあるのですが、それは大学の教授の数ほどあると

     言われています。 それは、日本語の実際の使用例を分析することによって、

     このような規則があるよという「事後的かつ部分的」な解釈から作られている

     ということになります。

     それから考えれば、上記の言語ゲームと呼ばれているものは、日常的に使われ

     ている、日々変化している日本語の実際的あり方と言えるのかもしれません。

 

p133

 

ウィトゲンシュタインは、われわれの言語ゲームは(明示的に立てられうる)規則から

成り立っているのではなく、(盲目的に遂行される)慣習によってできている、という見解

に達することになった。 この見解が語の意味の問題に適用された結果が、有名な

「語の意味とは言語ゲームにおけるその使用である」というテーゼである。

 

==>> 多分これは、語の意味とは実践的・日常的な中で使われている中にあると

     いう意味なのではないかと思います。

     そう考えると、あまりにも当たり前のことのようにしか見えませんが・・・

 

p134

 

「考察」五八節において、次のような言語が考案されている。

「もし私、ルートウィッヒ・ウィトゲンシュタインが歯痛を感じたならば、それは

「歯痛がある」という文で表現される。 だが、現在われわれが「Aが歯痛を感じる」

いう文で表現していることが起こったときは「Aは歯痛があるときのウィトゲン

シュタインと同じように振る舞う」というように表現される」。

こういう言語である。 この言語が、検証主義とそれに基づく行動主義の理念に由来

するものであることは言うまでもない。

 

p135

 

・・・・自分の歯痛のみを「歯痛がある」という存在命題で表現することができる。

それゆえ、人間の数だけ別々の自己中心的な言語がありうることになるだろう。

 

==>> これはかなり回りくどい言い方ですが、正しさを求めるとするならば、

     確かに納得できる言い方ではあると思います。

     「うちのお母さんは歯が痛いから、仕事を休んでいるの」というのが

     おそらく普通の言い方かと思いますが、発言者である子どもには

     お母さんの歯痛を直接感じられるわけはないので、

     「うちのお母さんは歯が痛い時の私と同じように振る舞っているから、

     仕事を休んでいるの」ってな具合に言うのが正しい言い方だという話ですね。

 

p135

 

「もし私が中心となる言語でそれをするならば、その言語特有の言葉づかいによる

その言語の記述が例外的な位置を占めるのは、あたりまえのことだし、他の言語の

言葉づかいでは私の言語は特別な位置を占めないからである。」

 

・・・この引用文の二行目で「私が中心となる言語は・・・」と言われる時の「私」とは

何を指しているのだろうか。 ウィトゲンシュタインという人物ととることはできない。

・・・彼が使うのは、提案された自己中心的な言語の一つであるにすぎず、そこにどんな

特別な点もないからである。

 

p136

 

それではこの「私」は、誰もが自分自身を指すときに使う表現として使われ、万人に

とっての自分自身を意味しているだろうか。 そんなはずはない。

そのような意味での「私」が中心となる言語が、提案された諸言語の中で特別な位置を

占める理由はありえないからである。それはまさに提案された言語そのものでしかない

からである。

 

・・・だとすれば、もし彼の主張が本当に正しければ、彼が何を主張しているのか(つまり

何を表現不可能だと言っているのか)理解される可能性もないことになるだろう。

 

==>> どうも、ここの部分がウィトゲンシュタインのウィトゲンシュタインらしい

     ポイントになるところ、のようなんです。

     しかし、私にはさっぱり理解できません。

     「理解される可能性もない・・・」と書いてあるのが慰めですが・・・

 

     理解できない頭で、あえて、こんな意味かなというところを書いてみますと、

     独我論を前提にするならば、「提案された自己中心的な言語」というものは、

     あくまでも、それを提案した者にしか理解できない、あるいは使えない類の

     言語であるから、「誰もが自分自身を指すときにつかう私」が、他人の

     自己中心的な言語を理解できるはずがない、ってことでしょうか。

     書いていて、自分でもわからなくなります・・・・

 

p139

 

「青本」のウィトゲンシュタインは、「私」という語の使い方を客体用法と主体用法の

二つに区別している。 「私は体重60キロだ」は前者、「私は歯が痛い」は後者の例

である。 客体用法の場合、「私」は対象(特定の人物)を指示し、それは固有名で

置き換えが可能である。・・・・主体用法の場合、「私」は対象を指示せず、固有名で

置き換えができない。 ウィトゲンシュタインが語る「私は歯が痛い」は

「ウィトゲンシュタインは歯が痛い」を意味しない。

主体用法で「私」を使う人は、一人の人物(を他の人物から区別してその人物)

について語っているのではなく、それゆえ誤りの可能性もない。

 

==>> この「主体用法の「私」」というのがウィトゲンシュタインに独特な「私」

     という言葉の使い方のようです。

     p136にある「誰もが自分自身を指すときに使う表現として使われ、万人に

     とっての自分自身」という意味の「私」なんでしょうか。

     どうも、そうじゃないような雰囲気です。

     じゃあ、どういう意味の「私」なんでしょう。

     誰にも語り得ない、自己中心的な、突き放されたような「私」という意味

     なんでしょうか。結局何だか分かりません。

 

p140

 

内観の対象知覚的(観察的)解釈とは、自分の身体感覚(痛み、かゆみ等)や感情(怒り、

悲しみ等)や意図や願望などの自己意識を、外界の対象(眼の前の花びんや聞こえてくる

音楽)の知覚に見立てて解釈する考え方である。 この解釈が誤りである理由は、外界の

対象の場合には、対象は知覚する主体に現れるがままに在るわけではなく、したがって

誤認の可能性もあるが、内観の場合、感覚、感情等はそれを持つ人に現れるがままに

在り、それゆえ誤認の可能性もない、という点にある。 だから、感覚の内観に関して

検証を問題にすることは意味がないのだ。

 

p141

 

誰にも見られない花びんはありうるが、誰にも感じられない痛みはありえない

後者においては、主体と対象を分離することができず、したがって、主体が対象を

知覚するという図式も成り立たない。

・・・痛みの表明(「私は痛い」と言う事)は、むしろ痛みの表出(うめくこと等)

延長線上にあると解釈すべきであり、・・・・・

 

・・・ウィトゲンシュタインは、それだから独我論は語りえなくなる、と言っているのだ、

ということである。

 

==>> これはちょっと医学的にはどうなんでしょうね。

     「私は歯が痛い」という場合に、本当に本人が誤認することはないのか

     という点です。脳は時々騙されるらしいですからねえ。

 まあ、この本の文脈とはずれてしまうとは思うのですが。 

     「独我論は語りえなくなる」というのは、たぶんそうなのだろうと思い

     ます。 独我論が前提なら、言語は他の人には通じないという意味で。

 

p143

 

独我論者が問題にしたいのは、普通の時計の針が指すような特定の時刻でもなければ、

この時計が指すような今一般でもなく、「この今」なのである。 だが、それは語り

えないのだ。 ウィトゲンシュタインはただ一人ここで、これを最後に、それが語り

えないと語るゲームを実践しているのである。

 

彼は後期において、たとえ語らなくなっても、いや語らなくなったからこそ、絶対主義的

な倫理感を堅持していた。 これは明らかなことだ。 それと並行的に、独我論に関して

も、彼は後期においてそれを放棄したのではない。 ただ独我論的な語りのすべてを、

言語ゲームの外へ追放したのである。こうして、独我論という「論」は無意味なものと

なった。

 

==>> 「この今」という言葉が出てきました。

     これは「今、ここ、質感のあるクオリア」のことを言っているのでしょうか。

     確かに、クオリアというものが本質的なものだとするならば、それは独我論に

     なってしまうように思うのですが、そのようなものを「言語ゲームの外へ追放」

     したということなのでしょうか。

 

 

「第5章 言語ゲーム ―― 後期ウィトゲンシュタイン哲学」

 

 

p148

 

行動の理由が語られない時点ではまた、言葉の解釈もなされない。

「赤いリンゴ五個」と書かれた紙片は「私に五個の赤い色をしたリンゴを売ってください」

という意味だと解釈されたのではない。 いかなる解釈も媒介せずに、直接的に把握され、

そのまま行動に移されたのである。

 

p149

 

果物屋が「赤いリンゴ五個」という言葉の意味を理解したということは、彼が子供に

五個の赤いリンゴを売ったことの内に、そしてそのことの内にのみ、示される。

「言葉の意味とは、言語におけるその使用である」とは、そういうことである。

 

==>> おお~~、「意味」とは何かという意味がここに出てきました。

     この事例は、たとえば親が子供に、「この紙切れを果物屋さんに見せて、

     このお金で払ってきてね」という場面を書いています。

     果物屋の人は、それを見て、瞬時になにをすべきかを理解し、

「赤いリンゴ五個」を買物かごに入れておつりをくれるわけです。

     その果物屋での行動そのものが意味をなしているって話ですね。

     これが、子供が間違えて、お菓子屋に行ったとすると、その紙に書かれて

     いることは意味をなさないということになります。

 

p149

 

ウィトゲンシュタインが提出した「意味の心象説」批判は、彼の哲学の中で最もよく

受け入れられ、すでに常識化したと言える。 それは簡単にいえば、言葉の意味とは

その言葉を言ったり聞いたりする人の心に浮かぶ心象のようなものではない、という

ことである。 「赤」と聞いて果物屋がどんな色を念頭に浮かべようとも、それは

「赤」の意味理解とは関係がないのだ。 だが、「赤い華を摘んでこい」という命令

に従うことができるためには、赤い花に出会う以前に「赤」の心象を思い浮かべること

が不可欠ではないか、と言う人には、それなら「赤い色を思い浮かべよ」という命令なら

どうか、と問い返そう。

 

p150

 

同じ心象を持っても、それを実際に適用する仕方が違えば、二人は同じ意味理解を持って

いるとは言えないからである。

 

p151

 

日本語を話すという点以外では完璧な動物的な生を生きているようなライオンである。

彼の発言の意味がわれわれに理解できないのは、彼の言葉と彼の生き方を関連付ける

ことがわれわれにはできないからである。

 

==>> このライオンの例は、実に解り易い例ですね。

     「おいしい肉を持ってきて」と、その日本語堪能なライオンに頼んだとして、

     日本人が喜びそうな肉を持ってくるとは思えませんからねえ

     ましてや、小型のライオンである猫ちゃんに、そう頼んだとしたら、

     ネズミをくわえて誇らしげな態度をとるんでしょう。

     それが、人間同士だったとしても、その相手がどんな国でどんな生活を

     しているかによって、かなりの違いがあると思います。

     下手をすれば、宗教的理由で、「あなたはとんでもない人だ」と変な目で

     見られることになるかもしれません。

 

p160

 

しかし、よく考え直してみれば、規則(あるいは意味)という摩訶不思議な力を秘めた

実体はいったいどこにあり、それはどのようにして正しさのすべてをあらかじめ決める

ことができるのであろうか。 これはまた、「文法(的規則)」という中期の自分自身の

考えへ向けられた懐疑でもあることに注意していただきたい。

 

言語ゲームの実践そのもの以外の場所に、実体化された文法のようなものがあると

考えるのは、(「意味」なるものを最終的なものと見なすのと同じ種類の)原因と結果を

取り違える錯覚である。 

 

==>> 私が、ボ~~っとした頭で思うのは、本当に意味というのはどこに、どういう

     形であるのかな、ってことです。

     なんだか、頭の前方の空間にあるような感じもするし、ということは、結局

     脳の中にあるんだろうなという気もするし。

     でも、まあ、ここでは、ウィトゲンシュタインさんの言う、言語ゲームと

     いうのか、日常生活の具体的な行動の中にあるということなのでしょう。

     もっとも、そう言われてもピンとはきませんが。

 

p166

 

子どもが規則に従うようになる(その一例として、言葉が使えるようになる)のは

どうしてか。 本当はこの問いには答えがない。 「とにかく」こうであるということ

がすべての出発点なのである。 しかし、文法学者も認知科学者も人間精神の内部に

(つまりこのゲームの外部に)規則の基礎を求めている。 ・・・・本当に難しいのは、

問いの答えることではなく、結局は答えがないのを覚ることなのである。

 

==>> ああ、なんと哲学なんでしょうか、ウィトゲンシュタインさんのこれは。

     私が50年ほど前に哲学入門の本を読んでいたころには、

     「哲学は学問の学問である」なんてことを学びました。

     ここでいうならば、文法学や認知科学はどのようにして可能なのか、って

     ことを問うのが哲学だと学んだんです。

     上記にある「人間精神の内部」というのは、おそらく形而上学のことを

     言っているんじゃないかと感じます。

     そして、ウィトゲンシュタインさんは、それは無理っしょ、と言っている

     ように見えます。 お釈迦さんと似たような主張ですね。

 

 

p169

 

底なしのこのゲームには「限界」もない。 だから、底の底まで進もうとする「根拠を

求める」哲学は、空無(存在しないもの)を存在すると信じるにいたるしかない

だが、求めれば底のないこのゲームは、われわれの実践を不可能にはしない。

なぜなら、われわれの実践は根拠に基づくものではないからである。

 

==>> なんだか、この辺りを読んでいると、前回読んだ「阿含経」の内容が

     頭に浮かんできます。

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/01/blog-post_3.html

     「p26

わけのわからない宇宙の法則だの、実相だのを取扱っている時間があったら、

目前にうめき苦しんでいる貧困の大衆の上に目を投げようというのです。

「まずひとを救うことだ、・・・自分のさとりだのと呑気なことを言っている

ひまに、・・・釈尊が一生つくされた衆生救済の利他的行動をやるがいい。 

・・・利他大悲の行願のほかにどこに涅槃があるのか」

 

     お釈迦さまの場合は、有るとも言えないし、無いとも言えない、というような

     ことを言っていますし、 p080に書いた「一切不説」「無記」ということか

     と私は思います。

 

 

では、次回は 「第5章 言語ゲーム」の「3 私的言語」を読んでいきます。

 

=== 次回その7 に続きます ===

 永井均著「ウィトゲンシュタイン入門」を読む ― その7(完) 母親にはなぜ「痛い」と言えない赤ちゃんの痛みが分かるのか? 私的言語? (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

 

 

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