永井均著「ウィトゲンシュタイン入門」を読む ― その7(完) 母親にはなぜ「痛い」と言えない赤ちゃんの痛みが分かるのか? 私的言語?

 

永井均著「ウィトゲンシュタイン入門」を読む ― その7(完) 母親にはなぜ「痛い」と言えない赤ちゃんの痛みが分かるのか? 私的言語?

 

 

「第5章 言語ゲーム」の「3 私的言語」 に入ります。

 

 

p172

 

「私的言語」とは自分の内的経験(感覚、気分等)を指すために使われる自分専用の

言語のことだが、一般的な解釈によれば、ウィトゲンシュタインは「探求」・・において、

まさに「規則に「私的に」従うことはできない」という理由によって、そのような言語の

不可能性を主張したとされる。 しかし、実は、ことはそれほど単純ではない。

 

==>> 「私的言語」ということでまず私の頭に浮かぶのは、「ハリマカヌ」と

     いう我が家庭内だけの言葉です。それは「分かりません」という意味です。

     おそらくそれぞれの家庭にその家族だけに分る言葉があるのだろうと

     思いますが、ここで言っているのは「自分の内的経験」」について語られる

     言語という話ですから、自分だけに通用する言語ということかと思います。

     

p174

 

論点の中心は「正常な成人に関しては」という一句にある。 たとえば言葉を覚える

以前(あるいは途中の)子供に関しては、事情が逆なのである。 そういう子供に

関しては、たとえば痛みを感じているかどうかを、他人(大人たとえば親)だけが

知ることができ、自分は知ることができない、という場合があり、その逆の場合はない。

大人は子供の置かれた脈絡(前後の状況)と表出(外敵な振る舞い)から「痛い」という

語を教える。 だから子供は、痛いとはどういうことであるかを自分自身の事例からのみ

学ぶ(他にどんな事例がありえよう)にもかかわらず、自分自身のどのような状態が

「痛い」と言われる状態であるのかを、他人から教えられてのみ学ぶ(他にどんな

学び方がありえよう)のである。

 

つまりそこには、自分の内的状態を他人が確実に知っており、自分は知らないという段階

があったのであり、あったのでなければならないのである。

 

==>> これはすべての親子がやっていることであるのですが、考えてみれば

     非常に不思議なことですね。

     親はどのように赤ちゃんが痛みを感じていることを知ることが出来るのか。

     医師がどのようにそれを見分けているのか、その説明をしているサイトが

     ありました。

     「町医者の家庭の医学:きげんが悪いとき」

     https://www.miyake-naika.or.jp/03_katei/syouni_kigenwaru.html

     「乳児の場合には、ミルクを飲まない、きげんが悪くてぐずる、いつものように

昼寝をしない、ぐったりしている、泣きやまないなど」

「乳児の顔色が良くないとか、他の子どもに比べておとなしすぎる」

「いつもと違ってゴロゴロしている、食欲がない、微熱がある」

「顔色が悪く、青白いときには重大な病気が潜んでいることを示すことが多く

あります。高度の脱水があると目が落ち込むようになります。激しく泣きやま

ないときには痛みを伴う病気のことがあり、逆にほとんど泣けないようなとき

には緊急を要する病気を疑います。

「子どもは必ずしも痛みを訴えるとは限りません。手足を動かすと泣き出す

などの様子から気がつくこともあります。」

 

・・・この解説の中で、「痛み」に関するものだけを拾うと、

どうやら「痛み」は「泣く」という行為がシグナルになるようです。

私の経験から言えば、幼かった時に真夜中に歯が痛くなり、泣き止まない

状態になったので、母親が深夜に歯科医の玄関口で戸を叩き、やっと入れて

もらって、私はイスの上で酷い目にあった記憶があります。

やっぱり、「泣く」ということが「痛み」を知らせる手段としては一番だと

いうことになりそうです。

 

p176

 

われわれは言語の習得以前に偽装を想定しないのである。

それゆえ、感覚や感情を持ってはいるが、それを(抑えるのではなく)表出しないような

人々から成る世界が考えられる、と思うのは錯覚である。 それは、われわれが感覚や

感情を表出しなくなるという想定とは根本的に違う。そのような世界の住人は、われわれ

と生活形式が一致しておらず、したがって、われわれの「感覚」や「感情」にあたる

概念を、そもそも持っていないのである。 そのような世界の子供が感覚の名前を自分で

考え出す、などという想定には意味を与えようもない。 そういう想定を「私的言語」と

呼ぶなら、それが不可能であることは言うまでもない。

 

==>> ここで「私的言語」の本質的なところが述べられています。

     上に私が書いた「ハリマカヌ」という言葉は、あくまでも「知りません」という

     意味を造語に翻訳しただけの単純なものですが、ここでいう「私的言語」とは

     まったく次元のことなる言語であることが分かります。

 

177

 

「何であれ私に正しいと思われることが正しい」とは、私的言語の特性というよりは

むしろ感覚言語の特性、つまり「感覚は私的である」という文法的事実の言い換え

しかない。

 

p178

 

ここにはきわめて明瞭な正誤の区別が存在するからである。 歯医者が何と言おうと、

私の歯は私に痛く感じられれば痛いのであり、私に痛く感じられなければ痛くない。

だからといって「痛い」という語が無意味だという人はいないだろう。

 

==>> 「歯の痛み」というのは、言葉であれば親から子へと教えられる。

     しかし痛みそのものは教えられるものではない。

     それは自分自身で経験するしかありませんが、歯の痛みを自ら経験することに

     よって、「ああ、これが親が教えてくれた痛みというものか」と骨身に滲みて

     分るということですね。

     そして、その痛みを歯医者に伝えることによって、痛みを緩和する治療を

     してもらえる。

 

     一方で、精神的な「心の痛み」はどうなんでしょうか

     恥ずかしながら、70歳を超えた今でも、「心の痛み」という言葉は知っていて   

     も、それを自ら経験したことがない私にとっては言葉だけでしかありません。

     その本当のリアルな痛みを知っている人が、詩のような手段で表現できるの

     かもしれません。

     「心の痛み」を治療できる人といえば、おそらく精神科医のような職業の人

     だと思います。 しかし、歯痛は歯医者でも自ら経験できるから、患者の痛み

     も理解できると思うのですが、「心の痛み」の場合は、精神科医自らが経験

     しているとは限りませんから、どのように共感し、治療できるのか想像が

     できません。

 

     ・・・それはともあれ、古代の歯の治療ってどうやっていたんでしょうね。

     「古代・中世ヨーロッパの歯医者は悪魔そのもの?!」

https://globalhistorylove.com/%e5%8f%a4%e4%bb%a3%e3%83%bb%e4%b8%ad%e4%b8%96%e3%83%a8%e3%83%bc%e3%83%ad%e3%83%83%e3%83%91%e3%81%ae%e6%ad%af%e5%8c%bb%e8%80%85%e3%81%af%e6%82%aa%e9%ad%94%e3%81%9d%e3%81%ae%e3%82%82%e3%81%ae%ef%bc%9f/

     「紀元前2660年頃、エジプト第3王朝(古王国)のジョセル王には首席歯医者

のヘシリーがついていて、世界最古の歯医者の記録が残されてます。治療方法は、

痛い痛い虫歯や欠けた歯に詰め物をするだけです」

 

・・・そして、こちらのサイトでは、古代の人々には虫歯が少なかったの

ではないかと推測させるような研究が書かれています。

「近代食を食べた先住民に起こった悲劇とは!?」

https://kenko-seikatsu-joho.com/eating-habits

「同じ部族で昔ながらの伝統食を続けている人達と、近代食を食べ始めた人達

を比較してみると、伝統食を食べている人の歯には虫歯がほとんどありません

が、近代食を食べている人の歯には虫歯が目立つようになります。

伝統食とは海辺に住む部族なら海産物中心の食生活、山間部なら穀物中心の

食生活といったものです。」

「近代食とは精製されたパンや砂糖、お菓子、缶詰など加工食品を食べる食事

です。医者のいないような土地で食生活だけ現代的になると、人々は虫歯に苦し

められます。歯の痛みに耐えられなくて自殺した人もいるそうです。」

 

・・・これが事実だとすれば、エジプトの王様のような贅沢なものを食べて

いる人たちは別として、庶民の中には虫歯は少なかったのかもしれません。

そういうことになれば、上記p176に書かれている「生活形式」には

歯痛とか虫歯という観念はまだ含まれてはいなかったのかもしれません。

 

 

 

p179

 

おそらくは同じ種類の感覚を他の人も感じることがあるらしいことが次第に明らかに

なる。 

 

・・・私の孤独な営みが理解される可能性に対して開かれていたのは、それが感覚言語の

文法に従った営みだったからである。 つまり、私と他の人びととの間には基本的な

生活形式の一致が成り立っていたのである。 

 

==>> つまり、周りにいる多くの人々と自分が同じ生活形式の中で生きているという

     ことが、自分だけの感覚である痛みについても、コミュニケーションが可能な

     バックグラウンドになっているということのようです。

     「感覚言語の文法に従った営み」という文意はピンとこないのですが・・・・

     ここで、この意味を他の言い方で翻訳できないということそれこそが、

     この文の意味を理解していないということの証拠にもなるわけですね。

 

 

p183

 

たとえば、詩や物語を感情を込めて読むときには、単に話を知ろうと思って読むとき

には起こらない何かが起こるだろう。 こういう場合「表情豊かな朗読において

この語を発音するとき、それは意味によって満たされている」・・・と言うことができる。

また、たとえば「私がその言葉を聞いたとき、それは私にとっては・・・・という意味に

きこえた」・・・といった「意味」の用法もある。 この二つの例に共通することは、

そこではいわば意味が体験されているということである。

 

ウィトゲンシュタインは、このような意味の体験を持つことができない障害を「意味盲」

と名づけた。

 

p184

 

意味を体験するということには、二つの内容が込められている。

・・・「意味によって満たされる」と言われるときの「意味」とは、語にともなう情感

とかイメージといったものであろう。そうしたものは、言語ゲームで実際に使用される

言語の意味にとって外的な関係にしかない。それに対して、後者の「私にとっての意味」

はそうではない。 それは、その言葉が、その人にとって、その時、どのような意味に

聞こえたかという、意味と聞き手との個人的で一時的な関係を問題にしている。

 

p185

 

本来の意味盲人とは、たとえば「もっとも」という語がそれだけで与えられたとき、

それを副詞(「最も」)として見たり、接続詞(「とはいうものの」)の意の「尤も」)として

見たり、または形容動詞(「理に叶ってる」の意の「尤も」)として見たりすることが

できない人のことである・・・と解するべきである。

もちろん、文脈が与えられれば、彼もこの語をその三種の仕方で自由に使えるのである。

 

・・・・彼は国語の成績は悪いかも知れないが、日常生活ではまったく不自由しないのだ。

 

==>> ここは、ちょっと納得がいかない部分があります。

     「文脈があたえられれば」問題がない、ということであれば、差し障りは

     ないように思えます。 それが国語のテストだとしても、問題の中に

     文脈は与えられるでしょうから。

 

p186

 

「もっとも」という語にこの三種の用法があることが理解できない人なのではない

・・・。 理解はできても、「今は私にとって「最も」の意味である」という体験が

起こらない、という点がポイントなのだ。

喩えて言うなら、彼は、第一の点では詩人であることができるし、第二点では国語の

先生であることができる!

詩人でありえない人を「表情盲」と呼ぶなら、国語の先生でありえない人は「解釈盲」

と呼べるだろう。)

 

==>> なんだか様子が違ってきました。 <<「今は私にとって「最も」の意味である」という体験が起こらない>> というのは、どういう意味なんでしょうか。

     仮に、「表情盲」が詩に意味にそった表情を付けられない人、

     「解釈盲」が文章の意味にそった別の解釈ができない人、だとするならば、

     「意味盲」をどのように説明できるんでしょうか。

文脈で「もっとも」の使い分けができるのなら、意味が解っていると

考えるのが普通じゃないかと思うんですけど・・・・

 

p187

 

相貌盲人とは、たとえば「ウサギーアヒル」の反転図形がそれだけで与えられたとき、

それがウサギに見えたりアヒルに見えたりという反転体験が起こらない人(表情盲性の

相貌盲の場合)、あるいは、それを意図的にウサギと見たりアヒルと見たりすることができ

ない人(解釈盲性の相貌盲の場合)である。 

・・・またもちろん、文脈や背景が与えられても、ウサギやアヒルが見えない人でもない。

こういう人に何が欠けているか、というのが相貌盲問題の本質である。

 

==>> つまり、説明を聞けば、ウサギもアヒルも見えるけれど、説明がなかったら

     どちらか一方した見えないということですね。

     

     「相貌盲」をインターネットで検索すると「相貌失認」という言葉が出てきます。

     この言葉を私が始めてしったのはテレビドラマ「相棒」によってでした。

     要するに、顔を認識できない障害ということのようです。

https://kotobank.jp/word/%E7%9B%B8%E8%B2%8C%E5%A4%B1%E8%AA%8D-190943

     「人の顔を見てもその人が誰か認識しにくくなる脳障害脳障害による失認の

一種。俗に失顔症とも呼ばれる。1947年、ドイツの神経学者Joachim Bodamer

が、頭部外傷後に家族や友人の顔を認識できなくなった男性の症状を「相貌失認」

との名称で報告したのを初めとする。先天性・後天性の別があり、先天性相貌

失認の人口は2パーセントほどと考えられている。その場合、声や服、体格など

を総合して人を判別することが生まれつきの習い性となるため、軽度の場合、

障害と認められにくい。

 

ただし、この本の上記の「相貌盲」にかんする描写とは、かなり異なっている

ように見えますので、別物かもしれません。

 

p190

 

われわれ自身もまた、実は究極的には意味盲的・相貌盲的な生を生きる、盲目的な実践者

なのだ。 自分がしたがっている規則は念頭に置くことができても、規則への従い方

(の規則)はついには念頭に置くことができない。そして、まさにこのできなさこそが

われわれの実践を可能にし、われわれのゲームを成立させているのだ。

 

==>> 究極的にと言われると、確かにそういうことだろうと思います。

     すべての語の意味を知っているわけでもなく、顔をきちんと見ているか、

     その顔を覚えているかという話になると、特に私は自信がありません。

     さらに「規則への従い方の規則」なるものを意識したことはありません。

     「ゲーム」という言葉の意味がいまいちピンとこないのですが、

     それを「言語生活の実践」という風に解釈できるとすれば、なんとか

     意味が分かります。

 

p190

 

どんな情感豊かな人も、その情感に対するさらなる情感はもはや存在しない地点があり、

どんな理論家も自分の理論構築自体はもはや理論化できない地点がある。

 

・・・われわれは、詩人風の能力お国語の先生風の能力もどちらもまったく欠如したまま、

日本語の熟達者となることができるのである。

 

ウィトゲンシュタインは、「私が「意味盲」という事例を想定したのは、言語を使用する

際には意味体験は重要性をもたないように思われたからであり、それゆえ、意味盲人は

大したものを失わない思われたからである」・・・と言い、さらに「夢」という比喩を

使ってこうも言っている。

 

意味が心に浮かぶことを夢になぞらえるなら、われわれも通常は夢を見ずに語る

「意味盲人」とはそれゆえ、どんな場合にも夢を見ずに語る人のことであろう。」

 

==>> なんだか、ウィトゲンシュタインさんというか、永井均さんに、ひっぱり

     廻されて、ぐるぐる廻っているような気になってきました。

     いろいろと思考実験をしているってことなのでしょうか。

     しかし、「言語を使用する際には意味体験は重要性をもたないように思われた」

     というのは、私には、腑に落ちません。

 

     なぜかと言えば、日常生活の中ではあまり意味も考えずに口走っているのは

     確かなんですが、何かをまとまった形で口にする場合などは、それなりに

     どのような意味のことをしゃべろうかと、その意味を伝えるにはどのような

     言葉を使えばいいだろうかと考えているように思うからです。

     上記の「通常は夢を見ずに語る」というのは、「日常生活の中」での場合の

ことであり、「夢を見る」というのは「まとまった形」を考える場合のことを

     意味しているのでしょうか。

 

p201

 

最晩年にいたってもなお、ウィトゲンシュタインにとって、哲学するという営みは

自己否定的なのである。 それは、結局、それが語ってはならないと主張するところのもの

を語ることになるからである。 彼は本質的な点で「哲学」という言語ゲームの存在を

認めなかった。 彼自身がやっていることは、あくまでも例外なのである。

・・・・まさにそのことの内に、彼の独我論が示されているだろう。

 

p207

 

哲学という名の観念共同体の中に身を置くことが、哲学することとは全然違うことで

あるように、制度的に容認された宗教に入信することは、宗教的に生きることとは

まったく別のことである、そう少なくとも彼は考えていたであろう。

いわゆる哲学やいわゆる宗教は、現実との妥協の中で生まれた一種の緩衝地帯のような

ものなのである。 彼は、そういう場所に安住することができなかった。

 

 

p211

 

「でもやっぱり、他人はこの痛みを持つことはできない!」

・・・「この」を強調しようとした人は、いったい何を強調しようとしたのだろうか

それは、他の人が持つ、あるいは他の場合に自分が持つ痛みではない、今ここにある

この痛みである。 つまり彼は、他の人が言う、あるいは他の場合に自分が言う

「この痛み」ではない、この「この痛み」について語ろうとした。 そして、それは

他の人が持つことができないものだ、と言いたかった。 しかし、彼がその発言によって

示したことは、一般に人はその人自身の痛みしか持つことができない、という文法的事実

にすぎなかったのである。

 

==>> 私には、非常に分かりにくい文章なのですが、何度か読み直している

     うちにやっと理解ができました。 でも、すぐにその理解が消えてしまい

     そうです。「この「この痛み」」という表現でもなかなかピンときませんね。

     あえて言い換えるとするならば、その人がその時にその人自身で実感した

     「この痛み」ということでしょうか。

     それならば、他の人がもつ痛みでもないし、他の場合に自分が持つ痛みでも

     ないでしょうから。

     そういうことであれば、「文法的事実」という意味も分かるように思います。

 

p212

 

「この」を「私」に置き換えれば、それがそのまま独我論が語りえない理由である。

しかし、一般的な「私」ではない「この私」ということなら、「この私」であるその人物

誰であるかを特定できさえすれば、それで十分ではないか

そうではないのだ。 その人物が誰であるかということと、それが「この私」である

こととは、独立なのである。

 

==>> またまたややこしい話です。

     〇 一般的な「私」ではない

     〇 「この私」だが、誰か特定の私でもない

     〇 特定の誰かとは別に独立した「この私」

     ああ、なんだか分かりませんが、あえて書いてみると、

     一般的でもなく、特定でもない「この私」ということは、

     万人における、ある場所、ある時、その時だけ実感している「この私」とでも

言えばいいのでしょうか・・・・そのような独我論?

 

p213

 

「探求」にけっして登場しない問いは、「でも、その「私」って誰のことだい?」

いうその次の問いである。 言語ゲームとは、その問いが意味を持ち得ない世界の

ことである。 そしてそれが、われわれの世界である。 そこにももちろん、

語りえないもの ―― 生活形式 ―― が示されはする。 しかし、その形式に

実質を与える「私の生」そのものは、もはやどこにも示されない。 独我論が言わんと

することは、その形式にぴったりと乗ってしまうから、示されるのはその形式だけ

なのである。 規則への違う従い方が違う規則への従い方に変わるのと同じことだ。

 

 

p216

 

誤解の余地はないと思うが、・・・・

以上述べたことは、倫理、審美、宗教、神秘、超越性、死、そして独我論といったものを、

言語ゲームが届かぬ聖域とすることとは全然違うことである。 なぜなら、それらは

すべて言語ゲームなのだから。 

 

すべては言語ゲームなのであり、倫理も芸術も宗教もその一形態以外の何ものでもない。

それを超えるものは<無い>のだ。 だから、ウィトゲンシュタインは倫理や芸術や

宗教を語りえぬものの側に置いた、などということはできない。 まさにその意味に

おいて、後期において、すべては言語ゲームになったのである。

 

p217

 

彼はもはや「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という言葉すら発する

ことはできない、発してはならない地点まで歩みぬいた。 もちろん、私はそのことを

あえて語り、それを「解説」した。 それは、後期ウィトゲンシュタインについて

語りながら、このことを感知しない人があまりに多い、と私には思われたからである

 

・・・彼は「品位ある態度。開けることができる人だけが気づくように、つまりその他

の人には気づかれないように、扉に鍵をかけておくこと」・・・と書いた。

しかし私は、開けることのできないひとに対しても、すくなくともこの扉に鍵がかかって

いることだけは告げておきたいと思った。そういう品位の欠如こそが、入門書の存在価値

であろうから。

 

==>> p213以降の部分は、もうすっかり藪の中です。

     「誤解の余地・・・」と言われるまでもなく、理解そのものが追い付きません。

     「扉に鍵がかかっている」ことは、骨身に沁みて理解できました。

     理解できたのはそれだけです。

 

==>> すべては言語ゲームということから連想したのは、文化的遺伝子ともいえる

ミームという言葉です。 形而上学を含めて言語ゲームといっているよう

なので、それがどのように可能なのかという意味で、ミームを思い出しました。

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/03/post-4563be.html

     「p291

ミーム理論を誰よりも推し進めたのは、「ミーム・マシーンとしての私」

におけるスーザン・ブラックモアである。 彼女は繰り返し、脳(ある

いはコンピューターやラジオの周波数帯のような他の情報貯蔵器や情報ルート)

と、そこを占拠しようとひしめきあうミームに満ち溢れた世界を思い描く。 

遺伝子プール内の遺伝子と同じように、勝利するミームは、自分自身をコピー

させることに長けたミームだろう。その理由は、たとえば一部の人々にとって

不死というミームがもつような、直接的な魅力をもっていることかもしれない。

 あるいは、すでにミーム・プール内で多数になっている他のミームの存在の

もとで繁栄できるという理由かもしれない。 

 

・・・実際に起こっているのは、個々の遺伝子がその対立遺伝子と争って

選別されるときの環境の主要な部分が、遺伝子プールの他の遺伝子によって

構成されているということなのだ。各遺伝子は他の遺伝子・・・の存在のもとで、

首尾よく選択されるがゆえに、協調的な遺伝子のカルテルが出現するのである。

ここには、計画経済よりもむしろ自由市場に似たものがあるといっていい。」

 

 

4回目のこの読書で、なんとか理解したいとは思ったのですが、結局最後の最後でまたまた

ギブアップでした。まあ、でも、専門家でもなかなか理解できない内容らしいので、お許し

いただきましょう。

「それなら俺が読んでやろうじゃないか」という方がいらっしゃれば、それだけで、この

ブログにこの本を紹介した意味はあるんじゃないかと思います。

ああ、疲れた・・・・

 

 

==== 完 ====

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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