友松圓諦著「阿含経入門」 ― その1 日本仏教とインド仏教、そしてお釈迦様の社会運動

友松圓諦著「阿含経入門」 ― その1 日本仏教とインド仏教、そしてお釈迦様の社会運動

 


 

最古の仏教経典とされている「阿含経」の入門書を読んでいます。

 

 

003

 

「釈尊追体験の書」 

 

「阿含経」は、釈尊が直接、弟子たちに語りかけた言葉を豊富に含んだ経典として

知られている。 しかしながら、わが国では各宗派を形成した祖師や高僧がたが大切に

してきた大乗仏教の経典が、どうしても一般になじみやすく、また、親しく読まれ

愛好されてきた。

 

==>> これは石上善應による巻頭の言葉です。

     私は、過去に浄土系や真言密教系の入門書などを読んできましたが、

     初期仏教については「スッタニパータ」(ブッダの言葉)しか読んだことは

     ありませんでした。(ちなみに、スッタニパータは膨大な量の阿含経の中の

     一部であるようです。)

     

     今になって、急に「阿含経」を読んで感想文を書いてみようと思い立ったのは、

     古代インドの思想について本をいくつか読んでいた時に、たまたま

     現在のインドで仏教徒の頂点に立っているとされる佐々井秀嶺住職の日本人

     弟子である竜亀さんに会って直接いくつかの質問をし、答えていただく

     機会があったからです。

 

     


      (竜亀さんと私、都合によりトリミングをしております。

     竜亀さんは、武蔵野美術大学を卒業してから、インドに渡り、インドで

     得度をされた方だそうです。従って、日本仏教については詳しくは

     知らないとのことでした。)

 

     神奈川県平塚市で行われた佐々井秀嶺住職に関するドキュメンタリー映画を観、

     竜亀氏とのお話会の中で、「現在のインド仏教界で主に唱えている経典はなんで

すか」という私の質問に「阿含経です」という答えをいただきました。

 

ちなみに、私が佐々井住職のことを知ったのは、およそ10年くらい前に

単行本の「破天」を読んだ時でした。今は文庫本になっているようです。

その時は、物凄い日本人がいる、このような人は日本には収まり切れないだろうと思った記憶があります。

 

佐々井秀嶺住職については、こちらで:

「インド仏教徒15000万人の頂点に立つ日本人僧

https://bunshun.jp/articles/-/15417

 

 


平塚で観たドキュメンタリー映画はこの映画です。

https://www.jaibhim-movie.com/

 

これは現在のインドにおける仏教の現状を佐々木住職に密着して制作された

ものです。

タイトルの「ジャイ・ビーム」というのは「ビームさん万歳」という意味

そうです。 インドの憲法を作り、アウト・カーストの人々をまとめて

仏教に改宗させるという大事業を行なった人だそうです。

 

「ビームラーオ・アンベードカル」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%AB%E3%83%AB

 

この映画を観た後に、竜亀さんに私の印象を次のように述べました。

「インドの仏教というのは宗教というより社会運動という感じですね。」

すると竜亀さんは、「宗教と社会運動をどのように捉えているんですか?」

と私に尋ねられました。

 

私は「宗教とは形而上学であって、インドの仏教は形而上学には見えない、

政治的な社会運動に見える」と答えました。

竜亀さんの返事は、「インド仏教の中にいる私としては、宗教と社会運動は

私の中ではひとつです。」との答えでした。

 

私はなるほどと腑に落ちました。

つまり、現在のインド仏教というのは、ブッダが生きていた時代の仏教を

今も実際にやっているのだ、という理解ができたからです。

ブッダは形而上学を語らなかったと言われています

そして、バラモン教・ヒンドゥー教のもとカースト制度があるインドの中で、

カースト制度にとらわれない平等主義を広げ、女性の出家も認めるなどの

社会運動を展開していたとみられるからです。

 

日本の宗教界では、政教分離の法律もあり、一部の宗派を除いて大多数が、

宗教を心の問題、つまり形而上学として捉えているのではないかと私は

思っていますが、インドにおいては、憲法上の平等は認められてはいても、

現実には宗教的カースト制度が今も厳然と残っているからと思われます。

 

 

p17

 

この日本でも、奈良朝にはこの阿含経を取扱った者がかなりあります。 奈良の六宗と

いわれているもののなかには、「俱舎宗」というのがありまして、これは、倶舎論という、

西暦紀元後四、五世紀にインドに出ました世親(ヴァスヴァンドゥ)という人のつくった

仏教哲学総論といったようなものですが、その人の著述をもとに一宗をかまえたのです。

・・・その系統から申しますと、実はこの阿含経というものを一本調子に立ててきた

ものですから・・・・

 

・・・この日本仏教の長い歴史についてみましても、倶舎論を研究いたす学僧たちを

除きましては、阿含経をばひと口に小乗の経典だとさげすんできたようです。

 

==>> 要するに、日本仏教の中では、大乗仏教が盛んになったので、

     小乗仏教とみなされた阿含経は顧みられることがなかったということのよう

です。

 

 

p23

 

「阿含」という言葉といえども、どれほど古いものであるか、なお、判然とはしない

けれども、とにかく、そうした釈尊の法話の類を集めたということが阿含でありまして、

最初はただ、法とよび、経と言ったにすぎません。

 

 

p24

 

ご在世のころは、世間の人々、老若男女の信者たちが耳をかたむけた釈尊のお言葉も、

いまはあまりに専門的になってしまいまして一般世間の者にわからぬようになり

僧院の学僧たちの考え方もあくまでも哲学的になり、煩瑣的になってしまいまして、

生きた世間、現実のすがたがわからなくなってしまいました

 

p26

 

わけのわからない宇宙の法則だの、実相だのを取扱っている時間があったら、目前に

うめき苦しんでいる貧困の大衆の上に目を投げようというのです。

 

「まずひとを救うことだ、・・・自分のさとりだのと呑気なことを言っているひまに、

・・・釈尊が一生つくされた衆生救済の利他的行動をやるがいい。 ・・・利他大悲の

行願のほかにどこに涅槃があるのか」

 

==>> これを読むと、今現在、上記のインド仏教がやっていることがまさにこの

     活動なんじゃないかと感じるわけです。

     ひるがえって、私はどうかといいますと、まさに「わけのわからない宇宙の

     法則だの実相だの」を、さまざまな宗教の本を読んだりして楽しんでいる

     ということになります。

     そんな読書三昧をやっている暇があったら、行動しろよってことですね。

     面目ないです。

 

 

p30

 

つまりは、阿含経の中に出ているきわめて実践的な宗教、あくまでも道徳と一致した

宗教というよりは、実行と調和された信仰というものが、これら大乗経典にかた寄る

あまり、実行を伴わざる信仰、日夜に現実生活の上に結びつけることを忘れた宗教

となってしまったのです。 行ではなくして信にかた寄ったものとなってしまった

のです。

 

==>> これは、日本仏教の中にいる私としても重要なポイントだと思います。

     上記のインド仏教の実際と比較すると、特に親鸞さんの浄土真宗から

     信仰というものが強く意識されるようになって、親鸞さんの師匠である

     法然さんの修行や戒律重視から大きく変化したという理解です。

     もちろん、親鸞さんによって民衆に広がったものとは思いますが。

     また、今の私が考える宗教にかんする固定観念も、おそらく

     上記のように形而上学と社会運動が分離した原因になっているのかも

     しれません。

     それだけ、日本の社会は平穏だということかもしれません。

 

 

p30

 

かくして名は仏教でありながら、釈尊を見失い・・・・・

 

p31

 

釈尊はただ、もしそのときに登場したにせよ、主人公ではなしに、ワキにすぎません。

証明人ぐらいの程度しか役目をはたしていません。 かくして、浄土門は釈尊を傍と

して阿弥陀仏を主にいたします。 大日経では毘盧遮那仏が主体です。 普門品では

観音菩薩が主人公です。

 

==>> 今の日本仏教の現状をこのように批判的に書いています。

     それはもっともな話だと思います。

     私自身の両親は浄土真宗で阿弥陀様、そして、私自身は終活の行きがかり上

     今は真言宗・空海さんの大日如来ということになっています。

     確かに、お釈迦様は、阿弥陀如来や大日如来のわき役ですね。

 

p33

 

他方、欧米における仏教の研究はその言語学的、宗教学的、歴史学的、考古学的、その他、

あらゆる方面から進んでゆきまして、非常に立派な業績を各国から発表いたしましたが、

これらが阿含仏教の復興に非常な役立ちをしてくれたのです。

 

p35

 

私なども、大正の中期ごろから危かしい足取りで阿含仏教の研究を始めまして

今日までまことに恥ずかしい経路をたどっている次第です。

 

==>> ここでは、仏教研究という分野での、日本仏教のガラパゴス化に触れているの

     ですが、いずれにせよ、日本でもやっと阿含経に光が当たってきたことを

     述べています。

     私が海外での仏教に少しだけ触れることができたのは、過去十数年住んで

     きたフィリピンのバギオ市でのことでした。

     そこに、以前は沖縄で米軍の看護師として働いていたアメリカ人男性がいて、

     彼は剣道の段持ちで仏教徒であることを公言していたのです。

     そして、キリスト教の施設で、地元の人たち向けに瞑想会をやっていました。

     彼いわく「瞑想は宗教ではないから、大丈夫」ということでした。

     彼の仏教はタイ仏教であったと思います。 タイ仏教は大乗仏教ではなく、

     上座部仏教であるようです。

 

p37

 

阿含経というものは決して無味乾燥な釈尊の言行ではありません。

・・・・そこには砂を噛むような説教のかたわらに、血を吐くような熱烈な信仰の

告白が物語られています。 そこには決して平凡な、二に二をたして四になるという

ような、目にうつった現実相ばかりではなくて、すでに深い形而上学の知見が

ほのうごいています。 したがって、私たちは阿含経の中にすでに大乗諸経典の幾多

の芽生え、原型を見出すのです

 

p38

 

いまや、日本の各宗仏教はそれが仏教であり、釈尊を教祖、しかも、唯一の教祖と

あおぐ以上は、正しく、この歴史上の人物たる釈尊の言行をばこの阿含経の中に正しく

理解し認得して、それぞれの宗旨における、はなはだしいい非仏教的要素をできうる

かぎり清掃することによって、仏教と各宗旨とを一つの正しい調和の上にもちきたさねば

なりません。

 

==>> なるほど、仏教の復興運動を阿含経に基づいてやるべきだというお話の

     ようです。 特に密教の場合は、いろいろ読んだ本の理解では、ほとんど

     ヒンドゥー教みたいな感じですからねえ。

     私の場合は真言密教ということになりますが、大日如来が中心ではある

     ものの、お釈迦様を含んで、なんでもありの仏様集団ですから、都合が

     いいといえば都合がいいんですけどね。

     筋を通そうと思えば、お釈迦様がなんで末席にいるんだってことにはなります。

     マジで、曼荼羅の中にお釈迦さんを探すのって大変なんですから・・・・

 

 

では、次回からは、現在のインド仏教と日本仏教の上記のような議論を意識しながら、

「阿含経」を勉強していきたいと思います。

 

上記のドキュメンタリー映画上映会とお話会は 12月25日に平塚市で開かれました。

その日は、平塚八幡宮に参拝し、上映会とお話会に参加し、ケーキを買って帰宅しました。

私は、まさに平均的日本人です。


 

=== 次回その2 に続きます ===

 友松圓諦著「阿含経入門」 ― その2 「仏も昔は凡夫なり、凡夫もついには仏なり」 (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

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