竹田青嗣+西研著「はじめてのヘーゲル『精神現象学』」― 6 「主観的な善」と「社会的な善」の一致
竹田青嗣+西研著「はじめてのヘーゲル『精神現象学』」― 6 「主観的な善」と「社会的な善」の一致
竹田青嗣+西研著「超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』」
「難解な書物が ここまでわかった! 「知の巨人」がとらえた近代のありよう」
という「超解読」な本を読んでいます。
「第四章 精神」の続き
「3 絶対自由と恐怖」に入ります
p189
近代以前、アンシャン・レジームの体制では、世界も人間もすべて「神の被造物」だと
考えられていた。 しかし、近代の啓蒙思想、そこから登場した「有用性」の思想は、
むしろ一切を、人間にとって「有用なもの」とみなすことになる。 宗教や王権といった
「聖なるもの」の観念すら、人間にとっての有用性において再解釈されるようになる。
==>> アンシャン・レジームを確認しますと、wikipediaによれば、
「アンシャン・レジーム(仏: Ancien régime、直訳:古い体制)とは、
フランス革命以前のブルボン朝、特に16 - 18世紀の絶対王政期のフランス
の社会・政治体制をさしている。」
ということです。
そこで、「神の被造物」とか「有用なもの」という言葉なんですが、
日本人である、少なくとも私にとっては、ピンとくるイメージではありません。
おそらくキリスト教的な歴史背景を持つひとにとっては、そのような言葉が
すべての事物は神によって人間の為に与えられたというような考え方と
マッチするのかもしれません。
つまり、人間中心主義的な考え方は、日本人には馴染まないのではないかと
思うのです。 個人主義がはびこっているとは言うものの、どうも日本の場合
そうではないようです。
p190
人びとのうちに、「自己」の存在について、また「自由」についての本質的自覚が広がる
ことによって、「絶対的自由」の精神が現れることになる。
「絶対自由」の精神は、「自己」こそが、あるいは「個人」としての人間こそが一切の
本質である、という視点から世界を理解する。
教会や権威が世界の中心なのではなく、個々の人間こそが、世界の真の主人公であると
いう意識が確固たるものとして現れる。
p191
・・・この意識が、「普遍意志」と呼ばれる思想に結実するのである(この「普遍意志」
は、ルソーが「社会契約論」で論じた「一般意志」とほぼ同じ。 ルソーは、国家が
人びとの生存と安全を維持しつつ、しかも各人が自由を確保しうる唯一の原理として、
自由な人民どうしの相互契約による人民主権の考えを提示した)」。
「普遍意志」とは、「私の意志こそは万人の意志である」、また「万人の意志は私の意志で
もある」という感度である。
つまり、すべての人間の完全な「自由」が実現すべきである、という考えが、彼岸の
「真理の国」の観念に代わって、近代精神にとって新しい「絶対のほんとう」となる。
==>> この部分で私が気になる言葉は「絶対」とか「普遍」とかいう言葉です。
私にはどうしてもこれらの語彙が形而上学的な、人間には理解不能な領域
の概念だと感じるからです。
「私の意志こそは万人の意志である」という言葉などは、そんな不遜なと
思いますし、「「絶対自由」の精神は、「自己」こそが、あるいは「個人」として
の人間こそが一切の本質である」というのも、純粋意識という意味では
一部納得なんですが、「絶対」はありえないだろうと思うんです。
もしかしたら、これは仏教的思想、特に最近読んだ初期仏教などの本、からの
影響かもしれませんが、空とか相依りとか縁起とかいう仏教的な、そして
彼岸、あの世、形而上学を語らないブッダの考え方が現実的なものであった
ことを知るにつけ、ブッダの時代に、「彼岸の「真理の国」の観念に代わって、
近代精神にとって新しい「絶対のほんとう」となる」という思想変化が
もしかしたら起こっていたのではないかとも見えてきます。
つまり、古代インドのバラモン教の時代に、中道を説いて現実的な世の中を
作ろうとしたのがブッダではなかったかとも思えるのです。
p192
人びとは、「絶対自由」の思想をもつことで、自分を「普遍的意志」の担い手として意識
する。 しかし、新しい革命政府の体制のなかで、すべての人間がこの理念の中心的
な担い手となることはできない。 ・・・万人がこの仕事に参画できるわけではない
からだ。 また中心的な仕事に携わる人びとも、それぞれが分担して政権の個々の任務を
担うほかはない・・・・・。
p193
個々人が、自分の「普遍的意志」が生かされているという実感をもつことは難しいのだ。
こうして、諸個人は、代表者としての政府の方針にさまざまな不満を抱くようになる。
==>> これはまさに、岸田政権の最初の支持率に表れているように感じます。
まあ、これは代表者が代表者を選ぶという議院内閣制でもあるし、
特に与党側が過半数を握るなかでは、与党の中だけでのお祭りみたいなもの
ですからね。
一方で多様性を大声でさけび、一方でみんなの意見を反映させるなどという
ことは所詮できることではないわけですが、少なくとも国民の投票でその
体制が決まるというプロセスだけはどんな国でも保障されてしかるべき
だと思います。
p195
反対者である自由な個人は、ただ思想として「純粋な普遍意志」を主張するだけだが、
政治権力は「普遍意志」を政治制度として実現するという困難な仕事をおこなわねば
ならず、そこで生じるさまざまな矛盾や「悪」を引き受けざるをえないからだ。
こうして、自らの「普遍性」を信じる政治執行者は、ますます「暴力」に頼り、自分たち
に反対する疑いがあるというだけで人びとを弾圧し、抹殺しようとすることになる。
==>> これは現在の日本の政治にも当てはまりそうな記述ですね。
過去数年の自民党のやり方にはかなり強引なものが目立ちます。
一方で野党は相変わらずの遠吠えみたいな発言ばっかりでイヤになります。
それにしても、自民党の中はそれこそ多様性を持っていて面白い。
ひとつの党の中に多様性を保っているから長期政権を維持できると考えること
も出来そうです。
もしそうならば、「野党」という党をひとつ作って、そこに今の野党が
全部入ってしまったらどうなんでしょうかね。
与党vs野党という二大政党になれる?
でも、まあ、今の野党は小さなことでごちゃごちゃやってますから、無理なんで
しょうけど。
「野党」という名称の与党ができたら、大笑いですけどね。
p196
「絶対自由」という思想においては、人びとは、まず理想の絶対的な実現という
肯定的な側面をつかむが、つぎに、「恐怖政治」の経験によって、その否定的な側面を
思い知ることになった。
重要なのは、この「死の畏怖」の経験を通して、人は、いわば「純粋思考」としての
「自己意識」を捨て去る、という点である。
・・・多くの人は命とひきかえに「絶対的理想」に殉じることを断念し、過激な思想への
情熱をなだめるのだ。・・・・そして・・・現実的制度をそれなりに受け入れるほかはない
と考える。
==>> ここでは、フランス革命期の恐怖政治を前提とした書き方になっています。
その「恐怖政治」はこちら:
https://kotobank.jp/word/%E6%81%90%E6%80%96%E6%94%BF%E6%B2%BB-53022
一般的な意味としては、
「投獄・拷問・脅迫・処刑などの暴力的な手段によって反対者を弾圧し、政治上
の目的を達成する政治。」
・・・とされていますが、フランス革命に関しては、
「反革命容疑者法が制定され,少くとも 30万人が逮捕され,そのうち1万
7000
人がギロチンにかけられて処刑され,そのほか多数が獄死したり裁判なしで
殺された。」
「フランス革命期における、1793年6月から94年7月までの革命的テロリズム
による政治。このテロリズムは、反革命容疑者から国民と革命とを防衛すること
を本来の目的とし、92年9月のいわゆる「九月虐殺」で初めて日程に上った。」
同じ文脈でいえば、中国の「文化大革命」も恐怖政治と言えるのでしょう。
https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E9%9D%A9%E5%91%BD-128350
「1966年夏から10年間にわたって繰り広げられた熱狂的な大衆政治運動。
毛沢東自ら発動し、中国では「無産階級(プロレタリア)文化大革命」といわれた。
「造反有理」(謀反には道理がある)を口々に叫んだ紅衛兵運動に始まり、指導者
の相次ぐ失脚、毛沢東絶対化という一連の大変動によって、中国社会は激しく
引き裂かれ、現代中国の政治・社会に大きな禍根を残して挫折した。」
革命と言えるかどうかは知りませんが、日本の明治維新と戊辰戦争は、
革命を成功させるために反革命分子を抹殺するという意味では同じかも
しれません。
https://kotobank.jp/word/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89-133107
「新政府軍との戦闘に敗れ、同盟諸藩は次々に降伏した。12月奥羽越諸藩の
処分が決定。藩主の幽閉、謹慎、削封、転封、重臣処分、贖罪金(しょくざい
きん)賦課などが行われた。また、8月に徳川方海軍を率いて脱走した榎本武揚
(えのもとたけあき)らは、北海道箱館を攻略してこの地に新政権を樹立したが、
69年5月五稜郭(ごりょうかく)において新政府軍に降伏し、戊辰戦争は終了
する。
戊辰戦争により、諸藩財政の極度の窮乏、藩主の藩内統制力の喪失、勤王・佐幕
両派に分裂しての藩内抗争の激化、上級武士対下級武士、将校対兵士、文官対
武官などの対立、領土の飛地(とびち)・入組(いりくみ)関係の矛盾の顕在化、
その他が広範に現れ、藩体制の解体化は大きく促進された。」
p198
つまり、自分を革命派、無政府派、反対党派といった、社会の「特定の点」(役割)として
位置づけたり、そこで「絶対自由」の理想を実現しようとする過激な情熱を断念する。
自分の「絶対的理想」が、自己の情熱に傾きすぎ、万人が認めるような「普遍性」を
欠いていたことに気づくのである。
p199
ここで「自己意識」は、「絶対的理想」への過激な情熱を断念し、「ほんとう」の実質
を、普遍的なものについての思想(本質的な知)を生きること、という仕方で取り戻そう
とする。 このことによって、「絶対的ほんとう」は、いわば個人の「内的自由」の
精神のなかで生き続けることが可能となるのである。
この「内的自由」の精神は、「道徳的精神」という新しい境地として現れる。
==>> 社会的な活動で「万人が認めるような普遍性」があるとは思えないんですが、
たとえそうだとしても、いきなり「絶対自由」から、「内的自由」とか「道徳
的精神」ということになってしまうので、個人的には「あれっ」という
感じです。
p200
ここで「道徳的な自己意識」を代表するのは「実践理性批判」で展開されている
カントの道徳思想である。 ここではヘーゲルによるカント道徳思想の批判が展開
される・・・・
==>> 以前読んだ「カントの純粋理性批判」の「100分で名著版」を読んだんですが、
そこでも、実践理性批判では、私的には、かなりぶっとんだ展開に
なっているようなので、どうなんだかなあ~~と思います。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/07/post-601eba.html
「カントさんは、純粋理性批判の後に、実践理性批判という本を書いて
ですが、そこでは、上記の物自体の叡智界の話になっているそうです。
カントは、不死なる魂は、原理的に認識できないから、あるとも無いとも言え
ないとしているそうです。 つまり、理性が暴走する世界の話です。
そこで西研さんがこのように解説しています:
「実践理性は「完全なる道徳的世界とそこでの生き方」を理念として思い描き
、それをそのまま実現するように命じる・・・」
「現実世界にあって、道徳的に正しく生きることを支えてくれるのが、神への
信仰であるとカントは述べます。」
「人間は、みずからを道徳的存在として完成させるために 死後も修練しなけれ
ばならない、とカントはいいます。」
・・・つまり、理性がこの世からあの世に飛んでいくらしいんです。
さて、ヘーゲルさんは、どのようにこれを批判するのでしょうか。
p204
ここでは人は、自らの感性を陶冶して自己自身を道徳的に完成させるべき、という課題を
もつわけだ。 したがって「全ての人間が道徳的に完成すべし」というのが、道徳思想
の終局的な理想形となる。
==>> 「全ての人間が・・・」というのは、見るからに無理じゃないですかね。
道徳というのは実に内面的なことでしょうから、どのように可能なのか
がまず問題ですね。
p206
たとえば、いま目の前で危機に陥っている人を身の危険をさらして助けるという行為は、
いま自分の安全を守って将来社会のために仕事をすることと、どちらが、“客観的に
善きこと“かはいちがいに言えない。 こう見ると、道徳思想の「純粋義務」は、結局
のところ内心の満足に奉仕する主観的な「善」かもしれず、むしろ人が世間で果たすべき
「数多くの義務」のほうが客観的な善かもしれないという、より高次の道徳的観点が
現れてくる。
p207
それはいわば、もし「神」が存在するならばその明確な基準をもっているような「道徳
的善」の観点にほかならない。・・・・いわば道徳の主観性と客観性(特殊性と普遍性)
とを一致させようとする思想だといえる。
==>> この辺りの話になると、結局自分の命を賭けた自己犠牲はどのようなケースに
なすべきかというような基準づくりという話になっちゃいますから、
普通に考えれば、ほとんど宗教の世界の話になりそうです。
仏教説話みたいなものの中には、自分の身体を食べさせるという話もあり
ますし・・・・
あるいは逆に、戦争中の人肉食いを認めるかというような壮絶な話にも
発展するのでしょう。
ビギナーズ・クラシックス「今昔物語集」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/09/blog-post_12.html
「p37
すると、ウサギは、「ぼくには食べ物を探し出す能力がないんだ。 だから、
どうかぼくの体を焼いて食べてください」と言うや、たちまち炎の中に躍り
こんで焼け死んだ。
このとき、老人に変身していたタイシャク天は、もとの姿におどり、このウサギ
が火に飛び込んだときの姿をそのまま月の中に移して、命あるもののすべてに
見せるために、月面に刻みこんだ。」
上の話は仏教説話でのおとぎ話ですが、現実世界でも下のような
ニュースがありました。
「韓国人留学生が、東京の地下鉄で日本人を救出」
https://news.livedoor.com/article/detail/5134970/
「2001年1月、東京・山手線の新大久保駅で韓国人留学生の李秀賢
(イ・スヒョン)さんと日本人でカメラマンの関根史郎さんが、ホームから転落
した男性を救助するため線路に飛び降りたところ、進入した列車にはねられ、
3人とも死亡するという痛ましい事故があった。
韓国メディアは9年前に日本で発生した事故を連想させる出来事がまた
起こったが、今回は幸いにも救助者や救助された人など全員が無事だった。
この美談に日本中が感動に包まれたと伝えている。
イさんは、偶然にも大学で交通工学を専攻しており、日本政府招請の国費留学生
として選抜された優秀な学生だという。」
・・・このような美談あるいは結果的に悲しい話が時々あるのですが、
要するに、これは道徳云々というよりも、その時、その場で、すぐに体が動いて
助けようとする反射神経があるかどうかじゃないかと、私には思えるんです。
ちなみに、私にはそのような反射神経も運動神経もないのが哀しい。
仮に、時間が十分にある場合でも、どうも日本人は、「この人は本当に困って
いて、助けて欲しいと思っているのだろうか・・・・」などと、変に気を回す
という、いわば逆忖度みたいなのがあって、ためらうようなところがあるの
ではないかと感じます。
要するに、「面倒なことに関わりたくない」というような感覚ですね。
ご存知の方は多いかと思いますが、フィリピンには多くの「困窮邦人」と
呼ばれる人たちがいます。
数年に一度ぐらい、フィリピン人の人たちから、「日本人が入院している。
家族も世話をしている人もいない。 お金も無い。困っている。」という
ような連絡が入ってきます。
常日頃から日本人会のメンバーであるような人であれば、日本人会としても
何らかの手助けをするという、いわゆる相互扶助の関係ですから、メンバーが
手分けをしてヘルプをすることになるのですが、全く見知らぬ人の場合は、
なかなかそういうヘルプは実際問題として出来ませんので、ほとんどの場合は
大使館・領事館に連絡して引き受けてもらうことになります。
しかし、その当人に「助けて欲しい」という意志が全くないケースがほとんど
なので、問題はそう簡単ではありません。
「困窮邦人」に関しては、過去にこんな本を読みましたので、ご参考まで。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/02/post-f194.html
最近観たテレビ番組でも、「高齢者の孤独死」や「ひきこもりの孤独死」など
が話題になっていましたが、その当人に「助けて欲しい」という気持ちもなく、
逆に「ほっといてくれ」という態度がある場合は、どうにも術がないようです。
そうなると、これは個々人の道徳の問題というよりも、社会制度の問題として
対応すべきものかもしれません。
p208
いやしくも人間の道徳的行為に普遍的「意味」があるとすれば、「道徳と幸福」の一致、
「主観的な善」と「社会的な善」の一致ということが何等かの仕方で保証されるので
なくてはならない。 「神の存在」の要請というカントの独自の思想は、まさしく、
「道徳」思想のもつこの“難題”を解決するための思想として導かれているのである。
p209
カントの道徳思想は、たしかに、(宗教的な観念からではなく)人間の内心の自由から
「道徳」と「善」の本質を取り出そうとしたという点で、近代の道徳思想の大きな達成
だった。 しかしそれはまだ、いわば「自己意識」のうちの内的な「自由」のうちでの
善の思想を出ておらず、いかに内的な善が社会的現実につながりうるかという課題を
十分にはたしているとはいえない。
==>> カントの道徳思想と呼ばれるものは、今の私には、上記の「今昔物語」の
うさぎの話のように見えてしまいます。内的なものという意味です。
「「主観的な善」と「社会的な善」の一致」と言うことについても、
結局は内面的な善を現実的社会的な仕組みとしての善に、政治を通じて
実現するしか手立てはないのではないかと思います。
個人で出来る範囲での善行があるのは勿論ですが、生活保護というレベル
になれば、政治であり制度であろうと思います。
=== その7 に続きます ===
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