竹田青嗣+西研著「はじめてのヘーゲル『精神現象学』」― 7 「行動する良心」と「批判する良心」のあいだの相互批判

  

竹田青嗣+西研著「はじめてのヘーゲル『精神現象学』」― 7 「行動する良心」と「批判する良心」のあいだの相互批判

 

 

竹田青嗣+西研著「超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』」

「難解な書物が ここまでわかった! 「知の巨人」がとらえた近代のありよう」

という「超解読」な本を読んでいます。

 

 


「第四章 精神」の続き

「神の要請とは何か」に入ります

 

p214

 

道徳思想において、「神の存在」が要請される経緯は以下のようだった。 現実生活の

なかで人はさまざまな善悪の判断にさらされるが、人間は、個々の行為がほんとうに

社会的な善につながるものかどうかについては、絶対的な判断をもちえない。 そこで、

個々の主観的な善が普遍性なものにつながる保証として「聖なる立法者=神」の存在が

要請される、と。 しかし、このような考えも、「ずらかし」と言うほかはない

 

 

p216

 

「絶対者=神」においては、このような理性と感性の葛藤、対立、陶治という契機自体が

はじめから存在しない。 すなわち神の道徳性なるものは、道徳における最も重要な契機

を欠いたものであって、道徳の本質とはなんら関わりがないというほかはない。

 

==>> ここでは、人間界での道徳の絶対的基準を「神」に求めるということが、

     本来「神」が完全な存在であることを前提とすれば、人間界での葛藤などという

     ものはあり得ないから、神が道徳の規準を持っているなどというのは

     「ずらかし」であると言っているようです。

     「ずらかし」というのがいまひとつピンとこないのですが、要するに

     論点をずらしているというような意味かと思います。

 

 

p218

 

人間精神の本質の歴史的な展開のプロセス・・・・人間的「自己」の三つの段階を想定

できる。

 

・・・「第一の自己」は「法的権利主体の自己」(ローマ的市民)・・・法的人格という点

では承認されているが、・・・皇帝という絶対権力に服従させられており、個性と自由を

もった人間として認められていない。

 

==>> これは一応ローマ的市民と歴史的には想定されているんですが、今現在でも

     このような国はいくつかあるように思います。

 

「第二の自己」は「絶対自由における自己」。 これは近代の啓蒙精神が、絶対王政の

教養的人間から出発してその最高段階である「絶対自由」の境地にいたった時の自己を

意味する。 ・・・「私が世界で、世界が私だ」という信念と情熱のかたちを取るのだが、

それが現実化される可能性がまだつかまれていない・・・

 

==>> 20年ほど前に「世界の中心で、愛をさけぶ」という小説がありましたが、

     なんだかそのタイトルのような雰囲気を感じます。

     ただし、小説の内容はまったく関係ありませんが・・・

     ここで言っているのは、個人は自由と思っているけれど、個人と社会との

     乖離が大きいということだと思います。

 

p219

 

「第三の自己」は「道徳的自己意識」(道徳思想)から「良心」へといたる自己である。

 

・・道徳思想は、・・・外的対象ではなく自己の内的本質としてつかむ・・・しかしそれは

まだ理想と現実の分裂を思想として克服することができず、「ずらかし」にとらわれていた。

 

・・この矛盾を自覚し、乗り越える、「良心」の境位が現れる・・・・

 

人間は、それまでの「法的人格」、「絶対自由」の普遍性、「道徳的義務」という空虚な

諸形式に内実を与え、それらを真に「現実的なもの」とする可能性の原理をつかむ。

 

==>> 道徳とか倫理というものは、社会的規範という意味であろうと思いますので、

     学校でも何らかの形で教えられるものかと思います。

     一方で、良心ということになると「心」の内側の話ですので、教えられるもの

     でもなく、個々人の内的な活動でしょう。 それをいかに現実と整合させる

     のかという点が問題ですね。

 

p220

 

「良心」は、「道徳思想」の限界を自覚して、これを克服すべく現れる近代精神の

新しい範型だが、その出発点を「行動する良心」と名付けよう。

「行動する良心」は、正しいと感じたことをそのまま具体的な「行動」に移そうとする

いわば「素朴な正しさの意識」である。

 

・・・この行為によって多少とも現実がよくなるはず、という実践的で経験的な

知なのだ。

 

p224

 

「良心」は、つねに自分の善が普遍的にも「正しい」ことを求める。 ここで問題と

なっているのは、理想と現実の齟齬ではなく、自分の信念と他者の信念とのあいだ

齟齬なのだ。

 

・・・つまり、「他者の承認」の契機がふくまれているのだ。

 

==>> ここでは、良心とは、単なる内に秘められた良い考えではなく、

     行為あるいは行動でしめされるべき具体的なものであるようです。

     従って、その行動が他の人たちによって認められることが必要になってくる

     ということですね。

     今の世の中では、特にSNSなどを通じて、変な正義感を振り回す人たちが

     いるようですが、おそらくその本人にとっては正義あるいは良心であっても、

     他者がそれを認めるかどうかに本物の良心であるかどうかがかかっているの

     かもしれません。

 

p233

 

こうして、「良心」は、このような共同体的な承認の形式のなかで、ほんらいの普遍性の

契機を失い、「正しさ」や「ほんとう」についての確信は、結局、単なる「自己確信」

にすぎなくなる、という円環へと帰着する。

「絶対の自己確信」が成立しているように見えるが、それは「絶対の偽り」でもあるのだ

 

==>> はい、まさに、この点が困りものです。

     個人の内的な確信というのは、あくまでもその個人にとっての信念でしかない

     わけですから。

 

p235

 

典型的には、「良心」における「個別性」と「普遍性」という二つの契機の対立、つまり

「行動する良心」と「批判する良心」のあいだの相互批判というかたちをとる。

 

==>> このような相互批判というのは、おそらく政治的団体の活動であったり、

     NPO活動などの「よかれ」と思って活動する団体や個人の周りには

     必ず起こってくる問題かと思います。

     私にもそのような経験がありました。

     ある方が末期癌で集中治療室に入っていた時、実質的に単身者であったので、

     数名のご協力をいただきながら、行きがかり上その方の合意書をいただいた

上で、銀行と病院の間を行ったり来たりして、病院への支払いやら、お亡くなり

になった後の火葬などの手配に走り回ったのですが、それに対して一部の知人

たちが、私たちがその方の財産を狙っているというような噂をしていたのです。

     こどほど左様に、「行動する良心」とはなかなか難しいものです。

 

 

p242

 

もし「批判する良心」が、みずからのうちにも非を認め、自分の絶対的な正当性を

投げ捨てて相手の立場を認めるなら、そこに「赦し」(和解)が成立することになる

だろう。

 

==>> まあ、これは批判する側に正当性があるならば、そのような和解もあるので

     しょうが、正当性のない一方的な誤解や中傷の場合は実に後味の悪いものに

     なるでしょうし、事と次第によっては裁判沙汰にもなるのでしょう。

     実際に、ある人を助けようとしていた人が、誹謗中傷をされたために、

     名誉棄損で裁判を起こしたという話も聞きました。

 

p245

 

近代における一切の思想的な対立は、はじめはつねに絶対的で敵対的な世界観や思想の

対立のように見える。しかしこの対立の本質は、われわれの「精神」に内在する諸契機の

対立にすぎず、決して根本的で非宥和的なものではない

 

近代精神の倫理性は、潜在的に相互的な「自由」の実現を目標とし、その本質力に

導かれて徐々に精神の「相互承認」へと近づいてゆく、という本性をもつ

 

==>> この考え方は、かなり楽観的な考え方じゃないかと私には思えます。

     「話せば分る」ということだと思うんですが、それでも殺された人が

     いましたからね。

     思想的という意味においては、ここに書いてあるようなことだとは思いますが、

     その思想をベースにして実際に行われる政治においては、特定の人間の

     いわゆる権力欲が一国を支配するようなことにもなっているように感じる

     からです。

 

p246

 

ヘーゲルでは「精神」という言葉には、人間精神が社会的に実体化されたもの、つまり

慣習や社会制度などの総体というニュアンスが含まれている

 

・・・この意味で、「精神」章は、ヘーゲルによる歴史解釈、つまり歴史哲学が示されて

いるといってよい。

 

==>> もともと私がこの「精神現象学」という本を読もうと思った理由は、

     ここ数年、人間の意識あるいは精神とはなんなのか、ということに興味を

     持っているからなんですが、ひょんなことから、このヘーゲルの「精神」と

     いうものが個人の意識・精神と社会的なものとの繋がりという視点を

     教えてくれたというわけです。

     元来、政治には無頓着な私ですが、なるほどこういう考え方に基づいて、

     マルクス主義のような政治的イデオロギーが生まれたのかと、驚いている

     ところです。

     しかし、実際の世界は、ヘーゲルやマルクスが考えた理論のようには

     ことが進んではいないように見えます。

     科学的弁証法という考え方は好きですが。

 

 

p248

 

「道徳」から「良心」への推移は、カント倫理思想の道徳哲学に対するヘーゲルの徹底的

批判であるとともにその継承でもある。 

 

ヘーゲルによれば、「道徳」思想は近代倫理精神の必然的な類型ではあるが、自己理想に

固執することによって、「自由」の本質的な相互承認の境位にまで達することができない

のだ。

 

p249

 

ヘーゲルによれば、カントの「道徳」思想は、宗教的倫理に代わる近代人のはじめの

本格的な倫理思想だという功績をもつ。 しかしそれは、特定の理想理念によって

「善悪」の絶対的基準を立てていることに無自覚なため、近代社会の倫理思想としては

大きな欠陥をもつ。

 

==>> ここまでが、ヘーゲルの歴史哲学の精神の流れということになりそうです。

     その時代、その時代に応じて、人間の精神あるいは意識というものが

     変化しているという話は、私にはいい刺激になりました。

     おそらく、これから将来に向けては、「サピエンス全史」のハラリ氏が

     「ホモ・デウス」で書いているような時代に突入していくでしょうから、

     人間の精神というもののあり方は今まで以上に急激な変化あるいは進化を

     遂げていくことになるのではないかと思います。

 

 

p250

 

たとえば実際的な政治活動をおこなう実行者は、いわば自分の「魂の清潔さ」よりも

「社会的な事業」の有効性を重んじなくてはならないが、批評家や思想家は、彼らの

隠れた私的動機や「不純さ」をつねに批判する。

これに対して、実行者は、批評家や思想家のほうを、社会のために手を汚す矛盾を回避

して「自分の魂の純潔」だけを守っている人間だと考えるだろう。

 

==>> これは現在でもよく議論されることだと思います。

     万年与党と万年野党という日本の構図は、この意味においては残念なことで

     あろうと思います。政治家がその信念を具体的な社会制度として構築すると

いう戦場でその頭脳をギリギリまで絞ったつばぜり合いをすることこそ

     国民にとってのより良い社会が築かれるのではないかと思います。

     地方政治や国会の中で、弁証法的な積極的な議論が戦わされることを

     願いたいと思います。

 

     次回は、「第五章 宗教」に入ります。

 

 

=== その8 に続きます ===

 竹田青嗣+西研著「はじめてのヘーゲル『精神現象学』」― 8(完) 宗教vs論理学、自由を基盤とした社会の将来 (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

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