波多野精一著「宗教哲学」を読む ― 5 キリスト教の「愛」と仏教の「慈愛」の違い?
波多野精一著「宗教哲学」を読む ― 5 キリスト教の「愛」と仏教の「慈愛」の違い?
波多野精一著の「宗教哲学序論・宗教哲学」を読んでいます。
「宗教哲学」の3回目です。
p359
一切は可能性の世界へ押遣られる。 「他者」は実在する乃至は実在のそれではなく、
意味の上の存在を保つだけのそれ、性質上の乃至は性質としてのそれに尽きる。
「もの」を共通に処理すべき「ひと」はその「もの」の影に隠れて全く姿を消す。
更に言い換えれば、「他者」は主体にとって自己ならぬもの、従ってこの場合、客体を
意味する。 しかるに客体は処理され「自己」のうちに取容れられることにおいて成立つ
ものである。 即ちその本質は可能的自己であるに存する。
==>> 私の勝手な推測で、ひらたく言い直すとするならば、
この世に居る自分以外の人は実在する他者ではなく、自己にとっては
「もの」として処理される存在である。 しかし、その「もの」が自己の
内部に取り入れられて処理されることによって自己の中で客体として
理解されるということでしょうか。
私は二十歳の頃から「自分以外の人間を真に知ることはできない」という
いわば不可知論的な考えを持ってきました。まあ、自分のことすらあまり
分っちゃいないんですから、当たり前といえば当たり前なのですが。
ですから、ここで述べられていることは腑に落ちます。
もちろん、ある状況における、人と人の間の共感というものは確かにあると
思うのですが、相手を客体として理解するというのは上述のようなことで
あろうと思うのです。
そして、そこには、仏教で言うところの縁起、つまり相依りのような相互作用
によって、すべてが実在するものになるのではないかと思っています。
その主体となるものが著者のいう「人格」なのかなと推測します。
p360
愛を広義の一般的に解すれば、「他者との生に共同」ということが出来よう。
人間性及び自覚的存在の段階まで進んだものにおいてはじめて愛は存在する。
p361
人間的存在の土台をなす自然的生の段階においては、愛は他者との直接的交渉の
性格を示す。他者との生の共同乃至合一は、他者の実在性を破棄して自己の実在性
のみを貫徹することによって、換言すれば、一切の実在を、従って例えば対手の
人間を、物件化し併呑し享楽することによって、成遂げられるであろう。
第二段階においては他者は自我の客体として成立つ。 ・・・この場合イデア的観念的
存在である。 実在へと向かう愛、実在相互「ひと」相互いの間に成立つ愛も、この
場合、根柢においては、「もの」に対するそれである。
うつくしさ、よさ、愛らしさなど何等かの資格や品位が、または主義思想理想等が、
自我と共同に入るべき他者なのである。
p362
第三の愛は前二者とは根本的に性格を異にする。
・・・この第三の愛はギリシア語(アガペー)を以って呼ばれる。
歴史的にはキリスト教の世界において特に顕著なる原理上述語上の実現を遂げたが、
もちろんいずこの世界においても見られ得るもの、日常の生活においても片鱗に接し得る
ものである。 この愛の基本的特徴は、実在する他者に出発点基点を有し、従って他者の
実在性を基本的前提とすることによって成立つ生の共同である点に存する。
p364
エロースが自己規定自己実現を原理としたのに反して、アガペーは「他者規定」「他者実現」
を原理とする。 ここでは生及びその運動はいつも他者より発し他者にもとづく。何事に
おいても他者が優先権を保有する。 さてかくの如き他者はもちろん客体としては成立ち
得ない。 主体として実在として存在するほかはない。
・・・かくの如き共同態は「ひと」との間のそれとしての他にはあり得ない。
人格および人格性はこの愛においてはじめて成立つのである。
==>> ここでは愛の三つの段階について述べています。
第一はエロース、第二はエピテュミア、そして第三はアガペーです。
エロースとアガペーは割と知られていますが、エピテュミアは知りません
でした。 日本語訳としては「欲求」という訳があるようです。
いずれにせよ、インターネット上で意味を探すことはできませんでした。
上記の第二段階の内容を読めば、普通の人たちのいわゆる恋愛・結婚はこれに
相当するのかもしれません。
アガペーは、なんだか遠い世界のような気がします。
私がイメージできるのは、お釈迦さんとその弟子たちの関係のようなもの
でしょうかねえ。 修行と問答を共にしている共同体のような。
キリスト教を知らないので、どのようなイメージなのかは分かりません。
p365
真のアガペーは決して博くあまねく人に及ぼすというが如きことを原理とするものでは
ない。 広狭、大小、普遍特殊等の別を全くないがしろにするこの愛は、ひたすら唯
ひとりへと注ぎ得る。 否それどころではない。 実在するものは独立なる中心として
成立つもの、主体として存在するものである以上、エロースが普遍性への愛であると
異なって、アガペーは、むしろ本質上、主体との従って個体との共同として成立つので
ある。
p366
根源的意義における個体は・・・・・今強いて客体的に言表すならば恐らく「これ」と
呼ぶ以外に途なきものである。 体験においてはかかる個体は「汝」として与えられる。
それは「われ」にとっては生の共同の対手、向かうもの、「あなた」のものである。
・・・従って博愛や人類愛の如き、自我の大袈裟な「公共」的な運動、・・・などと
してではなく、人格の物静かなむしろ「私」的な交渉として、真の共同への緊張集中
として、かくの如きものとしての真の愛は成立つのである。
==>> なかなか難しい定義です。
唯ひとりへと注ぐ愛、 個体との共同、「これ」と呼ぶしかないもの、
「われ」にとっては生の共同の相手、博愛や人類愛ではなく、物静かな
私的な共同への集中・・・・
ここで想い起したのは、「これと呼ぶしかないもの」という言葉からの
連想です。 つまり、「いま、ここ、質感を伴うクオリア」という単純な連想
です。 「クオリア」については様々な議論が行われているようなので、
そのドサクサに紛れて勝手なことをさらに連想することにします。
そこで連想したのは、神という言葉を自然法則と考えた場合の
「愛」のあり方です。
例えば、アインシュタインのような・・・・
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/05/post-c59899.html
「p43
私はアインシュタインと同じく、「神」という言葉を、人格を持たない自然法則
という意味で用いる。 したがって、神の心を知るということは、自然法則を
知るということだ。 私の予想では、今世紀の末までに、人類は神の心を知る
ことができるだろう。
宗教がいまも神の領分だと主張できるのは宇宙の起源だが、ここにおいてさえ
科学が進展し、宇宙はどのように始まったかという問いに対して、まもなく
決定的な答えが与えられるにちがいない。」
・・・平たく言ってしまえば、アインシュタインは神に愛されたと言えるの
でしょう。 つまりは、自然法則に愛されたということになります。
Wikipediaによれば、「アガペー(ギリシア語: αγάπη)は、キリスト教に
おける神学概念で、神の人間に対する「愛」を表す。神は無限の愛(アガペー)
において人間を愛しているのであり、神が人間を愛することで、神は何かの利益
を得る訳ではないので、「無償の愛」とされる。」「またキリスト教においては、
神が人間をアガペーの愛において愛するように、人間同士は、互いに愛し合うこ
とが望ましいとされており、キリスト教徒のあいだでの相互の愛もまた、広い意
味でアガペーの愛である(マタイ福音書22、37 - 40)。」とあります。
私自身はキリスト教的な愛の概念がいまひとつはっきり分かりませんので、
仏教の場合と比べてみます。
このサイトに参考になる記述があります。
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/bukkyokirisuto09.htm
「仏教には、慈しみを意味する「慈悲」と、愛欲・愛着を意味する「愛」という
言葉があります。仏教の「愛」は、異性、お金、名声などへの「執着心」の意味
なのです。 仏教の「愛」は、欲望の一種であり、煩悩の一つにすぎません。
そのため、仏教では「愛」を否定しています。『法句経』にこう書かれています。
「愛より憂いが生じ、愛より恐れが生ず。愛を離れたる人に憂いなし、なんぞ
恐れあらんや」
「仏教徒は、「慈悲」とは"苦を抜き楽を与えること"である、と説明しています。
慈悲とは、他の人の不幸を抜き去り、それに替えて幸福を与えることです。」
「「慈悲」が盛んに言われだしたのは、大乗仏教の時代になってからです。
シャカの説いた原始仏教においては、「慈悲」は中心的な教えではありません
でした。」
「仏は、在家信者も慈しんでおられ、在家の者も彼岸に渡れるように望んで
おられる、という考えです。 こうして初めて、「慈悲」という考えが登場した
のです。」
「阿弥陀仏の「慈悲」と、功徳によって救われる、というものなのです。
このように大乗仏教になって、仏教は有神論的になり、「慈悲の仏」というもの
が信仰されるようになったのです。」
・・・このような仏教での「慈悲」の考え方は、今までに読んできた仏教の
本などで理解してきたものと合致します。つまり、ブッダの初期仏教ではその
発想がなく、大乗仏教になってから出て来た概念であるということです。
阿弥陀仏という人格をもつ仏によって救われるという愛が「慈愛」ということに
なるようです。
過去に何度も書きましたが、親鸞さんの浄土真宗は阿弥陀一神教であって、
そこで初めて、日本仏教は戒律と修行の仏教からキリスト教のような信仰の
仏教になったと私は理解しています。
・・・そこで、過去に読んだ阿弥陀経にどう書いてあったかを振り返って
みます。
末木文美士著「仏典を読む」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post.html
「p51
もともと仏教は悟りを求める宗教であるから、仏や浄土を外在的に見るのは、
その本筋から外れているともいえる。 後に大乗仏教の主流となる「空」の哲学
からすれば、他者としての仏はあくまでも仮現的なものとして、「空」に解消
されるべきものと考えられる。しかし、注意すべきは、浄土信仰などの「原始
大乗仏教」は「空」の思想が興る以前、あるいは「空」の思想とは無関係の
ところで成立したと思われ、仏や浄土を「空」に解消するところは見えない
ことである。現行の「無量寿経」には「空」が出てくるが、古い「大阿弥陀経」
には出てこない。・・・むしろ仏教の正統を外れたものともいえるのだが、
それに固執したのが中国の善導であり、その善導の説を受け入れた法然で
あった。
p52
しかし、その理論的な綻びにこそ、浄土教のポイントがある。・・・大乗仏教の
一つの原点は、他者を根源的な所与として組み込むことにあった。
・・・日常の生活でも常に他者と関わらなければならない。
・・・仏が、一方で心と同一視されながら、他方で無限大の距離を隔てるのは
そのためである。・・・・そのことは、浄土が死者の世界とされることとも関係
する。・・・死者の世界には自ら死ななければ入れない。」
・・・これを振り返ってみると、やはり善導―法然―親鸞のラインであったのが
分かります。
こちらのサイトによれば、「大阿弥陀経」は〈無量寿経〉漢訳四本を合糅して
一本に編集したものとありますので、
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%A4%A7%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E7%B5%8C
「無量寿経」を辿ってみると、
https://kotobank.jp/word/%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C-140923
「浄土教の根本聖典。『観無量寿経』『阿弥陀(あみだ)経』とともに「浄土三部経」
の一つに数えられる。『大無量寿経』ともよび、『大経』と略称する。サンスクリ
ット原典は「スカーバティー・ビューハ」Sukhāvatī-vyūha(極楽(ごくらく)の
荘厳(しょうごん))といい、およそ100年ごろ北西インドで編纂(へんさん)され
たと推定される。」
・・・新約聖書は、 wikipediaでは「紀元1世紀から2世紀にかけてキリスト
教徒たちによって書かれた文書で、・・・」と書かれていますので、無量寿経と
概ね同じ時期に編纂されたようです。
https://true-buddhism.com/religion/jihi/
こちらの仏教系のサイトには、キリスト教の「愛」と仏教の「慈愛」の違いが
書かれていますが、かなり異なっていることが分かります。
また、こちらのキリスト教系とみえるサイトでも、その違いが書かれて
います。
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/bukkyokirisuto09.htm
「自分を幸福にしようとする姿勢と隣人を幸福にしようとする姿勢の、どちら
が欠けても人間の本当の幸福はあり得ません。これは仏教の「慈悲」にも、
キリスト教の「愛」にも、共通する考えです。
ただ注意すべきことは、「愛」の教えは聖書においては、当初から中心的な
教えだった、ということです。それは、旧約時代においても新約時代においても、
つねに中心的な教えでした。」
ただし、ここでは、あくまでも宗教としてではなく、宗教哲学という観点から
みて、少なくとも浄土真宗的なものとの比較でいえば、かなり似ているのでは
ないかと感じます。
さて、かなり横道に逸れてしまいましたので、本筋に戻りましょう。
p368
一般的に言って、エロースとアガペーとの混同こそ愛の本質の理解への最大障礙であろう。
しかしながらこの混同は決して今日にはじまったのではなく、古き歴史を有する。
p369
即ち、愛の理解が人間性の立場、乃至それを徹底させたものとしてイデアリスムの立場、
を去らぬ限り、上述の混同はむしろ当然または必然というべきである。
p370
しかしながらアガペーの理解的反省においては、彼(アウグスティヌス)は全くプラトンの
足跡を踏みつつ、自己によってに非ず他者によってのみ規定されるという、アガペーの
基本的特徴を価値の無制約性として理解しようとした。 今この立場に立つならば、いか
なる愛も主体の態度においては全く同一でなければならぬであろう。
・・・要するに、アウグスティヌスは理論的考察及び論議に際しては、アガペーをエロース
としてしか解し得なかったのである。
有名なる思想家パスカールにおいても、・・・・愛における「他者」の必要を認めた
のは正しい。 しかしながらその他者を自己と同一なるものとしてしか解し得ず、
結局自己実現の契機としての他者並びにその価値を愛の原理と立てようとした点は、
この人もまた思想家としては等しく人間性の立場を克服し得なかったを示すのである。
==>> おお、凄いですね。 この著者はアウグスティヌスとパスカールをなで斬りに
しています。 そんな歴史上の凄い思想家たちが間違ったというぐらい
ですから、私のような凡人に区別ができるわけもないですね。
ちょっと安心しました。
「人間性の立場を克服し得なかった」の意味が私にはまだ分かりません。
p369の記述から判断すると、人間的=イデアリスムの宗教を脱すること
ができなかったという意味でしょうか。
p375
人間性にもとづくこの媒介性は、他者の側より見れば、「要求」「命令」等を、自我の側
より観れば、「承認」「服従」等を、必然的契機として包含する。 他者よりの要求への
自由なる服従――これが人間性に基礎を置くという方面より観たる道徳である。
それはまた愛の、見のがしてはならぬ、本質的一面である。 「義務」を包含せぬ愛は
偽りである。
==>> ここで「人間性」についての叙述が出て来ました。
「他者よりの要求への自由なる服従――これが人間性に基礎を置くという方面
より観たる道徳である。」という言葉がポイントになりそうな気がします。
p388
根本的にいえば、表象し得るのは観念的内容あるのみ、実在するものは元来表象し得ない
のである。 実在者は実在的なる生の交わりに入り得るのみ、語りあい得るのみである。
かくの如き共同態こそ愛であり、愛においてはじめて人格は成立する。
p392
人格性と愛とは道徳より宗教に進むを要求する。 人格性は人間性の基礎の上に立つが、
しかも同時にこの基礎そのものの超越克服によってのみ成立する。これが宗教への
進展の意義である。
==>> 実在的な相互作用のある共同態が愛であり、人格ができる。
その愛と人格が道徳から宗教に進む。 人格は人間性を超えるところに
ある・・・・ということでしょうか。
p399
文化的生においては自我は、飽くまでも主体として留まりつつ、一切の他者を併呑する。
宗教においてはこれに反して他者はこの自我を戦慄せしめ平伏せしめる。 すなわち、
厳密の意味の純真なる実在性は宗教においてはじめて出会い得るのである。
この犯すべからざる実在性・他者性・超越性こそ宗教の用語が「神聖」と名づける所の
ものである。
==>> やっとここにきて、文化的意味と宗教的意味での「他者」の違いが明らかに
されたように思います。
つまり、文化的な自我は、主体として他者を呑み込む。
一方、宗教的な意味においては、他者が自我を呑み込む。
私の場合は、せいぜい前者どまりの性格のようです・・・・・
p410
あらゆる擬人観、否あらゆる人間性を否定克服しようとする企てをなすものに神秘主義
がある。 これは主体的方面においても客体的方面においても無への没入を主張する。
p414
神との合一は畢竟自己の無に等しきこと、自己の有限性の体験に他ならぬ。
・・・・吾々は、神秘主義より人格主義への転向の必然性が、甚だ力強くここに示唆され
て居るを見て、少なからぬ喜びを感ずる。神秘主義の終わるところが人格主義の始まる
所なのである。
==>> 人格は人間性を超えるものだと上記にありました。
そして、人間性を否定するものとして神秘主義があると書いてあります。
と言うことは、人格性は神秘主義と同等レベル、あるいはそれを超えると
著者は言っているのでしょうか。
ここで述べられている「神との合一」というのはキリスト教的な意味なの
でしょうが、例えば、仏教的な意味での「梵我一如」と同じようなもの
と考えてもいいのでしょうか。
瞑想によって宇宙と一体となるというような感じ。
キリスト教で、どのような瞑想や修行があるのか私は知りませんが。
p420
絶対的他者との関係が直接性に留まる間、無の体験におわる間は、共同は成立し得ぬので
ある。 無の地に新に有の姿が織り出され、人間の自己実現を意味したものが絶対的
他者の深みに滅び、その他者その無の底より、それの啓示としてさらに新なる意味と
生命とを担うものとして、生まれ出でることによってはじめて宗教的共同は成立つので
ある。 この宗教的体験を、ふつつかさの自覚に口ごもりながら、言表したものが
「創造」の観念である。
p421
関係であり共同でありながら、しかも一方的であること、相互性を全く克服して居ること、
――これが宗教的体験のみの語り得る秘儀であり不可思議である。
==>> おお、なかなか複雑です。
平たく言い直すと、神を感じる体験というものが、人間の自己実現のような
ものであってはダメで、一方的な神からの啓示のようなものでなければ
宗教的体験とは言えないということなのでしょうか。
秘儀とか不可思議という言葉から私が連想するものは、密教の加持祈祷の
ようなものでしかないのですが・・・・
空海さんは、そのような内容を顕教に対するものとして重視したようです。
=== その6 へ続きます ===
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