波多野精一著「宗教哲学」を読む ― 6 「お願い」と「祈り」はどう違う? 批判哲学、宗教的体験から理論的反省的理解へ

 

 

波多野精一著「宗教哲学」を読む ― 6 「お願い」と「祈り」はどう違う? 批判哲学、宗教的体験から理論的反省的理解へ

 

 

波多野精一著の「宗教哲学序論・宗教哲学」を読んでいます。

 

 


 

「宗教哲学」の4回目です。

 

 

 

p423

 

神と語るというは、第一義的に、自己を即ち自己のあらゆる有あらゆる存在を、

内容的自己のみならず実在的自己をも、主体をも客体をも、従って結局一切の存在を、

神の言葉となし象徴となすこと、否、神の言葉とされ象徴とされつつ受け入れる虚の器

となること、否空虚そのものとなること、否しかされること、である。

この徹底的象徴化こそ人格主義の最も著しき特徴である。

 

==>> ますます複雑になって、文脈が分からなくなってきました。

     「空虚そのものとなること・・・」までは理解できるのですが、それが

     なぜ「人格主義のもっとも著しき特徴」になるのかが分かりません。

 

 

p428

 

真に滅びぬもの、しかも真に新しさを有するものは、実在的他者との交わりよりして

のみ生まれる。かかるものこそ真の創造である。 文化における真の創造は、文化が

それ自ら即ち文化であることを克服して、否克服されて、自己を、自己の作為を、抛棄

しつつ、素直に他者の創造に身を任せる時にはじめて行われる。偉大なる芸術家はいつも

かくの如き啓示や霊感に生きた。 学問もまたいかなる文化事業も啓示や霊感のなきもの

は無生命無内容である。

 

==>> う~~ん、これがp423に書かれていた「人格主義の最も著しき特徴」と

     いうことに繋がっているのでしょうか。 人間性を超え、神秘主義を超え、

     他者とのコミュニケーションをして、霊感を受けるという芸術。

 

p431

 

人格主義はまたはじめて、宗教特有の動作としての「祈り」に、その占める位置に

ふさわしき意義を与える。 祈りは人間の言葉であるが、それの対手は絶対的実在者

としての他者である。 他者の先ず語る言葉によってのみ祈りは生命を得る。

それ故恵みに対する感謝、全能に対する信頼、自己の無の告白などが祈りの精神である。

それが通常願いの形を取るは、この精神、謙虚の精神の人間的表現に他ならぬ

祈らずとても神は護るが故にこそ、人は神に祈るのである。

 

==>> シンプルに言えば、お願いするのは人間的表現で、祈りは宗教的で人格主義的

     であるという話のようです

     もっと俗物として言えば、文化的な風習としての参拝は神仏への「お願い」で

     あって、宗教的に生真面目な敬虔な人は「祈り」のレベルにあるということ

     になるのでしょうか。

     まあ、私の場合は、完全に前者としかいいようがありません。

 

 

p435

 

「悔い」の観念は、宗教にとっては極めて固有なる重要なるものであるにもかかわらず、

人間性の立場より観れば、不条理や無意味を免れ難いであろう。為された行為は過去と

なった事実である。 過去が無に帰したことを意味するならば、無きものに関して思い

悩むは愚である。

・・・悔いの意味を否認しようとする哲学者のあるはむしろ当然というべきであろう。

しかるに、実在的他者との関係において生きることに生の本質を置くならば、展望は

全く顚倒し、悔いは生の中心に立つ極めて重要有意味な事柄となる。

・・・・悔いは罪の体験と必然的に聯関し、むしろそれの一契機とさえ看做し得る。

 

==>> 人間性、哲学的立場からいえば「悔い」というものは不条理で無意味。

     一方、宗教的な立場からは中心的事柄になるようです。

     これもおそらくキリスト教的な意味合いであろうと思います。

     過去に読んだ本の中に下のような記述がありました。

 

     苫米地英人著「人はなぜ、宗教にハマるのか?」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/04/post-4fb67f.html

     「p200 

こうした中国浄土教の論理から親鸞は、大乗仏教をキリスト教レベルの

世界宗教の論理に引き上げました。

      ・・・親鸞の考え方は、キリスト教の無償の愛と同じです

 

p202

      親鸞の考え方は、もともとの仏説とは異なります。・・・それはあるがままの

人間を手放しで肯定する、新しい宗教の成立だといえるでしょう。

それは、釈迦が教えた「すべてのものは幻である」という考え方とは、ずいぶん

思想的には離れたものです。

  

     p203

      釈迦の教えは、・・・・人間にまとわりつくそうした幻想を徹底的に剥ぎ取り、

その足かせや頚木から自由になることを教えています。」

 

     ・・・・また、こちらの浄土真宗のお寺のサイトではこのような、まるで

キリスト教かと見まちがうような言葉が書いてあります。

     https://komyouji.com/hougocalender/2014-09.html

     「お念仏は 讃嘆であり 懺悔である」

     「「即懺悔(そくさんげ)」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち

無始(むし)よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。」

 

ところで、この「懺悔」を辞書で調べてみますと、以下のような説明が

ありました。 

仏教では「さんげ」、キリスト教では「ざんげ」と読むようですが、

内容的にも違いがあるようです。

https://kotobank.jp/word/%E6%87%BA%E6%82%94-70615

仏教における懺悔・・は比丘自身の修行であるが、同時に教団としての統制

と一元化を図るうえで重要な役割を果たした。」

キリスト教で懺悔にあたる語は、告解(こっかい)、告白、悔改(くいあらた)

めなどである。・・・告解は、人ではなく、神に向かってなされる行為である

こと、また感情の誇張を極力退けるところから、告解と懺悔とは別であるという

のがカトリック側の主張である。」

     (仏教では現在も「さんげ」とよむ) 仏語。過去に犯した罪悪を告白して

ゆるしを請うこと。また、過去の罪悪を悔いて神仏や人々に告げわびること。

     ⑤ キリスト教で、罪のゆるしを求める行為をいう。告解。告白。悔改め。

  

     ・・・私は元々は両親が親鸞さんだったので浄土真宗ってことだったんですが、

     懺悔のようなことは全く知りませんでした。

     高校の受験生時代に英語の勉強の為に英文和訳の聖書を読んだり、映画で

     懺悔なるものを知った程度だったので、キリスト教のものだと思っていました。

     まあ、要するに、観光で神社仏閣を廻って、お賽銭をあげて、「お願い」をする

     のが関の山ということです。

 

 

p439

 

「時」は人間性及び文化的存在の基本的特徴である。 自己実現の基本的形式が時である

と言い得よう。 自己実現においては主体(自我)が中心に立つ。 それが即ち「現在」で

ある。 一切は現在を中心として展開する。 客体としての他者はその場合可能的自己に

過ぎぬ。それが「将来」である。自己は実現されるとともに、即ち現在に入るとともに、

無に帰する。 この帰無こそ「過去」である。

 

==>> ああ、そうですか。まあ、なんとかここまではついていけますけど・・・

 

 

p441

 

実在的他者は服従を要求する故、現実的生は他者に対して服従を拒み、飽くまでも

直接性に立留まろうとする人間的自我の反抗を意味するに至るであろう。

宗教的体験にとっては、これが「罪」なのである。

それ故、罪に堕ちるということは、ある特定の時間的動作を指すのではない。 現実的

生に留まる限り自我はいつも絶えず罪に堕ちているのである。

また文化そのもの人間性そのものが罪なのではない。 実在的他者との共同において

象徴化された人間性と文化とは、むしろ神の恵みである。

実在的他者との関係共同を離脱乃至拒否して、独立独尊の態度を取った人間的文化的

生が罪なのである

 

==>> ここは私には宗教的な体験がないので何とも理解ができません。

     真面目な宗教が絶対的な服従を求め、それを拒否するとなれば、まあそれが

     罪だということは、言葉の上では分かるのですが。

     後段の、一般的な文化や人間性と、独立独尊の人間的文化的の間の違いが

     いまひとつピンと来ません。

     一般的な意味でのそれと、宗教的な意味でのそれの違いでしょうか。

 

p452

 

他者、絶対的他者、を原理とすることによってはじめて「永遠」は成立つ

 

・・・・真の「永遠」は、あらゆる自己実現が克服され象徴化され彼方より語られる

絶対的他者の恵みの言葉と化した処にのみ成立つのである。・・・・

 

将来(他者)と現在(主体)との共同は愛においてはじめて成遂げられる。「将来の現在性」

こそ「永遠」である。しかして時の真中に立ちつつ、しかもすでにこの「永遠」に与る

働き、希望に立脚しつつ自己を空にして他者の差し伸ばす手をすなおに握る働き、

――これが宗教における「信仰」である。

 

==>> 「将来の現在性」というのが難しいのですが、これが宗教における「信仰」だ

     というのは何となくわかるような気がします。

     過去にも今にも私には信仰と言えるものはありませんが・・・・

     

p454

 

信仰は「将来の現在性」の体験である。 基礎としても帰結としても希望なくしては

信仰は成立ち難い。

 

==>>  さて、これで「宗教哲学」の最後の章「愛の神」を終わりました。

      振り返って私自身を見ると、将来はなるようにしかならん・・・と

      思っているようでは、信仰はなかなか困難であるようです。

 

 

 

  

=== 「解説」 ===

 



「宗教哲学」の本文は私にとっては、文脈や論旨を辿るのも困難でしたので、

この「解説」の中から なにかヒントになるものがないかを拾ってみます。

 

 

p529

 

事実は意味あるいは理解と関連することによってはじめて、知の対象となるのであり、

いわゆる「生の事実」といったものは人間の経験においては存在しないからである。

したがって、経験的な事実に基づく宗教と、その反省的自己理解としての宗教哲学は、

実証主義的な方法論に基づく宗教研究(例えば、宗教心理学)においても、その意味を

失うことはないのである。

 

p530

 

正しき宗教哲学は、神自体を理論的論証の対象とする哲学ではなく、人間の事柄と

しての宗教、人間的生における宗教の可能性と現実性を論じる哲学なのである。

 

p531

 

「宗教的体験の理論的回顧、それの反省的自己理解」という簡潔な定式が与えられており、

ここでは、この定式の内容を、批判哲学と実在論という観点から説明する・・・・

 

 

p532

 

・・・波多野宗教哲学は、ヴィンデルバントの「カントを理解することは彼を超越

すること」という言葉の通り、カント批判哲学の宗教哲学における徹底化を目指して

いる。 ・・・・「批判主義の宗教哲学は、主理主義的形而上学や超自然主義のそれと

異なって、宗教の対象の哲学的考察ではなく、宗教そのものを対象とする哲学である」

とまとめられる。

・・・宗教哲学の人間学化あるいは人間学的転回と呼ぶことができるであろう。

 

 

p533

 

こうして宗教哲学の対象として神ではなく宗教、つまり宗教的体験が取り上げられる

ことになった。 ・・・シュライアマハーの「高次の実在主義」にしたがい、宗教的

実在論に立った宗教哲学の構築を試みたのである。

 

 

p534

 

波多野宗教哲学は、近代以降の知的状況における宗教哲学の確立のために、カントの

批判哲学を拡張しつつ採用し、そこに、人間的生の事実性(宗教的体験)から理論的

反省的理解へと至る解釈的プロセスを組み込んだ試みという事ができる。

 

 

p537

 

体験の立場に立つものは宗教が他と混同を許さぬ固有の意味内容を有するを知る。

かかる意味内容を反省に上せ、それの理論的理解を原理へと推進めて行くものは

本質の観照把握に到達してはじめて満足を見る。この本質の理解こそ宗教哲学である。

 

p538

 

つまり、高次の実在との関係・交わりことが宗教の核心を構成するものであり、波多野は、

この実在を愛の関わりにおいて人格として出会う他者、神聖性を有する絶対的他者

として説明してゆく。

 

 

p545

 

波多野は、象徴の典型的な実例として「言葉」を挙げつつも、象徴が宗教現象に

おける神話や儀礼を包括する宗教の基本的な表現形態であると理解しており、・・・

 

・・・波多野の象徴論で特徴的なのは、象徴の指示機能(象徴世界の外部への指示)

を意味機能とは区別されたものとして、主体の自己実現・表現から実在的他者との

人格的関係性へと拡張していること、つまり文化的生の自己表現と明確に区別される

ものとして象徴機能を明確化していることである。

 

 

===>> この「解説」でこの本の全体の流れが大づかみにできるように思います。

      しかし、宗教を傍観するしかできない私にとっては、この宗教哲学と

      いうのはなかなかの難敵であることは分かりました。

 

上記の解説では、「カントの批判哲学を拡張しつつ採用し、そこに、人間的生の事実性

(宗教的体験)から理論的反省的理解へと至る解釈的プロセスを組み込んだ試みという

事ができる。」と書いてありました。

 

そこで、過去に読んだ「NHK「100分で名著」より西研著「カント:純粋理性批判」」

の感想文を振り返って、カントの批判哲学がどのようなものだったかを復習してみます。

 

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/07/post-601eba.html

 

私的には、純粋理性+実践理性=密教曼荼羅なんじゃないかという感じです。

 

カントは人間の認識によって対象である物自体があることが証明されると、それまでとは

全く逆の論法を生み出したんですね。客観があってそれを見る主観の私がいるというの

ではなくて、逆に、主観によって写し取られた現象が客観を作り出すという話のようです。

 

カントさんが考えたのは、時間・空間という枠組みの中で感性によって対象を認識し、

それを純粋概念の枠組みの中で悟性によって判断し、 それを元に理性でいろいろな推論

をするってことのようです。

そして、その理性は暴走して、答えの出ない領域である物自体の叡智界に迷い込むという話

らしい。

(この部分に「純粋理性批判の」全体像というまとめのチャートが書いてあります。)

 


 

==>> このチャートを波多野宗教哲学を重ね合わせて考えてみると、

もしかしたら、 感性―直観のラインと叡智界や物自体の領域が宗教的な体験

の領域で、悟性―純粋概念―判断と理性―推論―理念の領域が宗教哲学の領域

だと考えることが出来るのではないかと思います。

 

そこで西研さんがこのように解説しています:

実践理性は「完全なる道徳的世界とそこでの生き方」を理念として思い描き、それをそのまま実現するように命じる・・・」

「現実世界にあって、道徳的に正しく生きることを支えてくれるのが、神への信仰であるとカントは述べます。」

「人間は、みずからを道徳的存在として完成させるために死後も修練しなければならない、とカントはいいます。」

 

==>> 以上、簡単にカントの批判哲学を復習したのですが、

     波多野さんの宗教哲学が成功しているのかどうかは、なんとも私には判断が

     できません。

     しかし、カントさんが「実践理性批判」において、まるで空海のように

     死後も修練しなければならないとしたことから考えれば、波多野さんの

     宗教哲学へのアプローチはそのような迷宮には入らなかったという点で

     良いのではないかと思います。

     いまだに全体の論旨が私の頭の中では堂々巡りをしていますが・・・・

     何度も反芻している間に分る時が来ることを期待します。

 

 

私の堂々巡り、右往左往にお付き合いいただき有難うございました。

 

 

== 完 ==

 

 

 

 

 

 

 

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