ライプニッツ著「モナドロジー」を読む ― 3 「神にその機会を与えることもない」
ライプニッツ著「モナドロジー」を読む ― 3 「神にその機会を与えることもない」
湯川秀樹の「素領域理論」、
そして先に読んだ保江邦夫著「神の物理学 甦る素領域理論」の関連で、
モナド理論なるものが出てきましたので、ライプニッツ著「モナドロジー」に
掲載されている「理性に基づく自然と恩寵の原理」他の書簡を読んでいます。
==
以下は、「付録」の中から、いくつかを拾っていきます。
これらは特定の人物への書簡の形になっています。
「ゾフィー宛書簡」
p132
私の基本的省察は、二つのこと、すなわち一性と無限についてです。
魂は単一です。 物体は多ですが、無限であって、塵のごく小さな一粒でも無数の
被造物に満ちた世界を含んでいるようなものです。
p143
・・・魂はどのようにして物質に働きかけることができるのか、また物質はどの
ようにして魂すなわち表象する存在者に働きかけることができるのか、・・・
たしかに私たちは、身体がしばしば魂の意志に従い、魂が身体の作用を意識して
いるのを、自身の内で認めています。 けれどもこの二者のあいだに、いかなる
影響関係も理解することがないのです。
p145
・・・神はあらかじめ身体を、物体の法則と運動の自然の傾向性に従って、
しかるべきときに魂が望むことをするようにしたのです。
そして魂をも、欲求の自然の傾向性に従って、つねに身体の状態を表現するように
したのです。
その証拠に、運動が物質をある形象から別の形象へと導くように、欲求は魂を
あるイメージから別のイメージへと導きます。
したがって、魂はあらかじめ支配的なものとしてつくられていて、その欲求が判明な
表象を伴うかぎり身体を従えます。
==>> ここでは、モナド=魂と物質の間のそれぞれのルールに従った働きの
前提として予定調和があることを説明しているようです。
====
論文「生命の原理と形成的自然についての考察、予定調和の説の著者による」
p149
私はたしかに、生命の原理が全自然のうちに流入し、しかも不死的であると認めています。
というのも、この生命の原理は、不可分な実体、あるいはむしろ統一体だからです。
これに対して物体は、部分の分解によって消滅する数多くのものです。この生命の原理、
すなわち魂は、表象と欲求を有します。
==>> ここでは、生命の原理=魂=モナドと規定しています。
不死的であるということは、いわばエネルギー保存の法則のようなイメージ
なのでしょうか。 しかし、ここはあくまでも形而上学の話です。
p152
わたしのこの説によれば、魂すなわち生命の原理は、物体の通常の成り行きに
おいては何も変えないし、神にその機会を与えることもないのです。
この法則に従って魂は、禅や悪による表象を展開し、物体もこの法則に従って
運動の規則の内にあります。
この二つの存在は、まったく類が異なりますが同時に合致し、完璧に調整されて
同時にぴたりと合う二つの振り子時計・・・のように対応しています。
==>> 「神にその機会を与えることもない」というのがライプニッツの考え方の
ポイントになっているようです。
魂=モナドも、物体も、それぞれの法則に従って働き、同時に予定調和に
よって統合もされているということのようです。
「モナドロジー」のp53に書かれていたことがこれに符号すると思います。
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post_87.html
「p53
注(1) ・・・・デカルトの神は恣意的に働き、スピノザの神は必然性から
働き、マルブランシュの神は奇蹟によって被造物に介入するが、予定調和説は
恣意性も必然性も奇蹟も用いないので、神の偉大さを高めるのに相応しいと
する。」
p158
神の知恵によって整えられた物質は本質的に至るところで有機化されているはずで、
したがって自然の機械の部分はどこまでも限りない。 またそこには多くの包蔵関係
と、互いに包蔵しあった身体とがあるので、予先形成がなければ、有機的身体を
まったく新たに産出することなどできないし、すでに存在している動物を壊滅させる
こともできない、と。
p159
これに対して、非物質的な形成的原理はほとんど必要でなく、十分たりえません。
というのも、動物が非有機的な物塊から自然に形成されることはないのだから・・・・
==>> この部分はなかなか理解が追い付きません。
まず「予先形成」の「予先」が、漢和辞典で探しても出てきません。
「予先」は中国語のようで、意味は「先に行く」となっていますから、
おそらく意味としては先行形成というようなことかと思います。
つまり、有機体ということになると、初めから有機体として存在して、
滅することもないということのようです。
そして、無機的なものから有機的なものもできるはずはないと
言っているようです。
現代の科学では、おおよそ以下のような見解が一般的なのではないかと
思います。
https://www.s-yamaga.jp/nanimono/seimei/seimeinotanjo-01.htm
「1920年代に旧ソ連(ロシア)のオパーリン(1894年~1980年)は
こうした考えを発表している(1922年の講演、1936年の論文
「生命の起源」)。彼は自然に無機物からできた有機物が、原始の海で
濃厚な「有機物のスープ」をつくり、その中でアミノ酸、核酸、さらには
たんぱく質ができてくる。そのたんぱく質は膜を持った粒状の組織と
なり(オパーリンはコアセルベードと名付けた)、それがそのうちに
自己増殖の能力を持つようになったと考えた。こうしたオパーリンに
よる、生命の発生に至るまでの基本的な考え方は今日も変わっていない。」
「こうした還元的な大気を想定した有機物の合成実験を初めて行ったのが
ミラーで、1953年のことであった。彼は下に示した簡単な装置で実験をした。
水の入った下のフラスコが原始海洋、上の大きなフラスコが原始大気、
火花放電は化学反応を起こさせるためのエネルギー源で、自然界での雷を
想定している。このような状態で1週間後には、グルシン、アラニンなど
のアミノ酸を含むいろいろな種類の有機物が合成されることを確認した。」
===
次は、「コストあて書簡」の章です。
p163
宇宙のなかには予言が私たちの天体においてよりもずっとありふれているような
天体がある、と主張する人にさえ私は反対しないでしょう。 犬が千里離れた
獲物のにおいを嗅ぎ分けられるほど鋭い鼻をもっているような世界もあるかも
しれませんし、それと同様に、もしかしたら精霊たちが、理性的動物の行動に
介入する大きな許可を、この地上でもっているよりも得ているような天体だって
あるでしょう。 ・・・その種の予言的な見方はきわめて稀なのです。
預言者はいないと誓って言うことはできませんが、問題になっている人たちは
預言者ではないと断定してもいいだろう、と私には思われます。
==>> この部分を読んでいると、なんだか多宇宙論を連想してしまいます。
ライプニッツは、かなり柔軟な想像力を持っていたように思います。
そして、同時に、この現実世界においては、現実的な判断をしている
ようにも見えます。
===
次は「ブルゲ宛書簡」からです。
p174
宇宙は、ある仕方で共可能的なものの集合体にすぎません。 現実の宇宙は、現実存在
するあらゆる可能的なものの集合体、すなわち、最も豊かな複合体を形成する可能的な
ものの集合体なのです。・・・・多くの可能的な宇宙が存在しているのであって、
共可能な的ものの各々の集合体が、それら多くの可能的宇宙の一つを構成しているのです。
知性は、現実存在することのない可能的なものを理解すると、なぜ厳密には言えないのか、
私にはその理由がまったく分かりません。決して現実存在してこなかった、そして
これからも決して現実存在することのない幾何学的図形や無理数があるかもしれません。
==>> この記述も多宇宙論を連想させるのですが、おそらくポイントとしては、
知性で認識できる可能的なもの、平たく言えば人間が理性で考え出せるもの
については、そのような宇宙も現実に存在しないとしても、形而上学的には
ひとつの集合体・宇宙として、可能的宇宙として存在できるということ
のようです。
おそらく、モナド=魂が根本的な存在としてあることを前提としている
からでしょう。
p178
表象とは単純なもののなかの多の表現であり、欲求とは一つの表象から他の表象
へ向かう傾向であるからです。 ところで、これら二つのものはすべてモナドの
なかにあります。 さもなければ、モナドはその他の諸事物といかなる関係も
もたないことになってしまうでしょうから。
==>> ここでは、ライプニッツの「モナド理論」における「表象」と「欲求」の
意味を書いてあります。
私が表象と聞いてすぐに思い出すのは、50年ぐらい前に心酔していた
ショーペンハウエルの「意志と表象としての世界」なんですが、
その本はしっかり読んだわけではなく、彼の「哲学入門」だけで
すっかりこの世のすべてが分ったような気持ちになったものです。
そこで、ショーペンハウエルの言う表象と意志とは何なのかを
振り返ってみます。
「「表象」とは、「今直接見えているもの」や「心に浮かぶ像」のことです。」
「ショーペンハウアーは世界に認識されないものがあるならそれはないのと
同じことであると考えます。例えば、重力のような目に見えないものであって
も、自分の体が地表に固定されており、浮き上がらないという現象として、
認識されているわけです。」
https://note.com/free_will/n/n01466bb2cec0
「ショーペンハウアーにおける〈現われ〉と〈力〉の区別を確認しよう。
彼は前者を「表象」と、後者を「意志」と呼ぶ。」
「ショーペンハウアーによれば、個々人は自己の存在において「力」なる
もの実在することを体験する。すなわち、〈力〉の原初的な知られ方は、
自己における直接体験だ、ということ。」
「すなわち個人にとって自らの行為はたんなる表象の流れの一契機では
ない。個人の行為には――ショーペンハウアー自身の言葉を借りれば―
―「意志(Wille)」という「謎の言葉」で指されるものが関わっており、
これがいわば自らの行為を自らの行為たらしめているのである。」
「現われの背後には〈力〉がある。これがショーペンハウアーはの言う
ところの「意志」である。世の中にはさまざまな自然現象がある。
雷が落ち、磁石は引き合い、熱すれば水は沸騰する――こうした各々の
現象の背後にはショーペンハウアーによれば意志的な力の働きがある。」
「ショーペンハウアーは、《従来は意志の方が力の一種だと考えられてきた》
という点を確認しつつ、次のように述べる。
わたしはこれをちょうど逆にして、自然の中のあらゆる力を意志として
考えてみようというのである。」
「万物に意志という原理を見出す一種の「汎心論」を展開する。」
・・・このサイトでは、ショーペンハウエルの思想に汎心論的なものを
見つけているようです。
私にはショーペンハウエルとライプニッツの「モナド理論」にはちょっと
距離があるように見えるのですが・・・・
私も汎心論については、少しだけ読みました。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/12/post-3ec8ec.html
「生物・無生物に関係なく万物に心があるとする哲学・哲学観。」
「p27
汎心論とは、基礎レベルの物理的存在が意識経験をもつという見方だ。
・・・汎心論はおそらく、唯物論と二元論の両方の長所を兼ね備えるとともに、
いずれの短所も共有しない。とりわけ、じゅうらい二元論の根拠としては
認識論的な直観が、そして物理主義の根拠としては因果論的な直観が
あげられてきたが、汎心論はこのふたつの直観の両方と合致しうるのである。」
・・・これを読んでいると、ライプニッツの「モナド理論」にかなり近い
ように見えます。
ここで言っている「万物に心がある」を「万物はモナド(魂)によって
できている」と書き直せば、双方に共通する部分がかなりありそうです。
そして、まさに、そのような記述がありました。
「p40
同一性汎心論・・・「支配的モナド説」・・
これは主体を個々の局所的モナドと見なすライプニッツの見解と似たところ
がある。・・・・人間の経験は、例えば脳内のどこかにあるひとつのクォーク
などの、単一の局所的な根本的存在である。ここで、このクォークの経験が、
まさしく人間のマクロ経験であることになる。」
・・・ここでは、ライプニッツの「モナド」が、物理学の「クォーク」に
繋がるような示唆があります。
ただし、「モナド」はあくまでも形而上学ですが・・・・
===
次は「ダンジクール宛書簡」からです。
p182
そういうわけで、私は物質を<実体ではなく実体化されたもの>と呼んでいるのです。
・・・物質は人を惑わせたりしない、規則正しくかつ正確な現象にすぎない、と私は
申しました。 真の実体とは、単純な実体、私がモナドと呼んでいるものだけです。
しかも、自然のなかには諸々のモナドしか存在せず、それ以外の一切はモナドから
生じる現象にすぎない、・・・・
p183
・・・それゆえ、モナドはそれ自身のなかに自らの過去と未来の状態をあらかじめ
包蔵しています。 その結果、全知の存在者なら、そこにそれらの状態を読み取ること
ができるでしょう。 諸々のモナドは、同一の宇宙の、とはいえ異なった仕方で表現
されている宇宙の、鏡であるので、互いに一致しているのです。
・・・・まさにここに、私の予定調和が存しています。
==>> こういう記述を読んでいると、形而上学だよと言いながら、なんだか
量子論の素粒子の話を読んでいるような錯覚を覚えます。
保江邦夫さんが物理学にこのモナド理論を持ち込んだのも分かる
ような気がします。
特に、保江さんがいう完全調和の真空には、すべての情報があって、
魂がそこから情報を取ってくるというような話の部分まで持ち込んで
いるようです。
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post_2.html
・・・正直言って、保江さんのこの本を読んだ時には、ちょっとぶっ飛び
過ぎじゃないかと感じたんですが、このライプニッツのモナド論を
読んでいると、それもありかな・・・と思えてくるのが不思議です。
以上で、ライプニッツが書いたものは終わりました。
======================
以下に、訳者である 谷川多佳子氏と岡部英男氏の「あとがき」から拾います。
p232
「物体と原動力の本性について」は、モナドの本質としての力とは何かについて説明
している。 力とは単なる観念的な可能性ではなく、何も妨げるものがなければ実体
自身から自発的に発現する。 実体は必ず身体(物体)を伴うので、力は物体において
運動を生み出す(または運動に抵抗する)ものとして働き、生み出しうる結果によって
算定可能である。 こうした力の捉え方はデカルトへの根本的な批判となり
・・・、かつライプニッツ哲学の独自性を形づくっている。
それは、アリストテレス・スコラ派以来の伝統的な「形相―質料」概念を刷新するもの
であると同時に、今日のエネルギー概念の源泉でもあり、万物に内在する生命を
科学的・力学的観点から捉えようとする試みである。
==>> ここでは、上記の「汎心論」の哲学的な話との位置づけだけでなく、
科学的、物理学的な意味合いでも、ライプニッツの立場が現代に
影響を与えていることを述べています。
「実体自身から自発的に発現する」という言葉は、私には「自発的対称性の
破れ」という言葉を思い起こさせます。この宇宙が出来た原因といって
いいのでしょうか。
p235
すべては生命に満ちていて、生命体は魂、モナドと呼ばれ、それは有機的身体
(物体)を必ず伴っている。 人間だけを特別視せず、動物も他の生き物も精霊も
基本的には同等の存在として扱っている。 きわめて洗練されたアニミズムとも
言える。
==>> このような意味においては、日本の八百万の神々や神道の考え方に
似ている考え方ともいえそうです。
その点では、ライプニッツが生きた時代がキリスト教一色であった
こと、アニミズム的考え方が遅れた考え方と見られていたでしょうから、
かなり教会関係者には気を使ったのでしょう。
p238
ライプニッツは力学や数学の領域でデカルト主義を超える業績を積み上げているが、
それらの視点は哲学にも結び付いていき、デカルト哲学を凌駕する多様な視点を
有していく。
==>> このブログでは、あまり引用しませんでしたが、ライプニッツの書いたもの
の中には、頻繁にデカルトを批判する下りが出て来ます。
しかし、まとまった理論の書籍はほとんど無く、雑誌への寄稿や書簡の形
で残っているものが多くあるそうです。
p240
その関心は、当時ヨーロッパ世界にとって地理的にも文明的にも対極にあった中国にも
向けられた。 中国人の宗教を理性に基づく自然宗教として擁護し、科学技術においても
双方が補いあうことを主張する。 たとえば医学においては、解剖学、化学、生理学
など原理的な知識はヨーロッパが優れているけれど、植物学、薬学、治療学などの
経験的な領域では中国のほうが優れているので補いあえる、と。
==>> ライプニッツの中国への関心は、下のサイトの中でも取り上げられています。
「W・ライプニッツの中国布教論—比較思想史の視点から」
https://www.gakushuin.ac.jp/univ/rioc/project/project_1004.html
「ヨーロッパの視点からも、中国の視点からも自由な第三の視点の構築を
目指す。そのための手がかりとして、(当時としては、例外的に「超・西洋」
もしくは「脱・西洋」の視点をとり得ていたと評価され得る)
ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz 1646-1716)の中国布教論を
考察する。その場合、ライプニッツが依拠した、啓蒙主義とも単純に
同一視され得ない「理性」(ratio)の論理と、「自然神学」(theologia naturalis)
の立場を、現代思想のコンテクストから改めて批判的に考察し、その射程と
可能性を検討することが重要となるであろう。」
「ライプニッツによる構造主義的異文化理解の試みともいうべき一連の中国
学(孔子教の他にも、漢字、朱子学、易経などについてもライプニッツは関心
を寄せた)について・・・」
そして、このサイトの一番下にこんな<論説>がありました。
「<論説>『華厳経』と『モナドロジー』 : 村上俊江におけるライプニッツ受容」
このサイトの英文の「抄録」の一部を抜き書きしますと:
「Literature on Philosophy or the history of religion sometimes
suggests
that Leibniz's Monadology (1714) and Kegon-Gyô - also known as the
Buddhist philosophical tradition introduced into Japan from China in
the eighth century - present almost the same content in many
respects.」
「Murakami concludes in his article that there is no difference between
Leibniz's concept of "monad" and the Buddhistic idea of
"Jijimuge"(事々無礙)
or the doctrine of the Kegon school that every individual already
comes out
from itself and that, at the same time, it goes into each other
without any barrier.」
・・・つまり、ライプニッツと仏教の華厳経の内容は全く同じだと言っています。
おまけに、モナドの考え方と華厳経の事々無礙の間には違いは無いと
言い切っているんです。
では、その「事々無礙」というのは何なのか・・・・
「華厳では、現実世界を「物」という捉えかたではなく、「物事」即ち
「事」として捉えています。また、吾等の感知している現実世界とその
裏側にある実相的世界を含めた全体の世界を「法界」と解釈して良い
でしょう。もっと言えば、法界は菩薩の見ている世界と言えるでしょう。
華厳では四法界と言って、事法界、理法界、理事無碍法界、事事無碍法界
という言葉がありますが、「事」については既に説明したとおりで「理」
とは、「事」の裏側で働いている原理のようなものと考えてよいでしょう。
そして、その「事」と「理」が複雑に縁起して法界が成り立っているのですが、
それらは渾然一体となって「理事無碍法界」つまり碍(さまた)げ合うこと
なく溶け合っている、と言います。さらに、「事事無碍法界」つまり裏で
働いている「理」を取っ払って「事」だけを見ても、碍げ合うことなく溶け
合っていると言うのです。
こうして法界から見れば、この現実世界に起こるすべての事柄は、完全調和
していると言うのです。」
・・・これだけでは、「モナド」と「事々無礙」の中身までは読み取れませんが、
詳しく研究した方が断言しているのだから、そうなのでしょう。
これは私の単なるフィーリングですが、モナドは「事」というより上記の「理」
なんじゃないかと思うんですけど・・・・
華厳経はまだ読んでいないので分かりません。
しかしいずれにせよ、完全調和という統合する管制機能はあるようです。
file:///C:/Users/yiu18/Downloads/toyobunka_16_356_326.pdf
p241
モナドは、古代ギリシアのピュタゴラス派以来の概念であり、すでにプラトンの
「パイドン」や「ピレボス」に用いられている。 十六世紀後半になると、いろいろな
モナド論が構想されている。
==>> インターネットで「モナド」を検索しても、ほとんどがライプニッツに
関連したものになっています。
こちらでは、少しだけライプニッツ以外のことも書いてありました。
https://kotobank.jp/word/%E3%83%A2%E3%83%8A%E3%83%89-142601
「ドイツ語ではMonade。〈単子〉と訳。ギリシア語モナスmonasに由来し,
単位としての〈1〉が原義。ピュタゴラス学派,プラトン,新プラトン学派
およびこれらを継ぐルネサンスの思想家によって〈単純者〉〈一者〉の意
(端的には神)で用いられたが,独自の形而上学を築いたのはライプニッツ
(《モナドロジー》1714年)。」
p243
同時代すでにライプニッツのこうした予定調和、最善世界の思想には多くの批判が
あった。 フランス、ドレヴィーのイエズス会士たちは、これを揶揄して最善主義
(オプティミスム)という語を造った。 ヴォルテールは・・・「カンディード」と
いう小説を表わし、・・・・随所がライプニッツ予定調和説への批判となっている。
==>> どのような批判なのかは分かりませんが、少なくともキリスト教関係者からは
かなり批判を受けていたようです。
今現在の日本でも「予定調和」という言葉がもつ一般的な意味合いとしては
あまり良いイメージではないように思います。
p244
そして現代、フッサールは「デカルト的省察」で相互主観性を論じるためにモナドを
援用する。 ストローソンの「個体と主語」にはモナド的意識の個別化と概念が扱われ
ている。 枚挙は続くであろう・・・・。
==>> ストローソンに関しては、汎心論の本に、このような記述がありました。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/12/post-cc60d0.html
「p55
「実在論的な一元論 - なぜ物理主義は汎心論を含意するのか」
ゲイレン・ストローソン
p68
・・・今日では、生命をまったく含まない物質から生命が創発した
ことを真面目に疑う者などいない。 克服できないと思われていた
生命の問題は、端的に解消された。意識についても、いまから100年
後には事情が同じでないとなぜ言えるのか。
生命の基本的メカニズムに関する私たちの理論は、化学を経由して
物理学に還元される。原子一個一個のレヴェルから急速に組み立て
ることによってあらゆる物体を複製できる機械があるとして、
・・・現在の物理学、化学、生物学の用語によってその子供の
生命の働きを精緻に説明することができる。<しかし、>
このような用語によっては、その経験を説明することは
まったくできないのである。
p72
真の物理学者は究極物の少なくともいくつかが内在的に経験を
含むことを容認しなければならない。」
・・・この辺りは、確かにモナドの定義に似ていると思います。
このストローソンさんは、イギリスの分析哲学の人のようです。
p245
ライプニッツの精神にインスパイアされたのは、フッサールやハイデガーといった
哲学者でけではない。 数学者ゲーデルはライプニッツを高く評価しているし、
今日のコンピュータの原型を形づくったチューリングやフォン・ノイマンの仕事も、
結合法と思考=計算というライプニッツのアイデアを現実化したものだとも言える。
==>> フッサールがモナド論を取り入れているんじゃないかと見える言葉は
ここにありました。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/12/post-8d6b95.html
「p175
原子は「意識である」という表現は奇妙に響くが、フッサールが
言いたいのは、原子は意識を持つということだろう。
そう理解すれば、原子は身体という性格を備える(つまり意識を
持つ物的対象である)という発言とも辻褄があう。」
「p176
形而上学的な観念論とは、ごく大まかにいえば、
(1)存在するものの全体のうちでもっとも根本的なのは
心的なものであり、
(2)物的なものはこの心的なものに対して派生的ないし
二次的である、という立場である。
(2)によれば、どんな物的なものの背後にも心的なものがあり、物的なもの
がこの世界のそこらじゅうにあるのと少なくとも同程度に心的なものが
そこらじゅうにあることになる。
これを(1)と組み合わせれば汎心論の一般的な主張になる。」
・・・ここでは、「フッサールと汎心論の関係について定見と呼べる解釈は
まだない。」と断ってありますが、少なくともモナド論が影響していることは
可能性が高いと見えます。
さて、これでライプニッツ著「モナドロジー」他を読み終わりました。
少なくとも、現代の哲学特に「汎心論」や、現代の物理学・量子論にかなりの影響を
与えていることは分かりました。
しかし、今のところ、湯川秀樹博士が発想した「素領域理論」、そこにモナド論を入れて
形而上学的物理学を著した保江邦夫博士の「神の物理学」、そしてそれを量子力学において
数学的にも完成させた中込照明博士の論文は、残念ながら、まだまだ世界に受け入れられる
理論にはなっていないようです。
日本発のこの理論が実を結ぶのはいつになるでしょうか。
==== 完 ====
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