あおきてつお著「邪馬台国は隠された」を読む ― 卑弥呼はなぜ日本書紀に書かれていないのか? ― 前編
この本の結論を最初に言いますと、
― 邪馬台国は九州にあった
― ヤマト政権は邪馬台国とはまったくの別物である
― 「日本書紀」は天皇の「万世一系」を歴史書として正当化するためのものだった
― 従って、邪馬台国や卑弥呼は意図的に葬られた
この本が学術的にどう評価されるのかは知りませんが、
私のようはド素人には、非常に分かりやすく、納得できる筋書きでした
では、私が「なるほど」と思った部分や気になった部分を抜き書きしていきましょう。
p049
特に魏は、海戦を弱点としていました。
・・「赤壁の戦い」では曹操の水軍が長江沿いで劉備・孫権連合軍に
こっぴどくやられ、・・・
そのトラウマから、・・・海洋国である邪馬台国連合の水軍を後方に
待機させ、支援させようという視野も持っていたと推定します。
そういう意味では、纏向のヤマト政権は海洋国ではないので、やはり
選択肢から除外されたでしょうし、ましてや邪馬台国が自身でその地理的
な優位性を放棄して「東遷」するということも、考えられません。
==>> ここは、親魏倭王の金印を卑弥呼が授かったと後漢書に
書かれている、その魏の意図を推測しています。
そしてその意図を考えれば畿内説の纏向はあり得ないだろう
としているのです。
そして、いわゆる「東遷」も、邪馬台国のものではないと
しています。
p050
あの「三国志」の英雄・曹操の墓から出土した副葬品と、酷似た最高級の
鉄鏡・・・が九州・大分県の日田市ダンワラ遺跡から見つかりました。
p051
つい最近のニュースでは、曹操墓を発掘した中国の権威ある学者が、
この鉄鏡を調べたところ、曹操墓の副葬品と同型のものであることを
確認しました。
==>> この部分は、邪馬台国九州説を支持する研究者の発見を
述べています。
私は、九州出身なので、畿内説よりも九州説であって欲しい
と思っている一人です。
p105
別府は東北に海が開けてはおらず、距離がやや多く該当外とし、
すべてクリアした地は、宇佐(大分県)を中心とした平野一帯のみ
となります。
p106
この宇佐・中津を中心とした平野にこそ、邪馬台国があったと
考えられます。
==>> これは有名な「魏志倭人伝」に書かれている内容を
著者なりの推理で、邪馬台国の位置を検討した結果です。
さまざまな読み方がある中で、著者の推理は
素人的にも納得しやすいストーリーになっています。
p121
日本とは、元来そんな思想が横たわる国。だからこそ、神がいる
神社に、「四」=「死」を暗示させる儀礼は、どう考えても異常です。
つまりこれは、死を暗示させることで、征服されたオオクニヌシの念を、
黄泉の国から蘇らさぬようにこの社に留めさせる、封印する、といった
意味があったと考えた方が自然です。
・・・で、この「二礼四拍手」の儀礼を持つ神社は、日本広しといえど、
出雲大社と、あともう1社しかありません。
その一つはどこかというと、そう、大分県宇佐市にある「宇佐神宮」。
・・・第1柱は左わきに応神天皇(第15代)、右わきに神功皇后
(架空の人物説も)、そして第2柱ながら中央に配し、応神天皇よりも
神功皇后よりもドドンと主格に祀られているのが「比売(ひめ)大神」。
p122
ところが、「比売大神」って、誰なのか?
神社の正式な記録にもないし、日本神話にも、歴史書にも出て来ません。
宇佐神宮のご由緒には、・・・・・
ただ比売大神に関しては、「八幡さま(応神)が現れる以前の古い神、
地主神として祀られていた」とだけ記してありました。
p123
その敗れた国こそ、邪馬台国連合。
比売大神とは、卑弥呼をはじめとする邪馬台国連合の女王たちだった
のではないか。
==>> ここでは「二礼四拍手」の非常に特異な御参りの作法をする
出雲大社と宇佐神宮を取り上げています。
訳あってその御魂を封印するための神社ではないかという
ことのようです。
つまり、ヤマト政権と敵対した大物を祀っているのでは
ないかということですね。
こちらのサイトに関連する内容がありました。
https://jiyodan.exblog.jp/8915273/
「この比売(ひめ)大神(おおみかみ)が卑弥呼と同一人物の
可能性がある。魏志倭人伝に見える倭国内の国々の一つである
邪馬台国の女王は、「卑弥呼」と記されている。」
p126
作家・故高木彬光先生は、著書「邪馬台国の秘密」の中で、
「宇佐八幡の鎮座する小椋山(または亀山)は邪馬台国の
ヒミコの古墳ではないか」と示唆しておられます。
p127
この山頂付近には人工的に手を加えてあり、もしここが墓だとすれば、
諸葛亮の墓と同様に自然の山を墳に見立て「冢(ちょう)」を作った、と言えるでしょう。
大きさも「倭人伝」が伝える「径百余歩=145メートル」と
ほぼ一致しますね。
==>> つまり、卑弥呼の墓は宇佐八幡の山であると言っているんです。
「亀山」はカミヤマから来たのではないかとも書いてあります。
ただし、この場所は神域であるため、発掘などは難しいとのこと。
いずれ、エジプトのピラミッドで採用されている非接触の
調査のような手法で解明されるといいなと思うのですが・・・
p130 の漫画のページ
邪馬台国は九州にあった。
纏向にあるあの宮殿は誰の手によって築かれたのか?
古代天皇家はどこから現れたのか?
==>> はい、邪馬台国が九州にあったとすれば、奈良県の
纏向遺跡はなんなのかという話です。
そして、いろんな本を読んでも謎としか言えない
天皇家はどこから来たのでしょうか・・・・
p141
・・・2世紀中に大雨と干ばつが数十年単位で続き、その後は
ぐっと気温が下がり、いわゆる古墳寒冷期に突入・・・
またこの時期、北部九州では、矢じりが刺さったままの頭蓋骨が
多数出土するなど、激しい戦闘があったことがわかっています。
天候不良によって作物が実らず、他国を侵攻せざるを得ない状況
を如実に物語るものでしょう。
p142
武器の出土や殺傷された人骨などから、倭国大乱が、玄界灘~
筑紫平野を主戦場に戦ったことは明らかでしょう。
==>> この部分は、魏志倭人伝に出てくる倭国大乱と言われる
戦いが、当時の気象状況によってもたらされたのでは
ないかと推定しています。
p144
3世紀に入り、卑弥呼は魏へ「南の狗奴国から攻撃を受けている。
手強いので、なんとかしてほしい」と援軍を要請しています。
北の邪馬台国連合30ヵ国に対し、南は狗奴国の一国。
p145
狗奴国(クナ国)=その発音と本拠地の位置からして、“球磨国”
つまりクマソ(今の熊本地方)だったというのが、有力な説と
なっています。
==>> ここでは、九州北部に邪馬台国連合があり、
その南には強力な狗奴国があって、卑弥呼を悩ませて
いたことが記されています。
p155
銅鐸は、紀元前2世紀~紀元後2世紀の約400年間という長期に
わたり製造されていた、日本で固有に発展した青銅器。
・・・ただ、いち早く銅鐸を取り入れた出雲では、1世紀にはその
制作をやめてしまいます。
p156
ちなみに、世界的に見ても珍しいこの青銅器。 ほとんどの文献に
登場せず、あの「魏志倭人伝」にも「記紀」にも、まったく書かれて
いません。
つまりこれは、邪馬台国にもヤマト政権にも、銅鐸は無かったことを
意味します。
p158
・・・西から来た者たちは、平らな低湿地に大きく田を区切り、
治水工事により運河を通し、水を田に流し込むことを知っていました。
・・・それとともに、銅鏡を使い日輪の神を仰ぐ新たな農耕の神が
導入されます。
・・・青銅の民は、彼らのやり方を見習い、銅鐸信仰を捨てたのでは
ないか。
==>> ここでは、青銅器の銅鐸の民が、「西から来た」銅鏡と
日輪の神を信じる民によって変化していく様を
書いています。
この「西から来た」というのがいわゆる「神武東征」と
言われているものなのではないかと示唆しています。
それがどこから来たのかが問題となるわけですが・・・
p163
纏向は非常に特徴的な遺跡です。 なんといっても日本最初に造られた
前方後円墳を有すること。 大規模建造物(宮殿)が建てられ、
環濠がなく、防御を想定しないきわめてオープンな立地。 鉄器が出ず、
武器も出ず、農具も出ず、水田遺構がなく、竪穴式住居も数少ない。
出るのは祭祀遺物と、土木に使われた遺物、そして全国各地から
搬入された土器。
p165
纏向遺跡における、搬入土器の出身地・・・・
伊勢・東海が半分を占めており、さらに北陸・山陰・河内など。
・・・ということは、纏向建設の主要な構成員は、ほんの
10~20年ほど前まで銅鐸を信奉していた民たちだと言えるでしょう。
p166
「記紀」ではイワレビコ(神武天皇)の敵として描かれていた民たちが、
ヤマト政権の下支えになっていたのです。
p167
結論から申しますと、これは一部の研究者からも言われていることですが、
吉備王朝・出雲王朝・九州勢力の一部などが合流して、ほとんど
争うことなく新天地の奈良湿地に連合政権を立てたのではないかと
考えられます。
==>> 邪馬台国畿内説はここで否定されていて、
その根拠になっている纏向遺跡は、銅鐸を信奉していた
吉備、出雲、九州の一部の連合がヤマト政権を作った
場所なのではないかとしています。
邪馬台国とヤマト政権は関係ないよと主張するわけです。
p169
埋葬のとき使われた「特殊器台・特殊壺」は、この時代、吉備にしか
なかったものでしたが、その数十年後、纏向の箸墓古墳で出土します。
当然、初期ヤマト政権と吉備は深いつながりがあった。
いえ、吉備勢力の一派がここ奈良湿地へ降り立ち、纏向の古墳築造を
指揮したことに想像は難くありません。
p170
出雲とヤマトの関係を示唆するものとして興味深いのは、大物主神と
大国主神の件。
p171
かつて出雲には「ミワ氏」「カモ氏」という銅鐸工人族がおりました。
私が思うに彼らは、大物主神を蛇神、すなわち「水の神」「雨ごいの神」
として崇めていた民で、出雲に留まらず各地へ分散し、銅鐸製造に
携わっていたと思われます。
・・・出雲で銅鐸が造られなくなってからは、彼らの一派は移住し、
大和纏向へ入り、そこで纏向建設に関与しつつ、大物主信仰を
精神的な支柱として定着させたと考えています。
ゆえに纏向の聖地は「三輪山」であり、その祭神として
大物主神が鎮座し、・・・・・・
==>> 私は2022年11月に奈良の纏向遺跡や三輪山を
観光で訪れたのですが、それまでに読んだ本からの
知識で、出雲と纏向の関係は気になっていました。
その時にとりとめもなく考えていたことは
こちらにアップしてあります。
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/11/blog-post_22.html
この時には、
「現在では畿内説論者でも、卑弥呼を具体的に記紀の登場人物に
あてはめようとする説は多くないが、記紀の登場人物にあてはめる
場合には倭迹迹日百襲媛命とされることがもっとも多い。」
・・・という話を書いていました。
しかし、この本を読んで、やっぱり卑弥呼は関係なさそうだな
と感じています。
p172
「古事記」では、出雲国の統治がうまく立ち行かなくなったとき、
国主オオクニヌシのもとにオオモノヌシが現れて「自分を拝めて、
三輪山に祀れ」と言いますが、その真意は、もともとオオモノヌシは
出雲で祀られていたので、出雲でもヤマトと同じ神を祀れ、と促した
のでしょう。
ちなみに大神(おおみわ)神社の宮司は今も「三輪氏」。
さらに三輪山裏手に「出雲」という地名が残っているのは、
その痕跡といえるのではないでしょうか。
==>> 過去に読んだ本では、この二つの神の関係がモヤモヤ
していたのですが、ここでスッキリしました。
元々オオモノヌシは出雲の神だったんですね。
大物主神=大国主神なのかなと思っていました。
p172
京都大学教授の岡村秀典先生は、舶載鏡(漢製)の分布出土が、
・・2世紀前半までは圧倒的に北部九州が多数だったのに、
3世紀を境に一変、畿内で固まって出るようになることを提示しました。
p173
北部九州では銅鏡を祭器とすることで、日輪の恵みを味方にして
五穀豊穣を願う信仰が定着していたのですね。 その北部九州の
分配システムを、3世紀ヤマトが踏襲したと捉えることができます。
p174
・・・それで中国から鏡工人を招き入れるなどして、地元で
伝世鏡(国内製)を作り、のちに呼ばれる「三角縁神獣鏡」を
各地へ分配したのでしょう。
==>> ここまでのところで、吉備と出雲、それに九州の一族が
集結して、ヤマト政権を作ったというストーリーが
見えてきました。
なお、吉備に関しては、2世紀半頃の「双方中円墳」が
3世紀初めにはヤマト政権の「初期前方後円墳」に
繋がっていることが述べられています。
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