橋爪x大澤x宮台 「おどろきの中国」 を読む ―7― 外交で負けた? 「日本切腹・中国介錯論」で 日本は先を読まれていた 

橋爪x大澤x宮台 「おどろきの中国」 を読む ―7― 外交で負けた? 「日本切腹・中国介錯論」で 日本は先を読まれていた 

 

 


 

「第3部 5 満州国の建国」の部分から読み進めます。

 

満州に関しては、私の父、姉、兄が引揚組なので、その当時の状況に興味があります。

 

p248

 

満州は当時、中国かどうか、わかりにくい地域でした。 清を興した満州族の本拠地で、

太祖ヌルハチは瀋陽に都を置いた。・・・清は、満州族と蒙古族との同盟を基礎にして

いた。・・・満州は、伝統的には、漢民族の地域ではなかった

 

日本は、満州がこういうあいまいな場所であるのに目をつけた。 張作霖ははじめ、

日本のためにも働いていたらしいが、だんだん日本の言うことを聞かなくなった。

 

そこで張作霖を暗殺して・・・息子の張学良が軍閥を引き継ぎ、かえって国民党との

連繋を強めた。 失敗した陰謀だったのですね。

 

==>> 「あいまいな場所」は、パワーバランスが不安定になって、

     他国からの侵略を誘ってしまうということのようです。

     今の日本にも領海が広い中に、そのような場所があるようですが・・心配。

 

 

p252

 

満州事変で日本は、国際社会のルールに違反したのです。 中国は列強によって、

植民地化されているでしょ。 だけど、それは必ず、戦争をし、講和条約を結ぶとか、

借款を供与してその見返りにとかで、中国に権益を認められるという手続きを踏んで

いる。 

 

アメリカの基本政策は、日本に対しては「日本の独立を保全する」ですが、中国に

対しては「門戸開放」でした

・・・だけど、日本が満州国をつくったやり方はそれに抵触する。

 

p253

 

そこで鉄道王ハリマンというのがやって来て、「満州の鉄道事業を日米共同でやりましょう」

と提案した。 この提案は、内閣で前向きに検討されたけれど、土壇場で陸軍が反対

するなどしてつぶれてしまった。

 

==>> 植民地にするにも、それなりの作法というか、国際社会のルールというのが

     あったんですねえ。まあ、列強の身勝手なルールなのでしょうが。

     そして、今現在は、日本は、その国際社会のルールを守ろうじゃないかと

     中国などに対して主張している。

     満州の鉄道事業にそういう話があったのは知りませんでした。

     内閣で合意しようとしていたものが、陸軍によってひっくり返された。

     外交とか文民統制がここで潰されてしまったわけですね。

     

 

p253

 

満州国のヒントになったのは、テキサス州ではないかと思う。 アメリカがまず、メキシコ

が支配する一帯に、農民を入植させる。 つぎに、彼らが政治的な権利を主張し、独立国

をつくる。 そして、アメリカ合衆国に編入される、みたいな。

 

日本人をたくさん入植させて、ゆくゆくは日本の一部という感じになればいいと

いうわけですね。

 

==>> これは、日本が満州国をつくるというアイデアに、テキサス州の事例が

     あったのではないかという考え方です。

     今で考えれば、ロシアのウクライナ侵攻が似ているような気がします。

 

 

p255

 

石原莞爾は、満州事変を画策した当事者の一人なんだけど、中国に対しては軍事行動

を起こすべきではない、と反対した。 そんなことをすれば泥沼になって、ソ連と

戦うどころではなくなる。 でも、陸軍の主流は、中国への軍事行動やむなし、の

考えに傾いた。

 

そんななか、北京郊外の盧溝橋で、日本軍と国民党軍の偶発的な軍事衝突が起こった。

 

==>> この記述の前段で、橋爪氏は、

     「日本陸軍は外交の常識に乏しいから、ビスマルクのように、全局を見通す

      ことができない。」と述べています。

     ここでも、陸軍の暴発が、外交を無視して、起こったということのようです。

 

p256

 

盧溝橋事件のあと、何回か停戦の話し合いがまとまったんだけど、そのたびに

破られて、戦線がなし崩しに拡大していく。 満州事変と違って、日華事変の場合は

必ずしも参謀本部の了解がなかった。 陸軍の上層部でも意見がまとまらないのに、

現場の部隊によって、既成事実が積み重ねられていくんです。

 

国民党軍はすぐ敗走するので、日本軍は調子に乗って追走し、どんどん補給線がのびて

しまう。 あとで考えたら、持久戦にひきずり込まれただけだった。

 

==>> これは呆れたもんですね。軍隊であるのに、現場の部隊のコントロールすら

     できていないなんて。

     そして、罠にはまってしまった。

     要するに、日本の無責任体制の見本みたいなものなのでしょう。

 

p258

 

現地の日本軍は敗走する中国軍を追撃。 予定外の首都南京を占領し、捕虜や市民の

虐殺が各国報道機関から「南京虐殺」として発信されます。

 

意図せざる列強権益侵犯と、意図せざる持久戦化に、内外への申し開きの必要を感じた

第一次近衛内閣が、苦肉の策で持ち出したのが、亜細亜主義者の十八番だった「東亜

新秩序の建設」です。 くわえて、第二次近衛内閣で持ち出されたのが「八紘一宇」

日中戦争を天皇の徳を世界に及ぼす聖戦だと位置づけたのです。

八紘一宇も、亜細亜主義過激派とも言うべき日蓮主義者の言葉でした。

 

==>> 南京虐殺が出てきました。 日中戦争の話には必ずでてくる事件ですね。

     今のロシアのウクライナ侵攻においても、虐殺があったとの報道があります。

     戦争にはつきものの虐殺ですから、否定するのは難しいと思います。

     ましてや、暴走を続けていた陸軍の現場の部隊の話ですからね。

 

     八紘一宇という言葉は知っていましたが、それが日蓮主義者の言葉だという

     話は初耳です。

     

     八紘一宇の意味をこちらで確認しておきます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%B4%98%E4%B8%80%E5%AE%87

     「『日本書紀』の「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ」を、

全世界を一つの家のようにすると解釈したもの。」

     「日本書紀の元々の記述によれば「八紘為宇」である。「八紘一宇」というのは

その後、戦前の大正期に日蓮主義者の田中智學が国体研究に際して使用し、縮約

した語である。」

「八紘一宇の提唱者の田中は、その当時から戦争を批判し死刑廃止も訴えて

おり、軍部が宣伝した八紘一宇というプロパガンダに田中自身の思想的文脈が

継承されているわけではない。」

「一方で、八紘一宇の考えがヨーロッパでの迫害から満州や日本に逃れてきた

ユダヤ人やポーランド人を救済する人道活動につながったとの評価がある。

当時の日本はナチス・ドイツをはじめとする同盟国の政策を取り入れず、独自の

ユダヤ人保護政策をとった。」

 

・・・ここでは、元々の日本書紀での意味から解釈を展開して八紘一宇という

言葉がスローガンとして使われたけれども、その言葉を作った田中が考えて

いた文脈とは異なるとしています。

また、私がちょっとひっかかったのは、「独自のユダヤ人保護政策」という

部分です。

もし、本当に日本政府がそのような政策をとっていたのだとすると、

杉原千畝の「命のビザ」の話はどう理解すればいいのでしょうか。

http://www.sugihara-museum.jp/about/

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%8E%9F%E5%8D%83%E7%95%9D

194667日に岡崎勝男・外務次官から退職通告書が送付されてきた。

この通告書は、日付と宛名だけが手書きで書き込めるようになっているガリ版

刷りのもので、退職を自明の前提としたものである。」

 

・・・外務省からは「やるな」と言われ、帰国したらクビになったん

ですよねえ。 そして名誉回復に何年も掛かった。

名誉回復に44年間かかった「日本のシンドラー」杉原千畝

https://www.nippon.com/ja/people/e00080/

 

 

p259

 

第一に、中国はそもそも、日本の仮想敵国ではなかった。 陸軍はソ連を仮想敵国

と考えていた。 軍事行動の目的は、中国の好意的中立を確保することにあった

これは本来、外交交渉によるべきで、しかも日本が譲歩するのが基本です。

 

相手の好意をえようとして、あべこべに反感をかっている。

 

 

p260

 

日本は、憲法の定める戦争の手続きによらないで、軍が勝手に行動できる

「ちょっとした軍事作戦」として戦いたかった。 のちのベトナム戦争と、

同じ考え方です。戦争でないから、「中立国は軍事物資を交戦国に輸出しては

いけない」という国際法の規定が適用されない。 日本はアメリカから石油が

買えるし、中国は英米をはじめとする外国の支援を受けることあできる。

この点で都合がよかった。

 

==>> ほほ~~。これがロシアがウクライナに侵攻した時にいった

     「軍事作戦」ってことですか。

     でも、今や、欧米などからウクライナに軍事物資を送り込んでいる。

     中国がロシアに明確な態度をとらないのは、こういう意味があるの

     でしょうか。

 

p260

 

日本軍が中国にいること自体に、そもそも正当性がない。 このことは日本国民

にもわかるので、モヤモヤした感じが残る。 「アジアの同胞」なのに」「弱いもの

いじめではないか」という感覚になる。

 

真珠湾攻撃で、対米英開戦が告げられたとき、多くの日本人がすっきり雲が

晴れたような気がしたのは、このためなんです。

                                                                                   

==>> つまり、欧米列強の帝国主義からアジアを開放するための

     八紘一宇だとかなんとか理想的なことを言っていたのに、

     やっていることは、そもそも日本の意図ではなかった中国侵略に

     なってしまっていたから、対米英開戦で、やっと本来の戦争に

     なってきたぞ、という思いだったんでしょうか。

     日本は、自らの陸軍をコントロールできないという無責任体制が

     自らを追い込んでしまったということになるのでしょうか。

 

p262

 

日本軍は、日露戦争のときとちがって、国際法を守ろうという意識が低かった

・・・兵士たちが不法行為を働いても、制止しようという動きが鈍かった。

民間人を守らなければという意識が低い。 この国際感覚のなさが、どうしようも

ない。

 

==>> 日清戦争・日露戦争の時代には、「仁愛主義」というものがあったのだ

     そうです。 

     http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/36193/rsg087-02-hinata.pdf

随分前に、日本軍の規律は世界の中でも素晴らしかったという

話を聞いたことはありました。

その時代には、日本が文明国であることを世界に知らしめることも

ひとつの課題だったからなのでしょう。

それなのに、日中戦争からは最低の日本軍になってしまった。

 

p264

 

当時の日本人はーーいまでもそうなのかもしれないですけどーー、こういうこと

をやるにあたっての基本的なコンセプトを、あまりにも理解していない、という

ことです。 最前線で戦っている軍人でさえも、いったい自分がちが何をやって

いるのか、何のために戦っているのかよくわかっていない

 

もともと、それほどの喧嘩をするつもりでもない相手と、めちゃめちゃな喧嘩を

してしまったようなものです。 前線では、ひどい殺戮までしているのに、

軍人が我に返って、そもそも「オレは何のためにこれをやっているのか」と

・・・・

 

==>> 陸軍が基本的なコンセプトもないまま、暴走して、後追いで政府は

     八紘一宇というスローガンを作ったけれども、やっていたことは

     アジアを欧米列強から解放することとは真逆のことをやっていたって

     ことになりますか。

     バギオ市で、当時収容所に入れられた経験を持つ中国系の医師は、

     講演会でこのことを語ったのだと思います。

 

p265

 

謝罪をしたり、責任をとったりするには、大前提として、「こういう意図のもとで

行なった。 しかしこういう結果になった」という認識が不可欠です。

しかし、そうした認識が日本側であやふやだ。 南京で何人の犠牲者が出たかと

いうことの前に、そもそも、南京での戦いが「何であるか」を意味づけるフレーム

ワークがない。 だから、どう責任をとったらよいのかはっきりしない。

 

中国からすると、これほどのことがなされているのだから、日本側にはよほどの

意図があったはずだ、と見なされるわけですが、日本の方からすると、その肝心な

部分が空虚なままなので、応答しようがない。

 

==>> 2022年の記事ですが、今も進行中のロシアによるウクライナ侵攻と

     比べてみましょうか。

     https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-60475360

     「ロシアは以前から、ウクライナが欧州連合(EU)や北大西洋条約機構(NATO

に入ろうとする動きに反発してきた24日に侵攻開始を宣言したプーチン氏は、

NATOが「我々の民族としての歴史的未来」を脅かしていると非難した。」

「ロシアが操るルハンスクとドネツクの「人民共和国」の独立を認めることで、

プーチン氏はすでに両地域はウクライナの一部ではないと決定していた。

続いて、両「共和国」がさらにウクライナ領土を獲得する権利があるという主張

も、支持してみせた。」

 

「ロシア国民も決して、この戦争に対する備えをしていなかった。侵攻作戦を

異論なしで承認したのは、国民をほとんど代表しない上院だった。」

プーチン氏は、侵攻開始は、NATOの東方拡大のせいでもあると述べた

ロシアは「もうこれ以上どこにも後退できない。我々がただ手をこまねいている

だけで済むとでも、(西側は)考えているのか」と話していた。」

1997年以降のNATO加盟国というと、中欧、東欧、バルト三国を指す。

ロシアは実際には、NATOの範囲が1997年以前の状態に戻ることを求めて

いることになる。

プーチン大統領からすると、西側は1990年の時点で、NATOが「一寸たりとも

東へ」拡大しないと約束したのに、それでも東方に拡大したということになる。

西側の約束はソ連が崩壊する前のことだ。なので当時のミハイル・ゴルバチョ

フ・ソ連大統領への約束は、ドイツ再統一の文脈における東独についてのもの

だった。」

 

・・・引用が長くなりましたが、私自身が、そもそもこのウクライナ侵攻は

何のためなのかが知りたくて読んでみました。

要するに、NATOがロシアの周辺の外堀や内堀までどんどん埋めてきて

いるじゃないか、ってことになりそうです。

その意味では、プーチン大統領の基本的なコンセプトだけは理解できます。

しかし、民主主義国家としてその国の国民がそれを選んだということです

からねえ。

基本的には、ソ連を復活させたいというコンセプトがプーチン大統領には

あるのでしょうか。

     一年経った今でも、中国の習近平主席がロシアを訪問しても、具体的な

     和平の動きはないようです。 残念なことです。

 

 

p269

 

歴史問題については、もう何度も謝罪しているのに・・・、という気持ちが

日本人には少なからずあると思います。

でもよく考えてみると、謝罪は、「ごめんなさい」とだけ言えばすむわけではない。

・・・「こういうことをして、こういう間違いをしたから、ごめんなさい」としなきゃ

いけない。 でも、肝心の何をやったか、何を間違えたかという部分を、日本人

自身がよく理解していないんですよ。

 

これは、時代が経過して、戦争を計画したり、遂行したりした人たちがすでに

鬼籍に入ってしまったから、今では理解できなくなった、ということではない

気がします。 当事者でさえも、自分が何のために中国と戦争しているのか、十全には

理解していなかった。 そこに問題の源泉があるように思いますね。

 

==>> 確かに、私自身も、フィリピンに住んでから、このようなことを

     考え始めたのですが、何をどう謝るのが適切なのかがさっぱり

     分からずに来ました。 元々の当事者が理解していなかったとなると

     空虚というしかありませんね。

     日本人同士であれば、あいまいな理屈であっても、深々と頭を下げれば

     許してもらえるのかもしれません。「済んだことはしょうがないね」と

     いう感じで。 しかし、相手は、少なくともあいまいな理屈は許さない

     国が多いでしょうから・・・・

 

     ここで、平成28年1月にフィリピンを訪問された天皇皇后両陛下の

     マニラでのスピーチを見ておきましょう。

     宮内庁のサイトです。

     天皇皇后両陛下 フィリピンご訪問時のおことば

     https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/show/3

     「フィリピンでは,先の戦争において,フィリピン人,米国人,日本人の多くの

命が失われました。中でもマニラの市街戦においては,膨大な数に及ぶ無辜の

フィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き,この度

の訪問を果たしていきたいと思っています。

旅の終わりには,ルソン島東部のカリラヤの地で,フィリピン各地で戦没した

私どもの同胞の霊を弔う碑に詣でます。」

「先の大戦が終わって70年の年を迎えました。この戦争においては,貴国の

国内において日米両国間の熾烈しれつな戦闘が行われ,このことにより貴国の

多くの人が命を失い,傷つきました。このことは,私ども日本人が決して忘れて

はならないことであり,この度の訪問においても,私どもはこのことを深く心に

置き,旅の日々を過ごすつもりでいます。」

 

では、中国訪問の際のスピーチはどうだったのでしょう。

天皇皇后両陛下 中華人民共和国ご訪問時のおことば

https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/speech/speech-h04e-china.html

「この両国の関係の永きにわたる歴史において,我が国が中国国民に対し多大

の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとする

ところであります。戦争が終わった時,我が国民は,このような戦争を再び

繰り返してはならないとの深い反省にたち,平和国家としての道を歩むこと

を固く決意して,国の再建に取り組みました。」

 

続いて、韓国はどうかといろいろ検索してみたところ、

このような興味深いサイトが見つかりました。

2018年の記事です。

韓国人である私が天皇訪韓に反対する理由

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/11585

高麗も、朝鮮も「皇」という字の使用が許されなかった。それは大陸の覇者、

中国王朝に限って許された字で、半島の韓国から見ると自分より「上の存在」と

いうイメージがある。それを日本に対して使いたくないというコンプレックス

に近い気持ちが心中にあったのだろう。

 しかし、「日王」は比較的最近になって使われるようになった単語である。

80年代までを考えても、「天皇」という単語が一般的に使われており、それを

問題視する人も、言論もいなかった(その転換点になった出来事について別の

記事で紹介したい)。だが、現在は、少しでも名前が知れた人が「天皇」という

言葉を使いでもしようものならマスコミや一般市民から激しい批判から逃れる

ことはできない、まるで「NGワード」化している。この現象は、韓国に劣らず

反日感情の強い中国ですらみられない珍しい現象である。」

 

・・・私が非常に興味深いと言ったのは、それこそ卑弥呼時代以降の

中国との関係において、冊封制の中での感覚が、今のこの時代に復活している

という点です。

天皇という称号は、wikipediaによれば「古代の日本では、ヤマト王権の首長を

「大王」(オオキミ)といったが、天武朝ごろから中央集権国家の君主として

「天皇」が用いられるようになった。」とされています。

7世紀から始まったということです。

 

過去に読んだ本によれば、中国の皇帝と同列の敬称として天皇を考え出した

と言うことのようです。

また、冊封には加わらず、貿易だけはやっていたとも書いてありました。

     熊谷公男著「大王から天皇へ」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2023/02/blog-post_5.html

     「p083

実は、古代の列島の君主が中国の皇帝に冊封されたのは、邪馬台国の女王卑弥呼

と倭の五王だけであった。七世紀から九世紀にかけて継続する遣隋使・遣唐使

では、倭王・天皇は中国王朝に朝貢の形式をとった使節を派遣したが、冊封は

されていない。

・・・中国王朝の冊封を受けないことが、日本側の外交の基本方針となるの

である。」

 

 

P270

 

近代日本史が専門の加藤陽子さんが『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社)

の中で、駐米大使となった胡適(こてき)という切れ者のことを紹介しています。

 

日中戦争がまだ始まっていない1935年に、この男は、蒋介石や汪兆銘といった大物を

前に、「日本切腹、中国介錯論」というのを唱える。 もうじき日本と中国は戦争になる

だろうから、そのとき、中国は、十分に抵抗しつつ、数年間わざと負けを重ね、多大な

犠牲を我慢しつつ、日本軍を内陸に誘い込まなくてはならない

そうすれば、自然と、二大強国であるソ連とアメリカが介入してくる

 

つまり、これは、日本が自爆(切腹)する過程であり、中国は、わざと負けて、

その切腹を完遂させる解釈人になろう、と。

・・・恐ろしいことは、おおむねこの人の言ったように戦争が展開したことです。

 

レイテ島とかインパール作戦では、武器・弾薬はおろか水や食料の補給もなかったので、

死者の内訳で餓死者が9割を超えるといったデタラメが横行していた事実があります。

 

==>> これはまさに軍事戦略家というより大国の介入まで見定めていた外交官の

     卓見と言うべきでしょうか。

     片や、猪突猛進し暴走し策に嵌ってしまった日本軍。

     

     フィリピンにおいては、レイテ島の戦いが有名ですが、

     私が住むルソン島北部のバギオ市からさらに北の山岳地帯は、

     日本軍が立てこもった通称「大和基地」が補給無しの持久戦を展開し、マニラや

バギオなどから逃げ込んだ在留邦人が、それこそ死の逃避行を繰り広げた地

でした。

 

詳しくは、下記のサイトで、関連する本をご覧ください:

 

「思い出はマニラの海に」郡司忠勝著 三月書房 (1993年発行)

https://janl.exblog.jp/11940343/

この本を著した郡司忠勝氏は、1935年に南洋協会比島派遣第一回

商業実習生としてフィリピンに渡った。

戦前のバギオで最大級のデパートとされたジャパニーズ・バザーで働き、

北部ルソン日本人会会計役を務め、戦時下では、野戦貨物廠嘱託、

米穀管理協団会計監督官となり、1945年太平洋戦争の終戦により

強制送還された。

 

「続 イフガオの墓標」 (宍倉公郎著 昭和55年 育英印刷興業 発行)

https://janl.exblog.jp/10620882/

フィリピンで所属していた病院が「第七十四兵站病院」であり、その病院の略歴

は以下の通り:

昭和18年3月29日 バギオに病院開設

昭和20年4月21日まで バギオ

昭和20年4月19日~21日 バギオからボントック道の90キロ地点、

バダヤン、トッカン方面に撤退、トッカンにて終戦。

バギオ駐留の間に、日赤看護婦、朝鮮班、茨城班、東京班、静岡班、滋賀班、

福岡班が到着。

昭和18年2月10日宇都宮陸軍病院で編成した折の人員は350名、

内将校は36名とされている。

 

ルソン戦記―ベンゲット道 (書下ろしノンフィクション) 単行本 – 1985/1/1

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3%E6%88%A6%E8%A8%98%E2%80%95%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%83%E3%83%88%E9%81%93-%E6%9B%B8%E4%B8%8B%E3%82%8D%E3%81%97%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-%E9%AB%98%E6%9C%A8-%E4%BF%8A%E6%9C%97/dp/4163375309

この本は、バギオ市にある日系人会館の管理人であった尾辻さんの

戦争体験などをもとに、丹念に書かれている本です。

アマゾンの読者コメントにはこのようにあります:

「第二次大戦中は山下奉文大将の軍司令部とラウレル大統領の傀儡政権が

マニラからバギオに移り、米軍の侵攻目標になった。ベンゲット道を北進して

くる米軍とそれを死守する日本軍の戦いが話のメインだが、それに歩兵七十一

連隊の連隊長交代事件がからんでくる。また当時バギオとその近辺に住んで

いた在留邦人が戦争に巻き込まれて悲劇的な運命をたどって行く様子を描く。」

 

 

p278

 

日本は、戦前の中国を侵略した世代と、現在の世代とのあいだの、連続性を設定する

ことに失敗しているわけ。 失敗しているから、過去について謝れない、実は。

 

謝れないのに謝れと言われるから、謝る。 何回でも。 でも内心は、謝っている

実感がないから、失言も出てくる。 そういうことなんです。

 

==>> つまり、日本人は、自分たちの父親や祖父たちが戦争中にやったことを

     知らされていないわけですね。 学校でも近代・現代史はやらない。

     中国やその他のアジアで、日本人がなにをやったかということを知らない上に、

     何を謝っているのかも分かっていない。

     ここで、三人の社会学者は、そもそも、日本という国がどういうポリシー、

     戦略のもとに中国を侵略したのかが空虚であると言っているわけです。

 

 

p281

 

日本もね、周辺国の感情が一定の配置をしていて、それを手当てしなければ採れない

外交政策や戦略が多々ある以上、周辺国の感情を緩和させるあめに仕方のない選択を

迫られることはあるでしょう。 ただ、それを、主体的な選択として位置付けるという

マインドがない。 どういう知的な工夫のなさが、日本の大きな特徴だと思います。

 

 

ドイツのモデルがそのままではだめな理由が、ふたつあると思うんです。

ひとつは、ドイツは「ナチスが悪く、軍は悪くなかった」と、戦後処理をしている点。

 

 

ドイツ民主共和国(東ドイツ)が新たな国としてできた点。

 

日本には、ナチスにあたるものがないので、「軍部」が悪かったことになった。

そこで、軍が解体された。 けれど軍籍があったひとは、そのことによって責任を

取らされることはなかった

 

==>> ここでは、ドイツがどのようなポリシーで周辺国との融和を図ったのか、

     日本の戦後処理との違いが語られています。

     これを読んでいると、日本の外交に理念がないからだということを

     主張しているように見えます。

     それに、内政的にも、戦犯を靖国神社に合祀するなど、天皇ですら

     納得できないことをやってきたことがねじれを起こしているようです。

 

     この辺りは、微妙な話なので、こちらのサイトでご覧ください。

     天皇が靖国神社を参拝しなくなったのは「A級戦犯」合祀が原因か?

     https://www.gentosha.jp/article/16196/

     「徳川義寛侍従長も、歌人の岡野弘彦に対して、「(A級戦犯)の人達の魂を靖国

神社へ合祀せよという意見がおこってきた時、お上はそのことに反対の考えを

持っておられました」と語っている(岡野『昭和天皇御製 四季の歌』同朋社

メディアプラン)。」

 

     では、一般国民はどのように考えればいいのでしょうか。

 

 

p282

 

橋爪:

 

第一に、応召して兵士となり中国戦線に行くことは、公務を果たすということで、

市民の義務である。 ほかに選択の余地はない。・・・個々人にはどうしようもない

ことで、別の問題だ。 

 

第二に、じゃあ、南京での犯罪や中国全土での犯罪は、そうした公務を果たしている

ことになるのかどうか? 別レベルのことなんです。 国際法に違反したり、人間の

倫理道徳に反したりする行ないがたくさんあった。 それらは避けることができた。

だから非難されても仕方がない。

 

後者に関してはどのように反省しても謝罪してもよいのだけれども、そのために、

前者のレベルまで否定してしまってはいけないんです。

それは、日本国の基礎を掘り崩すことになる。

 

その点では、中華人民共和国も国家である限り、まったく同様に市民によって

支えられているはず。 このルールは、相互に承認していいものだと思う。

 

==>> ここではいわゆる南京虐殺の例が述べられています。

     フィリピンでの戦争でも、マニラでの虐殺に関して、毎年慰霊祭が

     行なわれ、日本人のグループが参列しています。

     天皇皇后両陛下がフィリピンを訪問された折にも、そのことにふれた

     スピーチがありました。

 

     メモラーレ・マニラに関しては、こちらに詳しい説明があります。

     記憶にとどめるマニラ市街戦1945

     https://pakpaknatin.org/philippine-culture/1945/

 

     ちなみに、私の父親は戦争中どうしたのか、なんですが。

     父は、満州で満鉄商事の石炭受け入れの仕事をしていたらしいのですが、

     赤紙が来た時には、妻がすでに病死していて、社宅に子供4人と一緒に

     住んでいたそうです。

     一番上の姉は昭和10年生まれですから、まだ小学生でした。

     父は、幼い子ども4人を社宅の管理人に預けて、徴兵検査に行ったところ、

     古傷のために指が動かせなかったので、不合格となり、社宅に帰ることが

     できました。

     しかし、敗戦で満州から引き揚げる際に、幼かった女の子二人を

     栄養失調で失う結果となりました。

 

 

p284

 

宮台:

 

A級戦犯は悪くなかったと言えば、天皇や国民が悪かったことになり、天皇の戦争

責任問題が沸騰すると同時に、国民も何も尻ぬぐいをしてねえぞという話になる

 

ぼくは東京裁判という虚構図式の踏襲が合理的だと考えています。 だから、謝罪と

いっても、単に「日本が謝罪する」というあいまいさを避け、「A級戦犯が指揮した

作戦行為や戦闘行為は悪かったし、それらの行為が悪かったことを政府や国民は

理解しているし、A級戦犯を自力で取り除けなかったことを悔やんでいる」と言えば

いい。 現にそれが「日本国民は悪くなかった」と語った周恩来首相が望んでいた

ことでしょう。

 

 

 

p285

 

大澤:

 

宮台さんがおっしゃったドイツのことと、橋爪さんがおっしゃった学校教育における

歴史の問題というのはある意味で裏表の関係にあって、そこが難しいところだと思います。

 

p286

 

ヴァイツゼッカーやヤスパースの議論は、非常に洗練されたものだとわかる。

その議論が優れているのは、責任と歴史的なつながりに関して、さまざまなレベルに

分けて、自分たちの自尊心やアイデンティティを、ただひたすら肯定するわけでも

なければ、全面的に否定するわけでもないようにした点だと思います。

 

たとえば、ある人は、刑事上の罪や政治的な罪はないかもしれず、その点では彼の尊厳

は否定されない。 しかし、その人にも、たとえば道徳的な罪とか、刑事上の罪はある

かもしれず、その点での責任は引き受けなくてはならない。

 

 

p288

 

ヴァイツゼッカーが意識していたように、レイヤーやアスペクトを分けることの意味

は、未来志向の信頼醸成にあります。 ドイツで言えば、ナチ戦犯の時効を廃止しつづけ、

ナチ肯定的な表現を禁止しつづけ、個人補償図式を継続しつづけること、日本で

言えば、「過去への構え」を未来に変えないという約束の履行をつづけること。

それが信頼醸成につながるわけです。

 

==>> ここで、最後の部分だけを、鼎談している3人の社会学者の名前を

     入れて紹介しました。

     この最後の部分を読んでいて、なぜ宮台氏が暴漢に襲われたのか

     なんとなくヒントがあるように感じました。

     

     私にとっては、上記の橋爪氏の公務と犯罪の区分けの話が、基本的なこと

     なんですが、なるほどと思います。

 

     宮台氏のA級戦犯の扱いについての話は、それこそが、中国がメッセージで

     日本に何度も投げかけていることであって、日本の国益を考えれば、

     天皇陛下の意向も分かっていることですし、靖国神社への合祀を取り消す

     なり、政府首脳は参拝しないなどの決断で、信頼醸成に進めるのでは

     ないかと思います。

 

     大澤氏の意見は、私には明確には伝わってこないのですが、

     ひとそれぞれで責任を引き受けるというところは、学校教育で若い時から

     学べる環境があって、父や祖父がどのような戦争時代を送ったかを

     知らなければ、個人別に区分をするというのもなかなか難しいでしょうから、

     外交的な政府のポリシーとしては、やはりA級戦犯の扱いということに

     落ち着くのではないかと思います。

 

 

さて、この本は、2013年の出版ですが、時節柄、なかなか示唆に富む内容が詰まって

いると思います。

 

次回は、「第4部 中国のいま・日本のこれから」を読んでいきます。

 

 


 

 

===== 次回 その8に 続きます =====

 橋爪x大澤x宮台 「おどろきの中国」 を読む ―8― 日本は、「まかせて文句をたれる作法」、中国は「引き受けて考える作法」、アメリカに似ている合理性 (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

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