熊谷公男著「大王から天皇へ」を読む ―4― 継体天皇は婿入り? 宮内庁vs考古学者 徳治vs血縁「事依(ことよ)させ」 任那日本府はタブー?

熊谷公男著「大王から天皇へ」を読む ―4― 継体天皇は婿入り? 宮内庁vs考古学者 徳治vs血縁「事依(ことよ)させ」 任那日本府はタブー?

                                                                          

 


 

 「第三章 自立する倭王権」を読みましょう。

  

p134

 

記紀によれば、雄略の後の大王は清寧(せいねい)―顕宗(けんぞう)―仁賢(にんけん)

―武烈(ぶれつ)と続くが、いずれも短命に終わる。 六世紀は、継体天皇の異例づくめ

の即位とともに開幕する。 

 

金村は物部麁鹿火(もののべのあらかい)大連らとはかって、応神天皇の五世の孫の

男大迹(おおど)王を越の三国(福井県三国町)から迎えたという。 これが継体天皇で

ある。

 

・・・継体天皇の王妃の顔ぶれなどから、男大迹王の一族の拠点は近江国にあったと

考えられ、越は母振姫(ふりひめ)の郷里で、王はそこで育てられたのである。

 

==>> 著者は「応神五世孫という系譜も、畿外出身というのも、大王としては

     まったくの異例である。」としています。

     武烈天皇の後を継ぐものが畿内には誰もいなかったということです。

 

p136

 

男大迹王の出身氏族である息長(おきなが)氏は、ただの地方豪族ではなかった。

記紀ともに男大迹王を応神五世孫としながら、その中間の系譜を欠いていたところから、

信憑性に疑問がもたれたが、その後、『釈日本紀』(鎌倉時代の『日本書紀』の注釈書)

に引用された『上宮記』という『書紀』より古い文献に、凡牟都和希王(ほむつわけのみこ)

(ホムタワケ王=応神の誤記か)と男大迹王の間の系譜がすべて記されていることが

わかった。 息長氏を大王家の末裔とする系譜は、確実に記紀以前に遡るである。

 

p137

 

息長氏が重要な氏族であることがわかってきたのは、比較的最近のことである。

しかしそれを過大に評価することは禁物である。

・・・息長氏の在地の権力基盤はさして強固ではなかったし、・・・・

 

p138

 

戦後間もないころ、応神五世孫というあいまいな系譜に着目し、実は継体は地方豪族から

身を起こし、ヤマトに攻めのぼって「応神王朝」から王位を簒奪して「継体王朝」を

開いたのだ、という王朝交替説が唱えられ、学界に大きな影響を与えた。

 

しかし、この説はやはり成立しがたいであろう。

 

六世紀前半の継体・欽明朝にもっとも有力であった氏族は、大連の地位にあった大伴・

物部氏や、大臣(おおおみ)を出した蘇我氏などであるが、前二者は雄略朝以来の有力

氏族であり、しかも大王権力に密着し、その軍事的基盤を構成していた。

・・・つまり継体即位の前後で、大王権力をささえる軍事氏族に変化がみられず、新たに

有力化したのもヤマトの氏族であり、王権内のヤマトの優位は揺るがないのである。

 

==>> ここで王朝交替説をちらっと見ておきます。

     いろいろと説があるようですが・・・

https://kotobank.jp/word/%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E4%BA%A4%E6%9B%BF%E8%AB%96-1150541

     「水野祐(ゆう)1918―2000)が万世一系的神聖皇統は史実に反するとして、

わが国古代においては血統を異にする三つの王朝が交替したと説いた。それに

よると、

(1)崇神(すじん)天皇の皇統たる呪教(じゅきょう)王朝

(2)仁徳(にんとく)天皇の皇統たる征服王朝

(3)継体(けいたい)天皇の皇統たる統一王朝があり、

それらは互いに系譜的に無血縁関係にあったものが、律令(りつりょう)制統一

国家機構の確立期において、一系的擬制がなされたとする。

この水野説は、その後の王朝交替論に大きな影響を与えた。」

 

・・・この中で(1)の王朝は三輪山を祭祀する三輪王朝とも呼ばれている

ようですが、私的にはこの王朝が非常に気になります。

いずれにせよ、「総じて王朝交替論は、万世一系的天皇観を克服するうえで大き

な役割を果たしたが、・・・」とありますから、「克服」されたと理解していい

のでしょう。

 

p139

 

そうすると、仁賢の娘である手白香(たしらか)皇女との婚姻は、実質的には既存の大王

家への入り婿とみるべきで、継体以降の王家は、母系を通じて“応神王朝”の血統を引き継ぐ

ことになったのである。 継体は、単独で既存の王権に取り込まれたと考えるしかないで

あろう。

 

==>> 要するに、こちらのサイトで系譜をみると明らかなように、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E7%99%BD%E9%A6%99%E7%9A%87%E5%A5%B3

     子供のいなかった武烈天皇のお姉さんである手白香皇女に継体天皇は入り婿と

     して入ったということらしい。

     

     

p140

 

現在、宮内庁が継体陵としているのは、大阪府茨木市の太田茶臼山古墳である。しかし、

この古墳を本当の継体陵と考える考古学者はまずいない。

 

一方、二キロほど東方の高槻市にある今城塚古墳は嶋上(しまのかみ)郡内とみられるし、

古墳の墳形や埴輪から六世紀前半の古墳と考えられる。 今城塚古墳は天皇陵に指定され

ていないが、現代の考古学者は、こちらこそが真の継体陵であると考えている。

 

==>> このような天皇陵指定の間違いがおこった原因について、

     著者は「幕末から明治初期にかけての考古学の未発達な時期に治定され

     たためとし、「現在の天皇陵の治定に誤りが多いことは、考古学者の間

     では常識」なんだそうです。

     

     この本は2001年の出版ですから、その後の宮内庁の対応も変化がある

     ものと思います。

     その点をこちらのサイトで見ておきます。

     このサイトは2010年に掲載されているようです。

     宮内庁調査官が明かす「896の聖域」 天皇陵の真実

     https://style.nikkei.com/article/DGXBZO18843180V21C10A1000000

     「内規と実態が合わなくなったので2007年、改訂に踏み切りました。陵墓

すべてを対象とし、研究者の専門分野の枠を無くしました。範囲も墳丘の1段目

まで広げました」

「墳丘1段目より上は、埋葬施設になっている例もあり、今後も立ち入りを

認める考えはありません

     「「陵墓の調査は職員が行うのが原則ですが、外部の調査を認めた例もあります。

例えば宮崎県の男狭穂塚(おさほづか)と女狭穂塚(めさほづか)の陵墓参考地

では0408年、外堤部や墳丘すそ部などの地中レーダー探査を県教育委員会に

許可しました」

 

     「――牽牛子塚古墳や今城塚古墳(大阪府)などは陵墓ではないが、「真の天皇

陵」との説が研究者の間では強い。新たに陵墓参考地に指定する可能性はないの

か。

「参考地の指定は、陵墓とするのに備えて現状を保全しておくのが目的です。

主な古墳はすでに史跡として保全されており、新たな指定は必要ないと考えて

います」」

「私たちの役目は陵墓を現状のまま保全し、後世に伝えていくことです。発掘は

破壊でもあります。調査は管理に必要な範囲で行うことにしています」

 

・・・宮内庁による調査と考古学界の関係が分かりませんが、余程の根拠が

出てこないと変更するのは難しいということのようですね。

 

 

p140

 

継体天皇の死は謎に満ちている。 

 

p141

 

これらの記述は、継体天皇が亡くなったという辛亥年(531)に倭王権内部で何らかの

政変があったことを想起させるのに十分である。

 

p143

 

筆者は、内乱説には現時点では賛成できないが、継体・欽明朝の政争を王権内部の王位継承

争い、ないし派閥抗争という次元に限定するのであれば、確かにあったと思う。

継体ののちに相次いで即位した安閑・宣化と欽明の三人は、いずれも継体の王子である。

 

p144

 

このように欽明は、二人の兄とは、母の身分も年齢も大きく異なっていた

両者の間に確執・対立が生じたとしても不思議ではない。

 

林屋死は、大伴氏を安閑・宣化の擁立者、蘇我氏を欽明の支持者と考え、その背後に

大伴・蘇我両氏の政治的対立を想定したが、この点に関してはそのとおりであると思う。

 

==>> ここで、この辺りの歴史の流れを整理するために、高校日本史の動画でおさらい

しておきましょう。系図が描いてあるので分かりやすくなっています。

     倭の五王から継体天皇・欽明天皇へ【社会人のための高校日本史03

     https://www.youtube.com/watch?v=7pLdxQnCzms&t=181s

     「5世紀になると宋書倭国伝に「倭の五王」が登場する。倭の五王は雄略天皇等

に比定されている。武烈天皇に後継者がいなかったため、大和以外の地から継体

天皇が皇女の婿として迎えられ、二人の間に誕生した欽明天皇のとき皇統は

一本化された。」

 

     この動画では、「婿入り」によって権力を繋いでいくのが日本的なやり方だと

     述べています。源頼朝の例も書いてあります。

     また、欽明天皇が、それまでの複数の王家の血統を受け継ぐ形になったことも

     説明しています。

 

 

p145

 

六世紀初頭の継体朝以降、宣化天皇の即位まで、蘇我氏関係の記事は皆無である。

それが、宣化の即位に際して、稲目が突如として大臣に任じられ、欽明朝にもその地位

が継続される。

 

稲目の段階の蘇我氏は、まだ新興豪族であるから、婚姻関係形成の主体は、やはり欽明

の側にあったとみるべきであろう。 しかも、欽明が稲目の娘を二人も納れている

いうのは、稲目に対する信頼と期待が並々ならぬものであったことをものがたっている。

 

==>> ここでは「蘇我氏関係の記事は皆無」と書いてあるのですが、

     五世紀末には少し蘇我氏の伝承があるようです。

     https://kotobank.jp/word/%E8%98%87%E6%88%91%E6%B0%8F-89802

     「その起源は、奈良県橿原(かしはら)市曽我(そが)または大阪府南河内(みなみ

かわち)郡の石川流域とする両説があったが、百済(くだら)の高級官人木満致

(もくまち)5世紀末に渡来し、大和の曽我に定着したのに発したとの説も有力

である。」

5世紀末葉の雄略(ゆうりゃく)朝に、満智(まち)が朝廷の三蔵(みつくら)

つかさどって財政に関与した伝承が『古語拾遺(こごしゅうい)』にみえ、

『日本書紀』には韓子(からこ)が対新羅(しらぎ)関係で活躍した記事がみえるが、

6世紀中葉の稲目(いなめ)が大臣になったころから勢力を急速に伸ばした。」

 

ちなみに、蘇我韓子は雄略天皇の時代に新羅征伐のために半島へ渡ったよう

です。韓子は稲目の祖父にあたるようですから、元々大王家に近かったん

ですね。

 

 

p146

 

継体・欽明朝前後には、大王の即位式の整備をはじめ、中央ではウジの制度、地方では

国造(くにのみやつこ)や屯倉(みやけ)の制度、そして包括的な支配体制として

部民(べのたみ)制(名代・子代の制度もその一部)などが形成されてくる時期に

あたっている。

 

p148

 

即位に群臣の推戴が必要であったということは、大王が自らの意志だけで自分の後継者

を決められなかったことを意味する。 治天下大王の時代には、まだ譲位の慣行がなく、

いったん即位すれば、終身大王である時代であった。

 

治天下大王の即位式では、大王と群臣の地位が相互に承認される必要があったのである。

 

官僚機構が整備された奈良時代になると、もはや天皇の代替わりにこのようなことを

行なうことはなくなる。

 

==>> 部民制というのはどのようなものでしょうか。

     こちらで詳しくご覧ください。

     https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A8%E6%B0%91%E5%88%B6

     「王権への従属・奉仕、朝廷の仕事分掌の体制である。」

     「今日の一般的な理解では、部は職業を軸とした職業部と、所属対象を軸とした

豪族部および子代・御名代の2つのグループに分かれる。」

 

     上記にあるように、大王の即位式の意味合いが次第に変化していく時期で

     あったようです。

     そのためにも、官僚制度の整備が必要であったということですね。

 

p149

 

大王は「事依(ことよ)させ」といって、神々から地上の支配を付託される必要が

あった。

 

中国の天下思想でいえば天命に相当する。

ただし両者には大きな相違があった。 それは、天命が徳治主義の思想を前提とし、有徳者

に下るものであったのにたいし、事依させは天上の神々の子孫、すなわち大王家・天皇家

の人物にだけ下された。 つまり前者の基準が徳であるのに対し、後者は血縁であって、

これは両国における革命思想の有無にも関係する重要な相違である。

 

==>> ここは、中国と日本では、根本的なところで考え方が違うということですね。

     「事依させ」については、こちらのサイトの解説を参照します。

https://kotobank.jp/word/%E4%BA%8B%E5%AF%84%E3%83%BB%E8%A8%80%E5%AF%84-2039555

     「こと‐よさ・す【事寄・言寄】

神や天皇がご命じになる。ご命令になる。

※古事記(712)上「二柱の神に、是のただよへる国を修め理(つく)り固め成せ

と詔りて、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依(ことよさし)賜ひき」」

 

徳基準がいいのか、血縁主義がいいのか・・・

     それぞれのメリット・デメリットを比べたらどういうことになるのでしょうか。

     理念的には徳基準の方がよさそうですが、徳というのも人それぞれの考え方で

     いろいろあるでしょうね。

     その意味では争いが絶えることがない世界になるかもしれず。

     血縁主義の場合は、良い血統が続けばいいのかもしれませんが、ハズレたら

     最悪にもなり得ますね。

 

 

p150

 

このように、治天下大王の即位式は、全体として、天つ神と大王の関係と、大王と群臣

の関係とを新たに構築しなおすという儀礼的意味をもっていた。

治天下大王は、その地位の正当化に、もはや倭の五王の時代のように、中国皇帝の権威を

必要とはしなくなっていた

 

 

p151

 

六世紀の半島情勢で、まず最初に特筆すべきことは、新羅の日の出の勢いの台頭である。

 

p152

 

新羅は、華々しい国力伸張の過程で伽耶方面にも進出していく。 それが伽耶と深い

かかわりをもつ倭国にも大きな影響を及ぼすことになるのである。

 

p160

 

著名な「任那日本府」は、・・・『書紀』欽明紀だけに現れるのである。

当時は「日本」という国号はまだなかったから、「日本府」という名称は『書紀』の編者

が付けたものにちがいない。 もともとは「倭府」などとよばれていたのであろう。

「任那日本府」を、かつてのように「任那」の統治機関とみる見方は、さすがに影を

ひそめたが、ではどう理解したらよいのかとなると、現在でも諸説紛々の状況である。

 

==>> 治天下大王が列島内では次第に足元を固め、中国王朝からも自立する方向に

     動いていた、その一方で、朝鮮半島での新羅の動きと、任那の存亡が

     倭王権にとっても重大事になっていきます。

 

     任那日本府に関しては、いろんな議論があるようです。

     Wikipediaで概観しておきましょう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%BB%E9%82%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BA%9C

     「任那日本府(みまなにほんふ)は、古代朝鮮半島にあったとするヤマト王権の

出先機関ないし外交使節、またその学説。」

 

・・・ここには、「日韓歴史共同研究」のことも書かれていますが、

結局は「研究」というのは成立しなかったようですね。残念です。

また、youtubeなどをみると、任那日本府というのは歴史のタブーにされて

いるらしいです。

 

     ちなみに、「西暦562年、任那日本府が新羅によって滅ばされた。」とされて

います。・・・562年は欽明天皇の時代ですね。

 

p164

 

六世紀は、古代では、半島で倭系人がさまざまな形で活躍する最後の世紀であった。

四世紀の前半に、ヤマトとカラが出会って以来、半島南部には倭王権の窓口がおかれ、

一定数の倭人が送り込まれた。 彼らの渡航の契機は、王権による半島ルートの掌握や

同盟国への軍事援助といった政治的契機であったが、やがて当初の任務から離れてカラの

地に土着し、この地で第二の人生を歩み始めるものも少なくなかったと思われる。

 

p165

 

カラに土着した倭人たちは、「韓婦(からめ)」をめとり、「韓子」を生んで、半島で

新しい生活を築いていった。・・・・安羅では「日本人」と「任那人」とその間に

生まれた韓子がたくさんいて、その帰属をめぐって訴訟が起きているが、・・・

 

541年に百済から安羅に派遣された使者の一人に、紀臣奈率弥麻沙(きのおみなそち

みまさ)という人物がいた。 彼も韓子であったが、奈率とは百済の十六等の冠位の

第六位であって、れっきとした百済の官人であった。

 

p166

 

韓子は、半島ルートの副産物であった。 河内・吉備・紀・物部・許勢(こせ)といった

韓子の姓からみて、彼らの父方の先祖は倭王権の使臣として半島に遣わされた人物で

あろう。

 

==>> 4世紀前半から6世紀にかけての200年間ぐらいの話ですから、当然韓子と

呼ばれる人々も大勢いたということなのでしょう。

     百済の役人になっている人たちもいるぐらいだから、やっぱり200年は

     長いですよねえ。

 

p167

 

引きも切らない百済の救援要請は、緊迫した情勢を伝えているが、倭国にとって救軍の

承諾は、先進文化享受の絶好の機会であった。 非常時にもかかわらず、救軍に対する

先進文化の供与というギブ・アンド・テイクの関係が、見事なまでに貫かれているので

ある。 倭国は、当時、中国の冊封体制外にありながら、百済を介して南朝文化を受容

していたのである。

 

p170

 

「任那の調」は、「任那復興」がもはや実現不可能であると悟った倭王権が、苦肉の策

で編み出した国内向けの政治的セレモニーであった。

外交儀礼によって、「任那」がまだ存在しているかのような演出を行ったのである。

 

==>> こちらのサイトでは、「任那の調」について、下のように解説しています。

     日本書紀の解明・・邪馬台国と大和王権

     https://syoki-kaimei.blog.ss-blog.jp/2016-03-31-3

     「新羅が任那を562年に滅ぼし、自国領に取り入れているんも関わらず、任那

の調を倭国に奉っているのは、倭国の任那奪還を諦めさすための方便であり、

百済との戦いで倭国を敵に回したくなかったのであろう。」

 

・・・「調」とは「昔の税制の一。みつぎ。「調布/租庸調」」のことですね。

ちなみに、先日お参りにいった浦和の調(つき)神社は、狛兎(こまうさぎ)?で

有名ですが、この神社は「伊勢神宮に献上する調物(貢ぎ物・御調物)を納める

倉を建て、武総野(武蔵、上総・下総・安房、上野・下野)すなわち関東一円の

初穂米・調の集積所と定めたとする。」神社だったんだそうです。

兎年で埼玉のうさぎ神社「調神社」が大変なことに!

http://soudasaitama.com/sightseeing/37413.html

 

 

 

さて、次回は 第三章の続きで「3 国造と氏」から読みましょう。

 


 

===== 次回その5 に続きます =====

 熊谷公男著「大王から天皇へ」を読む ―5― 火の国と豊の国  ミヤケと大宰府 倭王権の氏族 前方後円墳の意味 (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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