熊谷公男著「大王から天皇へ」を読む ―5― 火の国と豊の国 ミヤケと大宰府 倭王権の氏族 前方後円墳の意味
熊谷公男著「大王から天皇へ」を読む ―5― 火の国と豊の国 ミヤケと大宰府 倭王権の氏族 前方後円墳の意味
第三章「3 国造と氏」に入ります。
p170
継体・欽明朝は、倭王権の中央・地方の支配機構が飛躍的に発展した時期でもあった。
p171
筑紫(のちの筑前・筑後。 福岡県)を本拠とする筑紫磐井は、527年(継体21)に、
火(のちの肥前・庇護。佐賀・長崎・熊本県)・豊(とよ。のちの豊前・豊後。福岡県東部
と大分県)二国まで勢力下において、反乱を起こした。
翌年、大連の物部麁鹿火(あらかい)が代将軍として派遣され、筑紫の御井郡(福岡県
久留米市付近)で磐井と戦い、ついに磐井を斬って、反乱は鎮圧された。
この磐井の乱はかなり大規模なものであったことは間違いない。
p172
磐井の乱の記事には、もう一つ、地方支配において注目すべきことがある。
それは、反乱のあとで葛子(くずこ)が糟屋屯倉(かすやのみやけ)を献上している
ことである。
・・・初めて筑紫国造に任命されたのは、ミヤケを献上した葛子であろうとし、
国造の任命とミヤケの設置には密接な関係があると推定している。
==>> つまり、磐井の子である葛子が、父に連座して死罪になることを恐れて、
その所領の一部を倭王権に献上することで許してもらい、さらに、
筑紫を治める官職にしてもらったという話のようです。
ここで、高校日本史の教科書にはどう書いてあるかをチェックして
おきましょう。(詳説 日本史Bより)
私は、高校時代は日本史が一番苦手だったので、さっぱり覚えていません。
「6世紀初めに、新羅と結んで筑紫国造磐井が大規模な戦乱をおこした。
大王軍はこの磐井の乱を2年がかりで制圧し、九州北部に屯倉を設けた。」
・・・ここでちょっと気になる食い違いがありますね。
教科書では筑紫国造磐井が反乱を起こしたと読めるんですが、この本では
反乱の後に子である葛子が所領を献上したあとに国造に任命されたと
いうことになっています。
ここでwikipediaを読んでみると、下のように、いろいろと議論されている
のが分かります。
磐井の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E4%BA%95%E3%81%AE%E4%B9%B1
「国造制の成立をいつと考えるかで、磐井の乱の性格は全く違ったものになって
くる。 例えば、五世紀後半ごろから施行されていったとする説に従うならば、
六世紀前半の段階で磐井が筑紫国造であったと考えることに問題はない。
しかし、最近言われ出した七世紀前半ごろに整備された制度とするならば、磐井
は六世紀前半には国造ではなく、九州北部を拠点にしていた地方豪族という
ことになる。 (『日本書紀』では「筑紫国造磐井」と記しているが、『古事記』、
『筑後国風土記』は「竺紫君石井」や「筑紫君磐井」としており、ヤマト政権に
従属した国造ではなく独立した地方豪族としている。」
・・・つまり、記紀の段階で異なる書き方になっているから当然議論が
起こったと言うべきでしょうか。
教科書は2016年初版、この本は2001年初版になっています。
要するに、この本は「最近言われ出した」説をとり、教科書は慎重に従来の
説を語っているということなのでしょうか。
p173
五世紀の後半の雄略天皇の時代には、まだ地方官が存在していなかった。
それが、六世紀前半に起こった磐井の乱の鎮圧をきっかけとして、倭王権は地方支配
の強化にのりだし、地方の有力首長を国造に任じ、また要所要所にミヤケをおいていった
のである。
国造制が成立すると、地方豪族は国造という倭王権のツカサ(官)に任命されて在地支配
を行うようになった。
p174
国造は、在地の支配に必要な行政権・裁判権・軍事権・祭祀権なども、当然、保有して
いたが、これらは国造としての権限というよりは、在地首長としての国造就任以前から
保持していたもので・・・
国造としての権限は、あくまでも王権に対する貢納・奉仕に直接かかわるものであった。
国造制は、在地首長が本来もっている支配力に依拠した倭王権の地方支配システムなので
ある。
==>> なるほど、この本の著者は、この磐井の乱がきっかけになって、倭王権の
直轄地である屯倉を配置するようになったというストーリーにしている
わけですね。
そして、地方豪族を国造という制度の中に組み入れた。
ただし、地方豪族の領内の支配については、従来通り任せていたということ
になりそうです。
p177
ミヤケの語義は「王権にかかわる建物のあるところ」ということである。
したがって、朝廷の使者がとどまって政務を執る施設ということであれば、「ミヤケ」と
よばれておかしくない。
そう考えると、『書紀』の「官家」という用字がもっともミヤケの性格を適切に表現して
いることになる。
==>> ここで著者は「ミヤケ」を漢字で表すのが古文書によってバラバラである
ことを述べています。
朝廷の直轄領という意味に変わりはないけれども、
屯倉と書いているのは『日本書紀』だけで、他の古文書では、
屯家、三宅、屯宅、御宅などがあり、『日本書紀』でも官家と書いている
箇所もあるので、単に「稲を収納する倉を中心に」した「経済的基盤」と
いうだけではなく、もっと幅広い地方支配の機能があったのではないかと
考えているようです。
その意味で、「官家」というのがもっとも適切ではないかとしているわけです。
p178
536年(宣化元)に筑紫に設置された那津官家(なのつみやけ)(福岡市の那珂川の河口
付近)は、各地から稲穀を集積したミヤケで、飢饉や半島からの使者の迎接などに備えた
という。 大宰府の前身にあたる施設で、倭王権の政治的・軍事的拠点の代表的なミヤケ
であった。
==>> 大宰府については、修学旅行で見学に行ったきりで、ほとんど何も
知りませんでしたので、九州人としては、遅ればせながら学習しましょう。
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%AE%B0%E5%BA%9C-93206
「律令制下の西海道(九州)9国3島(824年以降は2島)の内政を総管し,内外使
節の送迎や海辺防備などを担当した地方官衙。現在の福岡県太宰府市に置かれ,
遺跡は特別史跡。律令地方行政は中央政府の諸国直轄を原則とするが,古くから
大陸への門戸として対外交渉に重要な役割を果たしてきた九州には例外的に
大宰府を置き,特別行政区として諸国島を統轄させた。 536年に朝鮮半島への
兵站基地として那津(なのつ)(現,福岡市)に修造された官家(みやけ)を先駆
とする。」
「律令制で、九州および壱岐・対馬を管轄し、また、外交・海防などに当たった
役所。」
・・・つまりは、防人の管轄が重い役割になったようです。
p184
ウジとは、蘇我・物部・大伴氏などの、主にヤマトとその周辺に拠点をおく中央の氏族
集団のことである。 それらは父系の系譜によって同族集団を構成する親族組織である
と同時に、倭王権と一定の政治関係を結び、大王の政治的補佐や軍事・祭祀・特殊技能
などに関連するツカサ(官)について王権の職務を分担する政治組織でもあった。
ウジは、在地に農業経営の拠点であるヤケ(宅)と隷属民であるヤツコ(奴=家つ子)を
保有していた。・・・・ウジをウジたらしめているのは、むしろ王権への奉仕の見返りと
しての部=カキの所有にあるといってよい。 ・・・多数のカキをその経済的基盤に
取り込むことによって、それまでの土豪的存在から脱皮していった。
==>> ここで「カキ」という言葉が出ているのですが、その意味については、
「「カキ」とは、垣根のカキに通じ、区画するという意味で、ここでは諸氏族
によって区画され、囲い込まれた人間集団ということである。」
「カキ(民・民部・部曲などと書き、カキベ、カキノタミともいう)・・・」
・・・となっています。
要するに、ある囲われた範囲の中にいる民は、隷属する農民とされたような
雰囲気ですね。
p185
最終的には、律令制の成立期に中国的な姓の概念が導入されることによって、ウジ名と
ともに一律に父系に継承されるようになるのである。
六世紀の倭王権の中枢部を構成したのは、臣と連のカバネをもつウジであったが、両者は
対照的な性格をもっていた。
前者は蘇我・・・和珥・・・平群(へぐり)・・・巨勢(こせ)・・波多・・阿倍の諸氏の
ように、本拠地のヤマトの地名をウジ名とする氏族が主体を占めており、ヤマト以外では
吉備臣・出雲臣氏などが目立つ程度である。
後者としては、大伴・物部・中臣・土師(はじ)などのウジが主要なものであるが、
これらのウジの呼称は、おおむね諸氏の王権における職務によっている。
p187
六世紀の倭王権の中枢部は、主にヤマトに本拠地をもつ臣姓豪族と、大王家への従属度
がつよく、ヤマトと河内に拠点をもつ連姓氏族とによって構成されていた。
・・・排他的地域集団の権力ととらえるべきだと思う。
p189
多分に人格的結合に依存したウジごとのタテ割り支配であって、多元的な君臣関係が
広範に存在していた。 大王のもとに君臣関係が一元化されていないということが、
やがてさまざまな弊害を産み出していき、それが、大化改新の重要な原因の一つと
なっていくのである。
==>> 列島内をかなり掌握はしたものの、制度的にはまだまだ不安定なもので
あったようです。
蘇我・和珥・平群・巨勢・波多・阿倍の6氏の中で、蘇我氏、平群氏、巨勢氏は
武内宿禰(たけしうちのすくね 景行天皇)の末裔とされているようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
そして、波多氏についても、
「武内宿禰の長男である波多八代宿禰(はたのやしろのすくね)を祖とする。」
とwikipediaにありますから、基本的には上記3氏と同祖ですね。
また、和珥氏は、春日氏や小野氏と同じく、天足彦国押人命(あめたらしひこ
くにおしひとのみこと)を祖とするとされています。
さらに阿倍氏に関しては、「孝元天皇の皇子大彦命を祖先とする皇別氏族である」
とされていますから、いずれの氏族も繋がっているようにみえます。
ほとんど血縁の範囲にあると考えていいのでしょうか。
「4 前方後円墳の時代の終焉」
p191
六世紀半ば以降の群集墳の盛行は、列島社会に大規模な変動が起こりつつあったことを
端的にものがたっている。 それまで首長の支配下におかれていた有力農民層が、その
傘下から独立し、家族墓化した古墳の造営主体となりつつあったのである。
この傾向を考古学的に示すのが、同じ時期に進行する首長墓としての前方後円墳の衰退、
廃絶という流れである。
倭王権による国造や伴造の任命、部民の設置などによって旧来の首長の権力が弱められ、
それまでのように首長が多数の農民を動員して巨大な首長墓を造営することができなく
なったことが、その原因の一つと考えられる。
==>> 前方後円墳が有力農民層の増加によって廃れていったとは初耳です。
前方後円墳の最初は箸墓古墳ということらしいのですが、もしかしたら
これが卑弥呼の墓なんじゃないかという説もあるようですね。
いずれにせよ、様々な説があるようですから、これだと決めつけることも
できないようです。
前方後円墳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%96%B9%E5%BE%8C%E5%86%86%E5%A2%B3
このwikipediaを読んでみても、「有力農民」という言葉は出てきていません。
ただ、「大王墓と見られる古墳の規模は他を圧しており、これまでの有力首長の
共同統治から大王への権力の集中が始まったものと見られている。」
「つまり6世紀の前方後円墳は大きさばかりではなく視覚的な見栄えも低下し
ており、当時の社会における前方後円墳そのものの位置づけにも変化が起きて
きたと考えられる」
「おおむね6世紀末までに前方後円墳の築造は終了し、その後、首長墓は主に
円墳ないし方墳に移行し、大王墓など一部の首長墓は八角墳などの多角形墳に
移行する。」
・・・・このように、有力農民というのは書かれていません。
いずれにせよ、地方豪族の力が中央政権によって削がれたのでしょうね。
さて、次回は「第四章 王権の転機」に入ります。
===== 次回その6 に続きます =====
===============================
コメント
コメントを投稿