田中健夫著「倭寇 海の歴史」を読む ― 2(完) ― 朝鮮半島からフィリピンまで暴れまわった多国籍の倭寇、倭寇の頭目王直は平戸住まい、日本人は首狩り族?
田中健夫著「倭寇 海の歴史」を読む ― 2(完) ― 朝鮮半島からフィリピンまで暴れまわった多国籍の倭寇、倭寇の頭目王直は平戸住まい、日本人は首狩り族?
「4 十六世紀の倭寇の胎動」 に入ります。
p111
朝貢形式による朝貢船すなわち諸外国の国王の派遣船とそれにつきしたがう船団を
受け入れる機関として、明では広州(広東)・泉州(福建)・寧波(浙江)をひらき、
・・・・朝貢船団によって中国にはこばれた物資は、ほとんどすべてが中国上流階級の
需要品か軍備のために必要な資材であった。 明政府は、これらの物資の購入を独占し・・・
p112
海禁とは中国人が海上に出て外国人と接触することを禁じたもので、この政策は元末
すでに一時的に行われたことがあった。明では建国者の太祖洪武帝のときから施行され
祖法として恒久化し、約200年にわたって存続した。
・・・倭寇の取り締まりもその目的のひとつにふくまれていた。
・・・海賊団の横行を防止するための治安策であるとともに、政府の外国貿易独占を
維持する財政政策でもあった。
==>> ここを読んだところで、素朴な疑問として、日本の鎖国と何が違うんだ?
日本も結局ここにある海禁ということじゃなかったのか、ということです。
検索してみたら、そのような議論が行われていました。
編集長日記(5)「『鎖国』か『海禁』か?」
https://www.rekkyo.org/archives/5047
「いわゆる「四つの口」の長崎・薩摩(琉球)・対馬・松前の4つの窓で、日本
は外国とつながっていたという「鎖国」観の見直しが提起されています。今回も
4つの窓ごとの論稿を並べましたが、「鎖国」概念を相対化するとして、注目
される明の海禁との比較を打ち出すことで、新たな問題提起となっています。」
「高度な内容ではありますが、“頑張って”読むと、安易に海禁と「鎖国」を同一
視してはいけないことを強く印象づけられます。」
一方で、こちらのサイトでは、以下のように述べられています。
江戸時代の鎖国政策
http://rekishi-memo.net/edojidai/sakoku.html
「江戸幕府の創出した「鎖国(さこく)」体制とは、キリスト教の排除(禁教)して
対外関係を統制する事で、自己を中心とした周辺諸国・諸地域との安定的、固定
的関係を構築するモノだった。
近年、それは鎖国というより、海禁政策(かいきんせいさく)の発動だった取られ
る見方が一般化している。」
p113
この海禁の政策は、明代以後の東アジアでは一種の対外政策の模範とされた観があり、
清初の遷界令(せんかいれい)や日本の長崎における閉鎖的通商許可などと種々の点で
類似を指摘することができる。
==>> この著者は、鎖国と海禁の類似点がいろいろあると述べていますね。
研究者によって、もちろん意見は異なるでしょうが。
p117
この書物は、正確には「世界の記述」と訳されるべきもので、1298年にポーロが
ジェノヴァで捕らえられていたときの同囚のルスチケロがポーロの見聞を筆録した
ものである。
日本に関する記事は、日本人は色白で慇懃で優雅な偶像教徒であるとか、人肉を食する
風があるとか述べているほかに、莫大な量の黄金が産することを特筆している。
==>> ここで言う「世界の記述」というのは、マルコポーロの「東方見聞録」の
ことなんですが、日本に関してはかなり不思議なことが書かれているよう
です。
こちらのサイトにも、そのことが詳しく書かれています。
マルコ・ポーロ『東方見聞録』に見る日本のイメージ
https://www.jc.meisei-u.ac.jp/action/course/004.html
「マルコは、日本人の肌を色白とし、白人と理解したようです。そのうえ日本人
は「人食い人種」、「人間の肉」が「最も美味」と賞味する、と記しています。
もちろんマルコは日本に来たわけではありませんから、当時の執権・北条時宗が
言う「神風」(嵐をたとえた表現)に追い返された中国人たちの気持ちがこの
表現になったと受け取れるでしょう。
「日本人=人食い人種」としている文献はない、と言われています。この点、
歴史家もマルコ・ポーロの研究家も沈黙を守っています。この部分は、敗戦の
モンゴル人たちの「噂」(流言)を採用したマルコの生きた証言、と採るべき
ではないでしょうか? 」
・・・ちなみに、これは元寇の時代の話のようですから、元の兵士たちが
日本で酷い目に遭ったことが誇張されて、マルコポーロの耳に入ったのでは
ないかという解釈のようです。
しかし、ちょっと考えてみると、日本には「首を取る」という表現があります。
戦国時代には実際に首を取ることが出世するための証拠だったような話が
あります。
一方、フィリピン・ルソン島北部山岳地帯には、「首狩り族」と呼ばれた民族が
いました。 たまたま、私が日本語を教えた学習者が、作文を書いてくれまして、
その中で、この首狩り族のことを話題にしてくれたのです。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2009/11/post-7058.html
「昔から、およそ20年ほど前まで、カリンガの人々は「首狩り」で知られてい
た。 私も、この噂は実話だと言う事ができる。 今でも、首狩りはないものの、
銃やナイフでの殺人がある。
カリンガの男達は、人を殺すことを恐れない。 試合、あるいは競技のように
考えているらしい。殺せば殺すほど、その男は英雄になる。 カリンガの女性
たちも、そのような男にあこがれるのである。」
また、こちらの本には、このようなことも書かれています。
合田濤(ごうだ・とう)氏の著書
「首狩りと言霊-フィリピン・ボントック族の社会構造と世界観」
「この地域では過去十五年の調査のあいだに、確認しただけで六件の首狩り
事件が起こっている。 ボントック族にとって、首狩りは象徴的な行為であると
同時に、現実の政治過程に存在する紛争解決の一手段なのである。」
・・・このような例を考えれば、日本人が「首狩り族」だと言われても、
それを否定することは難しいのかなとも思います。
p121
ポルトガルが中国に派遣した初めての大使はトメ=ピレスである。 かれは1511年
(永正八)にインドに、1512年にはマラッカに着き、1515年にマラッカを離れた
が、その間の見聞を「東方諸国記」としてまとめている。
・・・第四部が「シナからボルネオにいたる諸国」で、シナ・日本・琉球・ボルネオ・
ルソンの地理をはじめ政治情勢や貿易の実態について生彩あふれる叙述をしている。
とくに興味をそそられるのは琉球人に関する記事である。
==>> この「東方諸国記」は、インターネットでも購入できるようですが、
ちょっとだけ中身を知りたい方は、こちらでどうぞ:
トメ・ピレス『東方諸国記』を読む
http://koekisi.web.fc2.com/column2/page012.html
「琉球人の気質について、トメ・ピレスは「われわれの諸王国でミラン〔ミラノ〕
について語るように、シナ人やその他のすべての国民はレキオ人について語る。
かれらは正直な人間で、奴隷[や娼婦]を買わないし、たとえ全世界とひきかえで
も、自分たちの同胞を売るようなことはしない。かれらはこれについては死を賭
ける。レキオ人は偶像崇拝者である。もしかれらが航海に出て、危険に遭遇した
ときには、かれらは、『もしこれを逃れることができたらと、1人の美女を犠牲と
して買い求め、ジュンコの舳で首を落しましょう』とか、これに似たようなこと
をいって〔祈る〕。かれらは色の白い人々で、シナ人よりも良い服装をしており、
気位が高い」とまとめている(諸国記、p.248-9)。まさに、レキオ(琉球)人が」
「守礼の民」であることを彷彿とさせる。」
「こうした琉球の情報の付けたりとして、ジャンポン島が示される。以下が、
そのすべてである。「すべてのシナ人のいうところによると、ジャンポン〔日本〕
島はレキオ人の島々よりも大きく、国王はより強力で偉大である。それは商品に
も自然の産物にも恵まれていない。国王は異教徒で、シナの国王の臣下である。
かれらはシナと取引をすることはまれであるが、それは遠く離れていることと、
かれらがジュンコを持たず、また海洋国民ではないからである。」
「室町時代の日本は、「商品にも自然の産物にも恵まれない」、また「ジュンコを
持たす、海洋国民でもない」とみなされている。そして、琉球人がマラッカで
支払いに充てる「黄金と銅」が日本で調達していることを、しっかりと見て取っ
ている。」
・・・これから判断すると、トメ=ピレス自身は、琉球には実際に行ったよう
ですが、日本本土には入ってはいないようです。
それにしても、琉球人は非常に評判がいいですね。
・・・また、「東方見聞録」にせよ「東方諸国記」にせよ、琉球人と日本人は
色白の偶像教徒だとか偶像崇拝者と描いていますね。
色白というのは、おそらくヨーロッパ人の感覚で、アフリカやインドの人たち
との比較で見ているのでしょう。
ちなみに私もアフリカで日本語を教えていた時には、地元の人たちからは
白人と呼ばれていました。
そして、偶像というのは、おそらく仏像のことなのでしょう。
インドあたりのヒンドゥー教のイメージと重なっているのかもしれません。
少なくとも神道のイメージは、これらふたつの旅行記からは感じられませんね。
・・・ヨーロッパ人が神道について何か書いていたのか見たことはありませんが、
検索してみたところ、ルイス・フロイスが何かを書いていたようです。
「宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』によれば、信長が在来宗教である
神道や仏教のいっさいを軽蔑していたとされます。」
ルイス・フロイス自身は、どのように神道を捉えていたのでしょうか。
「西洋人の神道発見」という論文がこちらにありました。
できることなら戦国時代に日本にいた西洋人の神道観が知りたいのですが・・・
http://meijiseitoku.org/pdf/f44-22.pdf
基本的には、自然崇拝だということになるのでしょう。
現代の外国人の場合は、こちらのサイトの説明が現実を表しているように
思います。
https://yukashikisekai.com/?p=95887
「仏教(お寺)と神道(神社)の違いが分からないというアメリカ人やイギリス
人には、いままでに何人も会ったことがある。タイには仏教があって神道はない
から、分かりやすそうな気もするけど、知り合いのタイ人は自信をもって区別す
ることができない。」
・・・最近お参りに行ったお寺には、「ここはお寺ですから、柏手は打たないで
ください」とわざわざ注意書きが大きく出してありました。
それほど、日本人でも神仏習合の現状にはとまどいます。
p127
海禁政策の強行とポルトガル船のアジア進出とは16世紀の倭寇発生の重要な引き金と
なったが、16世紀の初頭すでに広東・福建・浙江沿岸の一帯には多数の密貿易者や
海寇の活動があった。
p128
ポルトガル人は正徳十六年(1511)以来中国で正式に貿易することを許されていな
かったが、南洋方面では中国商人や琉球商人と接触しながら実質的な中国貿易を継続して
いた。
==>> 倭寇という話の中にポルトガルが絡んでくるというのはちょっと意外な
感じがしますが、倭寇がかなりインターナショナルな問題であることを
象徴しているようにも見えます。
p139
王直は青年時代は落ちぶれて遊民の徒に投じていたらしいが、いわゆる任侠の男で、
智略に富み、人におしみなく施し、信望は厚かった。 かれは倭寇の頭目といわれた人
たちのなかでは最も日本との関係の深い人物であった。
王直がはじめて日本にきた年代は、日本側の史料では天文十二年(1543)、・・・・
日本側の史料というのは鉄砲伝来の史料として有名な「鉄砲記」である。
・・・五峰とは王直の号であるが、儒生とよばれているように、かなり高度の教養の
持ち主であり、鉄砲伝来にも重要な一役を買っていたのである。
p141
王直は五島を根拠としたが、かれ自身は平戸に居宅を置いた。いま五島の福江にある
明人堂や六角井戸は倭寇の遺跡と伝えられている。
王直が平戸に移ったのは領主松浦隆信の勧誘があったためであろう。 隆信は瓦職人
など多くの唐人を招いて平戸に居住させており、王直と結んで海外貿易を企図して
いたのかもしれない。
そのころ平戸には中国船がさかんに出入りし・・・・
==>> この王直さんを確認しておきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%9B%B4
「東南アジアや日本の諸港と密貿易を行い、博多商人と交易して日本人との信任
を得る。」
「度重なる明の海禁政策を逃れ、1540年に日本の五島に来住し、松浦隆信に
招かれて1542年に平戸に移った。地方官憲や郷紳らと通じ、養子や甥の王汝賢
らを幹部に密貿易を拡大。」
・・・おやまあ、長崎県出身者としては、これはすごく親近感を感じますね。
密貿易なのに、日本人には歓迎されていたんですね。
p166
倭寇の残類は、・・・・(1566年)・・・台湾北港に逃げこみ、・・・かれらは無頼の徒を
賞金で集め、・・・浜海の巨寇にのしあがったと言われる。
オランダ人が来て占拠するまで、台湾は完全に倭寇の基地だったのである。
明の隆慶・万暦年間は倭寇の衰退期で、その舞台は台湾・フィリピン・南洋の方面に
移っていった。 そのなかでめざましい活躍をした人物の一人に林鳳がある。
林鳳は4000人の部下をもつ大勢力で、フィリピン諸島を襲撃して全諸島を征服
してその国王となることを決心し・・・・
p167
スペインの軍団長サルセドは、林鳳の船隊を襲撃して炎上させ、三ヵ月にわたる
包囲戦を行ったが、林鳳らは巧妙な計略を用いて脱出した。
副将には日本人シオコがおり、かれが400人の先発隊の指揮者であったという。
==>> この林鳳とシオコの話は、フィリピンに昔話として残っていまして、
数年前にそのアニメ映画をみました。
パンガシナン州の昔話・伝説がアニメ映画「Urduja姫」に
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/04/daisuke-49b0.html
「Urduja姫は フィリピンで初めての本格的デジタル及び伝統的
アニメ映画である。この作品は、フィリピン・パンガシナン州のTaliwisiの土地
における勇ましい王女のフィクション物語である。
Urduja姫と中国の海賊のラブ・ストーリーを展開しながら、フィリピンの部族
の生活や古代の伝統なども思い起こさせる。」
「この歴史上の人物は、Li Ma Hong とありますが、このアニメ映画の中で
の海賊の親分の名前は Limhang という名前です。
又、同じサイトに、「林鳳の日本人副将シオコ(Sioco)が上陸した。」とあります
ので、このアニメ映画に出てくる日本人DAISUKEは、このシオコがモデル
なんじゃないかと思います。」
一方で、真面目なフィリピンの歴史教科書にはどのように書いてあるのかと
いいますと、私が読んで個人的に一部を翻訳した中では、このように
書いてありました。
フィリピンの歴史教科書から学ぶ 75 倭寇・林鳳、マニラを襲撃
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2016/01/75-9732.html
「p161
「Lim-Ah-Hongの侵略(1574-75年)」
フィリピンにおける最初の中国人のスペイン人に対する脅威は、有名な中国人
海賊Lim-Ah-Hong林鳳(りんぽう)による侵略であった。
皇帝によって無法者とされ、王国を探して、1574年11月19日に、62隻
の戦闘用ジュンク帆船、2,000人の兵士、2,000人の船員、1,500
人の女たち、多くの職人、そして、農業や家事の道具の積載物とともに、林鳳は
マニラ湾に現れた。その夜、林鳳は、彼の日本人副官であるSiocoの下に
600人の軍を、パラニャーケ海岸に上陸させた。」
p168
明における政策転換は、中国人の海外貿易とフィリピンをはじめとする南方諸地域への
移住を容易にし、その傾向を促進した。このような情勢のなかでさしもの倭寇活動も
終局に近づきつつあった。
p169
日本における国内統一事業の進展、とくに豊臣秀吉が天正十六年(1588)に海賊禁止令
を出したことなどは、日本人が倭寇に参加することをさまたげる一因となった。
==>> ここで思い出したのが、過去に読んだフィリピンの歴史教科書に書いてあった
ことです。
フィリピンの歴史教科書から学ぶ
「第十二章 中国および日本との関係」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2016/01/76-492c.html
「p162
1575年5月、Salcedoが林鳳を包囲していたころ、福建省総督の使節である
Aumon(Omoncon)を乗せた二隻の中国船がリンガエンに到着した。Aumonは、
中国でお尋ね者となっていた林鳳を捜していた。 海賊の運も尽きたことを
見て、Aumonはマニラへ向かった。 そこでは、総督Lavezarisの厚いもてなし
を受けた。彼が中国に帰る時には、スペインの大使一行に伴われた。(中略)
この大使一行は、総督から中国の皇帝に宛てられた手紙を持っていた。その手紙
は、中国との友好と交易を求めるものであった。
福建省の総督はスペインの大使一行を歓迎し、Lavezarisの手紙を皇帝に届けた。
しかし、彼は大使一行が長く滞在することは許可しなかった。」
「スペイン時代のフィリピンの経済的生活は、中国人の労働と産業に大いに頼
っていた。 中国人住民は、商人、農業、石工、金融業、塗装工、靴職人、金属
工、そして人夫であった。
「かれらは優秀な労働者だった」とMorgan博士が1609年に述べている。
「そして、全ての工芸や交易に技術を持っている」。フィリピンは中国人の手助
け無しには成り立たなかった。Recollect 歴史家として.. Juan de la Concepcion
コンセプションは1788年に、「中国人の交易と商業がなくては、この国は
生きて来れなかった」と述べている。」
そして、秀吉はフィリピンを統治するスペインに対してかなり強引な態度を
とったりするわけですが、フィリピンの日本人はどんな感じだったかと言うと。
「日本―スペイン 初めての接触」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2016/01/79tayfusa-d8af.html
「日本とスペインの最初の接触は1570年で、元帥のGoitiが、マニラ
(Maynilad)のRaha Sulaymanのイスラム王国を占領した後に、20人の日本
人居住者を発見した。 その中の一人はパブロというクリスチャンであった。
明らかに、彼はマニラに来て住む前に、イエズス会の宣教師によって、日本で
キリスト教に改宗していた。」
「10年後(1582年)、Juan Pablo Carrion船長率いるスペインの派遣部隊
は、日本人の海賊の王国を攻撃した。 その王国はカガヤン川の河口にTayfusa
によって築かれたものだった。戦いは激しいものだったが、最後には日本人は
打ち負かされた。日本人たちが出港して逃げる時に、Tayfusaはスペイン人に
向かって叫び“Someday we shall return!”「いつか必ず戻ってくるからな!」と
誓った。」
「日本との交易」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2016/01/80-15e7.html
「p167
初期の日本人貿易商は、リンガエン湾のアゴオの町でも交易を行なった。
そこでは、彼らは、鹿皮の貨物を得ていた。アゴオにやってきた最初のスペイン
人は、多くの日本人のジャンク帆船をその港に見て驚き、この町を「日本港」
(プエルト・デ・ハポン)と呼んだ。」
「p167
「日本人に対するスペインの方針」
日本人のフィリピンでの居住者は 中国人より少なかった。日本人はスペイン
当局に厚遇され、中国人の場合と異なり、差別的な法律も作られなかった。
これは、日本人が勇猛で好戦的な人びとであったという事実によるもので
あった。よって、スペイン人は日本人を恐れ、尊重したのである。」
・・・日本はまさに戦国時代ですから、好戦的な国民だったのでしょう。
江戸時代の終わりまで、要するに軍事政権が統治していたわけですからね。
それはともかく、秀吉は、スペインが日本を植民地化しようとしていると
漂着したスペイン船の乗組員から聞いて、その先兵であるとみなされた
キリスト教宣教師などを追放することになったわけですね。
p176
中国における倭寇像は実体がきわめて曖昧でつかみにくいものであるが、あるときは
中国民衆に日本人に対する恐怖や憎悪の想念を植え付け、またあるときは中国の民衆が
自分たちの反乱を倭寇のようにみせかけ、さらにそれらが中国の官憲から適当にたくみに
利用されたりしたのである。
そして倭寇の観念が中国人の思想のなかに定着したのは、実に豊臣秀吉の朝鮮出兵の
ときであった。
日本史でいう文禄・慶長の役は、中国にとっては最大の倭寇だったのである。
p208
「日本一鑑」は鄭舜功が・・・三年間豊後大友氏のところに滞在した日本生活の経験を
もとに・・・書いたものである。
・・・渡航の体験にはじまり、倭寇の動静や日本における歴史や地理についての見聞を
細大となく百科全書風に書き連ねたもので、戦国時代の日本を知るうえにもすぐれた史料
である。
かれが認識した日本人は、廉恥心が強く盗をにくむものであり、これを悪化させたのは
中国の流逋(りゅうほ)であるという。 また、日本人は武に秀でているとか、上下とも
仏教を尊重するとか、文字を知り教養があるとか、美点を多くみとめ、衣食を安定させて
倭寇を防ぐべきであるともしている。
==>> ここでは、中国人にとっての「倭寇」のことが語られているのですが、
日本人を知らない中国人にとっては非常に恐ろしい脅威の倭寇であった
ようですが、 一方で、日本人と交流のあった鄭舜功のような中国人に
とっては、高く評価できる日本人であったようです。
もちろん、彼の場合は、大友氏というトップクラスの日本人との交流です
から、そういうことになるのでしょうが、「衣食を安定させて・・・」と
いう点は、ポイントだと思います。
ところで、上記の「流逋」なんですが、これは中国語のようです。
こちらのサイトにその意味が書かれていました。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/kaizoku/ikkan2.html
「「流逋」とは「亡命者」の意味。この章では中国から国外に亡命した人間達が
倭寇その他と結託して中国へ侵攻する活動についてまとめており、とくに
嘉靖倭寇の群像に関して他史料に見られない詳細な記述が含まれる。」
さて、これでひととおり「倭寇」を読み終わりました。
少なくとも、倭寇とは単なる日本人の海賊ということではなく、時代によっても、
東アジアの地域によっても、その構成員に関しても、変化しながら東アジアの海を
舞台として暴れまわっていた多国籍の人々であったようです。
そして、それは、国境などという明確な意識がなかった時代の自由な交易の在り方
だったのかもしれません。
===== 完 =====
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