井筒俊彦著「意味の深みへ:東洋哲学の水位」を読む ― 3(完) 人間のコトバは大日如来の真言の世俗的展開形態にすぎない?? 既成の意味に囚われるな!!

 

井筒俊彦著「意味の深みへ:東洋哲学の水位」を読む ― 3(完) 人間のコトバは大日如来の真言の世俗的展開形態にすぎない?? 既成の意味に囚われるな!!

  

井筒俊彦著「意味の深みへ:東洋哲学の水位」

「III 七 意味分節理論と空海」を読んでいきます。

 

 

p265

 

厳密な文献学的方法による古典研究とは違って、こういう人達の古典の読み方は、あるいは

多分に恣意的、独断的であるかもしれない。 結局は一種の誤読にすぎないでもあろう。

だが、このような「誤読」のプロセスを経ることによってこそ、過去の思想家たちは

現在に生き返り、彼らの思想は溌剌たる今の思想として、新しい生を生きはじめるのだ。

 

ドゥルーズによって「誤読」されたカントやニーチェは、専門家によって文献学的に

描き出されたカントやニーチェとはまるで違う。 デリダの「戦略的」な解釈空間にたち

現れてくるルソーやヘーゲルは、もはや過去の思想家ではない。

 

==>> これは私のような勝手な本の読み方をする読者にとっては、有難いご宣託です。

     私の場合は、読解能力が足りないというだけのことなんですが、自分に都合の

     よい、理解できる部分だけを拾って、「誤読」する自由を認めていただき

     有難いかぎりです。

 

     元々、文章は書き手のもとを離れたら、読み手の勝手な解釈で拡散していく

     わけですから、ある意味で当たり前のことかもしれませんが、学校や受験での

     読解問題ではそうは問屋が卸してはくれませんから要注意ですね。

 

p267

 

真言密教は、要するに真言密教である。 「真言」(まことのコトバ)という名称の

字義どおりの意味が、それのコトバの哲学としての性格を端的に表明している。 この

意味ではコトバは決して真言密教の一側面ではない。 コトバが全体の中心軸であり、

根底であり、根源であるような一つの特異な東洋的宗教哲学として考えることができる・・・

 

==>> おお、これにはちょっと驚きました。

     私はたまたま終活の都合上、浄土真宗から近所の真言宗のお寺に宗旨替えを

     したんですが、真言密教の意味をそこまで深く考えてはきませんでした。

     浄土真宗の場合は、学校で学んだ歴史の中で「他力本願」とか「悪人正機説」

     みたいなことで、そこそこ知識があるわけですが、真言密教に関しては

     曼荼羅ぐらいしか情報がありませんからね。

     でも、今までに読んだ本の中では、空海独自の言語学的著書があることは

     しりました。

 

     空海著 加藤精一編 「即身成仏義」、「声字実相義」、「吽字義」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/02/post-7535b7.html

     「p107

阿字を観想することによって一切のものが本来的に生じたものではなく、

縁によって生じていることを知るのです。 およそこの世のことばというものは

名称からはじまります。しかもその名称は字によって示されます。したがって

字の書体の阿字も他の字の母とするのです。他の字はすべて阿字が変化した

ものだからです。阿字を観想して真実を知る時も同じです。

・・・

すべてのものは本来的に存在するのではないことが知れますし、これがすべての

ものの真実のすがたなのです。

・・・阿字本不生の実体を見るものは、真実の自分の心を知ることになりますし、

自心の真実の内容を知ることができれば、この心こそ仏陀大日如来の一切智智

と同一だといえるのです。そういうわけで大日如来はこの阿字という一字を

大日如来の真言、種字とされているのです。」

 

・・・ここでちょっと気になったのが「種字」という言葉です。

前回その2で読んだところに「意味の「種子」と言語アラヤ識」がありましたが、

その「種子」と関係するのでしょうか。

 

 

p268

 

真言密教は、千年の長きにわたって、コトバの「深秘」に思いをひそめてきた。

コトバの深秘学。 この特異な言語哲学は、第一義的には、コトバの常識的、表層的

構造に関わらない、表層的構造の奥にひそむ深層構造とその機能とを第一義的な問題

とする。 

 

・・・コトバが、その究極の深層において、そもそもいかなる本性を露呈するであろうか、

いかなる機能を発揮するであろうか、それを、このコトバの深秘学は実体験的に探ろう

とする。

 

==>> インド発祥の密教と空海の真言密教は、空海が中国で学んだ二つの考え方を

     日本でひとつにしたということらしいので、基本的にかなり異なったものだと

     考えるのがいいのでしょう。そして、「真言」と「密教」を融合した言語学的

     思想は、おそらく空海のオリジナルだと考えるべきなのかもしれません。

     

     密教と真言密教の違いについては、こちらでチェックしてみましょう:

     「密教」

     https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%86%E6%95%99

「呪術的な要素が仏教に取り入れられた段階で形成されていった初期密教

(雑密)は、特に体系化されたものではなく、祭祀宗教であるバラモン教マントラに影響を受けて各仏尊の真言陀羅尼を唱えることで現世利益を心願成就するものであった。当初は「密教経典」なるものがあったわけではなく、大乗経典に咒や陀羅尼が説かれていたのに始まる。」

「インドから来朝した善無畏や中国人の弟子の一行大日経』の翻訳を行い、さらにインド僧の金剛智と弟子の不空(諸説あるが西域出身のインド系帰化人であったと言われる)が金剛頂経』系密教を紹介することで、インドの代表的な純密経典が初めて伝えられた。」

「本格的に日本へ伝来されることになるのは、唐における密教の拠点であった

青龍寺において密教を本格的に修学した空海(弘法大師)が806年に日本に帰

国してからであった。日本に伝わったのは中期密教で、唐代には儒教の影響も強

かったので後期密教はタントラ教が性道徳に反するとして唐では受け入れられ

なかったという説もある」

 

 

p269

 

真言密教の言語哲学を、現代的な思惟の次元に移して展開するために、私はそれを

意味分節理論的に基礎づけることから始める。 そして、この目的のために、その

第一歩として、先ずコトバに関する真言密教の思想の中核を、「存在はコトバである」

という一つの根源命題に還元する。

 

・・・つまり存在は存在性そのものにおいて根源的にコトバ的である、ということを

この命題は意味する。

 

p272

 

空海は「果分可説」を説き、それを真言密教の標識とする。 すなわち、コトバを絶対的

に超えた(と、顕教が考える)事態を、(密教では)コトバで語ることができる、あるいは、

そのような力をもったコトバが、密教的体験として成立し得る、という。 この見地から

すれば、従って「果分」という絶対意識・絶対存在の領域は、本来的に無言、沈黙の

世界ではなくて、この領域にはこの領域なりの、つまり異次元の、コトバが働いている、

あるいは働き得る、ということである。

 

==>> ここで新しいコトバ「果分可説」を調べておきましょう。

     こちらのサイトでは、今読んでいる本に関して書いてあります。

     https://philosophy.hix05.com/izutsu/izutsu12.singon.html

     「他の仏教諸派が、深層意識における言語脱落を主張するのに対して、真言密教

は、「果分可説」の立場に立つ。「果分可説」とは、深層意識の世界もコトバに

よって語ることができるという意味である。では、その異次元のコトバとはどの

ようなものか。異次元のコトバといっても、普通の人間言語と似ても似つかぬ

記号組織というわけではない。普通の人間言語が、そこから自然に展開してくる

ような根源言語として、空海は構想していると井筒は言う。」

 

さらに、辞書的な意味を探したのですが、これというものがないので、

「果分可説」の反対語とみえる「果分不可説」を調べてみました。

http://chohoji.or.jp/wordpress_blog/2013/01/06/blog-post_6-8/

「説明をはしょりますが「空(くう)」を、つまり「果分」といいます

この「空」を、言葉によって説明しようとすると、説明する人の使う言語とか、知識量とか語彙の制約を受けます。 つまり、言葉による説明は脳内に生成され

る「色(しき)」です。言葉によらない「写真」「絵」「音」「動画」は、やや「空」

に迫るかもしれませんが、やはり脳内に生成されるので同じことです。

 

「色」は「空」をどんなに上手に説明しても、「空」そのものには絶対になり

ません。 それを果分不可説といいます。」

 

・・・因分や果分という言葉の意味をもっと知りたいのですが、

残念ながらインターネットサイトでは、これぞというものが見当たりません。

 

     とりあえず、p272にはこのような記述があります:

     「「果分」とは、通俗的な説明では、仏さまがたの悟りの内実ということ。 

     より哲学的なコトバで言えば、意識と存在の究極的絶対性の領域、絶対超越の

     次元である。」

     

p275

 

「果分可説」と空海が言う、その「果分」に対立するものは「因分」である。「因分」とは、

すなわち、我々普通の人間の普通の経験的現実の世界。 我々が通常「コトバ」とか

「言語」とかいう語で意味するものは、「因分」のコトバであって、「果分」のコトバでは

ない。 両者は、同じくコトバであるにしても、それぞれ成立の場と機能のレベルとを

異にする。

 

==>> なんだかややこしい話になっていますが、平たくいえば、「因分」は

     この世のコトバで、「果分」はあの世のコトバってことですかねえ

     問題は、空海さんが、そのあの世のコトバが可能だと言っているのは

     どういう意味なのか、ですね。

 

p276

 

「声字実相義」の一節で彼は言っている。 つまり、我々が常識的にコトバと呼び、

コトバとして日々使っているものも、根源まで遡ってみれば、大日如来の真言

あり、要するに、真言の世俗的展開形態にすぎない、というのだ。

 

==>> この構図は、なんとなく、その2で読んだ「有と無の間にある「意味可能体」」

     を思い出させます。

     真言=意味可能体で、世俗的言葉=コトバになった意味可能体、でしょうか。

     あるいは、真言=意識下にある言語アラヤ識の領域にある「種子」で、

     世俗的言葉=その「種子」から生み出された言葉、かもしれません。

 

     それはともかく、「大日如来の真言であり、要するに、真言の世俗的展開形態に

すぎない」ってことは、私は大日如来の「口パク」をやっているってことに

なりますか??

 

p277

 

分節理論はそれとは逆に、始めにはなんの区分けもない、ただあるものは混沌として

どこにも本当の境界のない原体験のカオスだけ、と考える。 のっぺりと、どこにも

節目のないその感覚の原初的素材を、コトバの意味の網目構造によって深く染め分け

られた人間の意識が、ごく自然に区切り、節をつけていく。 そして、それらの区切り

の一つ一つが、「名」によって固定され、存在の有意味的凝結点となり、あたかも始め

から自立自存していたものであるかのごとく、人間意識の向こう側に客観性を帯びて

現象する。

 

==>> 「コトバの意味の網目構造」が「人間の意識」を染めるんですね。

     ここで説明しているのは存在とコトバの関係であるわけですが、

     私の興味の焦点は「意味」の方なんですよねえ。

     コトバと意味の関係が知りたい・・・

 

p279

 

同じ大乗仏教のなかにあって、真言密教だけは、例外的に、コトバの意味分節の所産

である経験的世界の事物事象の実在性を、真正面から肯定する。 なぜだろう。

 

p280

 

顕教と根本的に違うところは、現象界でそのように働くコトバの、そのまた源に、

「法身説法」、すなわち形而上的次元に働く特殊な言語エネルギーとでもいうべき

ものを認めることだ。

 

すべてのものは大日如来のコトバ、あるいは、根源的にコトバであるところの法身

そのものの自己顕現、ということであって、そのかぎりにおいて現象的存在は最高度

実在性を保証されるのである。

 

==>> おお、「経験的世界の事物事象の実在性を、真正面から肯定する。」というのは

     初めて知りました。びっくりです。

     おそらく一般的には仏教の「空」思想は、下のようなことと理解されている

     のでしょうから。

 

     実在を徹底否定、「空」の理論 龍樹「中論」

     https://book.asahi.com/article/12199949

     「『中論』は、仏教史上最も重要な理論書である。ここで説かれているのは、

「実体の実在」の徹底した否定、つまり「空」の理論だ。言語で世界を捉えて

いる私たちは、言語によって記述される対象が実在すると思っている。が、それ

は虚妄だというのだ。」

 

もっとも、真言宗は現世利益の宗派だと言われているようですので、

その意味から言えば、なにも驚くことではないようにも思います。

それに、親鸞さんの浄土真宗などとは異なり、真言宗では理趣経のような

経典も普通に唱えているようなので、現実的と言えるかもしれません。

 

 

p281

 

西洋の言語学の圧倒的大勢は、言語にたいして、いま言ったような意味でのホリゾンタル

なアプローチによって特徴づけられる。 チョムスキーの語る「深層構造」にしても、深層

とはいうものの、しれは実はデカルト的な普遍的理念構造を措定するだけであって、依然と

してホリゾンタルなアプローチであることに変わりはない。

 

p282

 

およそこのような立場をとる人たちにとっては、コトバがものを生み出す、コトバから

存在世界が現出する、存在はもともとはコトバなのである、というようなことはとうてい

考えられない。

 

==>> ここでは、西洋の思想は、コトバに関してはホリゾンタル(水平的)であって、

     縦方向への深みがないということを言いたいようです。

     チョムスキーの本はいくつか読みましたが、言語学を自然科学的に考えると

     いうことでしたから、少なくともここで言っているような形而上学的な

     掘り下げ方にはならないと思います。

 

     福井直樹著「自然科学としての言語学:生成文法とは何か」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/03/blog-post_25.html

     「piii 

生成文法理論の根幹をなす主張は、言語の研究とは人間が言語を獲得し話せる

ようになる

「(認知)能力」(そしてその「(認知)能力」をつかさどる脳内メカニズム)の

科学的研究である、というものである。 「言語生物学」的アプローチとでも

呼ぶべきこの視点は、生成文法理論を従来の伝統的言語研究からもっとも尖鋭

に分け隔てる点であると同時に、様々な分野の研究者の興味を言語に引きつけ、

二十世紀後半における言語研究を真に学術的なものとした原動力であったと

言えよう。」

 

ここでは、コトバが世界を生み出すというようなことは西欧世界では考え

られない・・・と書いているのですが、私はちょっと不思議に思います。

なぜなら、「始めに言葉ありき」などというフレーズがあるからです。

しかし、しかし、それを調べていたらこんなサイトがありました。

「はじめに言葉ありき」を99%の日本人は誤解している。

https://novel-shoten.com/archives/1217

「「アルケーはロゴスなり」

「根源的原理は、キリスト(神の言葉)である。」

「「アルケー」の意味は、万物の始源・宇宙の根源的原理。

「ロゴス」の意味には、確かに「言葉」もあります。が、真実、真理、論理、

理性、概念、調和・統一のある法則など様々な意味もまた示します。」

「「言葉で規定することが、全ての始まり」という言葉の重要性を語る理論の

ために、「はじめに言葉ありき」を引用するのは、全くもって的外れ」

・・・という驚きの解説がありました。

 

・・・おそらく、ここでは、「はじめに言葉ありき」というのは語訳であって、

本来の意味は上にあるように、「宇宙の根源的原理は法則(神の言葉)」である」

とするならば、「宇宙のすべては大日如来の言葉である」と構図的には

重なるような気もするんですがねえ。

 

 

 

p284

 

もともと我々の言語意識の表層領域は、いわば社会的に登録ずみの既成のコトバの完全な

支配下にある。 そして既成のコトバには既成の意味が結びついている。 既成の意味

によって分節された意識に映る世界が、すなわち我々の「現実」であり、我々はそういう

「現実」の只中に、すこぶる散文的な生を生きている。

 

・・・言語意識の深層領域には、既成の意味というようなものは一つもない

時々刻々に新しい世界がそこに開ける。

 

==>> 散文的という言葉が、ここではネガティブな意味で使われているようですが、

     それは言い過ぎなんじゃないかと思います。

     もちろん、芸術的な自由な発想が表現できる人たちは特別でしょうが、

     プロの表現者ではなくても、ここで言うところの「深層領域」から既成のもの

     ではない、新しいコトバを紡ぎ出す人達はたくさんいるでしょうし、

     コトバは既製品でも、そこの込められたひとつひとつの思いはその人それぞれ

     の新しい意味なのではないかと思いたいところです。

 

 

p293

 

真言密教の法身に当たるものを、東洋のほかの宗教伝統では神、または神に相当する

ものとして表象する。 神がコトバで世界を創造したという思想は、「旧約聖書」の

「創世記」をはじめ、その他いろいろな民族の宇宙生成神話によく見られる・・・・

 

p293

 

「声ブラフマン」説とは、要するに一切存在の絶対的原点としての「ブラフマン」を、

本性上、コトバ的なものとする立場である。 ここではコトバこそ「ブラフマン」の

リアリティいとされ、結局、「ブラフマン」はコトバである、とされる。

 

従って、コトバは、真言密教の場合と同じく、存在世界現出の形而上的根源とされるので

ある。

 

==>> ブラフマンは、wikipediaでは「ブラフマンは、ヒンドゥー教またはインド哲学

における宇宙の根理。自己の中心であるアートマンは、ブラフマンと同一(等価)

であるとされる(梵我一如)。」とされています。

真言宗の場合は、仏教というよりかなりヒンドゥー教に近いという説明も

ありますので、さもありなんという感じです。

 

p295

 

構造的にこれとまったく同じ型の言語観は、インド以外にも、例えばユダヤ教や

イスラームのように、真言密教と歴史的関係のまったくないセム系統の一神教の

なかに、著しく真言密教の言語哲学に近い形で現れる。

 

 

p298

 

はじめて「対象認知的」になる。 なぜなら、この段階で、文字はいろいろに組合され

結合して語(あるいは名)となり、それによって意味が現われ、意味は、それぞれ己れ

に応じたものの姿を、存在的に喚起するからである。 「対象認知的」とは、この

コンテクストでは、存在喚起的ということにほかならない。

 

==>> これはアフファベットに関して、ファズル・ツ・ラーの「神のコトバ」の

     観念の一部を説明している部分です。

     著者はここで、この神を大日如来と呼んでも、アッラーと呼んでもまったく

     同じことだと書いています。

     ここで私の目に止まったのは、「文字が組み合わさって語となって、そこで

     意味が現われる」という部分です。

 

     やっぱり、意味は語の後なんですかねえ・・・・

     

 

p302

 

大日如来の「説法」として形象化されるこの宇宙的根源語の作動には、原因もなく理由も

ない。 いつどこで始まるということもなく、いつどこで終わるということもない。

金剛界マンダラが典型的な形で視覚化しているように、終わると見れば、すぐそのまま、

新しい始まりとなる永遠の円環運動だ。

 

・・・それが発出する原点が・・・それが阿字(ア音)。すなわち、梵語アルファベット

第一字音である阿字が、大日如来のコトバの、無時間的原点をなす。

 

p305

 

いま私が問題としている局限的境位でのア音は、「阿の名」が呼び出される以前の

純粋無雑な「阿の音」なのであって、この透明な自体性におけるア音は、既に「名」

となったアとは、構造的に区別されなければならない。

 

アという「声」がアという「名」となってはじめて、そこに意味、すなわちシニフィエ

を考えることができるのである。 

 

==>> 上記の中の「シニフィエ」とはwikipediaによれば、

     「シニフィアンは、フランス語で動詞 signifierの現在分詞形で、「意味している

もの」「表しているもの」という意味を持つ。それに対して、シニフィエは、

同じ動詞の過去分詞形で、「意味されているもの」「表されているもの」という

意味を持つ。日本語では、シニフィアンを「記号表現」「能記」(「能」は「能動」

の意味)、シニフィエを「記号内容」「所記」などと訳すこともある(「所」は

「所与」「所要」などの場合と同じく受身を表わす。」

となっています。

 

私がここで一番興味がある部分は、最後の行の内容です。

アというものが、声―>名―>意味、意味されているものになるという順番

です。

 

     では、阿字に関して、空海さんはどう書いているかといいますと;

     空海著 加藤精一編 「即身成仏義」、「声字実相義」、「吽字義」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/02/post-7535b7.html

     「p107

阿字を観想することによって一切のものが本来的に生じたものではなく、

縁によって生じていることを知るのです。 およそこの世のことばというものは

名称からはじまります。しかもその名称は字によって示されます。したがって

梵字の書体の阿字も他の字の母とするのです。他の字はすべて阿字が変化した

ものだからです。阿字を観想して真実を知る時も同じです。

・・・

すべてのものは本来的に存在するのではないことが知れますし、これがすべての

ものの真実のすがたなのです。

・・・

阿字本不生の実体を見るものは、真実の自分の心を知ることになりますし、自心

の真実の内容を知ることができれば、この心こそ仏陀大日如来の一切智智と

同一だといえるのです。そういうわけで大日如来はこの阿字という一字を大日

如来の真言、種字とされているのです。」

 

・・・・この最後のところに「種字」というのが出てきました。

既に読んできた言語アラヤ識の中の種子というものを連想させます。

 

 

p305

 

自分の口から発する言葉を間髪を入れず自分の耳に聞きとめ、そこに直接無媒介的な

「意味」の現前を捉えるというコトバの現象学的事態が、現代哲学でも重要なテーマ

の一つになっている。 

 

しかし、批判されるフッサールの「ロゴス中心主義」も、批判するデリダの「解体」も、

真言密教の見地からすれば、畢竟するに「浅略釈」的論議なのであって、「深秘釈」には

程遠い。

 

p306

 

真言密教の見所によれば、個人的人間意識のレベルに生起する意味現象は、宇宙的レベル

における意味現象の、ほとんど取るにも足らぬミニアチュアにすぎないのだ。

 

==>> この辺りから後には、著者が真言密教の、空海の言語論の凄さについて

     詳しく解説をしているのですが、私の今の興味は、宗教的な意味論ではなく

     形而上的なものでもなく、著者が上で述べている「個人的人間意識のレベルに

     生起する意味現象」のあり様ですから、可能なかぎり科学的なアプローチでの

     解説が知りたいわけです。

     かと言って、現象学的解説が知りたいかというとそうでもないわけで、

     出来れば自然科学、神経科学、脳科学、システム工学的な表現のものが

     ないものかなあと思っているところです。

 

 

さて、あちこちの章を飛ばして、私の興味のある章だけをつまみ食いしてきました。

 

これで、「意味の深みへ」を終わります。

 

この本を読んで思ったのは、どうしても意識下にある目に見えない「意味」などという

ものは、それを説明するには、このような形而上学的な表現を借りないとできないもの

なのかな、という思いです。

上にも書いたように、私としては、その目に見えないものを自然科学的手法と表現で

分かり易く説明してくれる人がいないものかと、まことに手前勝手なことを考えて

しまいます。

今後もおそらく「ツンドク」が増えていくことでしょう。

 

 

===== 完 =====

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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