井筒俊彦著「意味の深みへ:東洋哲学の水位」を読む ― 2 言語は意味論的には「現実」分節のシステム、 有と無の間にある「意味可能体」、意味の「種子」と言語アラヤ識

井筒俊彦著「意味の深みへ:東洋哲学の水位」を読む ― 2 言語は意味論的には「現実」分節のシステム、 有と無の間にある「意味可能体」、意味の「種子」と言語アラヤ識

 


 

「I 二、 文化と言語アラヤ識 ― 異文化間対話の可能性をめぐって」

に入ります。

 

 

p061

 

「文化」に限らず、今日、地球上に流通している文化的普遍者(人類の、地球社会的次元

における文化生活に関わる共有概念)は、すべて西洋起源であることを著しい特徴とする。

しかも人々は、通常、それらの西洋起源を少しも意識していない。 

 

p064

 

そのような秩序づけのメカニズムが「文化」と呼ばれるものなのである。

この意味で、人間は、秩序づけられた、すなわち、文化的に構造化された、「世界」

生きる。 カオスから文化秩序へ。 この転生のプロセスを支配する人間意識の創造的

働きの原理を、私は、存在の意味分節と呼ぶ。

 

==>> 西洋起源を少しも意識していないという点については、いや私は日本の

     伝統思想・文化の中で生きてきた、と言いたいところですが、実際は

     そうではないことはすぐにバレてしまいます。

     後段のポイントは「存在の意味分節」なんですが、正直言って、まだまだ

     ピンときません。

     自分が生まれた国の文化の中で秩序付けられるということは理解できますが、

     それがどう「存在の意味分節」となるのかが分かりません。

 

 

p065

 

人間もたんに動物の一つの種として存続するためなら、この純生物学的存在分節

存在の自然的秩序づけだけで充分であったろう。だが、幸か不幸か、人間はこの生物学的、

第一次的存在分節の上に、もう一つの、全く異質の存在分節を付け加えた。それが

「文化」と呼ばれるものなのである。

 

p066

 

第一次存在分節から第二次存在分節への転移は、まさに言語を仲介として生起するもの

だからである。 いまここで問題にしている第二次的存在分節とは、要するに、言語的

意味表象の鋳型を通じて存在のカオスを様々に区切り、そこに成立する意味的分節単位

の秩序として、第二次的に「世界」を組み立てることにほかならない。

 

==>> さあ、ここで存在分節の意味が明らかになってきました。

     第一次は生物学的な分節であり、第二次は文化という意味表象による世界の

     構築ということのようです。

     ここでは「言語的意味表象」とか「意味的分節単位の秩序」となっています

     ので、どうも意味というのは言語にあるという前提があるように見えます。

     それが、どのように「アラヤ識」と関係してくるのかが興味のポイントです。

 

 

p067

 

今日、言語を論じる人たちが口を揃えて言うように、言語はコミュニケーションの重要

な手段である。 が、コミュニケーションの手段であることのほかに、あるいは、それ

以前に、言語は、意味論的には、一つの「現実」分節のシステムである。

 

生の存在カオスの上に投げ掛けられた言語記号の網状の枠組み。 個別言語(ソシュール

のいわゆるlangue)を構成する記号単位としての語の表わす意味の指示する範列的な線

に沿って、生の存在カオスが様々に分割、分節され、秩序づけられる。そこに文化が

成立し、「世界」が現出する。

 

==>> 言語は「現実」分節のシステムであることは分かりました。

     そして、「語の表わす意味」ということからは「意味は語によって表される」

     と理解できます。

     しかし、語になる前の段階での意味は無いのか、それともイマジナルな何かで

     あると考えてもいいのか・・・・

 

 

p068

 

つまり、人間意識の意味生産的想像力(ヴェーダーンタ哲学者、シャンカラのいわゆる

幻力、自然的事物・事象を蜃気楼のように現出させる幻想能力)の織り出す、半ば透明、

半ば不透明なベールが、我々と「自然」の間を隔てている、しかも我々は、通常、

それに気づいていない、ということである。

 

・・・客観的対象は、実は、意識の「根深い幻想」機能に由来する意味形象の実体化

すぎない、ということでもある。

 

・・・原初的不分節(未分節)の存在を様々の単位に分節し、それらを人間的経験の

いろいろな次元において整合し、そこに、一つの多層的意味構造を作り出すのである。

 

==>> ここでも、あちこちに「意味」という言葉が出てきています。

     「意味生産的想像力」はいわゆるイマジナルな想像力ともとれます。

     「客観的対象は、意味形象の実体化」とか「意味構造を作り出す」とか

     いうものは、なんらかの形や構造を持っているものであると示唆している

     ようにも見えます。

 

p078

 

万物は、元来、互いに存在論的に斉しい。 ということは、万物相互の間に、本来は、

何の区分けもない、ということ。 それなのに我々の現実的体験としては、万物が

互いに、はっきり区分けされている。 コトバの幻力、つまり意味形象喚起能力が、

虚構の「本質」を作り出すからだ、と荘子は考える。

 

 

p081

 

ナーガールジュナは、いま我々が問題にしている言語「妄念」論を、ほとんど存在論

的ニヒリズムすれすれのところまで論理的に追い詰めた人である。 彼の哲学の

キー・ターム「空(性)」は、経験世界における一切の事物・事象が、コトバの意味に

よって我々の意識内に喚起される仮象、仮名であって、本当は「空」であること、

すなわち「無自性」(=無本質)であること、を意味する。

 

==>> 「コトバの幻力、つまり意味形象喚起能力」ということは、やはり、コトバが

     意味の形を産み出すということなのでしょうか。

     それとも、「コトバの意味によって我々の意識内に喚起される仮象、仮名」と

     述べているということは、意味がコトバよりも前にあるのでしょうか。

 

 

p083

 

ナーガールジュナによれば、我々が、普通、外界に実在するものと考えている現象的

事物は、第一義的には、ことごとく「名」、すなわち語の意味が実体化されて現われて

いるものにすぎない。 それを彼は、「妄想分別」の所産という。

 

==>> ここでは、「名」=語の意味が実体化されて現われたもの、という書き方

     ですから、名の前に意味があると言えそうですが、名=コトバと考えても

     いいのでしょうか。

     そうであれば、意味はコトバよりも前に存在していると理解できます

 

 

p088

 

日常経験においてすら、何かが実在はしていないけれど、そうかといってそれが

全くないわけでもないというような場合が多々あることを、我々は知っている。

意味生成の過程においても、何かが、まだこれこれのものとしては実在していないが、

いままさに「名」を得て、存在世界に入ろうとしているという場合が、しばしば

あるのだ。そして事実、我々の心の下意識的領域は、この種の、有と無のあいだを

彷徨している「意味可能体」で満ちている

 

・・・まだ名づけられていないままに、「名」の世界に出現してこようとしている。

 

==>> はい、これですね、私がどんなものなのかと探している「意味」は。

     「有と無のあいだを彷徨している「意味可能体」」が「意味」だと言って

     いいのでしょうか。 でも、可能体とされていますから意味そのものでは

     ないってことでしょうね。

     じゃあ、意味可能体はどんな姿かたちをしているんでしょう。

     いわゆる心の中に浮かんでいるなんらかのもやもやっとしたイメージの

     ようなものでしょうか。

 

 

p091

 

およそ人間の経験は、いかなるものであれーー言語的行為であろうと、非言語的行為

であろうと、・・・・――必ず意識の深みに影を落として消えていく。

 

・・・内的、外的に人が経験したことがあとに残していくすべての痕跡が、アラヤ識を、

いわゆるカルマの集積の場所となす。 そしてカルマ痕跡は、その場で直ちに、あるいは

時をかけて次第に、意味の「種子」に変る。 この段階におけるアラヤ識を、特に

「言語アラヤ識」と、私は予備隊のである。

 

ともあれ、言語アラヤ識は、こうして、人間の心的・身体的行為のすべてのカルマ痕跡

を、意味イマージュ化した「種子」の形で蓄積する下意識領域として構想される。

 

p092

 

ところで、カルマが意味「種子」に変成する過程を、唯識哲学は「薫習」という述語に

よって、すこぶる特徴ある形で説明する。 ・・・・行為が人の心の無意識の深みに

そっと残していく印象を、そこはかとない移り香に譬えるのだ。

 

==>> この部分は、私が求める「意味とは何か」というテーマに、かなり接近して

     答えを示唆してくれています。

     もちろん、これが科学的な説だとは思いませんが、もしかしたら、

     このような唯識・アラヤ識の説が、いずれ神経科学や脳科学で裏付けされる

     時が来るのかもしれません。

     (そうなったら、それこそびっくりですが・・・)

     ところで、「意味イマージュ」は意味のイメージという理解でいいのでしょうか。

 

p093

 

人間の経験の一片一片は、必ず心の奥に意味の匂いを残さないではいない。 意識深層

に薫きこめられた匂いは、「意味可能体」を生む。 その一つ一つを「種子」と呼ぶのだ。

 

こうして生まれた「種子」は、潜在的意味の形で言語アラヤ識の中に貯えられ、条件が

ととのえば、顕在的意味形象となって意識表層に浮かび上がってくる

 

==>> こういう仕組みが科学的事実かどうはは別として、説明の表現としては

     私にはなかなかイケてる表現なんじゃないかと思えます。

     なぜかと言えば、

     ひとつの事実を語る場合でも、世界には様々な説明の仕方というものがあって、

     どの言語で説明するか、どの分野の用語で説明するか、どんな喩え(メタファー)

     で説明するか、などなど、千差万別だと思うのです。

     それは、お釈迦さまは、相手に応じて話し方を変えたということにも

     表されているのだろうと思います。

     その説明を聞く相手が、理解できないコトバでは、それこそ意味がないわけで、

     相手の「腑に落ちる」内容があってこその「意味」だと思うからです。

     私にE=mc2と言われてもトンチンカンで無意味だという話です。

 

p097

 

異文化の接触とは、根源的には、異なる意味マンダラの接触である

 

・・・刻々に生滅し、不断に遊動する「意味可能体」は、それ自体において既に、

本性的に、かぎりない柔軟性と可塑性とをもっている。 まして、異文化の示す異なる

意味マンダラに直面すれば、鋭敏にそれに反応して、自らの姿を変える。

 

だから、異文化の接触が、もし、文化のアラヤ識的深部において起こるなら、そこに、

意味マンダラの組みかえを通して、文化テクストそのものの織りなおしの機会が生じる

ことはむしろ当然のことでなくてはならない。

 

==>> これはこの章の副題「異文化間対話の可能性をめぐって」への著者の

     解答になっています。

     文化というものが第二次分節であるにしても、第一次分節は生物としての

     分節であって、文化的環境が変化すれば、当然のように、言語アラヤ識は

     それに対応して、意味可能体をどんどん産み出すのでしょうから、

     特に、移住とか国際結婚などにより世代を重ねることによって異文化が

     相互理解されるということになるのでしょう。

 

 

これで、第I部を読み終わりました。

次回は第II部を飛ばし、第III部の「七、 意味分節理論と空海」を読みたいと思います。

 

 

 

==== 次回その3 に続きます ====

 井筒俊彦著「意味の深みへ:東洋哲学の水位」を読む ― 3(完) 人間のコトバは大日如来の真言の世俗的展開形態にすぎない?? 既成の意味に囚われるな!! (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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