大嶋仁著「メタファー思考は科学の母」を読む ― 1; 「意味」とは、事物と事物、概念と概念の間の関係性? 外界は身体感覚と身体行動のメタファー
大嶋仁著「メタファー思考は科学の母」を読む ― 1; 「意味」とは、事物と事物、概念と概念の間の関係性? 外界は身体感覚と身体行動のメタファー
「意味とは何か」を知る上でのヒントになりそうなので、「メタファー」に関する
二冊目の本を読んでいます。
この著者の主張は、下のようなところにありそうですが、なかなかユニークだと思います。
では、早速読んでいきましょう。
=====
p009
人間の思考はまずメタファー(隠喩)によって発達し、そのあと論理による思考へと
移行し、そこから理知の世界が生まれます。 科学はこの理知の賜物です。
しかし、すべての思考の基礎がメタファー的、すなわち文学的思考である以上、この思考
がしっかり育たなければ理知の世界の発展は期待できず、自然科学も十分な発達を見ない
のです。 つまり、自然科学の健全な発達のためにも文学は必要なのです。
==>> これが「はじめに」に書かれているこの本のポイントであるかと思います。
私の興味は、「人間の思考はまずメタファー(隠喩)によって発達し」の部分に
あります。 さて、どういうことなのでしょうか。
p029
単なる感情表現からアップブレードさせたものが歌である。
・・・この「感情起源論」に対して、異論を提出している人もいるのです。
たとえば折口信夫は、日本文学の起源は「のりと」であると言っていますが、・・・彼の
いう「のりと」とは、神からの御託宣のことであって、神に対しての感謝と敬意をこめた
「祝詞」ではないのです。 そうなると、文学は神の言葉から発したものであるということ
になります。
p030
折口の考え方は、・・・・アイヌ人からすると、文学は人間以上のもの、天上の神の声で
あって、人間ただそれを翻訳するだけのものです。
・・・アイヌ神話は、アイヌ研究者の金田一京助が・・・・
アイヌ神謡において歌い手は人間であっても、その人間は神が謳って歌を再現するだけの
役割しか担わされていません。
==>> この辺りを読んでいると、言葉自体がまるで神の言葉でもあるかのような
印象を受けます。 キリスト教の創世記に出てくる「十戒」などの言葉も
もしかしたらこのような意味合いだったのでしょうか。
p032
たとえば、宮沢賢治は「龍と詩人」という物語のなかで、詩というものが「雲と風」から
やってくるのだと言っています。
・・・現代風に言うと「クラウド」・・ということになります。
p033
一方のランボーは、・・・古来、人類には「普遍的知性」というのがあって、それを
詩人たちはかじって詩にしてきたと言っています。 彼にとって、詩人という自我は
決して詩の創造者ではなかった。
詩とは、「普遍的知性」の断片が、それぞれの詩人によって受信され、それぞれの詩人
は受信したものを自らの楽器によって音にしたものだったのです。
==>> ここでいう「クラウド」状態の「普遍的知性」というものは、
過去によんだ「神の物理学」に書かれていたノーベル賞受賞者である湯川秀樹
博士の「素領域理論」と関係する「完全調和の真空」を思い出させます。
保江邦夫著 「神の物理学 甦る素領域理論」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post_65.html
「p17
物理学を離れて形而上学に参入するならば、完全調和のみの真空の状況は
まさに神の世界、あるいは神そのものといってもよい。 今後は特に誤解を生む
可能性の低い場合には基礎理論物理学において「真空」を解明していくときに
それを「神(かみ)」と呼び、また真空が示す様々な性質の幾つかを「神意」や
「愛」あるいは「情緒」などと表すことがある。
p18
そのような表現には抵抗を感じる場合には単に文字どおり「真空の物理学」
と解していただければよいだろう。
以下において構築するのは完全調和のみが存在する真空においていかにして
「空間」が生まれ、その空間のなかに宇宙森羅万象の物理現象が生じて
きたかを統一的に論じることができる、湯川秀樹博士の素領域理論に立脚
した「神の物理学」に他ならない。」
・・・つまり、ここで言う「完全調和の真空」に、「普遍的知性」があって、
そこから「降りてくる」という発想です。
p035
「古事記」における最初の歌は、須佐男之命(スサノヲノミコト)の「八雲立つ出雲
八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を」であり、それはもっと単純な、自らのノイローゼ
を克服し恋愛を成就した男の、ささやかな喜びに満ちた感情表現なのです。
そう考えると、やはり歌の起源は単純な感情表現であったと考えるほうが正しいように
思います。 悲劇の誕生は、日本においても、おそらく古代のギリシャにおいても、単純
な感情表現の終わった時代においてではなかったかと思われます。
==>> おやおや、ここで急展開して、神の声から単なる感情表現だという方向に
きてしまいました。
神の声だという方が、私にとっては面白いんですが・・・・
この日本最古の短歌については、こちらでどうぞ;
https://tankanokoto.com/2018/11/yakumotatu.html
p036
この和歌集が出たことで、日本文学の基本路線が定まったと言えるのです。
では、その基本路線とはなにか。 「古今和歌集」の仮名序を見れば、それがわかります。
p037
同じ序文に、和文と漢文のふたつがあるという事態。 ・・・日本人にとって、外国の文字
であるはずの漢字が「真名」すなわち本物で、みずからつくったカナ文字が「仮名」すなわ
ち仮のものであるという認識。 ・・・・漢文がつねに上位、和文が下位だったのです。
==>> このことは、「令和」という年号を決めた際にも話題になったことでは
ないかと思います。 つまり、「平成」以前の年号は、漢文から取られたもの
ばかりであって、「令和」という文字は初めて日本固有と言ってよい文から
作られたという話です。
そのいきさつについては、こちらに解説があります。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/japans-emperor6/articles/articles_archive_01.html
「「令和」の典拠、いわゆる出典は「万葉集」の梅花の歌、三十二首の序文」
「「平成」までの247の元号すべてが中国の古典を典拠としているとされていた
が、日本の古典から引用されたのは初めて」
p054
「古今和歌集」の編者たちにとって、文明といえば中国、すなわち漢文明にほかならな
かったのですが、漢の詩学には、生あるものすべてに詩があるなどといった考え方は
なかったと思われます。「古今和歌集」の仮名序にはそれが謳われていても、真名序すな
わち漢文の序にはそれが見当たらないということが、それを示しています。
そういえば、仮名序の最初の言葉は「やまとうた」です。
・・・つまり「古今和歌集」とはあくまで漢文学からの独立を目指した歌集であったと
いうことです。
==>> ここでは、「古今和歌集」の詩学は、詩歌は人間だけでなく、動物や植物も
共有しているという「自然詩学」なのだが、それは今でいうならアニミズムの
ような「未開」の社会のものだという意識背景があったと著者は見ている
ようです。 つまり、おそらく、日本の精神基盤が、自然崇拝のような
神道的なところにあったということではないかと思います。
p056
仏教は大陸から日本に入ってきた思想=宗教であるにもかかわらず、その思想が日本化
されると、「山川草木悉皆仏性」といった命題になります。
すなわち、山にも川にも、草木にも、すべて仏性といわれる仏になる潜在能力が備わって
いるというのです。・・・専門家によれば、日本以外の仏教国では見当たらないとのこと。
==>> つまり、文明国・中国から入ってきたはずの仏教までが、日本化されて
自然詩学の元になっているという話のようです。
p058
文学の起源は生物の感情表現にあるという観点からすると、脳科学者のなかでは
ダマシオの言っていることが最もしっくりきます。
「・・・自分が生きているということを意識できてはいない。 彼らは存在はして
いるが、意識はしていない状態なのだ。 ・・・では、意識はいつ始まるのか。
脳が言葉を持たないまでも、物語を生み出す能力を持ったときに始まると言うべき
だろう。 どんな物語か? 自分の身体のなかには生命があって、それがたえず活動
しているという感じがその物語である。
・・・その物語は、言葉によらなくても可能である。 普遍的な身体信号によって
語られるからだ。・・・」
p060
こうした彼の考えを推し進めれば、文学が「感情」表現であることからして、脳が
ある程度発達した生物には「文学」があるということになります。
==>> これは話が実に哲学的な感じになってしまっていますが、
脳科学者の中にもこのような考え方をする人がいるんですね。
無意識の中にも文学があるということになると、人間に限定して言えば、
私のような凡人にも文学はあるんだけれど、それが言葉として意識されない
状態に置かれたままになっているということでしょうか。
そして、そのような脳の中で発生している文学を、神憑り的に言葉と
して表現できる人達が文学者であるということなんでしょうか。
p065
この点についていち早く気づいたのは、18世紀の思想家ジャン=ジャック・ルソーです。
彼はその「言語起源論」において、人類の言語はもともと歌であり、歌から言語が生まれた
と言ったのです。
「言語はどこから生まれたのか? 心の欲求から、情念から生まれ出たと言うべきだろう。
情念は、それがどんなものであれ、人から人を引き離す生存の欲求とは違って、人と人
を結び付ける。 人間が最初に声を発したのは、空腹だからではなく、喉が渇いたからでも
なく、愛し、憎み、憐れみ、怒るからである。・・・・・」
==>> このような考え方をにわかにそうだと頷くことはできませんが、
私がアフリカで一年間日本語を教えていた時に、現地のテレビ放送が
多くの時間を踊りや歌の放送に時間を費やし、公務員の人たちが
職務中にでもそれを熱心に見ていることに驚いたことがあります。
それが何故なのかを尋ねたところ、それらの踊りや歌に政治的な
メッセージが含まれているからだとのことでした。
もしかしたら、日本においても、昔は、正式文書みたいなものではなく、
さまざまな歌や踊りの中に、政治社会的な物事を表現していたのかも
しれません。
p066
つまり、歌が最初の言葉だったということであり、・・・・「感情」表現のほうが
「意味」の伝達より先だという前提を受け入れさえすれば、納得のいくものとなる
でしょう。
・・・岡ノ谷一夫などが・・・・
・・・・人間の言語のもとは鳥のさえずりだという説を唱えています(「鳥のさえずり
言語起源論)」。 ・・・・その主要目的は個体の欲求を「感情」表現にまで高めて
他の個体に伝えることにある、というのです。
==>> これは例のジュウシマツの言語の研究に関するもののようです。
「ジュウシマツの歌には「文法」がある―これが転機をもたらす大発見だった。
進化的な起源の異なる小鳥の歌が、言語進化の謎に迫るカギとなるのはなぜ
なのか。初版刊行から7年半、性淘汰起源説に相互分節化仮説が加わった。
「言語の起源は求愛の歌だった」とする進化のシナリオを、苦労と喜びと興奮が
満載の研究者人生とともに描く。」
・・・ジュウシマツに人間のような意識があるのかどうか知りませんが、
意識というものを前提にしなければ感情表現なんてことが出来るのか
という疑問は出て来ます。
ここで気になるのは「「感情」表現のほうが「意味」の伝達より先だ」という
ところです。 感情表現には意味はないということなのでしょうか。
p072
「古池や蛙飛び込む水の音」
「古池や」の句は、実はメタファーだらけです。
まず「古池や」とありますが、これが何のメタファーかは、それと対比されるもの、
すなわち「蛙」を見なくてはわかりません。
この二つを並べると、一方が静なるもの、大きな面、悠久を暗示しているのに対し、
他方が動くもの、小さな点、一瞬を暗示しているとわかります。
・・・では、句全体はというと、「蛙飛び込む水の音」ですから、「古池」と「蛙」という
二つの極が「飛び込む」ことで一つになる様が示されています。
p073
エデルマンは・・・・人間の脳は言語を覚える前から思考をしており、その思考は
「メタファー」の駆使によるものだというのです。
・・・メタファー思考が発達しなければ、いくら言語を習得しても、人間の思考能力は
伸びないというのが彼の主張です。
おそらくほかの脳科学者も、多かれ少なかれそう思っているのではないでしょうか。
==>> ほお~~、「古池や」にそんな解釈があったんですねえ。
インターネットで、この句の解釈をいくつか読んでみましたが、このように
明確に古池と蛙を対比させた解釈は見つかりませんでした。
その中で、こちらのwikipediaに紹介されている解釈のひとつは、
やや近い解釈かもしれません。
「大輪靖宏の『なぜ芭蕉は至高の俳人なのか』(2014年)によると、古池は
古井戸の用法の如く、忘れ去られた池であり、死の世界であるはずである。
「蛙飛び込む水の音」は生の営みであり、動きがある。蛙を出しておきながら、
声を出していない。音は優雅の世界ではない。ここでは優雅でなく、わび、さび
の世界である。古池という死の世界になりかねないものに、蛙を飛びこませる
ことによって生命を吹き込んだのである。それでこそ、わび、さびが生じた、
と述べている。」
そして、もうひとつ気になるのは、「ほかの脳科学者も、多かれ少なかれそう
思っている」と言っている点です。
脳科学の方法がどの程度実証的なのか知りませんが、多くの脳科学者が
そう思っているということの根拠がどのような説に基づいているのかを
知りたいところです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B3%E7%A7%91%E5%AD%A6
「脳科学とは、ヒトを含む動物の脳と、それが生み出す機能について研究する
学問分野である。対象とする脳機能としては視覚認知、聴覚認知など感覚入力の
処理に関するもの、記憶、学習、予測、思考、言語、問題解決など高次認知機能
と呼ばれるもの、情動に関するものなどである。」
p081
メタファー思考とは、・・・・さまざまな事物を一定のカテゴリーの中に入れるだけでなく、
事物と事物のあいだに、カテゴリーとカテゴリーとのあいだに、つねに関係を見出そうと
するものです。 これによって、世界のすべてに「意味」あるいは「価値」が与えられる
のです。
==>> この文章は「意味とは何か」が知りたい私にとっては、かなりインパクトのある
部分のような気がします。
「意味」とは、事物と事物、概念と概念の間の関係性によって生まれるという
話でしょうか。
そうであれば、仏教でいうところの「相依り」が頭に浮かびます。
相互作用によって何かが生まれるという関係です。
p082
ターナーの主張は、科学的認識の根底にも文学があるというものです。 彼によれば、
人間の認知はことごとくメタファーによっているのです。 「未開人」も「文明人」も
関係なく、すべての人間がそうだというのです。 ・・・・人間は身体を用いて行動し
ながら世界の事物を認知していく。 その際、自身の身体の動きを、知らずに事物に
当てはめているというのです。 そうなると、外界は身体感覚と身体行動のメタファー、
ということになります。
・・・私たちが「電車は走る」と言うのは、電車の動きを自身の身体運動に無意識に
たとえている、あるいは投影しているからです。 この投影こそ、メタファー思考の
あらわれなのです。
==>> ここは、いろいろと例をあげてみないと何とも鵜のみにはできません。
例えば、「入学試験でギリギリ駆け込んで合格できた」などもそのひとつと
言えるでしょうか。
「意味の意味」が知りたくて、私は今や泥沼にハマってしまいました。
・・・という表現もメタファーですね。
p088
アメリカの言語学者エドワード・サピアとベンジャミン・ウォーフの理論があります。
彼らの主張した「言語構造が世界観の構造を規定する」という説が絶対に正しいかどうか
はわからないにしても、言語構造がその言語を使用する人の思考構造に与える影響は
決して無視できないと思われます。
たとえば、あるアメリカ映画で、ある人物が “I like him.” と言ったとします。
それを日本語版字幕で「あの人、いい人だね」と訳したとします。
この訳は国語学者の金田一春彦によれば「名訳」だそうですが、なるほど日本語の文脈に
ぴたりと当てはまるのです。
p089
身体感覚の言語表現においても日本語と英語では大きく異なります。
たとえば、日本語では「頭が痛い」「腹が減った」は普通の表現ですが、それの英語版は
“I have a headache.” “I am hungry.” となり、必ず主語の I が先頭に出てきます。
これすなわち、欧米人が自身の身体を「私」という主体によって統括されるものとして
捉えているのに対し、日本人は自身の身体の各部位をも、それぞれ独自性のある主体と
して捉えているということになります。
・・・翻訳で伝わるものはごく一部であって、その根底にある文化的差異までが伝わる
わけではないのです。
==>> この部分は、私はほぼ100%賛成します。
もちろん、ここに出て来た短い文の意味はちゃんと伝わると思いますが、
映画の字幕翻訳の巧みさには恐れ入ります。
いわゆる文脈がきちんとつかめていない場合には、短い文であっても
意味がうまく伝わらないことは多々あるのだろうと思います。
p103
ところで、アメリカのフォーク・ソングが入る前に日本人が愛唱したのは、実はロシア民謡
です。 ロシアの存在は、明治以降、日本に最も深く入り込んだ文学がロシア文学で
あったことを考えるだけでも、日本にとってきわめて重要なのですが、そのことが今日
忘れられているのはまことに遺憾です。
p104
そのロシアの民謡と言われる歌には、・・・・例えば、ロシア人なら誰でも知っていると
いう「鶴」という歌は、作詞者が広島の原爆記念館を訪れ、千羽鶴の折り紙を見たことが
きっかけでつくられた、戦死者を悼む歌です。
==>> 著者はこのあたりで、いわば正統な文学に対して、サブ・カルチャーを
学校でも教えろという運動があるけれども、それにはやや疑念をもっている
ようです。 ロシア文学はドストエフスキーやトルストイなどが日本の文学者
の多くに影響を与えたようですし、ロシア民謡については、私が18歳で上京
した頃には、新宿などの繁華街にいわゆる歌声喫茶というものがまだ残って
いて、そこでロシア民謡をアコーディオンの音にあわせてお客全員で歌った
ものです。
さて、これで第一章「歌はいのちの力」を読み終わりました。
次回は第二章「物語は生のメタファー」に入ります。
===== 次回その2 に続きます =====
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