大嶋仁著「メタファー思考は科学の母」を読む ― 2(完); 物語づくりが意味をもたらす、 精神分析で物語をつくる

大嶋仁著「メタファー思考は科学の母」を読む ― 2(完); 物語づくりが意味をもたらす、 精神分析で物語をつくる

 

 

大嶋仁著「メタファー思考は科学の母」

「第二章 物語は生のメタファー」に入ります。

 

 

p110

 

日本でも「古事記」の神話を見ますと、天の神が地上に降りて大和の国をつくったという

ことになっていますが、実際には、侵略があったり、移動があったり、最終的に支配者

が登場して、国がつくられたということだったでしょう。

 

p111

 

人間は、どうあっても事実の世界には満足できない、あるいは事実を受け入れることが

苦手な生き物のようです。

 

英語では神話のことを”myth” と言いますが、・・・この言葉の意味は「つくり話」「物語」

といったものですが、・・・・「嘘」という意味も含まれています。 つまり、「作り話」

と「嘘」は非常に近いのです。

 

==>> 古事記を原文でよめるわけもないので、入門書みたいなのでいくつか

     読んだことはあるのですが、今回は、こちらのyoutubeで、ちょっと長いの

     ですが、受験生になった感じで、サクッと眺めてみたいと思います。

     https://www.youtube.com/watch?v=n8PsdZZ44aI&t=3s

 

p115

 

ここでベルクソンが行っているのは、人間には生来「つくり話能力」というものが備わって

いて、それが文学のもとにもなっているけれども、その恩恵を最も受けているのは宗教だ

ということです。 つまり、宗教を「つくり話」だと言っているわけで、一見すると

宗教批判にもとれますが、彼の真意はそこにはありません。 そもそも、「つくり話」を

否定しているわけでもないのです。

 

・・・つまり、「つくり話能力」は、人間の異常に発達した知性から自らを守る手段だ

というわけです。

 

p119

 

デヴィッド・ルビンとダニエル・グリンバーグは「記憶」における「物語づくり」の

役割を研究し、人間の記憶は物語によって成立っており、物語とは雑多な経験を整理し、

それを記憶しやすい形にしたものだと言っています。 ・・・人間は経験を物語化しなく

ては、それを記憶できないのでしょう。 歴史の学習で丸暗記ということを言いますが、

それは人間の本性に逆行する、無意味な努力ということになります。

 

「人間は個々ばらばらの文を集め、それらを一定の構造に当てはめ、ひとつの物語を

作能力を持っている。」

 

==>> これは確かにそのようだと腑に落ちます。 特に、私の場合は、記憶という

     のはエピソード記憶じゃないと保存されないように思います。

     それも、ほとんどが恥ずかしいエピソードなので困ったものです。

 

p121

 

「物語論理の構築力というものは、少なくとも脳科学的に検証できる範囲において

ですが、この働きを阻止することは非常に難しいということがわかっています。

脳のさまざまな部分に損傷があっても、この能力がはたらかなくなるということは

ほとんどないのです。」

 

すなわち、どんなに脳が損傷していても、この「物語論理」の構築力ばかりは不落城と

いうわけです。 逆にいえば、この能力がないと、人間は生き延びられないということで、

失語症の患者においても、この能力ばかりは機能しつづけているのだそうです。

 

==>> これはにわかには信じられないことですね。

     これが本当だとすれば、確かに物語づくりが記憶と同時になんらかの意味を

     もたらす役割をもっていることになるのかもしれません。

     脳科学的にどのように検証されたのかが知りたいところです。

 

 

p122

 

ルビンやグリンバーグが言っている物語は、人間が世界を把握するときに必然的に生み

出す物語であって、すなわち人間の世界認識、およびその記憶に密接するものです。

一方、ベルクソンやファイマンが考えた物語は、現実の物語とは異なる「嘘」の物語

すなわちフィクションであって、これによって自らの命を危険から救おうとするもの

なのです。

 

==>>  この二つのタイプがあるとすれば、前者は現実の生活の中での記憶であって、

      後者は夢の中の物語のような感じがします。

      夢の中のストーリーは、はちゃめちゃなストーリーだし、誰だか知らない

      ような人物たちが次々に出てきますし・・・・

      しかし、いずれの理由にしても、これらが生得的なものだとするならば、

      人類が生まれながらにもっている生物学的な能力だと考えるべきなの

      でしょうね。

 

p123

 

現代の「認知科学者」のひとりマーク・ターナーは、「文学的な心」という本において・・・

・・・人間の認知活動はそのままで物語づくりとなっており、すなわちこれは文学に

ほかならないから、人間精神ははじめから文学的なのだ、と。

 

・・・ターナーは脳科学を経ずに同じような結論に達したのです。

 

p125

 

別の言い方をすれば、私たちは「電車が走る」というふうに、無生物である機械を

生命体としてとらえ、一種の擬人化を無意識に行なっているということです。

そのような擬人化は「メタファー」にほかならず、ターナー式にいえば、私たちは

「文学」をしているのです。

 

それはアニミズムじゃないのか、そのように言う人がいるでしょう。 そのとおりです。

ターナーは、アニミズムこそが文学であると考え、人間はすべてアニミストだと言って

いるのです。

 

ウォルト・ディズニーの記録映画「砂漠は生きている」はアニミズム全開の映画ですが、

これが子どもたちを引き付けたのも、子どもたちが大人よりも自らのアニミズムを

抑圧していないからです。 私たちは、それと知らずに万物に霊魂を吹き込んでいる

のです。

 

==>> 今で言うなら、ディズニーよりも宮崎駿監督のアニメでしょうか。

     そのアニメが世界中で人気を集めているということは、世界の一神教にも

     かかわらず、アニミズムが広く受け入れられているということにもなりそう

     です。 アニミズムの方が一神教よりも、物語としては原始的で素直な子ども

     たちに受け入れられ易いのでしょう。

 

 

p128

 

言語習得以前の思考とは具体的にどういうものかといえば、エデルマンはこれを

「メタファー思考」と呼び、物事と物事のイメージの関連性を追求し、世界全体をひとつ

のシステムとして把握しようとするパターン化のことだと言っています。

 

「論理よりもっと力があるのは選別だと結論できよう。 自然にして身体的な選別行為

こそが言語を生み出し、メタファーを生み出したのである。 事物をパターン化してとらえ、

メタファーを使って考えるとき、論理はいらない。 選別行為こそが必要である。

 

p129

 

ここで彼が強調しているのは、メタファー思考が論理思考にまさるものだということで、

多くの人が言語を習得してから発達する「論理思考」を重視する今日、・・・メタファー

思考の重要性を強調しているのです。

 

==>> 「物事と物事のイメージの関連性」こそが「意味」であるというような説は

     その1でも出て来ました。

     論理思考というと非常に抽象的な響きがあるので分かりにくいのですが、

     イメージをもとにその関係性で思考するというのは具体性があって

     考えやすいような気がします。

 

 

p142

 

たとえば「アイヌ神謡」に見られる神話は、これを人間と自然の関係についての神話として

理解することができ、そこになんら政治的なメッセージを読み取ることはできません。

しかし、「古事記」の神話となると、全体として見れば天皇家の起源神話であると見ること

ができ、それは政治的なメッセージをもつものなのです。

 

==>> 最近流行りのDNA解析などからは、アイヌと琉球が縄文人に近く、

     日本本土のヤマトは渡来系の人々であるというのがほぼ定説であるようです。

     もしそうだとするならば、縄文人の中にこそ自然密着のアニミズムがあったと

     考えた方がいいのかもしれません。 ということは、日本の古代の神道は

     その縄文人からの精神性が残っているということができるのでしょうか。

 

 


p154

 

精神分析の治療は患者が自らの体験を言葉にしていくことに終始します

分析者は患者の語ることをていねいに聞いて、ときどき質問をし、患者の話がまとまった

物語になっていくよう助けるのです。 すなわち、一人の人間の、内面の物語を再構築

する作業を助けるというわけです。

 

・・・内面の物語が出来上がらず、断片ばかりがごちゃごちゃ散在しつづけると、精神

全体がうまくはたらかなくなり、まとまった人格が構築できなくなるのです。

 

==>> p128の「言語習得以前の思考」というものと、ここでの「断片ばかりが」

     というところで、思い出したのが、こちらの記憶喪失をした人の

     物語です。

 

     坪倉優介著「記憶喪失になったぼくが見た世界」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/09/post-51fabb.html

     「p18

なにかが、ぼくをひっぱった。おされてやわらかい物にすわらされる。ばたん、

ばたんと音がする。とつぜん動きだした。外に見える物は、どんどんすがたや

形をかえていく。

(これは、誰かに引っ張られて、自動車の中の椅子に座らされ、ドアが閉まり、

走り出す様子です。誰かに、ではなく、なにかが引っ張ったとかいてあります。)

 

     p22

人間はかってに動いて、かってに話しかけてくる。それを目のまえでされたら、

なにをするのもこわくなる。これはなんだ。 こちこち音がするのはなぜだ。

形もゆっくりだけどかわっていく。・・とつぜんすごい音がして、手の中でびり

びりゆれた。・・・人間が作ったものなのか。

(自分自身が人間であるということを、まだ自覚できて いないように思え

ます。 そして、時計を手にして、「これはなんだ」と観察をしています。)

 

     p39

まっくらの中にいる。 ずいぶんと歩いてきたなあ。でもここはすごく落ちつい

ていられる。 音もなにもしないから。・・・大きな木や草が、まっくらの中で、

ざわざわざわとしている。その音をきいていると、どこにも行きたくない

ここにあるみんなと友だちになりたい。ぼくもこういうところにいられる物

なれたらよかったのに。

(静かで、人間もいなくて、話しかけられることもない場所。 石や木や草だけ

が、風に吹かれてざわざわとしている。 そういうモノと友達になりたいという

気持ち。 つまりは、人間との間で、意味を求めて話をすることの煩わしさから

逃れたいということでしょうか。 それは、もしかしたら、概念化し、抽象化し、

言葉にするということの煩わしさなのかもしれません。そういう意味で言う

ならば、言葉をもっていない動物たちの世界に通じるのかもしれません。)」

 

     ・・・この人の体験談は、まさに五感から入ってくるさまざまな情報を

     言葉以前の段階で処理しきれずにいる状態かと思われます。

     そして、そこに現れる諸々のイメージについても意味としてまとめることも

     できずに、なんらかの物語を自然に作ろうとしている努力のように見ること

     もできそうです。

 

 

p187

 

小林秀雄が「歴史は神話である」と言いましたが、・・・・・歴史を神話であると彼らが

主張したのは、歴史が他の物語とちがって多くの人に「真実」であると信じられている

ことへの抵抗を示したかったからです。 世の中には、歴史にかぎらず毎日のニュースを

そのまま信じている人がいますが、ニュースもまた物語であり、そうであるからには、

その物語をつくる人がいるということを忘れてはなりません。

 

==>> 小林秀雄のさまざまな評論については、私が二十歳の頃に何冊かを読み、

     多くの「考えるヒント」をもらったものです。

     私が懐疑主義的になった理由はそこにあるのかもしれません。

     「歴史は神話である」というのは、もちろん昔から「歴史は勝者によって作ら

れる」というのが常識みたいになっていますので、それはそうだろうと

思うのですが、少なくともアカデミックな研究をしている人たちのレベルに

おいては、さまざまな視点からの研究と本の出版が行なわれることが

重要であろうと思います。

しかし、なんでもありの歴史ではなく、それなりに一次資料で検証された

歴史であることを期待したいものです。

 

 

 

p212

 

この悲劇を記憶にとどめよう、その記憶を後代に伝えよう、そういう思いがこの

「嘉義丸のうた」になっているのです。

 

この歌が作られたのは、1943年か44年でしょう。 これが流布しなかったというのも、

当時の日本では自国民が敵軍にやられるような「暗い」ニュースは、国民の戦意をにぶら

せるとみなされたからにちがいありません。 長崎に原子爆弾が投下されたときの朝日新

聞に「長崎に新型爆弾投下さる、被害僅少」と書かれるような時代でしたから、この歌が

放送禁止・発売禁止となったとしても驚くことはないでしょう。

 

・・・戦後日本は、しばらくアメリカの支配下にあったため、アメリカの魚雷で嘉義丸

が沈んだというような歌は、反米感情をあおるものとみなされ、ずっと知らされずに

いたのです。

 

==>> これは歴史は神話であるということの一例なわけですね。

     その時その時の政治体制の中で、不都合なものは消されていくという話です。

 

     では、せっかくですから、この歌を聴いてみましょう。

     嘉義丸のうた (習作) The song of Kagimaru

     https://www.youtube.com/watch?v=RFUp7BAwPOg&t=3s

     

 

p215

 

物語がいかに人間にとって大事かということを述べてきました。

小説の形であれ、物語歌の形であれ、自分あるいは自分たちに起こった出来事を、とくに

心に深い傷をのこしたような出来事を物語るということが、いかに人間にとって大きな

意味を持つかを、いろいろな例を通じて示そうと思ったのです。

 

・・・どうやら、沖縄や奄美をのぞいて、日本全国でそうした「トラウマ」の記憶の

文学的営為が見られないというのが、私の辿り着いた結論です。

 

==>> この本の最後を締めるに当たって、著者は、精神分析の意味を語りながら、

     そこに自分自身の物語を語ることの大切さを示しています。

     そして、そのことは、ただ単に個人のことだけではなく、日本国民にとっても

     文学的な創作活動の中で行われるべきなのではないかと主張しているようです。

     

 

私は、この本を「意味とは何か」という興味から読みましたので、文学に関する部分に

ついては抜き書きとしてはほとんど取り上げませんでしたが、いくつもの示唆的な記述

がありました。

 

そして、自分を振り返って、自分の物語というものがあったのだろうかという思いを

抱いています。 歳を取ると自分史なるものを出版する人たちもいますが、私の場合は、

自分史を書くほどの内容もなく、その前提となる記憶もほとんどないので、精神分析的

なアプロ―チはできそうにもありません。

その代わりと言ってはなんですが、過去に私が滞在したフィリピン・バギオ市と

西アフリカのベナン共和国については、紀行文のようなものを書いて自費出版した

ので、それで良しとします。

 

私がこの世界に存在していることをどう考えているかと言えば、

なんらかの宇宙の力が、この宇宙あるいは世界に私用ののぞき穴をくれたもの

考えています。 

いつそのような考えを持つようになったかといえば、新聞配達をしていた二年間の

時で、重い雨合羽を着こんで、雨や雪の中を自転車で走りながら、雨合羽の中から

外界を覗き込むような感じで外からの音を遮断されたような環境があったからかと

思います。

 

ですから、私は生まれた時から、あるいは、私の意識や記憶が始まった時から、

私という覗き穴の唯一の所有者として、この宇宙・世界を私の五感を使って

覗いて、体験してきたという感じです。

そして、それは、幸運にもなかなか良いものだったと振り返っています。

 

今後とも、その覗き穴からみえる世界が、幸せなものであることを望むばかりです。

 

 


 

===== 完 =====

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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