スキナー/デネット/リベット著「自由意志」を読む ― 2 : 志向的で合理的な行為者が、意図をもち信念を持たなければ世界観は持てないのか?
スキナー/デネット/リベット著「自由意志」を読む ― 2 : 志向的で合理的な行為者が、意図をもち信念を持たなければ世界観は持てないのか?
「人であることと自由意志 ― ダニエル・C・デネット」に入ります。
p080
両立論者は、その名のとおり、決定論と自由が何らかの形で両立すると考える。
そのさい多くの場合「自由」の概念の再考と改訂がなされる。 たとえば、先行する
何らかの出来事に意志や行為がひき起こされていたとしても、それが適切な原因による
ものならば、とりわけ外部からの制限や介入なくひき起こされたものであるならば、
その意志や行為は「自由」だといえる、といった再定義である。
・・・以上は「両立論」の一般的なスケッチであり、自由と決定論の対立の克服が
そこではもくろまれている。
「ブレインストームズ」は、デネットの実質的なデビュー著作であり・・・
・・・心の哲学を中心に、認知科学、心理学、コンピュータサイエンスといった諸領域、
AIや意識、言語、道徳といった諸テーマに関連する哲学的問題を広く論じた論稿の
集合体である。
==>> この著者のデネットさんについては、こちらでチェック。
「ダニエル・クレメント・デネット3世は、アメリカ合衆国の哲学者、著述家、
認知科学者である。心の哲学、科学哲学、生物学の哲学などが専門であり、その
中でも特に進化生物学・認知科学と交差する領域を研究している。」
「自由意志について、デネットは両立主義者だが、1978年の著書『Brainstorms』
の第15章「On Giving Libertarians What They Say
They Want」では、リバタリ
アン主義者の見解と対立する、意思決定の二段階モデルを支持する議論を
行っている。」
・・・つまりこの本では、「両立論」が展開されるようです。
p083
決定論と自由との両立可能性について「ブレインストームズ」では、異種的な説明のあいだ
の両立可能性が強調されている。 決定論を含みうる機械論的な説明と、自由や責任の
概念が本質的に関わる志向的な説明との共存可能性である。
==>> さて、ここまではデネットの著作に関する 柏端さんと青山さんのイントロの
部分なんですが、これを読んだだけで、かなり広い分野のさまざまな考え方
が展開していそうだなという感じがします。難しそう・・・・
p087
志向的説明とは、人間の動作の生起を説明するに当たって、化学反応、爆発、電気イン
パルスではなく、思考、欲求、信念、意図を持ち出す説明である。(任意の)志向的説明
が最終的には因果的な説明にすぎないのか否かに関してよく知られた論争があるーー
・・・より穏健な論点にとどまることにする。
その論点とは、志向的説明は、すくなくとも、何ら留保なく無条件に因果的な説明で
あるわけではないというものである。
==>> 「志向的」という言葉にひっかかってしまいました。
私の読書テーマのひとつが「人間に志向性があるのはなぜか」であるからです。
私の場合の志向性の意味は「なぜ私はXXが好きなんだろう」とか「なぜ
あの人は3歳ごろからXXに興味を惹かれてその道の天才的なプロに
なったんだろう」というようなことなんです。
そのような意味合いと、ここで語られている思考、欲求、信念、意図などと
いうものが同じなのかどうかは今のところ分かりません。
p094
志向的スタンスの成功は、当然ながら、問題の対象が本当に信念や意図・・・等々をもって
いるかどうかということに言及することなく、プラグマティックに決定される事柄である。
意識をもつ、あるいは、思考や欲求をもつコンピュータというものがありうるかどうかに
かかわらず、あるコンピュータが志向的システムであることは否定できない。 というのは、
それらのコンピュータは、それらに対して志向的スタンスをとることによって、ふるまいを
予測する、そして最も効果的に予測することができるシステムだからである。
==>> ここでは、志向的スタンスというもので志向的システム、つまり人間、を観察
することの有効性を述べているように思います。 自信はありませんが・・・
ただし、志向的スタンスというものがどういうスタンスなのかが、わかり
ません。
ただし、この後に、「広く寛大に合理性を前提することは、コンピュータに
関してだけでなく、人びとの場合に関しても、志向的スタンスの顕著な特徴
である」「まずは彼らが合理的であることを前提とする」などの記述が
ありますので、ある観察範囲を大雑把に決めているスタンスのことを
言っているのかなと思います。
p108
マッキンタイアの主張に含まれる一抹の真理とは、機械論的に説明することが可能な
――説明がどれだけ長くなるとしても可能なーー任意のシステムが、拡張された意味
において屈動性のシステムでしかありえない、ということである。
そして、このことは、機械論的な説明と志向的な説明が共存しえないという錯覚を
強める可能性がある。 とはいえ、人間は最終的には機械論的な有機体であるという
一般的なテーゼから引き出しうる唯一の含意は、人間はありとあらゆる偶発的な事態に
対して合理的に反応することが確実となるように設計されることはありえないという意味
において、不完全に合理的であるほかない、ということである。
そしてそれはとくに直観に反する驚くべき発見でもないだろう。
==>> 屈動性はtropismという英語からの翻訳であろうと思われますが、
そのtropismの意味は「【生物】 向性,屈動性 《刺激の方向に曲がる性質》」
と書かれています。
おそらく、「屈動性のシステム」とはある刺激に対して反応するようなシステム
ということでしょう。そして、人間は「不完全に合理的な」システムだろうと
位置づけているようです。
p110
われわれが責任を負う事物とそうでない事物を分かつ分水嶺を求める探求は、通常、
この論文において、志向的なものと機械的なものとのあいだに引かれた区別と大まかに
一致する定式化に行きついて終わる。
・・・われわれが責任を負うのは、まさにちょうどわれわれの志向的な行為であるような
出来事(ならびにそれらの出来事からの予見可能な結果)だと主張してきた。
・・・この点に基づいて、たとえば精神障害のせいで、合理的な議論によって説得が
できず、コミュニケーションもとれない人々は、無罪とされる。
==>> ここでは志向的なものと機械的なものという区別がされていまして、
志向的なものというのが、意識的・意志的なものであるようなものとして
定義されているようです。
そして、例えば精神障害のような場合は、その行為に責任はないという話に
なっています。
私がここでもちょっと違和感を感じているのは、「志向的」の定義です。
志向的というのが意識的・意志的であるという点が私にはすんなり入って
こないのです。 志向的というのも機械的なんじゃないかという気がする
からです。
そして、その意味で「志向性とは何か」というのが私の読書テーマの
ひとつでもあるからです。
ちなみに、辞書でその意味をみると、
「意識が一定の対象に向かうこと。考えや気持ちがある方向を目指すこと。指向。
「高い―をもつ」「音楽家を―する」「上昇―」」とされています。
・・・考えや気持ちがある方向を目指すと書いてありますから、これは
意志的ではなく機械的な動きなんじゃないかと思うわけです。
小さい子どもがある特定のものに異常な興味を持つようなことです。
p112
責任があるかどうかを査定するときに決定的な論点となるのは、先行する入力が情報の
入力として効果をもたらすのか、それとも、回路のショートによって効果をもたらすのか
という点である。
回路のショートや、その他、志向的システムへの干渉の可能性は、操作が行なわれた
ケースにおける責任の程度に関わる一群の興味深い難問をひき起こす。
==>> つまり、コンピュータ的に考えると、設計意図どおりに入力情報が処理される
のか、あるいは、回路のショートで誤作動するのかという話ですね。
そして、「志向的システムへの干渉」という書き方がされているということは、
「機械的システムへの干渉」と言い換えられないのでしょうか。
機械的システムにおける、回路のショートや何らかの干渉の場合に責任が
問えないというのなら分かり易いのですが。
つまり、私の中では志向的=機械的となっているということなんです。
もっとも、意識的・意志的システムというものがあるのかどうか分かりませんが。
p115
正直が最良の策であるという信念を植え付けるとしてみよう。
このとき、はたしてわれわれは、その信念は合理性の外から植え付けられたものであるから
という理由で、これらの人々には責任ある行為者としての社会的身分がないと見なす
だろうか。
合理性の埒外にあるという特徴は、信念の内容に帰属するのではなく、ともかく
何らかの形で、信念が信じられたり獲得されたりする仕方のほうに帰属するように
思われる。
==>> これはなかなか難しい話ですが、ジョージ・オーウェル著の「1984年」を
読むと、「信念の植え付けられ方」が問題だとした場合でも、それを実施する
社会体制・政治体制が法を執行している場合には、いわゆる合理性とは
まったく逆の「責任ある行為者」と判断されるような気がします。
p122
人間に対して向けられる志向的スタンスは、責任帰属の前提条件となるものであるが、
人間の動きに関する機械論的説明と共存するかもしれないのだ。
しかし、この点を裏返して言えば、われわれは原理的には人間の身体の動きに対して
機械的スタンスをとることができるということであるから、・・・・
我々が純粋に機械論的な世界を支持して、志向的スタンスを全面的に放棄する(それに
よって、必然的に、道徳性、行為者、責任といった概念領域に背を向ける)という見込み
はあるだろうか・・・・
==>> 私は、まだまだ機械論の方に偏っていますので、いわば還元論のように
一元論で説明可能なんじゃないかと幻想をもっています。
p123
そもそも信念をもたなければ、いかなる種類の世界観をもつこともできないわけだが、
信念を持つには意図をもつことが必要であり、そして、意図をもつにはすくなくとも
自分自身を志向的に捉え、合理的な行為者と見なすことが必要なのである。
==>> う~~ん、これはなんともコメントのしようがないですね。
つまり、私には信念も世界観も意図もないもんですから・・・・
だから、自分で答を創造することなく、いろんな本にその答を求めて
ツンドクを増やしているのでしょう。
そして、このような感想文をダラダラと書くことによって、バラバラの
ものが、次第に私の頭の中で一定の形をもたらすことを夢想している
というわけです。
p150
われわれは良い理論など何一つもっていないのである。 決定論を支持する言い分には
説得力があり、また、誰もわれわれには自由意志があると信じたいと思っているから、
両立論が戦略的にみて好ましいとは言える。 だが、責任というものに関する伝統的な
ニュアンスを十分に残しつつ、種々の問題から免れているような両立論がまだ考え出され
ていないことは、認めざるをえない。
両立論に対する代案には、まったく人気がない。リバタリアンとハードな決定論者は
ともに、自由意志と決定論は両立不可能だと信じている。
==>> おお、なんと、ここにきて両立論の敗北を認めるような書き方になって
きました。 私自身も、自由意志があると信じたいけれど、決定論の方が
腑に落ちやすいよなあと感じています。
極端な話、決定論でなければ、人間は人間という生物の範囲を乗り越えて
しまうんじゃないかと思うからです。
「あいつは人間じゃない!」という言い方はすでにあるにしても・・・・
p162
われわれはみな多かれ少なかれ怠惰であり、たとえ人生を・・・・左右することになる
きわめて重大な決断に関わるときですら、怠惰なままである。 そこでわれわれは不可避的
に発見法的な決定手続きに甘んじることになる。 つまり、われわれがやるのは、「ある
程度で満足する」ということーーひらめきが得られることを期待してあちこちをさぐり、
最後に思案するのをやめなければならなくなるまで、われわれの最善を尽くして、
程度の差はあれ誘導された仕方で問題について考え、その結果をわれわれに可能なかぎり
最善のやり方でまとめ、そして行為するということーーである。
==>> なるほど。 これは、私に関する限りほとんど当たりです。怠惰というより、
流されるままに流されてきたと言う方が近いかもしれません。
ただし、一応、2回の転職の時だけは、給料がアップするということだけで
自由意志を使ったような気がしないでもありません。
p165
私が提案している意思決定のモデルの特徴は、以下のようなものである。
われわれが重要な決断に直面するときには、アウトプットがある程度非決定的な検討
事項生成器が一連の検討事項を生み出す。
それらのうちの一部は、とうぜん、無関連なものとして行為主体によってすぐさま
(意識的ないし無意識的に)除外されるだろう。 そうすると、主体によって決断との
関連が無視できないものとして選ばれた諸検討事項が、推論過程のうちに現われることに
なる。 そして、行為主体が総じて合理的であるなら、究極的には、それらの検討事項が、
行為主体の最終的な決断について予測や説明を与えるものとして機能することになる。
==>> このようなモデルが仮説として出てくることに私は多いに賛成です。
いろんなモデルが出てきて、それがなんらかの形で実証されることを
期待したいと思います。
著者も「他にも多くの実質的に異なる可能なモデルが存在することを念頭に
置く」としています。
そして、そのようなモデルが、例えば下のリンクのような、システム的な
判り易い形で提示されるとおもしろいなと思います。
前野隆司著 「脳はなぜ「心」を作ったのか」 を読む
― 2 小びとが分散処理するニューラルネットワーク
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/09/blog-post_97.html
「p76
カリフォルニア大学サンフランシスコ校・・医学部・・神経生理学教室の
リベット教授・・・
p77
リベットの実験結果を信じるならば、人が「意識」下でなにか行動を「意図」
するとき、それはすべてのはじまりではない。 「私」が「意識」するよりも
少し前に、小びとたちは既に活動を開始しているのだ。 言い換えれば、「意図」
していると「意識」することを人に感じさせる脳の部分は、脳内の小びとたちの
活動結果を受けとって、自分が始めに「意識」したと錯覚していると考える
しかない。
・・・ついに、最後の砦、「意」も、「知」や「情」と同様、無意識にいる「運動
準備」や「意」の小びとたちの結果を、「意識」が受動的に見ている作用に過ぎ
ないらしいという事がわかった。」
p172
検討事項生成器を、ランダムだが因果的に決定論的なものとして記述するか、それとも、
ランダムでありかつ因果的に非決定論的なものとして記述するかの違いは、微視―神経
生理学のレベルでははっきりと検知可能な、互いに衝突しあう含意を何らもたないだろう、
という論点である。 この論点は、たとえ熟慮のプロセスの神経活動への対応づけが、あらゆる楽天的空想を超えるほどうまくいったとしても、変らないはずである。
その事実によって、リバタリアニズムは反駁されないし、また、リバタリアニズムの背後
にある動機づけの信用が傷つけられることもない。
==>> はい、確かに上記に出て来た検討事項生成器なるものがどんな機能をどのよう
に動かすのかはポイントであると思います。
しかし、「検知可能な、互いに衝突しあう含意を何らもたないだろう」の
意味が「検証できない」という意味だとしたら、ちょっと情けないですね。
p197
その放射線は身体の他の臓器には害を与えないことは明確なのですが、そのひどい
放射線から脳を守るやり方は見つかりませんでした。 そういうわけで、その装置を
取り戻しに送られる人の脳は、他のところに置いていくべきだということはもう決まって
いたのです。
脳は、安全な場所に保存し、そこから精妙な無線通信によって、身体に対する通常の
操作を実行できるはずだということでした。
私はそのような、完全に自分の脳を摘出してしまい、ニューストンにある有人宇宙船
センターの生命維持装置に据えておく外科的処置を受けるべきなのでしょうか。
==>> さてさて、これは著者によるSFの世界の描写です。
この極秘プロジェクトは、「地球の核を掘り進み、赤い連中のミサイル格納庫
の土手っ腹に特別設計の核爆弾の攻撃を加える」というペンタゴンのもので
それに脳の専門家である著者をひっぱりこもうというお話です。
脳を摘出して、その脳で、自分の身体を遠隔操作しようという話なんです。
p199
私は私をタンクの中に見出そうとしました。 うまくいけば私の脳の側に、私をあけわたす
ことができると考えたのです。 しかし、私はこの訓練をどう自分に説得してもやり遂げる
ことができませんでした。
「こちら、私、ダニエル・デネット。 泡立つ液体の中に浮かべられて、私自身の目に
見つめられている。」 だめです。 上手くいきませんでした。
こんなに難しく、混乱したこともありません。 確固とした物理主義的確信をもつ
哲学者としては、私の思考のトークンは私の脳のどこかで生起していると信じていました。
しかし、私が「ここにいる」と考えるときに、その思考が起こるのは、ここなのです。
つまり、水槽の外であり、私、デネットが立っていて、私の脳を見つめているところ
なのです。
私自身を水槽の中に見いだそうと何度も何度もやってみましたが、何の役にも立ちません
でした。
==>> 「トークン」を辞書で調べると、
「コンピューターネットワーク上でデジタル認証を行うための小型装置。
カード型やUSB型などがある。認証トークン。セキュリティートークン。」
とありますので、「私の思考のトークン」というのは、自分の思考のある場所
を認証するもの・・ぐらいの意味でしょうか。
最近はいろいろな仮想現実が生まれているようですが、自分のアバターの
身体を 操作する人の頭の中での指示で動かすことができるのでしょうか。
たまにニュースで、身体障碍を持つ人が、脳波で手足を動かすような実験を
していることが報道されてもいます。
上記のSFは、脳はタンクの中にあって、身体は遠くの現場にあるという想定
ですから、身障者支援システムと似た構造なのではないかと思います。
その場合の身障者とロボットの一体感はどのような感覚になるのでしょうか。
「人間の能力を増強・補完する装着型ロボット
脳波で操作することも可能に」
https://project.nikkeibp.co.jp/mirakoto/atcl/robotics/h_vol30/?P=2
「脊髄を損傷し、肩から下が麻痺して歩くこともできない男性の頭皮と脳の間に、
2つのセンサーを移植。センサーは脳に直接埋め込む必要がなく、被験者の動き
と感覚をつかさどる「感覚運動皮質」の活動が読み取れる。
事故に遭った男性がコンピュータゲームのアバターを操作する訓練を数カ月に
わたって繰り返した結果、自らの脳信号によってゆっくりと歩行し、思い通りに
停止できるようになったという。現時点で脳波から操作できるパワードスーツ
は、天井からハーネスで吊り下げた状態だが、今後研究が進めば車椅子患者でも
考えただけで歩行できるパワードスーツの実現が可能になると期待されて
いる。」
p211
聞いたところ私は一年の大部分を眠っていたそうです。
そして目が覚めたとき自分の感覚が完全に元の状態に戻っていることに気づきました。
しかしながら鏡を見たときにはなじみのない顔を見て少々驚きました。
・・・これは確かに私の新しい顔なのです。さらに自分でよく知っている性質を確かめて
みた結果、もはや疑いもなくこれは私の新しい身体であり、プロジェクトの主任も
私の結論を追認してくれました。
・・・新しい身体を手に入れたとしても、その人の人としての同一性が損なわれる
ことなどはないのです。
p212
広範囲に外科手術を受けた人びとのなかには、より劇的な人格の変化がときに観察
されますが(性転換手術については言うまでもなく)そのような場合でもその人の
同一性が保たれているということに異論を唱えるひとはいないでしょう。
==>> これは上記のSFの続きです。
脳によって遠隔操作されていた自分の身体が、新しい身体に取り替えられた
としても、その人としての同一性は保たれるということを語っています。
しかし、最近の科学番組では、例えば腸や腸内細菌が第二の脳と呼ばれる
ほどに大きな役割を担っているとの話もあります。
「腸が「第2の脳」と呼ばれる理由は?」
https://healthpress.jp/2015/08/2-10.html
「腸は「第2の脳」と呼ばれる。脳と腸は、自律神経、ホルモンやサイトカイン
などの情報伝達物質を通して、互いに密接に影響を及ぼし合っている。脳が
ストレスを感じると、自律神経から腸にストレスの刺激が伝わるので、お腹が痛
くなったり、便意をもよおしたりする。腸が病原菌に感染すると、脳は不安を
感じる。腸からホルモンが放出されると、脳は食欲を感じる。まさに、腸は
「第2の脳」だ。」
こういう人体の中の複雑な臓器の関係が発見されているなかで、
脳だけを取り外すなどということが果たして可能なんでしょうか。
p214
ヨリックに何か災難があった場合には私にとって非常に役立つ人工の装置、脳のスペアを
私は手に入れたのです。 あるいは、ヨリックを予備に取っておいてヒューバートを
使うということもできました。 どっちを選んでもそんなに違いがあるようには思えませんでした。
p215
もし身体が二つあったとして、ひとつがヒューバートに、もう一つがヨリックにコント
ロールされているとしたら、どちらがデネットとして認識されるのでしょうか。
==>> これも上記のSFの続きです。
ヨリックというのはデネットの生の脳のことで、ビューバートというのは
デネットの脳のコピーの名前です。
つまり、内容的に同じ脳がそれぞれ別の身体を持ってしまったらどうなって
しまうのかという話です。
すでに書いたことですが、この本は、「自由意志」というタイトルなのですが、
私が思っていた内容とは違って、人間としての責任があるのかないのかという議論が
メインになっています。
そして、目指しているところは、両立論であるようですが、私には今一つ
腑に落ちないままです。
では、次回は 「人間の自由と自己 ― ロデリック・M・チザム」を
読んでいきましょう。
===== 次回その3 に続きます =====
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