スキナー/デネット/リベット著「自由意志」を読む ― 3(完) : 行為者因果説、意識の統一場理論、リベットの実験は自由意志の否定なのか
スキナー/デネット/リベット著「自由意志」を読む ― 3(完) : 行為者因果説、意識の統一場理論、リベットの実験は自由意志の否定なのか
「人間の自由と自己 ― ロデリック・M・チザム」読みます。
p225
テイラーの比喩を借りて述べるなら、決定論はわれわれをただの操り人形にし、
非決定論はわれわれをでたらめに動く機械人形にする。 それらはいずれも自由な
行為者の名に値しない。 結局、チザムは次のように結論づける。
人が真に自由な行為者であるためには、当の行為が、何か他の出来事によって引き起こされ
てはならないし、何ものによってもひき起こされていない状態であってはならない。
以上のジレンマに対するチザムの解答が、行為者因果説であり、まさに人が行為や
それに含まれる出来事やその結果をひき起こすという考え方である。
行為者が自己決定的に世界のなかにさまざまな出来事をひき起こすわけである。
・・・チザムによる「行為者」の位置づけはいくぶん神学的色彩を帯びることになる。
・・・「自由」の概念を本気で擁護したいのであればそれくらいの覚悟が必要だと
いうことであろう。
==>> これは監修者によるイントロの部分ですが、かなり神学的な感じですし、
「覚悟が必要だ」というのには、ちょっと笑ってしまいました。
でも、なんだか面白そうです。
p242
ここまでずっと私が「自由意志」の語を避けてきたことに気づかれたかもしれない。
それは次の理由による。かりに、行為をどのようにかして発動させる「意志」の力
なるものがあったとしても、自由に関する問いは、ジョン・ロックが述べたように、
「意志が自由かどうか」という問いではないからである。 問うべきは「人が自由か
どうか」なのだ。
というのも、もし発動能力としての「意志」が存在するとして、問題は、自分が行なおうと
する意志する当のことを、まさに行なおうと意志する自由が、人間にあるかどうかだから
である。
==>> はい、確かにここまで「自由意志」という語が出てこなかったので心配に
なっていました。
確かに、「自由意志なるものがあるかどうか」と私も考えていましたが、
そう言われてみれば、「意志する自由が人間にあるか」と問う方が
現実的な問いなのかもしれません。
そうなると、「自由意志があるか」というような問いはかなり形而上学的な
話になるかと思うのですが、上記の監修者のコメントにある「神学的色彩を
帯びる」という話とはちょっと反対のことになりそうな感じもします。
つまり、「意志する自由が人間にあるか」というチザムの論は、一見現実的な
問いでありながら、逆に神学的になるという意味です。
p245
問題に対するカント派のアプローチ ーーそれこそ私が採用したいアプローチなのだが
――に従うならば、欲することと行なうこととのあいだにそのような論理的結びつき
は存在しないことになるし、因果的な連関すら存在しないことになる。
ある時点におけるある人物の欲求、信念、刺激状況に関するいかなる言明の集合も、
その人物がその時点で次に何を試みるか、企てるか、しようと決心するかを教える言明
を、含意することはない。
・・・以上のことは、言葉の一つのきわめて厳密な意味において、人間に関する科学が
存在しえないことを意味する。・・・・いかなる法則のもとでの包摂によっても説明
できない人間の行為が存在することになる。
==>> 私は今のところ決定論として科学的一元論であるのが面白いと思って
いるのですが、この部分のまったく逆の論も確かにそうだよなと
思うんです。 だから、心の底では、自由意志が存在して欲しいと
願っているのだと思います。
p249
その場合人は、Aを生じさせたいという誘惑に抗えるものの、Aが生じるにまかせておき
たいという誘惑には抗えない。
==>> 残念ながら、チザムの行為者因果説というものがどのようなものかについては、
監修者の「行為者が自己決定的に世界のなかにさまざまな出来事をひき起こす」
という解説以外に、私に理解できる説明を見つけることはできませんでした。
チザムの論の最後の部分がこの文章です。
この文章のAのところに「戦争」という言葉を入れてみたらどうでしょう。
「人は戦争を生じさせたいという誘惑に抗えるものの、戦争が生じるにまかせて
おきたいという誘惑には抗えない」
これは図らずも真であるように思います。
前段は為政者、後段は人びとに関係する言葉かもしれません。
もしこれが「行為者因果説」のエッセンスだとするならば、かなり危ない
現実を見通した論なのかもしれません。
=== 「リベットの実験をめぐる論争」 ===
p257
ここに訳出したのは、リベットと哲学者たちとの「対話」というよりは、すれ違いや
パースペクティブの異なりと呼ぶべきものである。 しかしそれらは、自由意志の科学
がもしあるとすればどのようなものでありうるかについて、いくつもの重要な示唆を
与えてくれる。
==>> パースペクティブとは見方とか考え方のことですので、対話がすれ違っている
のは見方が違うからだということのようです。
「自由意志の科学がもしあるとすれば」ということは、ほぼ無いということ
なのでしょうか。。
p313
「意識、自由な行為、脳」
意識は実在する生物学的現象である。 さらに意識は、内的で、質的で、主観的なもので
あり、感覚能力、アウェアネス、思考、フィーリングの統一状態から成り立っている。
そうした状態は、夢なしの睡眠から目覚める朝に始まり、再び無意識的になるまで一日中
ずっと持続している。
意識を定義する特徴は、この考え方によると、質的で、主観的で、統一されているという
ものである。 まず、どの意識状態にも、ある種の質的な側面が備わっている。
==>> ここで「質的」と言っているのは、おそらくクオリアのことなのでしょう。
p316
私が提示したい統一場アプロ―チを説明しよう。
そのために、まず、夢なしの睡眠から目覚める朝を考えてもらいたい。
・・・わずかな入力しかなくとも、あなたは完全に意識的ではないだろうか。
・・・たしかに、ある意味ではあなたは意識を作り出している。
・・だが私は、こうしたことが意識を生み出したと考えるのではなく、むしろこれらは、
夢なしの睡眠から目覚めたときに始まった意識の場を変化させたのだと考えたい。
・・・意識の変化は、意識のあり方が移り変わる過程で場に現われる隆起、小さい丘、
渓谷と見なされるのだ。
私は、意識の統一性という考えを真剣に受け止め、意識の移り変わりをすでに存在
していた統一場の変化と見なしたいのである。
p317
人間に特有の意識にはほかにも本質的な特徴がある。とくに目立つのは志向性だ。
==>> ここを読んだだけでは理解が難しいのですが、統一場アプローチというのは、
人間が意識を作り出しているというよりも、意識の場というものが変化して
いるという考え方のようです。
前者であれば、人間の脳が外界を反映した映像などの意識ということで
しょうが、後者であれば人間と外界の間にある意識の場というような
位置関係でしょうか。 意識の場の裏表の関係でしょうか。
「とくに目立つのは志向性だ」という一行が非常に気になります。
p318
目下の議論で私が注目してもらいたいのは、自発的でない知覚経験と明確に対比される
自発的な行為の特徴である。 知覚の場合の志向的なもの、つまり知覚経験は、その
対象によってひき起こされている。 これに対し、行為の場合の志向的なもの、つまり
行為しているという経験は、身体運動をひき起こすものなのだ。
第一に私は決心し、第二にその決心を実際に実行する。
こうした自発的な行為において興味深いのは、私はそれぞれの段階の最後を、それに
先行する心理状態によって因果的に決定されたものとして経験していないということで
ある。
p319
私は、決心した行為を生み出すうえで因果的に十分なものとしてはその決心を経験して
いない。 要するに、決心の理由と決心を下すことのあいだにはギャップがあり、さらに、
決心を下すことと行為が実際に開始されることのあいだにもギャップがある。
これらの
ギャップは、まとめて、皆から哲学で「意志の自由」と呼ばれてきたものである。
==>> 知覚の場合の志向的なものは・・・たしかに対象によって志向が引き寄せ
られているような気がします。言い換えると、自分が興味を持っているもの
にしか引き寄せられないような・・・
そして、行為の場合の志向的なものは・・・もちろん行為ですから身体運動を
ひき起こすでしょうが、何を意味しているのかが分かりません。
対象によって引き起こされているのではないということを言っているん
でしょうか。
p319のギャップ論は、なんだか奇妙な感じに私には感じられます。
ギャップが自由意志?
p327
「自由意志」と「決定論」には多くの異なる意味があるが、ここで取り上げる意志の自由
は、われわれがギャップを経験する意識の場の部分として生じるものである。
・・・通常の自発的な行為を経験するとき、われわれは、別の行為可能性も自分には
あったと理解しており、されに、行為に先行する心理状態はその行為を決定するのに十分
ではないということも理解しているのである。
p328
自由に関する話題で現在最も支持を集めているのは「両立論」と呼ばれる立場である。
それによると、問題に関連する言葉を適切に理解すれば、意志の自由と決定論は完全に
両立可能であるという。
p329
たしかに両立論者は、ある意味での「自由」や「決定」に関しては、正しいことを
言っているように思われる。たとえば、街頭行進の人々の波は「自由」を求めるサイン
となっているが、通常その人たちは物理法則にたいして関心をおっていない。
かれらがふつう求めているのは、自分たちの行為が政府によってあまり制限されないこと
などであり、自分の行為に因果的に先行するものに関心があるわけではない。
・・・意志の自由があるという確信をわれわれがもつのは、私からすると、ギャップを
経験することによってである。 そのため意志の自由の問題は、そうしたギャップの経験に
対応する実在は何か、という形になるだろう。
==>> なるほど、ギャップというのが、一旦決心はしたけれど、その後ある行為を
する時点までに、心変わりもあります、ドタキャンもありますよという
話なんでしょうかねえ。 それが自由意志? ドタキャンの自由??
まあ、考えてみれば、普通はあまり原因だとか理由だとかを意識せずに
なんらかの行動をとっているわけですから、それを突然なんからの理由で
変心して行動に変化があったとしたら、意志を使ったといえそうにも思います。
p355
結局のところ人は、実際に行為を遂行しなくとも、行為の自発的な選択について一日中
ずっと計画を立てたり熟慮したりする(「心を決める」)ことができる。
自発的行為が生み出されるのは、「いま行為する」過程の最後になってからでしかない
のである。そして、脳における「いま行為する」過程は、実際の行為の550ミリ秒ほど
前に、無意識的に始まっている。
p356
もし「いま行為する」過程が無意識的に始まっているなら、意識的な自由意志がそれを
始めさせているわけではないことになる。
サールが「意志の自由」と呼ぶ「ギャップ」が、実験結果やそこから引き出せる含意と
どう関係するのかは明白ではない。
==>> 実験の結果をそのまま判断すると自由意志は負けてしまいそうです。
しかし、まだまだ哲学的にも科学的にも、いろいろな仮説が飛び交って
いるような雰囲気です。
p358
いわゆる「ハード・プロブレム」は、物理的な神経細胞の活動からどのようにして意識的
で主観的な経験が創発しうるのかを説明しようというものである。 私が提案した、
創発的で検証可能な、そして非物理的な意識の統一場理論は、見込みのある答えを
与えている。
==>> ベンジャミン・リベットの「精神場理論」については、下のような説明が
あります。
「精神場理論
晩年、リベットは精神が物理的な脳からいかにして生じるかを説明するために
精神場理論(conscious mental field, CMF)を提唱した。この提案の動機は、
(1)
主観的意識体験の統一性の現象、(2) 意識的な精神機能が神経活動に影響す
る現象、が主な2点であった。」
・・・これは、どういう理論なのか読んでみないと分かりませんが、
本当に「創発的で検証可能」な理論なんでしょうか。「非物理的」な話ですから
ねえ。
さて、なんとか辛抱して読み終わりました。
しかし、最初から書いているとおり、「自由意志」があるのかないのか、それはどういう
ふるまいをするのか、などという基本的な疑問を持っている私にとっては、
この本はかなり筋が違っていて、中に入っていくのが難しい本でした。
しかし、自由意志の問題が、犯罪の責任が問えるかというような社会の問題と
関わっていることを知ることができたのはひとつの収穫でした。
いずれにせよ、基本的に形而上学的な話なので、なかなか実験で実証するという
ところまで辿り着くのは困難であるということは分かりました。
さて、次は「ツンドク」の山の中から、どれを読もうか・・・・
==== 完 ====
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