スキナー/デネット/リベット著「自由意志」を読む ― 1 : 科学が自由意志はないと言ったら、犯罪は成立しないのか

スキナー/デネット/リベット著「自由意志」を読む ― 1 : 科学が自由意志はないと言ったら、犯罪は成立しないのか

 

 



スキナー/デネット/リベット著 青山拓央・柏端達也監修の「自由意志」を読んでいます。

 

この本は、今の私の読書テーマである「意識とは何か」「人間に自由意志はあるのか」

「意味とは何か」「志向性はどのように働くのか」などの中で、タイトルがダイレクトに

「自由意志」とあったので、これだと思ってはみたものの、値段が高かったので、

地元の図書館から借りてきました。

 


 

そして、「自由意志」という直接的なタイトルだったので、大いに期待していたのですが、

どうも私が期待していた視点とは違うなと感じたころには読み終わっていたという感じ

です。 ですからに辛抱して読みました。 もちろん、あちこちすっ飛ばして読みましたので著者の論点からかなりズレた感想文になっていると思います。

悪しからず。

いずれにせよ、自由意志があるという立場と決定論の立場をどう両立できるかという

議論であるようです。

 

では、気になった部分を引用しながら、だらだらと、頭に浮かんだことを書いていきます。

 

 

 

=== 「イントロダクション ― 青山拓央・柏端達也」 ===

 

p003

 

自由意志が存在するか否かは、おそらく、何らかの実験・観察なしに答えの分かる問いでは

ない。 しかしながら、この問いは、何らかの実験・観察のみで答えの分かるものでも

ない。 骨からのデッサンと肉からのデッサンの折り合いをつけることが必要であり、

そのためには科学に加え、哲学の知見が大いに参考になる。

 

==>> ということで、「自由意志に関する代表的な諸説の対立状況も解説していこう」

     と断っていますので、その中から私の興味に触れるところを拾っていこうと

     思います。

 

p006

 

自然に思い浮かぶのは次のような問いである。 遺伝と環境、そしてその産物としての脳

が犯罪行為をひき起こしているのなら、犯罪行為は自由意志によるものだと言えるのか

――。 この問いへの応答は、犯罪行為だけでなく、人間によるあらゆる行為に適用される

ことになるだろう。 なぜなら、いかなる行為であれ、遺伝と環境とその産物としての

脳に起因しているであろうから。

 

==>> 私が最初に「あれっ」と感じたのは、この最初の段階からでした。

     犯罪行為と自由意志という視点です。

     私の興味は「自由意志というのは存在するのか」という素朴な疑問なので、

     なぜここで犯罪行為という視点が出てくるのかが理解できなかったのです。

     しかし、いずれにせよ、「脳に起因している」ということを前提にしている

     ようなので、我慢して読み進めることにしました。

 

 

p007

 

論者ごとの細かなニュアンスを捨象し、最大公約数な要約をするなら、それは次のように

なる。 われわれは普段、自分の自由意志によって行為をしていると信じているが、

行為への意志を自覚するより前に脳が活動を始めているなら、実際には脳が行為を開始

させているのであり、自覚された意志によって行為が選び取られたとは言えない

 

p008

 

そして、脳の在り方は、・・・遺伝と環境の強い影響下にあり、さらにその影響は、

生物学の法則や物理学の法則などに基づいている。 要するに、人間のいかなる行為も

また自然現象の一部であって、それは自然法則によって決められているのであり、ここには

もはや自由意志の存在する余地はないーーー。

 

・・・この見解のもとで自由意志が存在しないとは何が存在しないことなのかを、掴んで

おくことのほうが重要である。

 

==>> ここで著者は、上記の見解に賛成するか反対するかが大事なのではなく、

     「何が存在しないことかを掴む」ことの方が重要だと言っています。

     ちなみに、私は、上記の見解に一応賛成なので、自由意志は無いんじゃないか

     と感じているわけです。 ただ、確信が持てないからもっと知りたいという

     視点であるわけです。

     なので、ここで方向性がちょっとずらされたような感覚があります。

 

p011

 

決定論と自由が両立するとの考えは「両立論」と呼ばれており、そこで擁護される自由は

「両立論的自由」と呼ぶことができる。

 

・・・婚姻の自由や職業選択の自由といった、社会的な束縛からの自由は、両立論的自由

の一種だと考えてよいだろう。

 

p012

 

他方、決定論と自由が両立しないとの考えは「非両立論」と呼ばれるが、この立場のもと

で重視されるのは、未来の諸可能性の一つを自ら現実化させる自由だ。

すなわち、ある行為Aについて、Aをすることもしないこともできたのだが、自らAを

することを選び、それを実行した、という意味での自由。 こちらの自由は

「リバタリアン的自由」と呼ばれるものであり、未来が決定されているとする

決定論とは相容れない。

 

p013

 

これも重要な点だが、両立論者と非両立論者のいずれも、決定論の真偽に関しては

中立的でいられる。 ・・・・決定論は真だと主張するかどうかは、その各々に

託されている。

 

==>> ここで「リバタリアン」という言葉が出てきていますが、

     「政治思想上のリバタリアン(自由主義者)が擁護しようとする自由ではない」

     とまったくの別物であるという断り書きがあります。

 

     「決定論の真偽に関しては中立的でいられる」と書いてあるのですが、

     私はまだまだ読み始めたばかりなので、半信半疑です。

 

 

p016

 

量子論の発展によって非決定論が有力となった今日においても、リバタリアン的自由の

実在を擁護することは難しい。 未来に複数の諸可能性があり、何らかの確率的法則の

もとでその一つが現実化していくとき、この現実化にはその都度の偶然が関わっている

だろう。 しかし、ある行為の実現がそうした偶然によるものならば、それを自由な

行為だと見なすことには抵抗がある。

 

==>> はい、これは確かにそうだと思います。

     量子論的に偶然に決定されるという話であれば、そこに自由意志が作用して

     いると考えるのは無理なんじゃないかと思います。

 

 

p023

 

肉からの自由意志のデッサンにおいて、自由意志というより責任にしばしば注目が

集まってしまうのも、普段の生活で目にするものを自然に優先した結果である

言い換えるなら、責任論から分離された形而上学的な自由意志など、日常ではまず目に

しない(そもそも、何を目にすれば、それを目にしたことになるのかも明らかでは

ない)。 

 

・・・骨からのデッサンにおいては自由意志のメカニズムについて、責任論から

ある程度離れた形而上学的な思考も求められる

 

・・・哲学における自由意志論とは骨からのデッサンで始まるものである、との印象

をもたれた方もいるだろう。 哲学史を眺めたとき、その印象はけっして的外れでは

ないが、・・・・・

 

==>> ここで「骨から」とか「肉から」という表現が出てきているのですが、

     私の理解では、前者は形而上学的発想であり後者は日常的発想であるように

     見えます。 私は今の時点では前者の視点が強いように思います。

 

p026

 

自由意志や有責性について、神経科学のみで言えることはほとんどないのだとしても、

哲学を含めた他分野の知見を十分に取り入れていったなら、神経科学に言えることは日々

増え続けていくだろう。

 

==>> ここでちょっと気になったので、精神病と刑事責任との関係をこちらの

     サイトでチェックしてみました。

     「責任能力とは?無罪になる理由や精神鑑定の3つのタイプを解説」

     https://wellness-keijibengo.com/sekininnouryoku/

     「【刑法39条】

1 心神喪失者の行為は、罰しない。

2 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」

責任能力がないとどうして無罪になるのか?

犯罪にあたる行為をしても、責任能力がないと犯罪は成立しません。起訴されて

刑事裁判になっていれば無罪判決が下されます。 

犯罪をした人に刑罰が科されるのは、法令という社会のルールに違反したこと

が非難に値するからです。 

 

そして、人を法的に非難するためには、してよいことと悪いことの区別ができ、

その区別にしたがって自分の行動をコントロールできることが前提になり

ます。  

そのような弁識能力と制御能力が全くなければ、幼児と同様に、法的に非難を

することができないため、犯罪は成立しません。」

 

     ・・・つまり、自由意志との関連で言えば、自由意志を正常に使える状態で

     その犯罪を実行したのかどうかが問われるということでしょうか。

     その点から言えば、自由意志を認めなければ、犯罪を罰することはできないと

     いうことになりますね。

 

 

=== 「人間とは何か ― バラス・F・スキナー ===

 

p036

 

行動は伝統的に自律的主体によってひき起こされるとされてきたが、行動科学が物理学

や生物学の方法を採用することに応じて、そうした主体は環境に置き換えられる

ここでの環境は、生物種が進化し個体の行動が形作られ維持されるところの場のことだ。

とはいえ「環境主義」のこれまでの歩みを見れば、主体ではなく環境へ目を向けるという

変化が難しい一歩であることが分かる。

 

人は環境の産物だ。 すなわち、もしホッテントットの子ども30人とイギリスの貴族

の子ども30人の環境を取り換えれば、貴族はホッテントットになり、ホッテントットは

つまらない保守主義者になるだろう」

 

==>> この本がなんとなく私が期待している「自由意志」の本ではなさそうだと

     感じたのが、この辺りではっきり出て来ました。

     つまり論点は、もし自由意志があるとすれば犯罪などの責任は追及できるが、

     もし人間にそのような自由意志がないのだとすれば犯罪の責任は追及でき

     ないではないか、ということのようなんです。

     つまりは、法哲学、刑事訴訟に絡むような話になっているようです。

 

     そして、そこに環境主義という要素が乗っかってきました。

     要するに生活環境・教育環境が人間の自由意志を左右するじゃないかという

     ことのようです。

     上記に出て来たホッテントットと言う言葉は未開の民族という意味で

     使われているようです。

 

 

p038

 

第三の例は、「認知」の能力の一つ、注意である

人が反応できるのは、与えられた刺激すべてのうちのわずかな部分だけだが、・・・

「注意」を払うことによって、人自身が、どの刺激が有効かを決めている、と。

一部の刺激だけを入場させ他は外へ留めるような一種の門番が心の内部に存在すると

言われる。

 

・・・これに対して、環境に属す状況を持ち出す分析は、関係を逆転させて説明する。

不意を突く強い刺激は「注意をひきつけながら」生じるのだが、その理由は、人類の進化的

歴史あるいは個人の経験の歴史においてそうした刺激が重要なものーーたとえば危険な

ものーーに結びついてきたからである。

 

==>> ここはちょっと分かりにくいのですが、「注意」というものが自由意志という

     ものによって、いわば「心の門番」によって、引き起こされているという

     考え方と、 その反対に、進化的に自然の環境の一部として機能するという

     考え方の両方があるということを述べているようです。

 

 

p045

 

人間は自分の行動および自己自身に対して「知る」や「意識する」という独特の仕方で

応じることができる。 かりに言語共同体の助けがなかったとしたら、いかなる行動も

意識されることはなかっただろう。 意識は社会の所産だ。 意識は自律した個人が

有する特殊な場ではないというだけではない。 人間が孤絶している場合にも、

意識は存在しないのである。

 

==>> 「かりに言語共同体の助けがなかったとしたら、いかなる行動も意識されること

はなかっただろう。 意識は社会の所産だ。」という言明はおそらく真実で

あろうと思います。

先によんだ本の中で、自然言語も自然手話も知らなかった、生まれながらに

耳が聞こえなかった人は、思考はしていた筈だが無意識であったという話

がありました。 下の意味の無意識仮説です。

 

レイ・ジャッケンドフ著「思考と意味の取扱いガイド」

https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/06/blog-post_12.html

     「p118

・・・先天的なろうで、手話に接したことのない人たちから得られる。かれらが

成人してから手話を学習したのであれば、それ以前の思考がどのようなもの

だったかを尋ねてみることができる。

・・・ニカラグア手話のドキュメンタリー番組・・・こうした境遇にあった人が、

・・・「考えるというのがどんなことかさえわからなかった。 考えるという

ことは、私には何の意味ももたなかった」と述懐していた。もちろん彼も手話に

よって話すことができるようになる以前から思考能力はあったに

「違いない」・・・・しかしーー<意味の無意識仮説>の予測するとおりーー 

彼はそのことを意識していなかった。」

 

     一方で、言語共同体があれば、意識はあることになり、もしかしたら、

     下記のサイトの小鳥たちにも自由意志というものがあるという話を

     夢想することもできそうな気がしてきます。

     「世界初、鳥の言葉を解読した男

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2022/06/post-98887.php?fbclid=IwAR2mqyUO6FqIfImCF0rprmVGSWbKUQ1e4TInjiq7KfszQF47XN1oVVcB5GU

     「シジュウカラが20以上の単語を持ち、それらを組み合わせて話していること

を明らかにした。つまり、言語能力を証明したのだ。これはまだ、ほかの動物で

は実証されていないことである。」

「古代ギリシアの時代から現代まで、「地球上で言葉を持っているのは人間だけ」

というのが、科学の常識だった。それをたったひとりで覆した鈴木の研究は国際

的に非常に高い評価を受けていて、今年8月にスウェーデンで開催される動物

行動学の学会では、基調講演を担当する。そこで「動物言語学」の創設を提言す

るという。」

 

p055

 

科学的分析が提示する人間像は、内部に人(パーソン)を潜ませる身体ではなく、複雑

な行動レパートリーを有する人であるところの身体である。 たしかにこうした人間像

はお馴染のものではない。 実際そこで描かれる人間は見慣れぬものであって、伝統的

な見方はそれを人間と認めないかもしれない。

 

私たちは理論をどれも毛嫌いしてきたーーそこには経済決定論、機械的行動主義、相対

主義などが含まれる。 というのも、こうした理論によって人間の卓越性は削り取られ、

いずれ人類のかつての世代が認めていた意味の人間は消えてしまうだろうからだ。

 

==>> つまり、私の理解では、いわゆる科学的分析というものは人間を外から

     他の生きものと同じように分析するものだから、人間が心の中に持って

     いる他の生きものと異なる特別の何かを無視してしまっているじゃないか

     ということのようです。

     私が二十歳の頃には、哲学は人の内部から外に向かって、心理学は

     人の外部から内に向かって分析する学問だという感覚でした。

     そして、心理学は大嫌いでした。

     心理学に人の心が分かる訳ないじゃないかという考え方でした。

     おそらく、ここでは、そのようなことを述べているのではないかと

     感じます。

     ただし、あれから50年、私は今になって、人間の意識だとか心だとか

     いうものを科学的に、還元的にスパッと語ってくれる本を探しているわけです。

     そんなの無さそうですが・・・・

 

p056

 

科学は人間を人間でないものにするのでなく、ホムンクルスを消滅させるのである。

そして、かりに科学が人間という種の廃棄や滅亡を防ぐためのものであるならば、

ホムンクルスは消滅させるべきだ。 人間としての人間なるものを厄介払いできるところ

まで、私たちは到っている。

かかる悪霊を祓うことによってのみ、人間の行動の真の原因へ目を向けることができる。

 

p057

 

これは、人間に残された部分を単なる動物として扱うことだ、と言われることが

多い。

 

行動科学者のパブロフは「なんとイヌのごとし!」と強調する、というのがクルーチの

議論である。 しかし神こそがまさしく、説明的虚構の、奇跡を働く精神の、

形而上学的存在の原型なのである

 

==>> ここに「ホムンクルス」という言葉が出ていますが、その意味は

     「ホムンクルス(ラテン語: Homunculus: 小人の意)とは、ヨーロッパの錬金術

師が作り出す人造人間、及び作り出す技術のことである。脳の小人」と

Wikipediaの解説があります。

 

ここで言いたいことは、おそらく、人間が人間たる本当の理由はどこに

あるのかを探し出せるのは科学しかないでしょう、ということではないかと

思います。

人間が神に似せて作られたという話をそのままにしておいては、いつまでも

形而上学を抜け出すことはできないということではないかと思います。

 

シジュウカラに関する上のリンクで示唆されていることは、小鳥たちにも人間

と同じような神的人間らしさというか神的小鳥らしさがあるんじゃないかって

ことでしょう。

 

 

p059

 

自分の行動を本やその他のメディアに記録するということも人間は行なう

とはいえ、記憶力だけに頼る人にとってみれば、メディアによる記憶に頼ることはとても

非人間的に見えるかもしれない

 

・・・私たちが現在「機械のような行動」と見なしているものは、実のところ、機械の

発明以前から普通に存在したものである。 コットンの畑で働く奴隷、高校の簿記係、

教師によって訓練される生徒――これらはすべて機械のような人間である。

 

==>> 私の記憶力は子供の頃から良くなかったので、暗記科目はさっぱりダメでした。

     そして今は、このように読んだ本の感想文を書いておかないと、何を読んだか

     忘れてしまうので、外付けメモリーとして使っています。かなり非人間的に

     なっているようです。 もしあと20~30年も生きていたら、頭の中に

     メモリーを埋め込んだりするのかもしれません。

 

     上記の「機械のような人間」の例として、「高校の簿記係」ってあるのは

     なぜなんですかねえ・・・・・何か恨みでもあったのか・・・

 

p060

 

科学的心理学は人間を客観的な視点から見ざるを得ないので、すなわち、必然的法則

によって決定されるものと見ざるをえないので、それが人間の行動を意図のないものと

見なすことは避けられない」と書いた作家もいる。 

 

とはいえ、「必然的法則」から意図の不在が引き出されるのは、法則が意図以外の先行

条件だけから行動を説明しようとする場合にかぎる。 加えて、「意図」や「目的」

が意味するものはいわば選択的帰結であるので、意図や目的の働きもまた「必然的法則」

でもって定式化できるのである。

 

==>> 前段の作家の言明はそのとおりだと思うのですが、後段の著者の考えは

     今のところ理解できません。

     私が二十歳の頃に心理学が嫌いだった理由は、この作家の言明と似たような

     考えだったからかもしれません。

     他人の心の中にある意図や目的を、本当に科学的に知ることができるという

     話なんでしょうか? プーチンの意図や目的をさまざまに語る専門家は

     あふれているようですが・・・

 

p061

 

手が熟練した運動を得ることの目的はそれがひき起こす結果のうちに見いだされる。

ピアニストは音階を滑らかに弾くという行動を身につけて実行するのだが、これはその

動作そのものを行なおうとする意図が先行してそこから引き出されるものではない

 

むしろ、音階が滑らかに弾かれたときに、それが強化因子になって(これが強化に

つながる理由はさまざまだ)、それが熟達した動きを選出するのである。 人間の手の

進化においても、手の使用の熟練においても、先行する意図や目的が核心たることは

ないのである。

 

==>> ここはちょっと異論があるんじゃないかと思います。

     単純な話、「ピアノが上手に弾けるようになりたい」という意図や目的が

     あって、練習を重ねることにより、美しい演奏になるということでは

     ないのかなと、フツーに思います。

     人間の手の進化という話とはちょっと次元が違うような気がします。

     しかし、例えば、海に潜って海底の貝を獲るような民族がいたとして、

     それが生きていくために必要な行為であったとしたならば、先行する意図や

     目的が核心となることがあるのではないかという気がします。

 

p062

 

生物学的目的と、ある個人の目的とのあいだには違いがある。 というのも個人の

目的は意識の対象になりうるからだ。 これに対して人間の手が進化する過程において

その目的を意識していた人は誰もいない。

 

・・・人が滑らかに音階を弾くことを練習するとき、当人はその行為の目的をある意味

で意識している。 しかしながら、その目的を意識しているからこそ彼は滑らかに

音階を弾くことを練習すると述べるのは正しくない。 むしろ、彼の意識するところの

ものは、練習がその帰結としてもつ副産物なのである。

 

==>> おお。 私の考えを見透かすような記述が続いていました。

     ここの言葉を拾っていうなら、私が海女の例を出したのは生物学的目的と

     呼んでもいいんじゃないでしょう。

     個人の目的は意識の対象になりうるということには賛成です。

     しかし、「その目的を意識しているからこそ彼は滑らかに音階を弾くことを練習

すると述べるのは正しくない。」という部分は納得できません。

 

 

p064

 

外的環境のデザインを通してコントロールが行なわれる場合にも、二種類の自己はほぼ

例外なく区別される。 従来なかった文化実践を社会へ導入する人は、意図的であるか

否かを問わず、きわめて少数にとどまり、多数派の数十億人は単にそれに影響されるだけ

であろう。

 

・・・人間は二つの役割を果たしている。 それは第一に「コントロールする者」

言い換えれば「文化的コントロールのデザイナー」という役割であり、第二に

「コントロールされる者」、いいかえれば「文化の産物」という役割である。

ここに矛盾するところはなく、それはむしろ、意図的にデザインされたものであろうが

なかろうが、文化進化の本性からの帰結である。

 

==>> ここで著者は、一人の人間の中にも、このコントロールする者とコントロール

     される者がいると書いています。

     そして、文化的な外的環境によっても、人間は進化しているという話の

     ようです。

     私の場合は、今までボ~~っと生きてきましたので、完全に「コントロールされ

     た者」であり「文化の産物」であるということになります。

 

     ここで頭に浮かんだのが「文化の遺伝子ミーム」という言葉です。

 

     リチャード・ドーキンス著「神は妄想である」

文化・宗教の遺伝子 ミームとは

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/03/post-4563be.html

     「p291

ミーム理論を誰よりも推し進めたのは、「ミーム・マシーンとしての私」におけ

るスーザン・ブラックモアである。 彼女は繰り返し、脳(あるいはコンピュー

ターやラジオの周波数帯のような他の情報貯蔵器や情報ルート)と、そこを占拠

しようとひしめきあうミームに満ち溢れた世界を思い描く。 遺伝子プール内の

遺伝子と同じように、勝利するミームは、自分自身をコピーさせることに長けた

ミームだろう。

その理由は、たとえば一部の人々にとって不死というミームがもつような、直接

的な魅力をもっていることかもしれない。 あるいは、すでにミーム・プール内

で多数になっている他のミームの存在のもとで繁栄できるという理由かもしれ

ない。 

・・・実際に起こっているのは、個々の遺伝子がその対立遺伝子と争って選別

されるときの環境の主要な部分が、遺伝子プールの他の遺伝子によって構成さ

れているということなのだ。各遺伝子は他の遺伝子・・・の存在のもとで、首尾

よく選択されるがゆえに、協調的な遺伝子のカルテルが出現するのである。

ここには、計画経済よりもむしろ自由市場に似たものがあるといっていい。」

 

 

p065

 

人間を生み出した進化のプロセスには、まったく異なる二つのものがある。

第一に生物学的進化であり、それを通じて人間という種が生まれた。

第二に文化的進化であり、これは人間が自ら実行してきたものである。

ひょっとするといずれの進化も現在されにスピードを上げているかもしれない。

なぜならどちらも意図的なデザインを受け入れうるからである。

 

==>> 二つに分けることに意味があるのかどうか、私には分かりませんが、

     「いずれの進化も現在されにスピードを上げているかもしれない」という

     話であれば、

ユヴァル・ノア・ハラリ著「ホモ・デウス - 人類はどこへ向かうのか」

に書いてあることから判断するに、すでに一つになってしまっている

のではないかとさえ思います。

 

サクッと理解したい方は、こちらの動画でどうぞ。

「【9分で解説】ホモデウス【衝撃の未来】神になる人類と家畜になる人類」

https://www.youtube.com/watch?v=yyZ349p5hSI&t=9s

 

上にあった「コントロールする者」と「コントロールされる者」とを

この「ホモデウス」の未来で考えるならば、ごく一部の「ホモ・デウス」と

なる人類と、その他大勢の「家畜同然の人々」とに分かれるという話に

なりそうです。

そして、著者のハラリ氏が特に強調しているのは、今からの人々がどのような

政治体制を選ぶのかがキーポイントになると書いています。

     端的に言えば、独裁的管理社会を選ぶのか民主的政治体制を選ぶのか、という

     ことであろうと思います。

 

 

p066

 

文化における実践を維持するのも個人なのである。 行動するのはつねに一人一人の

人間であり、環境へ働きかけてそうした行為の結果に責任を負うのも個人である

そして社会的な随伴因子――これはほかでもない文化という因子なのだがーーを維持する

のも個人である。 個人は、それが属す種を作り上げると同時に、それが生きる文化を

作り上げるものでもある。 

 

p069

 

伝統的な見方においては、人間は自分の行為に責任を持つこともでき、行為の結果に

応じて正当に称賛されたり処罰されたりする。 これに対して科学的な見方によれば、

人間は種というもののメンバーである。 そして種は自然選択の随伴因子を通じた進化

によって形成される。

 

p070

 

人間の行動プロセスは人間の多くの側面をこうした社会環境のコントロールのもとにも

置くのである。 ここではコントロール関係の方向が逆転している。 人間が環境世界

へ働きかけるのではなく、環境世界が人間に働きかけるのである。

 

==>> 一人一人の個人が作り上げて来た文化的な環境世界ではあるのですが、

     「ホモデウス」に書かれているような、「環境が人間に働きかける」世界に

     なってきているのかもしれません。

     

 

p074

 

確かに、人間は環境によってコントロールされている。 だがここで忘れてならないのは、

環境の大部分は人間自身が作り上げたものだという点である。 文化の進化とは、自己

のコントロールをめざす大規模な運動である。 科学的人間観は傷ついた虚栄心、無力感、

ノスタルジーをひき起こすと言われることが多い。 

とはいえ、理論を立てるだけで理論の対象が変化することはない。

 

・・・人間が人間から何を作りうるかについて、私たちはまだすべてを見たわけではない。

 

==>> さて、ここまで読んできたのですが、正直に言うと、「自由意志」とは何か

     ということを追いかけていた筈なんですが、どうも私が思っていたものと

     ここまで読んできたものの間にはズレがあるような気がしてなりません。

     なので、私はちょっと迷子になっているような感じがしています。

 

でも、とりあえず次の章を読み進めたいと思います。

 

次回は、「人であることと自由意志 ― ダニエル・C・デネット」に入ります。

 

 


===== 次回その2 に続きます =====

 スキナー/デネット/リベット著「自由意志」を読む ― 2 : 志向的で合理的な行為者が、意図をもち信念を持たなければ世界観は持てないのか? (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

 

 

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