正高信男・辻幸夫共著「ヒトはいかにしてことばを獲得したか」を読む: 今の子どもは、 言葉なしで思考している?
正高信男・辻幸夫共著「ヒトはいかにしてことばを獲得したか」を読む: 今の子どもは、
言葉なしで思考している?
「意味」とは何かとか、「意識と志向性」は何か、というのが今の読書テーマなんですが、
いろいろと本を探していると、中古本でも数千円もするのがあったりするので、
地元の図書館に初めて行って、関連する本を探してみました。
図書館に行くのは、2005年に国会図書館で、ホセ・リサール著「ノリメタンヘレ」を
読んで以来のことでした。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2005/09/post_a44c.html
地元の図書館は、JRの駅のすぐ横にあって、便利だし、比較的新しくて広いスペースが
あって、読んでみたい本が数冊見つかりました。
その内の2冊を2週間借りることが出来たので、さっそく読んで、感想文を書いてみます。
正高信男・辻幸夫共著「ヒトはいかにしてことばを獲得したか」をまず読みましょう。
この本は著者二人の対談という形式になっています。
p015
KEファミリーに対する言語障害というのは、三世代にわたって二十数人について
調べてみたら、非常に言語障害の重篤な人がその半数以上に存在したわけです。
・・・それで遺伝子を解析した結果、 ・・・共通して欠損している遺伝子は何かと
いうことを検索してみた結果、FOXP2という遺伝子が共通して欠損していることが
わかってきた・・・・
p017
こうしたことを考えれば、現実問題としてFOXP2が言語の働きだけに関与していると
いうことではないと言えますし、逆に、言語がFOXP2だけによって実現しているわけ
ではないということになります。 ですから、「文法遺伝子」などと呼ぶのはいささか
言い過ぎだろうということになります。
言語のように社会的・文化的環境において存在する認知能力の創発には個体の学習
と系統的・遺伝的な継承がうまく絡み合っていると考えるべきで、単一の遺伝子が
言語を可能にしているということは考えにくいことです。
==>> さて、しょっぱなから遺伝子の話が出て来ました。
そこでFOXP2をチェックしておきます。
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/Forkhead_box_protein_P2
「他の動物種には無いヒト特有のアミノ酸配列を持つFOXP2が、ヒトの言語・
発話機能の進化に寄与したとする仮説が提示され、大きな注目を集めた。この
仮説の基となった初期の研究では、現生人類が他のヒト族(ネアンデルタール人
など)と進化的に分かれた後に現生人類特有のFOXP2アミノ酸配列が決定し
た、と結論づけた。しかし、この結論は近年の研究結果から覆され、現在では、
FOXP2だけによって言語・発話機能の進化がもたらされたとは考えられていな
いが、この発見を契機に、主に言語学と心理学が対象としていたヒト言語に対し
て、神経科学の側面からのアプローチが可能となった。」
・・・・ということで、基本的にはまだ分からないことが多いようです。
「言語遺伝子」みたいなものがあったら、話は簡単かもしれませんが・・・
p019
あることばが何を意味するのかということは、具体的な場面や行動との関わりの中に
あっても捉えがたいことがありますから、論理的情報だけを根拠に特定することは
多くの場合において困難ですね。
p021
たとえばボールをみせながら、それが実は無色透明の球体であって、それを目でながめて
光を透かしているようにしてみたとするならば、普通子どもにはそのボールというものは
球体を意味しないで、無色透明のガラスの物体を「ボール」というふうに認識するかも
しれない。 でも普通はそんなことはしないわけで、ボールというものをもったならば、
それを転がしてみたり、あるいはそれで野球みたいなことをしたり・・・・
==>> ここでは、語の意味がどのように子どもによって作られるのかを述べている
のですが、意味というのは、ただ単に、言語遺伝子みたいなものがあったと
しても、論理的情報だけで作られるのではなく、人と人との具体的な行動や
関係性の中で作られるということを言っているようです。
p022
人間というのは、ことばの意味を理解するときに、その行為の関連性のなかでそれを理解
するということをしているんですが、FOXP2が欠損すると、それが非常にできにくく
なる。 そういう情報の非言語的な文脈での統合が非常にできにくくなった結果、ことば
の習得が非常に困難になるのであろうと最近はいわれています。
ですから、直接的に発話の行動そのものが困難になるというような意味での言語関連
遺伝子ではないだろうと・・・・
p024
原始言語はおそらく最初は場面依存的で、それから場面依存から自由になった要素も
共存する現在の言語のように発展してきたと推測されます。場面に依存する直示的具体性
から総称的抽象性へと展開することで、さまざまな一回性の知覚心象や経験や記憶を
まとめ上げることができるようになったわけです。
==>> 場面依存的というのは、もしかしてエピソード記憶みたいなものと関係が
あるんでしょうか。 私の記憶に残り易いのは、エピソード記憶のような
具体性を持ったものが多いので、それはここでいう原始言語と同じような
性質を持っているのかもしれません。
具体性を持ったというのは、単に行為の具体性ということだけではなく、
感情の面で大きな動きがあるという具体性も含んでのエピソード記憶という
ことです。
p028
他者のすることを自らのすることと重ね合わせるような仕組みというのは模倣の神経学的
な基盤の一つといえるでしょう。 もっといえば共感を可能にする土台にもなっていると
いえるのであって、それが言語の発現と関連があるのではないかというのがヒトの
ミラーニューロン・システムの場合の興味深いところですね。
p029
他人が何かしている行為というものを、その感覚というものを自分自身のものに重ね合わ
せる、あるいはなぞるという行為が、結局のところ言語というものには不可欠である。
だから、結局言語は何のためにあったかというと、それは他人の思い、他人の感覚と
いうものを自分自身が共感するというなかから言語が進化してきたということをたぶん
示唆しているのだと思います。
==>> さて、ミラーニューロンという不思議なニューロンをチェック。
「自分が行為を実行するときにも他者が同様の行為をするのを観察するときに
も活動するニューロンである。単に行為の視覚特性に反応しているのではなく、
行為の意図まで処理していることが示唆されており、他者の行為の意味の理解・
意図の理解などとの関与が提案されている。ヒトの相同領域でも、ミラー・ニュ
ーロンと解釈できる活動が示されている。」
「同じ餌を掴む行為でも、自分の口に運ぶか容器に入れるかといった目標の違
いで活動が異なることが示され、行為の意図まで処理していることが示唆され
た。」
・・・これはなんだか凄いことが書かれていますね。
「行為の意図」「他者の行為の意味」までを理解するようなニューロン???
まるでテレパシーの送受信装置みたいな働きじゃないですか??
しかし、考えてみると、言葉だけがあったとしても、それを発する者と
受ける者が、同じように理解できなくては意味がないわけですから、この
ミラーニューロンというのは、その理解を助ける役割があるのかもしれま
せん。
p030
サルに対する実験でわかったこととしては、たとえば、餌をとる動作でいえば、餌を
摘むところだけを隠してもミラーニューロンは賦活しますが、実際には餌を摘まないで
同じ様な動作をしても賦活しないそうです。 サルは動作そのものではなくて、それが
何を目的としている動作なのか、つまりどのような意図を持つ動作なのかということを
理解しているということかと推測できます。
==>> 「賦活」とは、「活力を与えてその物質の機能や作用を活発にすること。特に、
化学反応を起こす物質やその触媒をなす物質の働きを活発にさせて反応を起こ
りやすくすること。活性化。」という意味です。
つまり、ここで言っていることは、サルであっても、ある動作にどういう
意図があるかを見破ることができるってことですね。 それも、嘘の動作に
騙されたりはしないということのようです。
p038
言語の起源は身振りか音声か
音声言語は聴覚に依存するのではなく、身振りに依存するという考えも出されています。
脳の系統発達的な側面から言えば、おそらく音声によるコミュニケーションの方が先で
あったのではないかと推測されますが、聴覚障害があっても言語は視覚など別のモード
の助けを得て問題なく実現されます。 ですから、そういう感覚・運動モードを超えた
能力として進化してきている・・・・
p051
考古学・人類学の分野で英国のスティーヴン・ミズンが「歌うネアンデルタール」の
中で、音楽と言語の進化について述べています。 詩や音楽的なものが言語に発展して
いったという考え方もあるようです。
・・・最初の頃のテナガザルの歌というものはある意味で音のシークエンスを変える
ことができない歌でした。 それは鳥にもあります。 次にそれをばらばらにして
その中の一部だけを思惟的に音が作れるようになるようなことを通じて、今度はその
要素を自分自身で意図的に組み合わせて、自動的でない、ある意味で自分自身の恣意性
を持ったシークエンスが作れるようになったときに言語というものが産出できたの
ではないかと思います。
==>>「詩や音楽的なものが言語に発展していったという考え方」というので
思い出したことがあります。
それは、西アフリカのベナン共和国で日本語を教えていた時のことです。
日本語学校の創設者であるゾマホンさんが、大統領官邸やお祭りの場所に
私を連れていってくれました。
その時、大統領官邸の事務室の人たちがテレビをつけて、歌や踊りの番組
を観ていたんです。
日本ではあり得ない光景だったので、ゾマホンさんに尋ねたところ、
「あの歌や踊りは、政治的・社会的な意見を表現しているんですよ。」
ということでした。
単なるエンターテインメントではないということです。
身振りか音声かという点に関しては、先に読んだこちらの本で、
手話についての非常に興味深い話がありました。
スティーブン・ピンカー著「言語を生み出す本能」を読む
― 手話にもいろいろ、独立した文法をもつ言語、日本手話は日本語ではない
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/05/blog-post_31.html
音声言語と同様に、手話においても自然言語があるという話でしたから、
狩猟時代には声を出さずに手話みたいなものを使っていたかもしれないなと
夢想します。
p088
・・・他人の心の推論というものも、基本的な共感というようなものは他の動物にも
けっこうあるのだというふうに思いますね。 それがあたかもチンパンジーと人間に
しかないかのように言われるのは、結局のところ野生動物をあまりみたことのない
研究者がチンパンジーを研究するからよくないんだと思うんですね。
==>> ここでは多くの動物に他の個体の気持ちみたいなものを理解する共感力が
あるということを述べています。
共感する能力、他の個体の心の推論ができるということは、そこにある
意味というものを多くの動物が分かっているという話になりそうです。
そういう話は、様々な動物番組で観ていますので、納得できます。
p099
ウィリアムズ症候群が示す言語行動には、文章理解・意味理解や語彙の学習過程などに
ついて得意なパタンが観察されています。 言語は一見したところはよく発達している
ように見えますが、IQは一般的には低い傾向があります。
ウイリアムス症候群のIQは60程度ですね。 だからかなり低いところなんですが、
それにもかかわらず言語能力だけが突出して高いわけです。
しかも言語的な記憶、聴覚記憶が非常に高くて、たとえば音楽なんか、長い歌なのに
いっぺん聞いただけで全部覚えてしまうというような、一見するとサヴァンに近いような
徴候すらみせますから、結局のところ認知能力が全般的にわたって発達が阻害されて
いるのに、言語モジュールというものだけが孤立して完全に残っている。
==>> ここで二つの症候群の確認をしておきます。
下の抜き書きは、言語関係に関わる症状だけを書き出しています。
ウィリアムズ症候群
https://medicalnote.jp/contents/180221-003-FX
「性格的な特徴として、幼い頃から明るくフレンドリーな方が多くみられます。
たとえば、病院などを訪れる際、初対面のスタッフにもスキンシップを求める
などの行動がみられます。そこで、社交的、気やすい、友好的すぎるといった
印象をもたれることがあります。」
「ウィリアムズ症候群の患者さんには、音楽好きの方がよくみられます。
おそらく、視覚的な学習が苦手なウィリアムズ症候群の方にとって、聴覚的な
情報のほうが受け入れやすいということが、きっかけの1つなのではないで
しょうか。」
サヴァン症候群
https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/dictionary/heart/yk-072.html
「精神障害や知能障害を持ちながら、ごく特定の分野に突出した能力を発揮する
人や症状を言う。
重度の精神障害・知的障害を持つ人に見られる、ごく限られた特定の分野におい
て突出した能力を発揮する人や、その症状のことです。1887年に、
J・ラングドン・ダウン博士により「イディオ・サヴァン(天才的白痴)」と名付
けられ、のち「サヴァン症候群」と呼ばれるようになりました。」
P100
このウィリアムズ症候群なんですが、・・・言語のモジュール論を唱えるチョムスキー流
の生成文法をはじめとする言語学者・心理言語学者の間では、言語モジュール論の
正当性を示すものに違いないという解釈がなされていましたね。
一番最初にスティーヴン・ピンカーが「言語の本能」の中で書きましたが、その後
ベルージらが研究をして、最初の頃の報告ではIQの平均は60台と低く、数の計算や、
書字は不得意である反面、ことばは雄弁とされていました。
彼らは言語サヴァンと呼ばれていましたが、実体はかなり違うようです。
==>> この部分の前段は辻氏の発言で、後段は正高氏の発言です。
この対談の中で目立つのは、正高氏は、いわゆるチョムスキー派というのか
生成文法学者というのか、そういう人たちの考え方にはかなり厳しく対立
する立ち位置であるようです。
生成文法とか心的文法とか生得的な文法などという机上の空論に対する
反発であるように見えます。
p105
個別文法のあり方が障害のあり方に影響することはあると思いますが、それは文法が
ルーズだというような話ではないですよね。
・・・日本語や英語のように、言語が大きく異なれば脳がそれを処理するときの
仕方が違うというデータは失語症の臨床研究を中心に数多くあります。
これは推測ですが、個別言語の言語類型論的な特徴や社会的なコミュニケーションの
有りようが障害の出方に何等かの影響を与えるのかもしれません。
==>> ほお、同じ失語症でも、言語によってその出方が違うという話のようです。
言語それぞれに特徴があって、脳のどこでどう処理されるのかというのが
異なるからだという話のようです。
・・・ってことは、複数の言語を自由に操れる人なら、その一部の言語が
失語状態になっても、他の言語は一部を使えるということもあり得るって
ことでしょうかねえ。 まあ、主幹部分が使えなかったらそうもいかない
でしょうが。
p111
たとえば三角形で無色透明のガラス材質というものにアテンドした、注意を向けた
発話を聞くと、「ムタ」といいうものはガラスというものの材質を示すものだという
ふうにマッピングするんだけれど、形状を指し示して「ムタ」と言ったら、三角形の
ものを指し示すものを「ムタ」というふうにやる。 そういうマッピングというものの
可塑性があって、それが教える側の行動、あるいは注意の向け方によって左右されると
いうことが、概念発達、意味の習得ということの基礎をなしているわけです。
p113
ことばの習得においては、・・・「意味の絞り込み」、つまりマッピングがなされる際には、
子どもが概念を形成し言語的な意味を習得するようなコンピタンス(能力)に加えて、
コミュニケーションのある社会的な場、つまり大人と子どもとの間の相互作用がどう
あるかということも重要となってきます。
==>> さて、ここでは意図的に架空の言葉を教えて、それを修正、つまり
上書きすることによって定着していくということにようです。
「「可塑性(かそせい)」とは、個体に外から力を加えたときに変形させることが
でき、その後力を加え続けなくても元の形に戻らない性質のことを表した言葉」
です。
しかし、それは、どのような人がどのように教えるかによって、左右される。
ここで「意味」というものが与えられるということになります。
p115
それは今でもある問題でして、法的に手話がどうかということも未解決です。
ただここのお話でもだいじなことは、要するに手話言語というのは、聴覚障害の
ある人が互いに用いる自然言語であるということなんですね。
私たちが通常使う日本語は聴覚・音声言語ですが、手話は代わりに視覚・身振り言語を
手段とするといえばわかりやすいと思います。
音声言語の音を、単純に身振りの置き換えた手旗信号とはまったく違うということです。
p116
手話は音声言語と同様に自然言語なわけですから、それを第一言語、つまり母語と
して習得する聴覚障害をもつ子どもは、聴児(耳の聞こえる子ども)と同じように
手話による喃語があるということで、古くはペティートらが指摘しています。
手の形や位置と動きがあって、音節に相当する分節がある。 これは意外に一般には
知られていないことかと思います。
p117
自然発生的に、人間は耳が聞こえないがために音声言語を習得する機会を失うと、
手を使って言語表象をするという本能がある。 それが手話というものの背景になる
わけです。
==>> ここで、「法的に手話が・・・」という話が出ていましたので、最新情報は
どうなっているのかを、インターネットで検索しましたら、下のような
サイトが出てきました。
https://www.jfd.or.jp/2018/06/19/pid17838
「2.「手話言語」とは
「手話言語」は手の形、位置、動きをもとに、表情も活用する独自の文法体系を
もった、音声言語と対等な言語です。障害者権利条約の定義に手話が「言語」と
して位置づけられ、日本においても改正障害者基本法で初めて「言語(手話を含
む)」と明記されたことで手話が言語として法的に認知されました。」
ところで、「喃語」(なんご)とは、いわゆる赤ちゃん言葉だそうです。
それが手話にもあるということが上に書いてあります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%83%E8%AA%9E
・・・・赤ちゃんの耳が聴こえていないということが分かったら、
赤ちゃんの手話の喃語に周りの人間が応じてあげることが大事であると
いうことがこの後に書かれています。
それは、耳の聴こえている赤ちゃんの喃語に周りが音声でかまってあげる
ことと同じことだそうです。
それによって、手話であろうが音声であろうが、言語を習得することに
つながるということです。
p122
われわれのように耳が聞こえる人間に関しては、視空間記憶メモというのは、音の情報
が保持されるループは形成されない。すぐ消えてしまうというんですが、耳の聞こえない
人はそうなってなくて、画像が残っている。 それがぐるぐる回るというのが普通らしい
です。 そういう研究があります。
p123
ただ、音韻ループと手話の視覚ループには違いもあって、音韻ループというのは再生すると
きに、必ず順行でしか再生できない。 たとえば七桁の電話番号というのは音韻ループに
入りますが、・・・・逆行で後ろから再生しろといわれたら、まずできないんですが、手話
に関しては、逆行しても再生することができるという特性があるといわれています。
==>> さて、ここでは非常に面白い話が出てきました。
耳が聞こえる人は脳内の視空間記憶メモに音の情報は保持されない。
一方、耳が聞こえない人は、そのメモに画像として保存さをれる。
おそらくそれが理由かと思われますが、例えば電話番号の967-4512
という番号を、耳が聞こえる人は後ろから再生することはできないが、
耳が聞こえない、手話ができる人であれば、2154-769と逆に再生できる
ということだそうです。
つまり、脳の使い方が柔軟に変更されて一定の機能を果たせるようになって
いるという話です。
p124
バイオリニストの千住真理子さん・・・・千住さんは音楽家ですから、もちろん耳は
ずば抜けて優れているわけですが、楽譜は目で覚えているんだそうです。
つまり視覚的な情報として記憶しているそうなんです。 だから弾いているときには
外眼の情報に邪魔されないように目を閉じるそうです。
p125
ミュージシャンというのは意外に視覚的なんですよね。 音楽家というのは、作曲する
人間もそれから演奏家もそうですが、非常に論理的に構成されているものであって、
われわれが考えているように、音楽なんだから非常に感性に依存していて、論理とか
認知と全く乖離していて、非常に情緒的な表現形式をしているんだと思ったら、
けっこう大間違いみたいですね。
・・・だから、視覚的な記憶を通じて音というものを一つの構造として構築したうえで、
それの認識を表現している、 ある意味では音楽を概念化した形で表現しているのが
音楽家であって、・・・・
==>> 盲目の音楽家という人たちもいますので、この話がどうなるか興味のある
ところですが、いずれにせよ、音楽家というのは単に感性で語れるものでも
なく、意外に論理的なものからその音楽が出てきているということみたいです。
「意味」というものが、表現される前の段階のもやもやとした概念のような
ものだとしたら、それをどんな形で表現するかという段階で、それが言語で
あったり、音楽であったり、絵画であったり、手話であったり、ということに
なるのではないかという気がします。
p126
耳が聞こえない人の手話の言語処理も、聴覚連合野で行われているということがわかって
います。
・・・盲人で点字を読むときには視覚野が賦活するという有名な研究をされた・・・
盲人ですから視覚野は全く使われていないはずなんですけれど、指先で点字を読むと
視覚野が賦活するという・・・
それと同じで聴覚野のところで結局のところ、耳が聞こえないと聴覚野はつかわれて
いないわけですが、そこのところで手話は活動すると言われています。
p127
・・・つまり持ちうる素材を使って言語が作り上げられていると・・・・
p130
視覚障害でそもそも目が見えないですから脳の中の視覚野の部分というのは
普通に考えると使われない領域です。 そうするとその部分が視覚野でなくて
体性感覚に近い触覚の情報を処理するようになって、指でアナを触れたり、あるいは
プチプチを触れたものをパタン認識するのに視覚野が使われます。
==>> 耳が聞こえない手話の人が聴覚連合野を使い、
目が見えない点字の人は視覚野が働く。
人間の身体は、持っている身体・脳の機能をいろいろと使いまわして
言語を理解するようにできているらしい。
p157
人間は最終的にはことばがなくても、思考はできると思いますね。 だから今の子どもは、
ことばなしで思考しているんじゃないかという気がしますよね。
p158
映像がことばの代わりをすることも考えられますよね。 つまり、頭の中に
映像が蓄積される。
p159
子ども達によっては、頭が非常に良いのにもかかわらず、あまり分析的でないところが
時折あるという話を聞いたことがあります。
・・・ありきたりの表現で言えば、おしなべて感覚的なところが多いという観察ですね。
・・・匠の技を伝授するような、体で覚えるんだ式の体得ですね。
・・・だから人間はことばで考えるという認識は、ある意味で近代主義の幻想なんじゃ
ないですか。
==>> ここでは、かなり大胆は発言が出て来ました。
意味は思考だという言葉がこの本の最初に出て来たんですが、
「ことばがなくても思考はできる」という話になってくると、やはり
言葉の前段階で思考=意味があるということになります。
そして、その思考=意味は、分析的ではない映像や音楽みたいなもので
表すことが出来るという話になってきました。
その点で私の頭に真っ先に浮かんでくるのは映画「2001年宇宙の旅」です。
そのことについては、その小説を最近よんでこちらに書きました。
アーサー・C・クラーク著「2001年宇宙の旅」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/05/blog-post_16.html
要するに、この映画版は、映像と音楽の芸術であって、細かい説明的な
ところは分からないけれども、心にグサリとくるインパクトがある。
一方で、小説版は、いわば説明的で分析的な感じがあって、なるほどそうか
と腑に落ちる、近代主義的といえるのかもしれません。
p200
ならば手話の人はどうやって物を考えているのかということですよね。
手話で考えるならば、それは非常に負荷が掛かるのかということですよね。
たとえば寝言は手話でするそうです。
寝ながら手を動かすんです。 そうすると、夢も多分手話で見てる。
ただ、我々が独り言をつぶやくのにたいして、一人手話ってないんです。
p204
失語症の患者さんは男性が9に対して、女性が1でしょう。
・・・女性の方が失語症になりにくいですよね、同じように脳出血しても。
・・・男性の脳に比べて脳梁の割合が大きいとか、男性とは脳の働き方が違うという
ような研究があります。
言語の処理についていえば両半球をかなり使う、脳のいろんなところを使っていると
いう研究もあるようです。
==>> とりあえず、一冊読み終わりました。
「意味」とは何か・・・ということについては、「思考」だと書いてありました。
しかし、思考は言葉がなくても出来るともありました。
ということで、言葉になる前の段階に思考があって意味があるということ
になりそうです。
じゃあ、意味とは何なのか・・・言葉に成る前のもやもやとした概念みたいなもの
なのでしょうか。
まだまだ、いろんな本を読んでみたいと思います。
とりあえず、図書館から借りてある二冊目に行ってみましょう。
===== 完 =====
===================================
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