福井直樹著「自然科学としての言語学:生成文法とは何か」を読む ― その2 個別言語の文法はいらない? 一番遠い英語と日本語の文法をどうまとめるの?
福井直樹著「自然科学としての言語学:生成文法とは何か」を読む ― その2 個別言語の文法はいらない? 一番遠い英語と日本語の文法をどうまとめるの?
福井直樹著「自然科学としての言語学:生成文法とは何か」を読んでいきます。
「第二章 生成文法の目標と方法」
p031
チョムスキーのいう「プラトンの問題」・・・・というのは、一般的な形でいうと、
「人間は、外界から与えられる非常に限られた資料を基にして、なぜかくも豊かな
知識を持つに至るのか?」という認識論上の問題であるが、このことを言語知識に
関して述べ直すと、「子どもに外界から与えられた資料は個別的であり、かつ量的にも
質的にも非常に限られたものであるのに、獲得された言語知識(=文法)は同一言語
共同体においてはほぼ均一であり、かつ、与えられた言語資料から帰納可能なものを
はるかに超えた、豊かで複雑な知識である。 何がこのようなことを可能にして
いるのか?」という形の問題になる。
p033
このような問いに、人間という種に生物学的に組み込まれている「言語機能」の存在と
いう経験的仮説を立て、それに関する自然科学的理論を構築することをとして答えよう
とする営みが、すなわち生成文法理論なのである・・・・
==>> ここに「生成文法」の根本的な考え方が集約されているように思います。
文法という言葉からは、元日本語教師である私にとっても、連想するのは
国文法とか日本語文法とか英文法などであるわけですが、ここで言っている
「文法」の意味は、一般的なものとはまったく異なるものだということです。
p034
誤解を恐れずに言えば、個別言語における言語分析そのものは生成文法理論の関心事
ではないのである。
p035
生成文法の研究者は、言語機能に関する自然科学的理論の構築は可能である、という
見通しを信じて研究を続けているのであるが、根源的なところで、結着が未だついていない
「論点」が存在していることを忘れてはいけないと思う。
p036
物理学のような「成熟した」科学を含めて、あらゆる科学が同様の問題に直面している
のではないだろうか。 むしろ、その概念的基盤を含めてほとんど何も確かなものがない
状況にあって、手さぐりで「新しい科学」を作り出そうとしている生成文法理論の現状
を見る時、ちょうど近代物理学の黎明期にあって、その形成に立会い・・・・
==>> ここでは、数学や物理学との比較で、学問の基盤がどのようなものである
べきかということを論じています。 特に、数学はなぜ可能なのかというような
根本的な概念的基盤の部分の話です。 その意味において、生成文法の
分野においては、まだその基盤が定まっていないということのようです。
言い換えれば、生成文法が数学で表現できれば、いちばん理解され易いという
ことかもしれません。
p037
ある言語の母語話者は、特定の形式的特性をもつ計算システム、すなわち「規則体系」を
その精神・脳内に所有している。 この規則体系は、与えられた記号列に対し、特定の
構造上の解釈を付与する。 これが母語話者が持つ「言語の知識」である。
これらの規則体系の内実は、言語によって異なるが、その異なり方はまったく無制限と
いうわけではなく、かなり限定されたものである。 この規則体系の、いわば
「異なり方の範囲」を定めるものがUGである。
==>> ここで何を言っているかを理解するのは、やや面倒なので、もっと
解り易く書いてあるサイトを参考までにみてみましょう。
これは英語教育に関連した、日本語脳と英語脳の関係を解説したものです。
https://eigo-knockout.com/english-japanese-brain
「英語を司っている脳の部位は日本語を創出する部位とまったく違う位置に
ありますね。英語を理解できる日本人は、英語を外部から聞いたとき、日本語を
司る部位で意味を把握します。というのは、本人は意識していなくても、瞬時に
英語から日本語に翻訳して意味を飲み込んでいるということになります。
対して、幼少の頃から両方の文化を経験し、「英語も日本も喋れる」バイリン
ガルの人達は、
この2つの部位両方を使うことができます。」
・・・つまり、言語を習得する前の大きな土俵が生来のものとしてあって、
これがUG(ユニバーサル・グラマー)と呼ばれる脳の初期状態であるわけ
ですが、その土俵の上の日本語の部分や英語の部分が生まれた後の言語環境
によって育っていくということのようです。
従って、少なくとも一部については、日本語脳と英語脳は脳の異なった部分を
使っているという話のようです。
p039
このような方向に向けて十五年以上の研究が蓄積された結果、何が起こったかと言うと、
それは個別言語の文法が持つ文法「規則」の解体であった。 文法「規則」が持つ
諸特性をUGの諸原理へ移し替える作業が極限まで進行した結果、UGの内容が十分に
豊かになり、「規則」体系としての個別文法が、少なくともその核の部分では解体され・・・・
==>> 明確には理解できないのですが、おそらくここでは、従来の個別言語の文法
規則を生成文法でのUGの原理に移し替えたところ、個別文法が不要な
段階まで進んだということのようです。
私なりにひらたく言えば、おそらく、日本語文法、英文法、仏文法、中国語文法
などという個別の文法がまとまって、ひとつの文法に集約されたという意味
なのでしょうか?
日本語と生成文法をキーワードにして、いろいろと検索してみましたが、
少なくとも、日本語教育の現場の先生たちが使えそうな本は探し出せません
でした。
p040
英語にはWH要素を義務的に文頭に移動する「規則」が存在するのに対し、
日本語はそのような「規則」が存在しないのはなぜか? このような問いに、
かつての生成文法理論は原理的な解答を与えることが出来なかった。
また、同様の問題は、もっと抽象的なレベルでUGの諸原則に関しても生じていた。
普遍的原理として提案された原理が、ある言語において一見成り立たないように
みえる時、その原理の普遍性を性急に否定してしまうか、あるいはどのように
考えていいのかもわからぬままに沈黙してしまうのかの、どちらかしかなかったので
ある。
この難点を克服するために考え出されたのが「パラメータ」の概念である。
・・・実際の言語資料にさらされることによって、各原理に組み込まれたパラメータ
の値がセットされて、個別言語の文法に仕上がっていくわけである。
英語のデータにさらされれば「英語風に」パラメータがセットされ、日本語のデータに
さらされれば「日本語風に」パラメータがセットされて、それぞれ英語の文法、日本語の
文法が出来上がっていく。
==>> つまり、ここの話を元に考えるならば、人間は生まれた瞬間には
UGと呼ばれる言語脳の初期状態があって、どのような母語にも対応
可能な言語の土俵があるのだが、それが日本語の環境に生まれた場合は、
その日本語のパラメータが駆動されて日本語の文法が展開され、日本語の脳に
なっていくということであるようです。
「第三章 普遍文法と日本語統語論」
p049
日本語に関して最も目につきやすい特徴というのは、SOV語順を持っていることです。
現在、この特性は主部パラメータという形でXバー理論のパラメータに組み込まれて
いますが、この事実観察がまずあったわけです。 即ち、英語はSVOの語順を持つ
のに対して、日本語はSOV語順を持っている。
・・・主部と補部に限らず、あらゆる意味で、日本語と英語というのは鏡像関係に
あると提案していた人もいます。
==>> 日本語のSOV語順は、例えば「私は 本を 読んでいます」で
英語のSVOは「 I’m reading a book.」という語順という話ですが、
日本語と英語は、文法規則的には、ほぼ真逆だってことをいいたいようです。
下のサイトに「言語間距離」ということが書かれています。
英語は日本語を母語とする人にとっては一番難しい言語だという話です。
「言語間距離って何?日本人に英語が難しくて韓国語が易しい理由」
https://www.mamelingual.com/2019/10/23/linguistic-distance/
「「言語間距離とは、ひとつの言語(または方言)が他の言語(または方言)と、
どのぐらい違うかということです。この言語間の距離をはかる決まった方法は
ありませんが、言語を研究している人達は、言語を学習や歴史的などの観点から
見てこの言葉を使っています。」」
・・・上のサイトの中に、英語を基準とした、文法の違いと発音の違いに
よる遠近を表にしてあります。
ご覧のとおり、英語と日本語は一番遠い距離にあるということです。
p060
日本語の「主語」というものが英語の「主語」というものと、どうもだいぶ性格が違う
のではないか、という発想がありました。 この発想自体は新しいものではなく、以前
から国語学者達によってたびたび示唆されてきたものです。 例えば、時枝誠記は
1941年にすでに「国語学原論」のなかで、日本語の「主語」は西洋語の「主語」の
ように述部と対立するものとしてあるのではなく、述部のなかに、いわば、含まれて
しまっているという趣旨の主張をしていますし、三上章の主語否定論なども基本的に
同じ様な直観に基づいたものと言うことが出来ると思います。
p061
・・・LFにおいて「主語」をトピックの位置に移動するプロセスが日本語にはある
のではないかということです。
==>> たとえば、外国人に日本語を教える場合、「○○は XXです。」の○○は
一般的に主語を表わすと説明されるんですが、「は」を英語で説明する
際には「as to」(○○に関して言えば)というように翻訳されるのが一般的
になっています。
日本語の文法に関する考え方は、学者の数ほどあると昔から言われて
いるようでして、統一されたものはないようです。
そして、「日本語に主語はいらない」という本もあり、英語と比較した
場合には、根源的なところに一神教と多神教の違いもあるのではないか
という考え方もあります。
「日本語を話す民族に原子力は似合わない」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/05/post-64f1.html
「「カナダに長年住んでいて私が恐いと思うものがあるとすれば、それは何より
も、状況を上空の高みから見下ろす「神の視点」です。 多くの場合、その視点
はキリスト教という「一神教」と手を組んで「神に守られた正義」の主張となり
ます。」
「他の要素との関係で自分をとらえるのではなく、状況から切り離した絶対的
な「私」を考える傾向が英語話者に大変強いのもこのためと思えます。」」
「そして、著者 金谷武洋氏は、「共生・共感・共視を基本的スタンスとする
日本語の「地上の視点」から自分を切り離して、典型的主語言語である英語話者
の視点に至るときに、バイリンガルたちは「自由」を、そして「力」を感じるの
でしょう。 <聞き手>との関係によって敬称を使うということもなく、弟で
あっても自分の上司であっても同じ 「you」が使えるのが英語です。」と
しています。」
以上のように、日本語と英語の間には、さまざまな違いが、根本的なところからあるよう
なのですが、それをUGという生得的なレベルでひとつにまとめようという話なのです
から、そりゃあ困難が多々あることは凡人でも推測できます。
しかし、生まれた赤ん坊が、どんな国に生まれようが、その土地での言語をなんなく
習得して母語として流暢に使えるようになるわけですから、UGというものがあると
考えるのは非常に自然なことだと思います。
では、次回は 「第四章 極小モデルの展開 ― 言語の説明理論をめざして」に
入ります。
=== 次回その3 に続きます ===
福井直樹著「自然科学としての言語学:生成文法とは何か」を読む ― その3 言語獲得は二歳から八歳まで。 言語学は理系になるのか? (sasetamotsubaguio.blogspot.com)
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