松圓諦著「阿含経入門」 ― その4 年金生活者は乞食である。三昧をして利他とせよ?

松圓諦著「阿含経入門」 ― その4 年金生活者は乞食である。三昧をして利他とせよ?

  

最古の仏教経典とされている「阿含経」の入門書を読んでいます。

 


 

p126

 

車としてのすがた、働きはもちろんそこにあらわれてきたけれども、それが四離五散して

しまえば、もとの原野にかえってしまうものである。 ちょうど、それと同じように、

この地上におよそ、「衆生者(ひとというもの)」などはどこにも存在はしていない。

いつまでもかわらぬものとしての衆生者などというもののあろうわけはない。

ただ、いずれは散りはなれゆくところの幾多の要素が、かりそめに、かく和合、組み立て

られたところに、仮によんで「衆生」というのである。

 

昔からどこかにあったものが、ずっと、あらわれてきたのではなくして、因と縁との

操作によって、かくのごとき形相をあらわしきたったのである。

 

==>> 衆生者を「ひとというもの」と読むんですね。

     つまり、人間というものは、いわば、細胞が組み合わさって、あるいは

     原子が組み合わさって、さらには素粒子が組み合わさって、一時的に

     仮の姿を現しているだけなんだ、というわけです。

     葛飾北斎じゃないけれど、お釈迦様は、電子顕微鏡みたいな眼力を持って

     いたんじゃないかと思うくらいびっくりです。

 

p130

 

邪見が非彼岸、正見が彼岸である。 ・・・・」

 

一バラモンとの問答の後、述べられた聖句がこの句である。 この聖句にも明瞭である

ように、彼岸に志をはこぶものは極めて稀有である。 世間の多くの人々、だいたいの

連中はただその日が食えたらいいのである。・・・・

 

心経のことを波羅蜜多心経という。 ・・・「波羅蜜多」ということは・・・まず

「到彼岸」、かの岸にいたれる、という意味である。 この到彼岸から日本仏教の一つの

行事として春秋二季に「彼岸」なるものがかぞえられるにいたった。

 

今日の言葉でいってみれば理想に到達するとか、理想を実現するとかを意味する。

 

経文には、正しい意見、正しい意思、正しい言語、正しい行為、・・・・この八つの正道

こそが彼岸だといっている。

 

==>> つまり、波羅蜜多=到彼岸=理想に到達=八正道 ということになりそうです。

     般若心経の解釈は多くの著者が様々な解釈を本にしていますので、

     読者も様々に受け取っていいのだろうと思います。

     しかし、ここにあっては、元々のお釈迦様の本意としては、八正道を

     しっかりやりなさいという具体的な、しかし理想を求める態度だという

     ことになりそうです。

     少なくとも、お釈迦様は形而上学は語らなかったわけですから、この現実

     の社会の中でなすべきことをなせということになりそうです。

 

p132

 

彼岸は死後の世界ではない。 八正道を実行する人の立っている世界である。

自我を孤立して考えるような人々のいない仲間である。 縁起のいわれのよくわかった

人の住所のことである。 こうした人々こそが「得度者」である。

「得度」とは此の岸をわたって、彼岸にたどりつくことであって・・・・・

 

・・・釈尊の示されたる中道、八正道、正法律に随順した者を指すのである。

彼岸はまことに、この此岸の上に自覚した者の名である。

 

==>> つまり、これから判断すると、現在の日本仏教のあり方ではなく、

     その1で書いた、現在のインド仏教のようなあり方が、お釈迦様の思想に

     近いってことみたいです。

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/01/blog-post_3.html

 

 

p142

 

普通から考えたら、こうした出家をすること、自分らの妻子を家にのこして去った

ということはとうてい、社会道徳としても、個人道徳としても、許されるべきことでは

ない。

 

・・・しかるに釈尊は、かかる一見、非人道的に見ゆる行為を絶対に支持し、

「これ真のバラモンなり」とさえ言いはなっていられる

 

・・・中国にはじめて仏教が流行しだした当時、中国上下をあげて仏教を批難したのは、

実にこの出家という行為によって家族制度をゆるがせたためである。

しかし、インドは由来、「出家」ということの習慣と制度、とくにそれを必要とする

経済的基礎さえ持っていたのである。 したがって、釈尊はそうした社会的風習と

いう大きな庇護のもとにこの出家行為を支持したのである。

 

・・・したがって、釈尊はかかる出家の道を万人に要求されはしなかった。

 

==>> ここに書いてあるだけでは、はっきり分からないのですが、

     世界の地域、そこの経済構造、時代などなどの様々な環境要因によっては

     仏教という思想あるいは制度が拒否されたり受け入れられたりすると

     いうことのようです。

     金持ちの財産をお布施という形で集めて、それを貧困者への福祉的な

     ものに分配するという機能があったのかもしれません。

     それは国や時代によっては、税金という形でもあろうかと思います。

                                                                                                                                          

     上記の中の「出家という行為によって家族制度をゆるがせた」という部分は、

     今いろいろと議論されている「選択的夫婦別姓」を思い起こさせます。

     日本の一部には、この制度を認めると伝統的な日本文化が失われるという

     ような話もあるようです。

     しかし、私のような根無し草にとってみれば、地元では経済的に高等教育も

     受けられないし、都会に出なければ仕事もなかなかない、というような

     もっぱら経済的な事情で家を出て、故郷を出て、都会で仕事をして、

     いわゆる核家族化して、大家族主義が維持できなくなったという経緯ですから、

     単なる戸籍上の縛りだけで、伝統的なものが守れるとは到底考えられません。

     それを言うなら、日本の経済政策が、日本をそのように変えてきたというべき

     ではないかと思います。

 

p145

 

女性といえども、個性の完成への導きによって、ひろく、大きく、かつ、高く、社会に

処しうる一つの活路がひらかれているのである。バーリ語の経典に、「長老尼偈」という

のがあるが、それは女性の出家者たちのうたった詩集である。

 

p146

 

仏教は決して女性をいやしい位置におこうとはしていない。 個人性の完成をする上に

おいて、まったく同等の能力をみとめもし、かつ、多くの標本を所有しているのである。

 

==>> さて、 男女の扱いについて、各宗教ではどんなことになっているの

     でしょうか。 下のリンクにまとめてありました。

 

     「男尊女卑は仏教にもある?」

     https://true-buddhism.com/teachings/feminism/

     「人類の歴史上、ほとんどの社会が父系社会で、宗教でも、ほとんどが男尊女卑

の傾向にありました。」

キリスト教では、神は父ですから男です。それに似せて男であるアダムを創り、

女はそのあばら程度のものです。そして神に禁じられていた「知恵の実」を食べ

て、男にも勧め、原罪を造ります。」

イスラムでは、上記の旧約聖書も用いますし、コーランには

「アッラーはもともと男と女の間には優劣をおつけになった」とあります。

遺産相続では、コーランに「アッラーはこうお命じになっておられる。 男の子

には女の子の二人分を」とあり・・・」

日本の神道では、国を生んだ神であるイザナミは、夫のイザナギよりも先に

死んでしまいます。神道では死をケガレとしますが、血もケガレとします。

そのため神道では、女性は穢れているとして、・・・」

儒教の『儀礼ぎらい』には、有名な「未だ嫁さずは父に従い、 既に嫁しては

夫に従い、 夫死しては子に従うものなり」という「三従さんじゅうの義」を

教えています。」

ヒンドゥー教の前身であるバラモン教の『マヌ法典』にも「女は幼いうちは

父に、若い時は夫に、 夫が死んだ時は息子に守られるべし。 自立はふさわし

くない」・・・・」

仏教が説かれた当時のインドでは、バラモン教による熾烈なカースト制度の

身分差別に加え、男尊女卑の社会でした。そんな差別社会にあって、ブッダは

万人の平等を説かれていますから、もちろん男女平等です。」

 

     ・・・こりゃあ、もう、女性は仏教徒になるっきゃない、ですかねえ。

     もちろん、上記は教義的にどうかという話であって、現在の各国の実情を

     表すものではないと思います。

 

     では、現在の「男女平等度ランキング」を見てみましょう。

     2021年の男女平等度ランキングを掲載しています(対象: 世界、156ヶ国)

     https://ecodb.net/ranking/ggap.html

     日本は堂々の120位になっています・・・涙

     天照大御神や卑弥呼さんたちがいたというヤマトの国はどうしたんでしょうか。

     ちなみに、私が十数年住んで来たフィリピンは17位です。

     アジアでは第一位。

     アメリカは30位になっています。

     フィリピンの宗教はほぼキリスト教、教育はアメリカ・スタイルだそうです。

 

     

p147

 

ある朝、釈尊は衣をつけ、鉢を手にもって舎衛城に入って乞食した。

 

p149

 

・・・何ごとにかかわらず、条件的な行動、結果にひきずられているような行動では

出家比丘の本領ではないというのである。 なぜならば、比丘はその生活の保証を

世間に仰いでいる。 なんら自分の衣食に気づかいをもつ必要がないのである。

かくしてこそ、悠々自適、任運自然の三昧行が出来なくてはならぬはずである。

 

国家の給与にめぐまれたる者、会社銀行その他に禄をはむ者も、程度の差こそあれ、

衣食に顧念のない人々はこうした比丘に準ずるところがあってよかろう

 

==>> 「衣食に顧念のない人々はこうした比丘に準ずるところがあってよかろう」

     という言葉は、私のような年金受給者にも当てはまると考えてよさそうです。

     ということは、「条件的な行動、結果にひきずられているような行動では

出家比丘の本領ではない」ということで言えば、ひきずられる必要が

ないということにもなりそうです。

年金制度が破綻したら、それにひきずられることになるのでしょうが。

とりあえず、年金制度をとおしてお布施をいただいているものと感謝しながら、

「阿含経」を読んでいきましょう。

 

p153

 

「・・・商人たちよ、そのとおりだ。 もしお前たちが廣野を歩いているときに恐怖心

が起こってきたら、如来事、法事、僧事を念じなさい」

それから仏陀はさらに商人たちのために供養随喜の詩をうたい、さらにいろいろと彼らの

ために法を説かれたので、心よろこんで彼らは立ち去ったーーー

 

==>> ここでは「仏法僧を念ぜよ」というところなのですが、

     著者はこのような記述は、釈迦が生きていた時期にはなかったのでは

     ないかと疑義を唱えています。

     どういうことかと言いますと、

 

p153

 

いろいろな見方もあろうけれども、私のいままでの貧しい研究の結果、思いきって

言ってみると、この一経は、とくに、その前段のごときは釈迦滅後、相当の年次の

たってから成立したものだと考えられる。 仏事、法事、僧事というものが三位一体

と組み合わせをするようになったのは到底、これを在世にまでさかのぼらせるわけには

ちょっとゆきかねる。

 

==>> つまり、お釈迦様がその口で「お前たちが旅行中に恐怖心を起こしたら、

     このおれのことを念ぜよ」などと言うわけはないだろうと考えているという

     ことです。 しかし、ここでは断定はせず、「将来の研究のために断案だけは

     さしひかえておこう」としています。

     お釈迦さんは個人崇拝を否定していた人だとされていますので、おそらく

     そのようなことは言わなかったのではないかと思います。

 

p162

 

釈尊の財物のもち方は、いわば、無我的な所有である。 自他同利にこれを用いる。

ひとにも、世間の多くの者にも、役立つように、その財物をつかうのである。

その財物を法界に生かすことである。 これが原則である。

 

==>> 年金が乞食へのお布施だとするならば、さて、これをどう使うか。

     個人的にはなかなか難しい問題です。

     なかなか無我にはねえ・・・・

 

 

p176

 

今日の浄土教徒にとって、死後の浄土がその役割を演じているように、この当時の

民衆にとっては来世の梵天往生ということは非常に大きな意味をもったらしい

この梵天往生の思想に対する釈尊の態度はきわめてはげしいものがある。

 

p177

 

梵天というものは、釈尊にとってあくまでも精神的内容をもつものである。

瞋恨のない、平和な心的状態を指したらしい。 したがって、人がそうした梵天に

ふさわしい生活をいとなむにおいてのみ、梵と一致し、梵に生まれるのだと考え

られたらしい。 したがって、梵天というものは形相的に、物質的に、地理的に

考えられたのではない。

 

==>> さて、ここでひっかかったのが「梵天」と「瞋恨」という言葉です。

     まず「瞋恨」(しんこん)は、怒りと恨みという意味のようです。

     「梵天」というとインドの人格紳が頭に浮かんだのですが、人格紳だと

     すると上記の文章がすっきりとは分かりません。

     そこで梵天の意味を下のリンクで確認すると、

     https://kotobank.jp/word/%E6%A2%B5%E5%A4%A9-135187

     「[] インドの古代宗教で、世界の創造主として尊崇された神。古代インド

思想で宇宙の根源とされるブラフマンを神格化したもの。仏教にはいって色界

(しきかい)の初禅天(しょぜんてん)に住する仏教護持の神となった。」

[2] 〘名〙

     仏語。色界の初禅天の総称。大梵天・梵輔天・梵衆天の三天があり、大梵天

は初禅天の王、梵輔天は家臣、梵衆天は一般庶民に当たる。」

・・・つまり、人格紳であるようです。

 

そこで、「インド宇宙誌」という本の中の「小乗の世界観」を読み直して

みますと、以下のようなことが分かりました。

 

小乗仏教の世界観では、一番下から欲界、色界、無色界、仏界となっていまして、

その色界の一番下に「初禅」があって、その中の一番上に「大梵天」という場所

がありました。

 

ということで、「梵天」=「梵天界」という場所の名称だとすれば、上記の

文章の意味がすんなりと入ってきます。

日本仏教の「浄土」というぐらいの意味になろうかと思います。

 

そうであるとすれば、「梵と一致し、梵に生まれる」というのが、「梵我一如」

あるいは「即身成仏」という意味として理解できそうです。

 

p181

 

これらは別段、特殊の宗教を信ぜずともわかるところの現実的の功徳である。

現実、目前にその功徳のよくわかる功徳である。 釈尊にとってはこうした、実際上、

社会民衆を益することこそが、そのまま功徳であったのである。

すなわち、個人ならびに社会全体の上にきわめて道徳的であり、利益的であることが、

そのまま、宗教的であったのである。

こうした人人こそが法に相応した人であり、立派に人間のつつしみといましめとを

具足した人であってかならず天に生まれることができるというのである。

 

==>> こういう「社会民衆を益する」ことが、そのまま「宗教的」であったという

     部分は、このブログのその1で書いたインド仏教が、まさにこれだなという

     思いがします。

     つまりその1で、私のイメージであった、

     「宗教とは形而上学であって、インドの仏教は形而上学には見えない、政治的な

社会運動に見える」と言ったことに対して、 現在のインド仏教の僧侶である

竜亀さんの返事は、「インド仏教の中にいる私としては、宗教と社会運動は私の

中ではひとつです。」との答えでした。

まさに、「宗教=社会民衆を益すること」になっているわけです。

 

 

p182

 

釈尊が生天への加行方便として、信徒に要求したところのものはあくまでも地上の

いとなみであった。 架橋造船、植園穿井のごときあくまでも現実社会の厚生利民そのもの

であった。 それは、あてどもなき神秘的な功徳行ではなかった。 実利実益を伴った

ところのものであった。

 

==>> これはまさに公共事業や福祉事業のような趣きですね。

     少なくとも神秘主義ではなかったようです。

     これに比べて日本仏教の教祖と言われている人たちが、どのような社会事業を

     実施したかについては、ほとんど情報がありません。

     弘法大師空海については、

     「48歳 讃岐(香川県)の満濃池(まんのういけ)の修築別当に任ぜられる。」

     とか、「いろいろな奇蹟を残したという伝説」があるようですが、

     これらは宗派の仕事というよりも、空海個人の偉業という扱いかなと

     思います。 どちらかと言えば、日本仏教は、神秘主義的、形而上学的、

精神主義的傾向が強いように見えます。

     浄土思想そのものがあの世の話ですから、神秘的にならざるを得ないと

     思いますが。

 

p185

 

方便具足、守護具足、善知識具足、正命具足、この四法である・・・・

 

第一の方便具足というのは自分の職業にしっかり勉強することだ。

・・・第二の守護具足というのは所得をしっかり管理することだ。

・・・第三の善知識具足というのは善い友人をもつことだ。

・・・第四には正命具足、自分の銭財をよくはかって出入のバランスをとることである。

 

・・・この四法によって人間はこの世で安楽な生活ができるのだ」

 

==>> これは在家の俗人たちがどうすれば現世で安楽を得られるかという質問に

     答えているところなんですが、随分現実的で具体的ですね。

     まさに、生活指導のような内容です。

     第二と第四はほとんど同じにしか見えませんけど、かなり経済的な部分での

     やりくりに重要度を置いているようです。

 

p194

 

釈尊は当時の天の信仰をくわしく述べてはいられない。 ただ、それは当時流行していた

民間信仰にすぎない。 そうした、従来存在した信仰を正道に流入させるための方便に

用いられたにすぎない。

 

==>> お釈迦さんは、非常に現実主義者であったがゆえに、「方便」というものを

     使ったということなのでしょう。

     スッタニパータによれば、下のようなことが書いてありました。

 

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-4c5c.html

     <在家生活上に関わるお釈迦様の考え方>

12. 肉食や乳製品は許されているが、生き物を殺すこと、打ち、切断し、

縛ること、盗むこと、嘘をつくこと、騙すこと、邪曲を学習すること、他人の妻

に親近することは「なまぐさ」だとされた。

15. 占いと医術はやってはいけない。

当時のインドの医術はヨーロッパよりも科学的で高度であったのに。

13. 賢者と交わり、愚者とは親しまない。心の安住している人が賢者である。

20.正しい方法でお金を儲けたら、修行者に喜びをもって供物を与えたらよい。 

梵天界に生まれるという功徳が得られる。」

 

 

――― 次回は「阿含経概説」を読んでいきます ―――

 

 

== 次回その5 に続きます ==

 友松圓諦著「阿含経入門」 ― その5(完) お釈迦さんは実証主義で現実主義、僧侶に「あなたは極楽浄土をみたことがあるのか」と問う? (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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