横山紘一著 「阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門」 ― その3(完) 念じれば自由になれる?  近代心理学は唯識論に似ている?

 

横山紘一著 「阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門」 ― その3(完) 念じれば自由になれる?  近代心理学は唯識論に似ている?

 

 

「第一章     心を変革する」を読んでいきます。

 


 

 

p130

 

私は大学時代には農学部水産学科で魚の血液の研究をしていました。 人間の持つ

ヘモグロビンの一種であるハプトゴロビンが魚類にもあるか、あるとしたら、それは

どのような組成なのか、これを調べるのが私の研究テーマでした。

 

しかし、座禅をはじめた頃から、・・・・いわば対象化され分析された「生命」を対象に

していたわけですが、それでいいのかという疑問が生じたのです。

 

・・・私は、この私自身の“いのち”を観察対象として、それは一体なにかを追求していき

たいと思いはじめたのです。

 

==>> これは著者の研究テーマが、「対象化され分析された生命」から「研究者自身の

     生命」に変わったことが述べられています。 いわゆる心身二元論でいうならば、

     物理的客観的なものから精神的主観的なものへの転向ということになります。

     具体的にはインド哲学科での研究を始めたようです。

 

p140

 

念とは「明記不忘」といって、あるイメージを心の中に明瞭に記憶しつづけて、それを

忘れないこと、すなわち、消し去らないという心のはたらきです。

 

たとえば、澄んだ美しい満月を心の中に描き出してください。 そしてその満月を想い

つづけてください。 すると、そのためにはかなりの集中力を発揮しつづけなければ

ならないことがわかります。その集中力が念の力です。

 

・・・すると、次第次第に念力が増し、表層心を自由に操れるようになります

私は、念の力を発揮するところに本当の自由がある、すなわち、「自らに由る」という状況

が実現していると思います。

 

==>> この部分の説明は、私が月に一度お寺で参加している瞑想会での「月輪観」

     に通じるものがあります。 月輪観では、まさにここにあるように、満月の

     絵を観て、それを瞼に浮かべ、その瞼に浮かんだ満月を、しだいに大きく

     していって、心の中で銀河系の大きさ、そしてそれ以上の広大な宇宙にまで

     拡大していくというイメージを作るような訓練をします。

     私にはまだまだ全くできませんが、それができるようになれば、それが

     「表層心を自由に操れる」状態になるということのようです。

 

p147

 

遍計所執性とは「言葉であまねく考えて、しかも執着されたありようを持つもの」

いう意味です。 たとえば、・・・「身体」がそうです。

そして、<唯識>は、そのような「もの」はけっして存在しないと主張します。

 

==>> この言葉の意味はこちらで:

     https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E6%80%A7-70825

     「実体のない存在を実体と誤認する遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)」

     つまり、素粒子のようなもので作られているこの身体は、実体がないじゃないか

     ということですね。 もっとも、この唯識が考えられた時代は、素粒子なんて

     言葉はなかったわけですが・・・・

 

p157

 

味覚だけではなく、心の中に生じるさまざまな現象をこのように分析してみましょう。

すると、あらゆる現象は無量無数の縁によって生じるという、不思議な理に気づきます。

それについて、「一切は縁起の法である」と原始仏教以来説いてきました。

ところが<唯識>は「縁起」を「依他起(えたき)」と言い換えて、

「一切は依他起の法である」といいます。

 

==>> 上のリンクの「三性(さんしょう)」のひとつが「依他起」となっています。

     「(2) 依他起 (えたきしょう) , は,他に依存して生起する性質のものと

いう意味で,万物は純粋に主観の作用のなかに存在し,因果関係によって他者

に依存して生起することをいう。」

 

・・・「縁起」は「空」であり「相互依存」であり「相依り」であると

されていますので、この「依他起」も同様に考えてよさそうです。

 

 

p163

 

縄を見て、本当は存在しないのに、それを蛇だと見まちがうことと同じであるというのです。

この「自分」への執着を「我執」といいます。 この我執こそ、私たちが「あるがままに

あるもの」を見ることが出来ない第一の壁です。

 

p164

 

そこに縄があると思う。 その思いがもう一つの壁で、用語で「法執」といいます。

法とは「自分」を構成する諸要素です。 「自分」は存在しないとわかっても、なお

「自分」を構成する要素、たとえば、この身体とさまざまな心のはたらきは存在すると

思う。 すなわち、いろいろな器官や組織、総じて60兆の細胞から成り立つこの

「身体」と、そして考え思い、悩み苦しむさまざまな「心のはたらき」(心と心所)とは、

たしかに存在すると思います。そのような思いが法執です。

 

・・・・この二つの壁を取り除いてみましょう。 

・・・その「あるがままにあるもの」こそが、・・・円成実性としての「真如」なのです。

 

==>> この言葉も上のリンクにありました:

     「(3) 円成実性 (えんじょうじっしょう) は,円満,完成,真実の性質のもの

という意味で,絶対の境地を表わしている。」

 

 

p173

 

私たちは小腸で栄養を吸収しているがそれは小腸の表面にある約3000万本の繊毛

はたらきによる。その一本の繊毛ごとに約5千個の栄養吸収細胞があるため、その

栄養吸収細胞は小腸全体で1500億個になる。 そして、その栄養吸収細胞は、

いちばん生命の短いものでは、たった24時間でその使命を終える。 しかし、生命を

終えた細胞の下にある細胞が、いわばところてん式に次々と押し上がってきて、栄養の

吸収を維持し続けるのだ。

 

==>> いやはや、数にも驚きますが、見当もつきません。

     もっと驚いたのは、細胞の寿命です。 24時間で死んでしまう。入れ替わって

     しまう。 

     人体の部位によって、細胞の寿命は異なるようですが、この繊毛の細胞が

     一番短命であるようです。

 

     脳や心臓は死ぬまで一緒であるようです。だから、代役が効かない。

     https://www.js-brain.com/neuron.html

     「神経細胞の寿命は90年と考えられているが、老化とともに徐々に減少して

行く。海馬の神経細胞は40歳を過ぎると、10年で5%減少して行くと言わ

れる。」

https://okuda4274.hp-ez.com/page25/bid-290103

「細胞の寿命は、細胞の存在する場所によって、さまざま に異なります。

心臓をつくる心筋細胞のように、生まれて から死ぬまで一生変わらないもの

もあれば、一方で血液中 の赤血球は約120日で死んで、新しい細胞と入れ替わ

りま す。白血球のうちリンパ球はT細胞が46ヶ月、B細胞が 2日~2ヶ月

です。皮膚の細胞は約1ヶ月で入れ替わりま すが紫外線を浴びると短かくなり

ます。」

 

・・・これを見ると、脳に関しては、40歳がピークだということになるの

でしょうか??

私は、もう70を超えていますから、海馬の細胞は15%ぐらいは減少して

いるってことになります。

 

ところで、この「海馬」の役割なんですが:

https://elife-media.jp/6485

「海馬の役割は、記憶の中枢です。 人間が見たり、聞いたり、味わったり、

匂いを嗅いだり、触れたりした刺激は、すべて海馬で統括されます。 海馬では

その情報が、必要か不要かを判断し、必要なものだけを保存します。 そして、

保存した情報が必要になった時は、思い出す作業もします。

日常的な出来事や覚えた情報は、海馬の中で整理整頓され、その後、大脳皮質に

保存されていきます。脳の中で、新しい記憶は海馬に、古い記憶は大脳皮質

ファイルされているのです。」

・・・こういう重要な役割を持つ海馬が、私の場合は15%ほど減少している

って話ですから、そりゃあ覚えるどころかどんどん忘れるわけですね。

     海馬を鍛える方法もこのリンクに書いてありますので、気になる方は

     どうぞお試しください。

     私は無精者なんで、やりません。

 

p196

 

涅槃に対比される言葉は生死です。 そして生死は有為、涅槃は無為とも定義されます。

 

・・・有為はよく「有為転変」という語として使われますが、サンスクリットでは

サンスクリタといい、「作られた」という意味で、現代の表現でいえば「現象」

あたります。

無為はその反対で、アサンスクリタといい、「作られないもの」、すなわち、「非現象」に

あたります。

 

そして、有為の生死の世界は苦の世界、無為の涅槃の世界は楽の世界ですので、有為の

世界から無為の世界に入ることが修行の目的になります。

 

==>> そうですか、修行の目的はそこにありますか。

     とりあえず、毎月の瞑想会で念には念を入れて頑張ってみましょう。

     ・・と言いながら、一月は初詣三昧をしていて、うっかり瞑想会の日を

     失念してしまいました。 海馬がうまく働いていませんねえ。困ったもんだ。

 

一応、この本は読み終わりましたので、おさらいを兼ねて、こちらのサイトで

ざっと見直してみましょう。

ただし、このサイトはビジネス系のサイトです。

https://blogs.itmedia.co.jp/toppakoh/2019/11/ai_6.html

 

唯識論は、フロイトやユングが開拓した近代心理学に似ている。人間の心を8層に分けて

いるのだが、そのうち最下層の2つ、末那識(まなしき)と阿頼耶識がフロイトのいう

無意識に相当する。そのうち阿頼耶識はユングのいう集合的無意識とよく似た概念

なっている。」

 

「だが、似ているには違いないが同じものだと思うのも早計だ。集合的無意識といえばなんとなく分かるので、たとえとして使っているだけ。これで分かった気になってはいけない。」

 

ユング心理学では「元型」というものを重要視している。たとえば太母や老賢人という

元型が有名だ。太母は母なる大地の象徴とであり生命的原理を表す。老賢人は知恵の原理だ。

この生命的原理を母にたとえたり、知恵を老人にたとえたりするということは広く世界中

で共通している。

 

なぜ世界的に共通しているかということの説明で出てくるのが、集合的無意識だ。ユングは

個々人の意識が集合的無意識によって交流していると考えたのである。」

 

「同一視はいけないとしても、阿頼耶識とは集合的無意識に似ているということで、以後は

阿頼耶識を主語に話をしていこう(何しろ禅がテーマの1要素なので)。

阿頼耶識の特徴は2つ。1つは無意識であること。通常では意識できない領域だということ

だ。」

 

阿頼耶識のもう1つの特徴は、ネットワークであること。集合的無意識では時空を超える

無意識の交流があるが、阿頼耶識ではさらに時間も超える。過去や未来もつなぐのだ

(ただし禅においては、そもそも現在しかないという考え方がある)。」

 

==>> 上記に「唯識論は、フロイトやユングが開拓した近代心理学に似ている。」と

     書いてあるのですが、唯識の方が古いんだから、逆じゃないかなあ~~。

     

私がこの本で気になったのは、こちらです:

 

p040

内的な原因を唯識思想は、心の最下層である阿頼耶識に、正式には阿頼耶識の中の

種子・・・に求めるのです。 それを、「一切は阿頼耶識から作られたものである」

主張するのです。

 

p044

<唯識>は、因縁とは阿頼耶識の中にある種子であると説いて、因縁に関する論争に終止符

を打ちました。

 

p071

唯識思想を打ち出した人びとは、ヨーガという実践を通して自らの心の奥深くに沈潜して、

阿頼耶識という根本心を発見したのです。

そしてその阿頼耶識から一人一宇宙のすべてが生じると主張するに至ったのです。

 

p092

仏教は、「縁起」や「無我」や「空」を説くことによって、物を実体概念ではなく

関係概念でとらえるべきであると主張してきましたが、科学の世界においても、同じこと

がいわれはじめたのです。

 

p120

深層心である阿頼耶識のはたらきの一つに、

「阿頼耶識は身体を作りだし、その身体を生理的・有機的に維持している」 という

考えがあります。 そしてその維持は相互因果関係にある、・・・・

 

===>>  つまり、阿頼耶識から全てが生みだされるということのようです。

       上のビジネス系サイトに書いてある「集団的無意識」については、

       この本には特に書いてはありませんが、ひとつだけ、もしかしたら

       これのことかなという記述がありました。

 

p195

 

「無上正覚」こそが、「養成された認識形式」によって獲得された心であるといえる

でしょう。 それまでの一人一宇宙の世界の枠が爆発して、新たな世界に超入したという

ことです。 この新たな世界、それこそが涅槃の世界です。

 

==>> しかし、これは修行をしたお釈迦様の世界ですから、すべての人類に共通

     する集団的無意識とは関係なさそうです。

     おそらく、集団的無意識というのが有るとするならば、素領域論を基礎とした

     完全調和の真空を前提とした「神の物理学」のような理論があてはまるの

     ではないかと感じます。

     保江邦夫著 「神の物理学 甦る素領域理論」 ― 湯川秀樹の「素領域理論」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post_65.html

 

     ただし、こういう神懸った考え方は、今の私は、あまり好きではありません。

     もしかしたら、いずれ好きになるかもしれませんが。

 

 

==== 完 ====

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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