横山紘一著 「阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門」 ― その2 有るのでも、無いのでもない。 「知らぬが仏」の言霊。 量子力学が仏教を補強する??
横山紘一著 「阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門」 ― その2 有るのでも、無いのでもない。 「知らぬが仏」の言霊。 量子力学が仏教を補強する??
「第一章
心の中を探る」の「ヨーガによる深層心の発見」からです。
p077
1. 末那識は「深層にはたらく自我執着心」。
常に阿頼耶識を対象として「自分」(我)と執する。表層心がエゴで汚れている
原因は末那識である。
2. 阿頼耶識は「深層にはたらく根本心」。 一人一宇宙の中のすべての存在を生じさせる
可能性を有していることから、その可能力を植物の種に喩えて「一切種子識」ともいう。
眼識ないし末那識を生じさせる。 身体を作りだし、それを生理的に維持している。
自然をも作りだし、それを常に認識しつづけている。
==>> ここは、「八識」を説明している部分です。
八識とは、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識の5つの感覚と、 意識(思考)、
そして、意識の下にある末那識と阿頼耶識の、あわせて8つの識のことです。
p079
この「意識」という語は、いまでは心の経験内容全体を意味する語ですが、これは明治
時代以後、consciousness や Bewusstsein などの西洋の語に対する訳語として用いられる
ようになったものです。 しかしこの訳語は、もともとは仏教が六識あるいは八識の
一つとして説いた「意識」から借りてきたもの・・・・
・・・<唯識>が説く「意識」には・・・・
1. 感覚とともにはたらいて感覚を鮮明にする。
2. 言葉を用いて概念的な思考をおこなう。
==>> 八識の中の「意識」には、このような働きがあることが述べられています。
確かに、自分自身を振り返ってみても、そのようなことかなと思います。
p086
存在の真のありようは「有るのでもなく、無いのでもない」というのです。
当時は自然科学を学んでおり、また、深く物事を考えることもなく、もののありようは
有るか無いかのどちらかであるという常識の世界に生きていたので、びっくりしました。
その後、仏教に転向してから、この「非有非無」という語が、釈尊の説く中道の「中」を
理解するうえで、また、<唯識>を学ぶに及び、存在の究極のありようである「空」を
理解するうえで大切な概念であることを知りました。
==>> ここには著者・横山さんが自然科学から仏教に転向した理由が述べられ
ています。
横山さんは、東京大学農学部水産学科を卒業後に、東京大学大学院印度哲学科
の博士課程修了となっています。水産から哲学とは思いきったものですね。
p091
「物は分子、原子などから成り立っているから、物が変化するとは、その構成要素の
構造が変わったためである」
と主張する人もいるでしょう。
でも、最近の量子力学の発達によって、分子、原子を構成する素粒子は、ある大きさを
もった実体的なものではないことが判明しました。 このように、科学的にも、この世界
には「実体」としての物は何一つないという事実が発見されました。
p092
仏教は、「縁起」や「無我」や「空」を説くことによって、物を実体概念ではなく
関係概念でとらえるべきであると主張してきましたが、科学の世界においても、同じこと
がいわれはじめたのです。
==>> この辺りに関しては、過去に読んできた本で、現代ではそういうことが
常識になってきているってことは学びました。
こちらのサイトには、素粒子のことが詳しく書いてありました。
「素粒子が大きさを持たない点粒子である理由①量子力学による説明」
https://information-station.xyz/2724.html
「現在物理学の主流派である標準理論(Standard
Model、標準モデル)では、
存在の究極の単位である素粒子は、大きさを全く持たない点粒子(point particle、
空間的広がりを一切持たない大きさゼロの粒子)とされています。」
また、こちらのサイトの説明によれば:
https://kotobank.jp/word/%E7%B4%A0%E7%B2%92%E5%AD%90-90424
「素粒子【そりゅうし】
現代の物理学において物質または場を構成する基本粒子と考えられている実体。
粒子と波動の二面性をもち,また不変のものでなく相互作用により相互に転換
したり生成消滅したりする。基本的な属性として質量(電子質量またはMeVを
単位として表す),電荷(電子の電荷を単位として0または±1),スピン(整数
または半整数)があるほか,相互作用に関連してストレンジネス,パリティなど
をもつ。」
・・・これらを読むと、粒子でありながら大きさは無く、波でもあって、
不変でもなく、相互作用で生成消滅するということになります。
まさに「非有非無」というイメージそのものですね。
p094
あるのは「視覚」だけ「触覚」だけです。 言い換えれば、感覚のデータだけです。
そのデータに対して、それを「手」であると言葉でいって、そのデータを「手」という
「もの」に加工してしまうのです。 しかも、加工された「もの」は、感覚を離れて
別に存在すると考えてしまうのです。 無反省に、常識で「手」はあり、それは身体の
一部であると言葉で考えてしまうのです。
・・・見られる対象であるリンゴも「心」の中にあり、見る視覚も「心」ですから、実は、
見るとは、 「心が心を見る」のです。
これが<唯識>が説く認識の基本構造です。
==>> はい、つまり、こういうことが脳の中で起こっているということに
なりますね。
p096
「相」とは、・・・「影像」の言い換えです。
相は「すがた」「ありよう」などを意味する語ですが、<唯識>は、心の中に生じてくる
すべての認識対象をこの「相」という語でまとめます。 ヨーロッパの哲学用語でいえば、
観念(キデアidea)、あるいは表象・・・にあたります。
・・・相には次の三種があります。
感覚表象、情緒表象、言語表象
・・・眼の前のリンゴは心の中の影像、相、観念、表象であるのに、私たちは、それに
気づかず、無反省に、常識で、「ここに赤く丸いリンゴがある。 それは心を離れて存在
する」と言葉で考えてしまうのです。
==>> すべてが心の中に映し出された表象である・・・ってことになると、
3Dホログラムというのか、立体映像の「初音ミク」も、映画マトリックスも、
実体と思い込んでいるナマの世界と、基本的には同じってことになりますか
ねえ。 では、ここで、その初音ミクをお楽しみください。
【初音ミク】「ミクの日大感謝祭」ダイジェスト映像
https://www.youtube.com/watch?v=rqg4Eun7fgs
p100
最近の量子論は、物の最小単位である素粒子も、ある大きさを持った粒子ではないという
結論に達しました。しかもその存在のありようは、観察する側の心のありようによって
左右される、すなわち、私たちは、物に対しては観察者ではなく関与者であるという事実
が発見されました。
==>> 「その存在のありようは、観察する側の心のありようによって左右される」
ってところが凄いところですね。
これは「観察者効果」のことを言っているようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E5%AF%9F%E8%80%85%E5%8A%B9%E6%9E%9C
「科学における観察者効果とは、観察するという行為が観察される現象に与える
変化を指す。例えば、電子を見ようとすると、まず光子がそれと相互作用しな
ければならず、その相互作用によって電子の軌道が変化する。原理的には他の
直接的でない観測手段でも電子に影響を与える。実際の観察をしなくても、電子
が観測可能な位置に単に入っただけでも、理論上はその位置が変化してしまう。」
・・・つまりは、「見る」ということ自体がその対象を変化させてしまうって
ことみたいです。
卑近な例でいえば、誰かにジロジロみられたら、見られている方の態度に
なんらかの影響を与える・・・とか???
すでに、そこに「相互作用」ってものが働いているって話ですかね。
p101
いじめは「言葉」が生み出している
―― 「憎い人」とは、思いと言葉の二つによって作りだされたもの
たとえば、私が眼の前にいる人を「あの人は憎い」と思うとします。
いま「思う」といいましたが、「あの人は憎い」と考える、と「考える」ということも
できます。
・・・「思い」とは、まだ言葉がまじらない心作用、すなわち増悪心(煩悩の一つで
ある瞋恚(しんい))であると定義します。 そして「考える」とは言葉で考えることで
あると定義します。 そうしますと、「「憎い人」とは、思いと言葉の二つによって作り
だされたもの」ということができます。
p103
最近小中学生の間で「ウザい」という言葉が流行になっていますが、メールなどで
この語がやりとりされ、いじめの一つのタイプとなっています。 この種のいじめでは、
ただ単に「言葉」だけが行き交い、「思い」がない場合があるでしょう。 何の意味も
感情もなく、つい「ウザい」と使ってしまったがために、本当にいじめの対象になって
いく事実があるのです。
・・・言葉が持つ力なり、はたらきなりをしっかりと理解する必要があります。
==>> この二つの定義には私も賛成です。
そこで頭に浮かぶのはやっぱり「言霊」でしょうか。
アメリカなどで蔓延っている陰謀論なども、言霊の一種かと思います。
https://kotobank.jp/word/%E8%A8%80%E9%9C%8A-503099
「言霊【ことだま】
言葉に宿る霊の意。古代の日本人は言葉に宿る霊力が,言語表現の内容を現実に
実現することがあると信じていた。言霊の信仰によって言葉を積極的に使って
言霊をはたらかせようとする考えと,言葉の使用をつつしんだり避けたりする
考えとの二つの面がある。日本では和歌において言霊の思想がうけつがれ,のち
の時代にまで影響を与えた。」
「【起源】
おそらくすべての〈遊び〉と同様に,言語遊戯もその根本は呪術的,祭儀的,
神事的であると思われる。単なる日常的コミュニケーションのための記号では
なく,言語そのものに〈言霊(ことだま)〉がそなわっているという古代的信仰
は洋の東西を問わず遍在している。したがって,逆にいえば,祈禱文や呪文から
呪術性・秘教性を取り去るならば,純粋なゲームに見えてくることになる。」
・・・・・祈禱や呪術ということでいえば、念仏もそうでしょうし、特に密教
の場合はその要素が強いように思います。
空海さんは言語学のような本も著していますしね。
空海著 加藤精一編 「即身成仏義」、「声字実相義」、「吽字義」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/02/post-7535b7.html
「p105
訶(か)字の実義を論じます。
「大日経疏」巻七に「訶字の教理というのは、すべての物の生ずる原因は結局は
確定することができない、ということです。なぜならば、すべてのものは変化し
つつ、それぞれの原因が生じた時に結果となって成立するものなのです。
まさに知るべきことは、最後の最後は原因などつかめないのです。
ですから一定の場所に長く住さないということをすべての根本とするのです。
その理由は、「中論」に説かれる自、他、共、無因の四不生観をもってすべて
の物の因縁を観察してみると、すべての場合「不生」であり、自然には生じて
いないということです。まさに、すべての現象は唯だ自心の心の作用に過ぎず、
存在するのは唯だ心だけなのです。」
・・・・それにしても、子供の「言霊」は残酷な場合がありますね。
大人の場合もそうですが、対処策としては「知らぬが仏」でしょうか。
https://career-picks.com/business-yougo/shiranugahotoke/
「知らぬが仏
知ると不愉快になるものごとでも、知らなければ心を乱すことはない
知らなければ穏やかな気持ちでいられることを言います。」
「「知らぬが仏」は、もともと「江戸いろはかるた」の一句として登場しました。
江戸いろはかるたとは、いろは47文字に対応したかるたのことで、 もともと
は弘法大師が作った仏教の教えのことです。」
p105
<唯識>を唱えた人びとは、ヨーガによって内心深く沈潜して、「深層で、常に自分、
自分と執着しつづけている心」を発見し、それを末那識と名づけたのです。
この深層ではたらく自我執着心の、いわばほとばしりが表層の心の中に吹き出してきて、
それが「自分」という思いとなるのです。
・・・そのヤカンの熱湯の如きものが、心の深奥で常にはたらいていると考えるならば、
表層で、「自分」という思いがいつも生じ、そしてその思いを容易にはなくすことができ
ないという現実の原因を推測できるようになるでしょう。
==>> この末那識に付随している煩悩が4つあると書いてあります。
この本の説明と、下のサイトを参考に書いています。
微妙な違いもありますが・・・・
我癡(がち)= 自分に愚かである、素晴らしい自分の本当の姿をしらない
我見(がけん)= 自分が有るとみる、
素晴らしい自分を、素晴らしくないと思い執着することです。
我慢(がまん)= 自分を自慢する、
自分の存在に固執するために、相手を非難し侮ることです。
自分以外のものを対象として比べ、自分自身を確かめよう
とするものです。
我愛(があい)= 自分を愛しいと思う、
自分だけを愛する、すなわちナルシストです。
・・・我見の解釈は、著者とリンクしたサイトでは異なっているように見えます。
我慢というのは、一般の「耐え忍ぶ」意味とはかなり違っていますね。
「自慢」することを耐え忍びなさいという意味の逆転で、今の我慢になったの
でしょうか?
p109
この「識」は、フロイトやユングの説く無意識とよく比較されますが、両者は根源的に
異なるものです。
彼らが説く無意識という潜在意識は、神経症などの患者の言動を通して「無意識はある
だろう」と臨床的に推測した結果として唱えられたものですが、
阿頼耶識は、ヨーガを実践するヨーガ行者が、心の奥底に沈潜して自ら発見したものです。
ヨーガ行者たちは、その記憶が潜んでいる“蔵のような場所”を発見し、それに阿頼耶識と
いう名称を付与したのです。
==>> ここで、下のようなサイトがありましたので、西洋心理学のユングと
仏教での考え方の違いをさらっと見ておきましょう。
「西洋と東洋の深層心理比較」
「結果として両者の間で根本的なカテゴリーの相違について,客観的検証が
なされていないのが現状です。」
「ユング心理学の目標である「個性化」概念であり,それを集中的に表現したの
がマンダラと言えるのではないかと思います。」
「密教の曼荼羅は,ユングのマンダラが自我または自己の小宇宙であるのに
対し,大日如来を中心とした大宇宙です。ユングのマンダラが自我の確立にある
のに対して,密教の曼荼羅は無我になって大宇宙あるいは仏の世界に,自身を
投入または神秘的融即することにあります。したがって両者の図形は類似して
いても,内容と役割はまったく正反対です。」
「ユング心理学の核心は,あくまで価値体系の主体である自我の確立です。
これは自我(光)が,影の個人的無意識とうまく補償関係を保ち,闇の集合的
無意識の奔流から自らを守りながら必要なものだけ取り入れ意識化(個性化)
することにより,自我を完成すること,つまり自己になることが目標になり
ます。」
「唯識思想の表層意識は六識(眼,耳,鼻,舌,身,意)あるいは視覚,聴覚,
臭覚,味覚,触覚,感覚の六感覚からなり,これはユング心理学の自我意識に
対応します。唯識思想における潜在意識はユング心理学の無意識で,その内訳で
あるマナ識は個人的無意識,アーラヤ識は集合的無意識に対応します。さらに
言えば,唯識の梵行はユングの個性化で,唯識の円成実性の境地(悟り)は
ユングの自己に当たると言えます。
しかし,前述のように内容のほうは大違いです。ユング心理学では,自我意識が
実在の中心であるのに対して,唯識では意識は仮象(したがって当然無我となる)
であり,すべては仮の唯一の実在であるアーラヤ識から生起すると考えますが,
円成実性のレベルになると仮の実在であるアーラヤ識も消えてしまうという,
空の思想(非実在論)になってしまいます。」
・・・と言うことで、一応構造的な対応関係はありそうですが、内容的には
正反対ということだそうです。
p110
業とはサンスクリットでカルマといい、それには「身業」と「口業」と「意業」、
すなわち、「身体」と「言葉」と「心」の三つのはたらきがあります。
阿頼耶識はそれら三つのはたらきの結果を受け止めている貯蔵庫のような心です。
・・・だから、人が生まれたときからいままで行ってきた業の結果は、すべて
阿頼耶識の中に記憶として貯蔵されています。
==>> 「三業」とその関連で密教の「三密」をちょっと確認しておきます。
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E6%A5%AD-70645
「三業さんごう
仏教用語。 (1) 身体的な行動 (身業) ,(2) 言葉を発すること (口業) ,
(3) 心に思う働き (意業) の3つの総称。これらは必ず善悪,苦楽の結果 (果報)
をもたらし,業があるかぎり輪廻は続くと考えられた。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E5%AF%86-71523
「仏教用語。秘密の三業(さんごう)(身(しん)・口(く)・意(い)によって行われ
る理想的行為)の意。すなわち身密・語密(口密)・意密(心密)の三で、
おもに密教でいう。顕教(けんぎょう)では、凡人では推し測れない仏の三業を
いうが、密教では、仏の三業は体(たい)・相(そう)・用(ゆう)の三大のなかの
用大(真如(しんにょ)の働き)であって、衆生(しゅじょう)の三業もまたその
隠された本性においては仏の三業とまったく同じであるとして三密という。」
p118
量子力学のミクロの世界の解明によって次のような事実が発見されました・・・
「私たち人間は、存在のありようを観察しているのではなく、存在に関与している
のである」
・・・「その存在といわば「一つのセット」の中にある関与者である」という事実が
判明したのです。
p120
深層心である阿頼耶識のはたらきの一つに、
「阿頼耶識は身体を作りだし、その身体を生理的・有機的に維持している」 という
考えがあります。 そしてその維持は相互因果関係にある、すなわち、深層心が
良い状態にあれば、身体も良くなり、逆に悪い状態にあれば、身体も悪くなる。
また身体が良い状態であれば、深層心も良くなり、逆に悪い状態にあれば深層心も悪く
なる ―― と、相互に因となり果となる関係にある、というのです。
==>> 量子力学における相互関与関係と、阿頼耶識と身体との相互関係に似たような
関係がみられるというのは感じますが、詳しくみればおそらくいろいろと
解釈の余地はあるのでしょうね。
それに「阿頼耶識は身体を作りだし」という部分には、遺伝子が身体を生み出す
ようなニュアンスを感じます。
いずれにせよ、「病は気から」とか「笑う門には福来る」などという言い方も
昔からあるわけですから、心と体が影響しあっているのは確かだと思います。
では、次回は「第二章 心を変革する」に入りましょう。
=== 次回その3 に続きます ===
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