永井均著「ウィトゲンシュタイン入門」を読む ― その3 世界を写し取る言葉、世界の意味は私の限界の範囲内で存在を与えられる??

永井均著「ウィトゲンシュタイン入門」を読む ― その3 世界を写し取る言葉、世界の意味は私の限界の範囲内で存在を与えられる??

  

今回は

「第2章              像 前期ウィトゲンシュタイン哲学」の中の

「3 言語はいかに世界をとらえるかーー写像と心理関数」に入ります。

 

 


 

p059

 

肖像画であれ、地図であれ、楽譜であれ、およそ現実(人物、地形、音楽)を記号的に

表現し直そうとすれば、その記号的表現は現実の写像でなければならない。

 

p060

 

世界の構成要素と言語の構成要素とは対応しているのであって、言葉を語るということの

本質は、世界において成立している事実を写像することにある、というわけである。

 

p061

 

つまり、言葉がちゃんとした意味をもつためには、それは写像命題からできあがっている

のでなければならないのである。 人が語っている言葉を分析して、それがちゃんとした

意味をもっているかどうかを判定すること、そこに(のみ)哲学の役割を認めるという

考え方が、ここから出てくることは、容易に理解できることであろう。

 

==>> まあ、これは哲学的な話ですから、事実ではなく嘘を語っている言葉は

     どういう扱いになるんでしょうか。 今は昔よりも、何倍もの嘘がはびこって

     いるようにも感じますが、事実というものをどう捉えるかによっては、

     大昔は嘘だらけだったという話にもなりそうですが・・・・

     つまり、人間の妄想をどう考えるのかって話です。

 

p060

 

命題は像である。 像を構成する諸要素は、それによって写像されるものの持つ

諸要素に対応する。 だから、命題を構成する諸要素も、命題によって写像されるものの

持つ諸要素に対応することになる。

 

p061

 

ところがウィトゲンシュタインは、究極的な写像命題である要素命題というものの

実例を、まったく挙げていない。 ここにも「論考」の先験哲学的な本性がかいま見える

だろう。 

 

p062

 

だがしかし、われわれはしばしば間違ったことを言う。つまり、世界に実際に起こって

いることと対応していないことを言うではないか。

 

意味のある命題とは(実際にそうであるかどうかは別にして)そうでありうることを、

つまり可能な事態を語る命題なのである。

 

簡単に言えばこうだ。 われわれが文を作るとき、われわれは対象の名前を配列している。

この配列は世界の中の可能な配列の一つに対応しているはずだ。 この配列が世界の中

現実に起こっているならば、われわれの作った文は真となる。そうでなければ、それは

偽となる。 もし、その名前の配列が事物の配列を写すことができないように配列されて

いるならば、それは無意味となる

 

==>> 「命題」という言葉にひっかかっていたんですが、これを「像」であると

     すなおに受け取れば、なんとか理解はできそうです。

     現実の起こっていれば「真」、そうでなければ「偽」、言葉の配列がはちゃめちゃ

     ならば「無意味」ってことのようです。

     ただし、それが現実に起こっているかどうかをどう判定するのかに疑問が

     残ります。

     実際問題として、いま世界、特にアメリカで起こっていることは、その現実

     が白か黒かで分断されてますからねえ。困ったものです。

 

p064

 

命題は、それを構成する名辞の配列そのものによって、直接に事態を写像するのであって、

その写像関係の外に出て、その関係そのものを再び命題によって写像することはできない

のである。 言語と世界の関係そのものは、もはや言語の内に写像されない

 

==>> さて、この辺りから私の理解が及ばなくなっていくんです。

     おそらく、世界の中に事態があって、それを言葉によって写し取るという

     関係にある場合、その両者をさらに上のレベルから俯瞰するような見方は

     言葉の世界にあるものには不可能だということだと思います。

     もしあるとすれば、言葉じゃなくて直感みたいなものでしょうかね?

     そうだとすれば、それは超越的とか先験的とか呼ばれるものになるのでしょう。

 

 

p065

 

たとえばわれわれは「多摩川の上流に大雨が降った」という文をみれば、即座に

多摩川の上流に大雨が降ったという事実を理解する。 この根源的な写像把握を

『多摩川の上流に雨が降った』は多摩川の上流に雨が降ったことを意味する」といった

メタ言語的表現によって描き出すことはできない。 なぜなら、この表現の中に登場する

二重括弧に入っていない方の「多摩川の上流に雨が降った」が、すでにこのメタ言語的

表現が言わんとすることを実行してしまっているからであり、それを前提としてはじめて

理解されるこの表現が、その前提そのものを語ることはできないからである。

 

p066

 

おそらくここにこそ、前期・後期を通じて変わらない、ウィトゲンシュタインの哲学

的直観の基盤がある。 ・・・・言葉の背後にある意図や、言葉に込められた思いを

持ち出すことは、何の役にも立たない。 それもまた、同じ言葉で語られざるをえない

からである。  子どもが言葉を持つようになるのはどうしてか、という問いに答えが

ないのも、実は同じ理由からである

 

・・・だが、ほんとうに難しいのは、問いに答えることではなく、答えがないこと、

あってはならないことを、覚ることなのである

 

==>> まず「メタ言語」とは何でしょうか。

https://kotobank.jp/word/%E3%83%A1%E3%82%BF%E8%A8%80%E8%AA%9E-9244

     「高次言語ともいう。われわれはしばしば(言語を使って)言語について語る。

そのとき、そこで話題とされる言語を「対象言語」とよび、それについて語る

ために使われる言語を「メタ言語」とよぶ。たとえば、英語の文法について日本

語で語る場合、英語が対象言語、日本語がメタ言語である。また、ある形式的な

記号体系を日常言語によって定式化する場合、対象言語はその記号体系自体で

あり、メタ言語は日常言語である。」

 

・・・例えば、英語が対象言語であれば、それを和訳する日本語がメタ言語

なって、 「I love you は 愛していますという意味である」ということには

意味があるけれども、「愛していますは愛していますという意味である」と

同じ言語で繰り返すのは意味がないってことですね。

例えば、「『今日は月が綺麗ですね』は愛していますという意味である」ならば

意味がありますけど・・・

 

しかし、その後の「子どもが言葉を持つようになる・・・・・」の所が

理解できません。

もしかしたら、

「『子どもが言葉を持つようになる』のは子どもが言葉を持つようになる

という意味である」としか言いようがない、ってことを言っているので

しょうか。

     確かに、「子どもが言葉を持つようになるのはどうしてか」という問いに

     答えるのはできそうにないですね。

     たぶん、自然科学的な説明はいろいろと出来そうな気がしますが、

     ここではそういうことではなさそうです。

 

     言語学系の入門書をちらちらと読んでいるのですが、研究領域がかなり

     とっちらかっていて、これという統一的なものがないらしいのは、

     どうしても超越論的な議論になってしまうからなのかもしれません。

     極端な話でいえば、「神様が人類に言葉をくれたんです」というような話に

     なってしまいそうです。

     その点、お釈迦様は「そんなムダな議論はやめておけ」と言ったのでしょう。

     「答えがないこと、あってはならないことを、覚ることなのである。」という

     著者の言葉は、なんだか暗示的です。

 

p074

 

それゆえ、「論考」の諸命題は、読者が「世界を正しくみる」ことを助けるための

一時的な方便でしかなく、いわば教育的価値しかもたない。 そして、世界を正しく

みるための梯子は、ウィトゲンシュタインの梯子一つしかないのだから、それ以外の

哲学の存在がゆるされるはずもない。 本格的な哲学は、哲学なるものの存在を許さない。

これは哲学の宿命である。 哲学一般の価値を称揚するのは、哲学の教師たちだけである。

 

==>> これは凄い爆弾発言ですね。

     そもそも、この本の最初に著者が書いていたことですが、哲学一般を語った

     ところで何の意味があるのかという話かと思います。

     哲学は自らが哲学することにこそ意味があるということなのかと思います。

 

p075

 

もちろん「論考」の形而上学だけは例外なのである。 ここで形而上学とは、「論考」の

言語論の規準からみて無意味な命題のことであり、自然科学とは有意味で真なる命題の

総体のことである。 論理実証主義のスローガンとなった「形而上学の排除」という

言葉が、その源泉においてどんな意味を持っていたかは、もはや明らかであろう。

 

たとえばニーチェは「真理とはそれなくしてはある特定の生物種が生きていけなくなる

ような種類の誤謬である」・・と言う。 これは形而上学的真理を地上に引き下ろすこと

を意図して書かれた言葉ではあるが、「論考」の規準からすればまさしく形而上学的で

ある。 逆にニーチェの形而上学批判の精神からすれば「論考」こそまさしく形而上学

的である。 ニーチェならば、「論考」の根底に形而上学者の怨恨を読み取るであろう。

 

p076

 

異なる哲学は、どこまでも互いに相手を包み込み合うことができる。 どちらに真実性

を感じ、どちらを単なる形而上学(=絵空事!)と見るか、それはその人の世界が

どんな世界であるかによるのである。

 

==>> 再確認しておきますと、「論考」というのはウィトゲンシュタインの主著で

     ある「論理哲学論考」という論文のことです。

https://kotobank.jp/word/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%88%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3-33443

     「論理実証主義と日常言語学派に大きな影響を与えた。

著「論理哲学論考」「哲学的探求」など。」

「徹底して言語の有意味性の根拠を問いつつ,〈自我〉〈言語ゲーム〉〈生活形式〉

ほかの主題に取り組んだ。」

・・・などとなっていますが、一方で、

「最初ベルリンとマンチェスターで工学を学んだ」とか建築家としての仕事も

していたようですので、自然科学は有意味であるとの考えもあったのでしょう。

 

また、「論理実証主義」については、以下の解説があります。

https://kotobank.jp/word/%E8%AB%96%E7%90%86%E5%AE%9F%E8%A8%BC%E4%B8%BB%E7%BE%A9-153700

経験科学を重んずること、言語分析の方法を重視すること、形而上(けいじ

じょう)学に対して否定的であることが、共通の特色であるといえよう。」

 

・・・ここにちょっと気になる記述もありました:

「また、コンピュータの出現以後、コンピュータに処理できることばで人間の

心の働きを記述しようとする認知科学が誕生した。コンピュータに処理できる

ことばとは、結局、論理的な人工言語にほかならない。しかも、コンピュータの

利用の可能生は予想外に大きいので、いままで日常言語を使って行われてきた

ことの大部分は人工言語に移せるのではないかと予想する人も多い。」

 

・・・論理実証主義が、紆余曲折を経て、認知科学や人工言語という

ところに繋がっているようです。

 

p077

 

それゆえ、・・・・世界の形式そのものであるがゆえに語りえない「先験的」なものと、

世界の外にあるがゆえに語りえない「超越論的」なものとは、当然区別されねばならない。

つまり「論考」のなかには、二種類のトランスツェンデンタールなものが、したがって

二種類の語りえぬものがあることになる。

 

p079

 

世界の中の事実に関する科学的な問いに対する答えは、世界の限界を変えはしない。

人生の問題は、限界が変わることによって世界が変わることにおいてのみ、解決される

のである。

 

「死」や「神」についても同じことが言える。 それらはいずれも世界の中の事柄ではない。

死に際して、世界は変わるのではなく終わり・・・、神は世界の中に自らを啓示すること

はない。 

 

p080

 

・・それでは「世界の限界」とは何か、という問いであろう。 この問いとともに、

「論考」をめぐるわれわれの最後の考察は、独我論に向かうことになる。

 

==>> 「語りえぬもの」という言葉の定義は分かりました。

     そしてこれは、お釈迦様の言う「一切不説」「無記」を思い浮かべます。

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/01/blog-post_7.html

     「p94

釈尊はすべての仮説から考えはじめることを自分に拒んでいられる。

彼の目は、何かの偏見や先入主に支配されていない。ありのままをそのまま

観察することが彼の持ち味である。これが如実観察である。 今日の言葉で

言ってみれば、実証的な見方とでもいえようか、・・・」

「p101

自我というものがあるか、ないかという対立した質問に対して、釈尊はいつも、

二つながら無記だと答えられることがある。 そればかりでなく、通常、取扱わ

れているのは、世間の常、無常、常無常、非常非無常、世間の有辺、無辺、

辺無辺、非辺非無辺、命がすなわちこれ身か、命は身と異なるか、如来は死後に

ありや、なきや、などの諸論議である。 これらのもろもろの見解に対して、

釈尊はいつも、「一切不説」か、「無記」と答えられるか、さらに、「戯論」と

して弾呵されたものである。」

 

・・・このお釈迦さんの考え方が、ウィトゲンシュタインの「語り得ぬもの」

ということになりそうです。

 

p080

 

「五・六  私の言語の限界は私の世界の限界を意味する。」

 

世界は、いずれにせよ「私の世界」でしかありえない。 世界の限界に「私」がいない

世界は考えられないからである。 そして「世界が私の世界であることは、この言語

(それだけを私が理解する言語)の限界が私の世界の限界を意味することの内に示され

ている」

 

p081

 

通常、超越論的哲学においては、主体としての自我が、素材としての世界に対して

形式(形相)を、つまり意味を付与することによって、内的関係がはじめて設定される、

と考えられている。 ウィトゲンシュタインにおいてはそうではない

自我は、すでに形式によって満たされた世界の限界をなすことによって、それにいわば

実質を、もっと強くいえば存在を、付与するのである。

 

==>> 「世界の限界」は確かにそうだと思います。

     「自我が世界に意味を付与する」という通常の考え方は、私にはちょっと

     難しい。 自我が付与するというよりも、意味は世界の方にあるような気が

     するからです。 

     そして、ウィトゲンシュタインの上記の考えは、そのままでは理解できません。

     しかし、言葉を変換して書き換えると

     「自我は、意味が満ちている世界に、自我の限界を反映することによって、

     存在を与える」ということが出来るでしょうか?

     さらに私なりの解釈を、自分に分るように書き換えれば、

     「世界は意味に満ち溢れているんだけど、自我というのは限界があるから

      その世界の全部を理解することはできない。 だから、自我の限界の

      範囲内でしか、その世界が存在するとは言えない」

     ・・・・ってことでしょうか。

 

p082

 

それゆえ、他者とは、自分とは別の意味付与を行なう別の主体のことではなく、

この世界とは別の限界を持った別の世界のことでなければならない。なぜなら、限界が

異なる世界は別の世界だからである。

 

自我と形式の、主体と意味の、この分裂と逆接の感覚こそが、ウィトゲンシュタイン哲学

のーー前期後期を通じて変わらぬーー強烈な現代性である。

 

==>> もし、上に書いた私の理解が当たっているとするならば、

     ここに書かれている「限界が異なる世界は別の世界だからである。」という

     話は腑に落ちます。

     そういうことであれば、「独我論」ということも納得です。

 

 

ここまでは、なんとかかんとか付いていけてるんじゃないかと、自分では思っているん

ですが、皆さんはどう感じられますか?

 

では、次回は 「第3章 復帰」を読んでいきます。

 

 

=== 次回その4 に続きます ===

 永井均著「ウィトゲンシュタイン入門」を読む ― その4 同じ言葉でも人によって理解は異なる、 「良い世界」とは人類滅亡後の世界か? (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

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