永井均著「ウィトゲンシュタイン入門」を読む ― その4 同じ言葉でも人によって理解は異なる、 「良い世界」とは人類滅亡後の世界か?

永井均著「ウィトゲンシュタイン入門」を読む ― その4 同じ言葉でも人によって理解は異なる、 「良い世界」とは人類滅亡後の世界か?

 

今回は「第3章 復帰」に入ります。

 


 

p086

 

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」は、後にウィーン学団を結成することになる

若き論理実証主義者たちに、強い影響を与えた。彼らは「論理哲学論考」のメッセージを、

おおよそ次のように理解した。

 

有意味な命題は、経験的に真偽が検証できる科学的命題と記号規則によって真である論理・

数学的命題である。 このどちらにも属さない命題、たとえば伝統的な哲学の諸命題は、

真偽が問題になる以前に、そもそも無意味であり、あるべき哲学は、有意味な命題と

無意味な命題を区別する言語批判の活動でなければならない、と。

 

・・・論理実証主義者たちは「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と

いう主張をまさにそのような意味に解したのである。

 

・・・ウィトゲンシュタインと論理実証主義者とでは、理解が違っていた

 

==>> ウィトゲンシュタインの支持者とでも言える論理実証主義者ですら、

     彼の哲学を正確には理解していなかった、ということを著者は言っている

     ようです。 そしてまた、著者自身の哲学についても、なかなか理解されて

     いないということを言外に滲ませているようにも見えます。

     (つまり、私自身が、永井均さんの本を理解できていないという意味でもあり

     ます。)

 

p087

 

・・・トートロジーとは、世界の論理形式という最も堅固な実在がそこに示されて

いるがゆえの真理なのである。

 

同一の言明や言説に心から同意した二人の人物が同一の内容を信じたとは限らない、と

いうことの好例がここにある。 幸福な人の住む世界と不幸な人の住む世界とは別の

世界だとウィトゲンシュタインは言ったが、ウィトゲンシュタインと論理実証主義者たち

とは、まさしく住む世界が違っていた

 

ウィトゲンシュタインにとって、真に重要なことは沈黙しなければならないということ

の方にあった。 それに対して、論理実証主義者たちにとっては、まさにそれこそが

排除すべきものであったのである。

 

==>> この部分を読んでいると、またまたお釈迦さまの言葉を思い出します。

     「一切不説」「無記」という言葉です。

     形而上学をお釈迦さまは語らなかったということです。

     

     「心から同意した二人の人物が同一の内容を信じたとは限らない」という

     言葉は、まさしくそうだと私も思います。

     だからこそ、「意味」とは何なのか、どこにあるのか、と疑問が湧くのです。

 

     ところで、「トートロジー」という言葉の意味が、私には未だにピンとこない

     ので、再度チェックします。

https://kotobank.jp/word/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%BC-105476

     「文法的には同じ語の無意味な反復をいうが,論理学では,経験的知識の内容と

はかかわりなく,必然的に真として成立する命題,ないしその関数関係をいう。

常に無条件的に真であるから,恒真式とも呼ばれる。また命題構造としては,

主辞に含まれている内容を賓辞がただ析出するだけであるから,分析文とも

呼ばれる。」

 

もっと分かりやすいサイトには以下のように説明してあります。

https://chewy.jp/businessmanner/25380/

「論理学においてのトートロジーとは、『常に真である論理式』のこと。つまり

『常に矛盾がない理論』を意味します。

     「論理学的なトートロジーにはどんなものがあるのか見てみましょう。

・私は私

・寒気で気温が下がってて寒い

・ファンヒーターを入れると暖かい風がでてくる」

 

・・・これを読むと、「分析文」であるという意味が理解できます。

 

 

p087

 

ウィーン学団に結集した人々は、その後、ナチスの追跡を逃れてアメリカをはじめとする

諸国へ移る。 ファシズムやそれを支援する非科学的・非理性的な諸思想に対して、

「論考」は精神的抵抗の一つの拠点とさえなった。 その著者ウィトゲンシュタインが

「冷静に考えるなら、我々はヒトラーに対してさえ怒りを向けることはできない。 

神に対してならなおさら・・・」・・・という次元で思考する人物であるとは、彼らには

想いもよらないことだったのである。

 

==>> この「我々はヒトラーに対してさえ怒りを向けることはできない。」の意味に

     ついては、私も理解できません。

     しかし、「ファシズムやそれを支援する非科学的・非理性的な諸思想」という

     点から考えれば、日本はまさしくそのような国であったわけです。

     ですから、その次元でいえば、「ヒトラーに対してさえ怒りを向けることは

     日本人として出来ない」という話になろうかと思いますが、そういう次元では

     ないのがウィトゲンシュタインなのだ、ってことなのでしょう。

     

     p087の「同一の言明や言説に心から同意した二人の人物が同一の内容を

信じたとは限らない」という文脈に戻るのかもしれません。

そして、今現在、アメリカで継続中の共和党vs民主党の争いを超えた次元の

人々の分断は、「非科学的・非理性的な諸思想」(思想と呼べるかどうか疑問

ですが)によって、根深い問題になっているように見えます。

 

p090

 

彼はノートなしに講義したが、どの講義も十分に準備がなされていた。

・・・しかし、講義の際には、彼はすべてを最初から考えなおした。 彼はしばしば

質問し、出席者はそれに答えることで講義に参加した。 

・・・彼の講義を聞き、後にウィトゲンシュタイン的に哲学することの実例を世に

示した多くの優秀な哲学者たちが、当時はその講義の画期的な意義を理解できていな

かったことを告白している。 

 

==>> つまり、ウィトゲンシュタインは大学の講義という中でも、常に彼自身が

     哲学していた、ということのようです。

     そして、その「哲学すること」をその教室にいた学生たちにも求めた

     いうことです。 

     ここには、「別の聴講生によれば、「君たちはひどい教師を持ったものだ!」

     などとも叫んだそうである」と書いてあるように、ウィトゲンシュタインの

     「教授」スタイルは理解されていなかったようです。

     おそらく、著者である永井均さんが求めるように、この「入門」本によっても、

     読書しながら哲学することを読者に期待しているものと感じますし、

     そのように著者が前置きしてもいます。

     

     奇人・天才肌の教授は天才肌の学生にしか理解されず、凡人からは教え方が

下手だと言われ、 一方で、凡人の学生が理解ができるのは教え方が上手な凡人

の教授だということかもしれません。 ただし、どこにでも例外はあるでしょう。

 

卑近な例で恐縮ですが、一応私もオーストラリア、西アフリカのベナン、そしてフィリピンで日本語教師を十数年やりました。

私なりに、いろいろな日本語教育、日本語学などの本を読んで、授業に必要な

いわゆる教案というものを作り、テキスト一冊に分厚いファイル一冊を準備し、

それを毎回見ながらの授業でした。

哲学を教えるわけではないので、とにかく、準備していた内容をどんどん

進めるだけの授業でしたが、どのように教えることが学習者に解り易いか

の研究は自分なりにやりました。

その一つがこちらです。

「ややこしい日本語 - 決着!! 「後に」 と 「後で」 の教え方 ??」

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2016/03/post-3238.html

私のブログのページの中で、長年断トツの一位のアクセスを記録して

いるページです。

専門家からみれば、この程度かという内容かと思いますが、

現場の日本語教師にとってみれば、このような具体的な教え方が

知りたいということなのでしょう。

 

 

p091

 

・・・ある日、ウィトゲンシュタインが、命題とそれが記述する事態は同じ論理形式

を共有していなければならない、と言い張ると、スラッファは片手の指先であごを外側へ

こする身振り(嫌悪や軽蔑の身振り)をして見せ「これの論理形式は何だい?」と

尋ねた。 このことがウィトゲンシュタインに「写像」説を捨てさせるきっかけと

なった、という。 しかしフォン・ウリクトによれば、問題になったのは「論理形式」

ではなく「文法」であり、この事件はウィトゲンシュタインに「文法」説を捨てさせる

ことになった、という。

 

p092

 

かりに前者だったとしても、軽蔑の身振りが問題である以上、それが「論理」と「文法」

の両者を一気に打ち破り、後期ウィトゲンシュタインの生活形式の哲学を呼び寄せる

力を持ったことは間違いない。

 

==>> ここでスラッファというのは、ケンブリッジ大学で講師をしていた

     イタリアの経済学者 P.スラッファであると書いてあります。

     私の好みとしては、議論の中身が前者、つまり「論理形式」である方が

     面白いなと思います。 

     (ただ単に、論理というのも好きじゃないんですが、文法はもっと嫌い

     というだけの話です。 一応、日本語教師をやっていたんですけど・・・)

 

     「軽蔑の身振りが問題である以上、それが「論理」と「文法」の両者を一気に

打ち破り」・・というのが、私には、意味と論理と文法の関係を暗示して

いるようにも見えるのですが、今並行して読んでいる意味論や言語学系の

本の中身も、スパッと切り込んでくるような意味論がないので、少々いらいら

しています。イライラというより、退屈で眠くなるという方が正しいですね。

 

 

p095

 

この年から数年間、彼の哲学的関心は主として数学の基礎に置かれることになる。

・・・ところがその頃、ドイツではヒトラーが統帥権を掌握し、三月にはオーストリアも

ナチス・ドイツに併合されることになった。 ドイツ国籍となることを潔しとしない

ウィトゲンシュタインは、ケインズらに相談の上、イギリスに帰化することになる。

 

・・・1939年、ムーアの定年退職に際して、ウィトゲンシュタインがその後任として

ケンブリッジ大学モラル・フィロソフィー講座の教授に就任した。

 

かねてからウィトゲンシュタインの言動と影響力を快く思っていなかったブロードも

「ウィトゲンシュタインに哲学の教授の地位を与えないのは、アインシュタインに物理学

の教授の地位を与えないのと同じだ」と言って、賛成したという。

 

==>> このような激動の時代であっても、奇人、変人であろうとも、その天才ぶり

     がそれなりの人たちに認められることが、進む道を切り開いていく原動力

     になるということでしょうか。

     次元は違うにしても、「芸は身を助く」というのはあるのだろうと思います。

 

 

p098

 

それが「よいイス」かどうかは、そのイスに関する事実の知識から自動的に出てくる

ことである。 この種の価値判断は、倫理には関係しない。 

絶対的な価値とは、あらかじめ決まっている特定の目的に役立つという意味での価値

ではなく、したがって事実の叙述に還元することはできない。 

 

ウィトゲンシュタインが挙げている例ではないが、たとえば「よい宇宙」というのは

どうだろうか。 ひょっとすると、それは人類滅亡後の宇宙かもしれない

宇宙本来の目的を(あるかどうかを含めて)われわれは知らない。したがって、

宇宙に関するすべての事実を知っていたとしても、それが「よい宇宙」かどうかは

わからないのである。

この種の超越的な価値の次元こそが、ウィトゲンシュタインの言う倫理の次元である。

 

==>> 「超越的な倫理の次元」ですか。

     今までに読んできた本の中で頭に浮かぶのはカントの「実践理性批判」で   

     しょうか。 NHKブックスでそのサワリを読んだだけなので詳しくは

     しりませんが、かなり超越的で、ぶっとんでるなという感じでした。

     いずれにせよ、倫理とは何かと問われても、漠然としていて私には説明

     できません。

     そこで、検索してみたところ、看護師向けのサイトがありました。

     https://www.nurse.or.jp/nursing/practice/rinri/text/basic/what_is/index.html

     医療関係の仕事の人たちは、人の生き死にを扱っているわけですから、

     倫理や法律は常に意識していなければいけない職種かと思います。

     その点、このサイトは、具体的・実践的な内容を記述してあると思います。

 

     ちなみに、五十数年前、私が高校生だったころ、倫理という科目を学んだ

     記憶がありません。 小学校・中学校で道徳という言葉を聞いたような気が

     しますが、どんな授業だったのかはほぼ覚えていません。

 

     そこで、小学校の文部省検定教科書では、どんな内容で教えているのかを

     ちょっと覗いてみました。

     https://gakuto.co.jp/2020s_tokusetsu/webpamph/doutoku.html

     「学校図書の教科書は「多様性を前提とした問題解決能力の育成」を編集理念と

しています。小学校道徳では、「共に生きる、よりよく生きる」を基本方針とし

ました。 多様化する社会の中で子供たちが自ら「きづき」、「まなび」を深めな

がら、よりよく生き、共によりよい社会を築こうとする道徳性を養います。」

 

また、中学校の教科書でキーワードになっているのは、下のような言葉です。

https://gakkokyoiku.gakken.co.jp/2021text/doutoku/

SDGs,情報モラル,いのち,いじめ防止,防災…」

     なるほど、今どきの課題を積極的に取り入れた内容になっているようです。

 

     ところで、私としては、倫理なるものが高校でどのような内容で教えられて

     いるのか興味が湧いてきたものですから、中古の倫理教科書を注文して

     しまいました。 ちらちらと高校の教科書の目次みたいなものをチェックした

     ところ、世界の思想史もかなり解説されているようなので。

     最近の高校生の一般常識を知っておきなくなりました。

 

     さて、上記の「「よい宇宙」というのはどうだろうか。 ひょっとすると、

それは人類滅亡後の宇宙かもしれない。」という部分。

私は、多くの人たちが結構そのように考えているかもしれないなと思います。

私もそのように思います。

しかし、人類が滅亡したら、誰がこの素晴らしい宇宙を褒めたたえるんだろう、

とも思うんです。

蟻ん子やイルカやチンパンジーが、もうそれをやっているのか、あるいは

いずれそうなるのか。 人間の中に自分自身を褒めたり貶したりするもう一人

の自分がいるのなら、宇宙にも宇宙自身を意識するもうひとつの宇宙があって

もいいような気がするのですが・・・・

 

 

p099

 

むしろここで「でも、嘘つきであることは本当に悪いことなのか?」と問えば、

それは確かに絶対的な価値判断の地平が開ける問いであろう。 この問いには、人間社会

に関するどんな事実を持ち出しても、答えることはできないからである。

 

・・・絶対的価値は客観的に実在するわけではないのだから、何を絶対的な価値と言いたく

なるかは、人によって違っており、違っていてよいのである。 それは、実は、その人の

心性を示すドキュメントにすぎない。

 

==>> 前段の部分は、すぐに連想するのは「嘘も方便」です。

     こちらのサイトで、その意味を再確認しておきましょう。

     https://career-picks.com/business-yougo/usomohouben/

     「「嘘も方便」とは、「嘘をつくことはいけないが時と場合によっては嘘が必要な

ときもある」という意味で使われていることわざです。」

「「方便」が仏教語で「仏が衆生を教え導くための便宜的な方法」の意味を

持っているからです。」

「「嘘も方便」は衆生に正しい教えを伝え導くことが由来となっているように、

「誰かが救われる嘘をついたとき」に使われることが正しい使い方です。」

・・・従って、自分の利益の為の嘘は、「嘘は泥棒の始まり」の類になると

思った方が良いのでしょう。

 

 

p100

 

人がある事実に驚くことができるのは、それが事実でないことも想像可能な場合だけで

ある。それとの対比において、ある事実に驚くわけである。 ところが、世界が存在しない

ことは想像できない(それがどういう想像だか、そもそもわからない)、だから、そのよう

な絶対的な驚きはありえないはずである。

 

・・・事例に共通の性質は、物差し自体をその物差しを使って測定される事象の中に

入れてしまう、といったことである。 われわれはものごとを、存在したりしなかったり、

安全であったりなかったり、といった可能性の空間の中で把握する。 ところが、その

空間の中に位置づけられた一事実ではない、空間そのものを、あたかも空間の中の一事実

であるかのように、もう一度その空間の中に入れてしまうということが、ここで問題に

なっていることである。

 

==>> 前段の話は、一例として「日本沈没」はどうでしょう。

     「事実でないことも想像可能な場合」に該当するでしょうか。

     そして、ある事実として「トンガの火山の大噴火」に驚くわけです。

     ・・・というような理解でいいのでしょうか。

     「世界が存在しないことは想像できない」というのは確かにそうだと思います。

 

     そして、後段なんですが。 ピンと来ません。

     あえて、宇宙が存在する場合と存在しない場合を考えてみるとどうなるのか。

     「空間の中に位置づけられた一事実ではない、空間そのもの」を仮に

「存在しない宇宙」とします

     そして、「空間の中の一事実であるかのように、もう一度その空間の中に入れて

しまう」というのをどう理解するか・・・です。

「存在しない宇宙」を「宇宙の中の一事実であるかのように、もう一度

その宇宙の中に入れる」という筋書きができるでしょうか。

まあ、普通に考えると、「存在しない宇宙」なんだから「入れる」なんて

ことは出来ませんよね。

・・・・こんなのでいいのかな???

正直いって分かりません。

 

p101

 

だから実は、本当の問題は価値や倫理にではなく、時にそれらを一例として含みうる

ような超越性と絶対性にあったのである。 言語哲学上の見解の変化にもかかわらず、

決して「語りうるもの」の領域に組み込まれえないものが、ここで問題にされていたのだ。

 

・・・この点で注目すべきことは、この講演は、講演であるにもかかわらず、本質的

には「自分自身に向かって」のみ語られたものだ、という点である。

・・・もしこの講演を聞いて、他の人が賛成したとしても、それは誤解であるともないとも

言えない。 ここには、「独我論の語り」と同じ問題が現れているだろう。

 

==>> こういう話になってくると、まさしく「語り得ない」、黙るしかないことに

     なりそうです。

     「誤解であるともないとも言えない」というのは、確かにそうだと思います。

     若い頃に思ったことなんですが、恋愛などというのは所詮美しい誤解である

     と思いました。 恋愛の相手が、もしかしたら理想の相手かもしれないし、

     そうではないかもしれない。 ほぼ後者の方が正しいと思いますが。

     いずれにせよ、それは誰にも判定できませんね。

 

次回は「第4章 文法 中期ウィトゲンシュタイン哲学」を読んでいきます。

 

 

=== 次回その5 に続きます ===

 永井均著「ウィトゲンシュタイン入門」を読む ― その5 「言語による表現の可能性」が志向性を作りだす、文の意味とは問いに対する答えである? (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

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