友松圓諦著「阿含経入門」 ― その3 「一切不説」、「無記」、役にも立たない議論をグダグダやってんじゃないよ? お釈迦様は、功利主義で実証主義
友松圓諦著「阿含経入門」 ― その3 「一切不説」、「無記」、役にも立たない議論をグダグダやってんじゃないよ? お釈迦様は、功利主義で実証主義
最古の仏教経典とされている「阿含経」の入門書を読んでいます。
p74
アーナンダよ、自分に燈火をもちなさい。 真理の法に燈火をもちなさい。ほかの
ものにともしびをもってはいけないよ。 おのれこそ、おのれの寄辺だ。 真理こそ
尊い寄辺だ。 ほかのものに寄辺をもってはいけない。
==>> たまたま見つけたのですが、こちらに阿含経と般若心経を解説した
動画がありました。 非常によく分かる解説です。
「阿含経」で生きる人、「般若心経」で生きる人(佐々木閑の仏教講義)
https://www.youtube.com/watch?v=-nH7Rewh-Bw
p75
これは有名な遊行経と名づける、釈尊の最後の旅行記の一節である。 私はもう十四、五年
も前に「阿含経」と題してこの長阿含経の遊行経全部をバーリ原文の英訳からまとめた
ことがある。 一巻の始終には何ぶんにも一縷の哀愁がただよってはいる。 つねに釈尊の
死ということが中心のテーマになっている。 しかしこの経文くらい、一つのまとまった
仏伝をおさめた経は阿含経全体を通じて見当たらない。
・・・登場する人物も、王侯大臣、富豪遊女、さては、バラモン、工師、仙人、あらゆる
階級を網羅しているだけに、それぞれに対して与えられた仏陀の教誡はめざましい異彩を
放っている。
==>> この「遊行経」という名は初耳です。
まあ、「阿含経」を読むのが初めてなんですから、当たり前ですが。
そこで、さっそくチェックしますと:
一般的には「大般涅槃経」という名になっているようですが、
それにもいくつか異なるものがあるようです。
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E8%88%AC%E6%B6%85%E6%A7%83%E7%B5%8C-91882
「仏陀(ぶっだ)の入滅(にゅうめつ)に関して説いている経典である。これには
数種があり、(1)入滅直後に、その前後の事情、荼毘(だび)、仏塔の建立などの
事実を述べたもので、漢訳『長阿含(じょうあごん)』中の『遊行経(ゆぎょう
きょう)』など、・・・」
・・・これは、阿含経の中でも、著者の友松さんイチ押しの経ですから、
読まないことには収まらないってことで、インターネットで検索したところ、
友松さんの訳本は見つからなかったのですが、中村元さんの訳で上下巻が
出ていました。
古本の値段が1,000円ちょっとから6,000円ぐらいまでまちまち
でした。 しかし、運よく、上下巻ともに1,000円ちょっとの古本が
あったので、即注文しました。
特に大事だなと思った点は、「あらゆる階級を網羅している」という点です。
お釈迦様は、相手に合わせて異なる表現で説法をしたそうですので、
それがどのようなものだったのかに興味があります。
私のような凡人にも分かる説法があるかもしれません。
そして、その1で書いた、インド仏教の佐々井住職やその弟子の竜亀さんが
実際にやっているやり方がそのようなやり方なんじゃないかと思うからです。
p77
たとえば、人間のこころを摂める四つの形式として、布施、愛語、利行、同事というものを
教えているところから見ても、無為にして人を化すというほどの無軌道的意見の持主では
なかったと考える。 また、多くの王者大臣に対する説教などを見ても、つねにその教誡
は現実的であり、政策的なことさえある。 家庭道徳論においても、奴婢を使役する方法
として、まず、休養、給料、医薬、衣食というごとき物質的条件をかぞえていられる。
つまり、やるだけのこと、するだけのことはすすめていられる。
==>> お釈迦様の説法というのは、かなり現実的で具体的であったようです。
そして一方では、僧侶集団に対する考え方も、自分が所有するかのごとき
所有欲というか執着はなかったことも併せて書いてあります。
こいつらは俺の子分だ、この僧侶集団は俺のものだというような権力欲も
なかったようだということです。
p78
少なくとも、釈尊の意見によれば、この地上にたよるべきものは二つである。
これを「二燈」とも言っている。 それは、この自分と、法とである。
法を離れた自分は往々にして邪な寄辺となる。 自分を忘れた「法」はただ空疎
なる概念にすぎない。
・・・この二燈を措きて暗い人生を照らしてくれるものはない。
仏教徒の帰依すべきものはまことにこの二つにすぎない。
==>> ここでは「頼るべきは自分と法である」と言っているんですね。
少なくともお釈迦さんを崇めなさいとは言っていません。
お釈迦さんは個人崇拝はよくないと言ったのだそうです。
そこでここでは、著者は、仏陀に帰依するということは、仏陀が言っている
この二つのものに帰依するということでなければいけないと述べています。
p83
・・・この曲線的運動のことを仏教では「回向」というのである。
ゴータミーのさし出した一衣に釈尊は身をかわして、弟子の仲間にふりむけさせた。
それでいて、釈尊自身には、仲間にふりむけさせることが、やがて、自分にまいもどって
くることなのである。 名宛は父親であるところのチョコレートをうまそうにたべる
わが子の目つきを見ることは、もう、それで腹がいっぱいなのであり、事実、子のよろこび
は父のよろこびである。 そこに「回向」がぐっとその曲線美を示している。
・・・人の子につれなき態度をとる人々は、この際、「自分のものだけを食え」という、
あまりにも、つめたき直線的心持ちなのである。
釈尊の教えはつねに曲線的有機性をいっぱいにはらんでいる。
p89
「私に運ぶほどの志しがあったら、むしろ、悩み苦しんでいる人々を救って上げてほしい」
==>> 上記のゴータミーという人はどんな人なのか。
https://www.buddhanoki.com/deshi11/
「ブッダの乳母にして、女性で最初の仏弟子となった尊き方」
「ブッダの生母であるマーヤー夫人は、シッダールタ王子(後のブッダ)を産んで
からわずか七日後に帰らぬ人となってしまいました。
その後、妻に先立たれた
スッドーダナ王は、マーヤー夫人の妹である、マハー・パジャーパティー・
ゴータミー(ゴータミーは、姓ゴータマの女性形/以下、ゴータミーと呼びます)
を正妃に迎えます。
ゴータミー夫人は王子の乳母となり、わが子と同じく王子
を愛し、育てました。」
p91
病人をいたわることが、そのまま、仏を供養することである。 ただ、功徳の量が等しい
という算術的な見解ではなくして、飢えたる病人にひと椀の食を与えることが、そのまま、
仏陀への供養になるのである。 これが、仏教において後世とくに発展したところの
「回向」の思想である。行為の有機性とでもいうべき思想である。
==>> このような行為が、家族だけでなく他人に対してまで行われているかという
点においては、私なんぞは全く失格です。
それに、「算術的な」功徳みたいなことが、すぐに頭に浮かぶのも、下衆と
言うべきことで、グサリときます。
日本の仏教が上記のような意味でどこまでやっているのかは知りませんが、
先日みたドキュメンタリー映画では、インドの仏教では、この回向が日々
行われているように見えました。
僧侶側が「これをやれば、この病気は治りますよ」と言うのではなく、
具合の悪い本人が僧侶に対して「頭を叩いてください」と言って、叩いてもらい、
その病人が「叩いてもらったので、治りました」と報告するというような
日々の対応がされているようです。
お釈迦様は、迷信などを否定していたと本で読みましたが、病に悩む本人が
それをしてくれと言い、それで治るのであれば、それもよしとすべきだと
私は思います。
ちなみに、お釈迦様は、当時の医術の心得もあったようです。
ただし、スッタニパータには下のような記述もあります。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/07/post-62de.html
「927 わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと相の占いと星占い
とを行ってはならない。 鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行ったり
してはならぬ。
・・・みなさん、仏教は呪術や占いは やっちゃいけないんですよ!」
ちなみに、お釈迦さまが言っている医術がどのようなものであったかは、
下記のアーユルヴェーダの解説で想像してください。
・・・もしかしたら、歴史の文脈的には、呪術的医術から合理経験医学への
過渡期にあったのかもしれません。
https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%A6%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%80-420645
「呪術(じゅじゅつ)医学から脱却し、紀元前500年ごろに合理経験医学として
完成された。『アーユルベーダ』では三つのドーシャDosá、すなわちバーユVāyu
(風)、ピッタPitta(熱)、カパKapha(冷)の均衡が保たれているときは健康
であるとし、生薬などによって均衡を図るのが治療の原則で、医師は食事指導を
第一とする。」
p94
釈尊はすべての仮説から考えはじめることを自分に拒んでいられる。
彼の目は、何かの偏見や先入主に支配されていない。ありのままをそのまま観察すること
が彼の持ち味である。これが如実観察である。 今日の言葉で言ってみれば、実証的な
見方とでもいえようか、・・・
・・・人間のこの五体をつくり上げているのは、釈尊の考えによれば、五つの構成
要素であるというのである。 色、受、想、行、識の五つである。
==>> この五つの構成要素については「五蘊」と呼ばれていますので、
こちらで確認しておきます。
https://buddha.pink/buddhism/52/
p95
病にかかるということは自分の身体が自分の手のうち、支配下にないということを
証明している。 心ならずも、何ともしようことなしに、病に自分の身体をまかすしか
しかたがないのである。
してみると、「自分の身体」といってみたところで、それはほんとうの意味での自分の
身体ではない。 自分の考えでどうにもなるという意味での自分の身体ではない。
==>> これは、確かにそうだなと思います。
肉体というのは「遺伝子の乗り物」だという話もあります。もしそうであれば、
マイカーが故障したようなもんだということになります。
自分で修理出来る人もいれば、修理屋に出す人もいる。
おまけに、最近読んだ本の中では、そもそも「自由意志」なるものが
本当にあるのか、という議論もあります。
そういうものを読むにつけ、いままでの私の人生を振り返ってみると、
確かに自らの自由意志でコントロールできたことは少ないなと、恥ずかしい
思い出が浮かんできます。
p97
涅槃とは正しい生活のことである。 不必要なちからがむだにつかわれていないところ
の状態である。 いっさいのほこりが、水をうったように、しずまった心境である。
そこでは、いやらしい、きざな生活が止んで、清浄な宗教生活とでもいえるものが
成立し、いつ死んでもいいという、安住の心持ちが出てくるというのである。
==>> この涅槃の定義は初めて聞く定義です。
よくよくお釈迦様の思想の原点を考えれば、そういうことになるのでしょう。
その「正しい生活」をすることが修行ということになるのでしょうか。
p101
自我というものがあるか、ないかという対立した質問に対して、釈尊はいつも、二つ
ながら無記だと答えられることがある。 そればかりでなく、通常、取扱われているのは、
世間の常、無常、常無常、非常非無常、世間の有辺、無辺、辺無辺、非辺非無辺、命が
すなわちこれ身か、命は身と異なるか、如来は死後にありや、なきや、などの諸論議で
ある。 これらのもろもろの見解に対して、釈尊はいつも、「一切不説」か、「無記」と
答えられるか、さらに、「戯論」として弾呵されたものである。
==>> これはつまり、お釈迦様は形而上学を語らなかったという話かと思います。
スッタニパータにも、これに似たことが述べられていました。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-cdd1.html
「(29) 一切の断定を捨て、論争に組しない。
一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中
で論争をなすに至る。 一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で
確執を起こすことがない。
一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なきこの(宗教的)
行為をも捨てて「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めること
もなく、それらにとらわれずに行え。
--安らぎを固執することもなく。
(真の)バラモンは、他人に導かれるということがないまた諸々のことがらに
ついて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。
他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。
聖者はこの世で諸々の束縛を捨て去って、論争が起こったときにも、党派に
くみすることがない。 かれは不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然と
して、執することがない。
ー 他の人々はそれに執着しているのだが。-」
p114
これは有名な箭喩経の概略である。 ここに釈尊の、ある意味での、功利主義的態度
がよく出ている。 智慧そのものとか、学問そのものとか、そうした至上的な考え方
は釈尊のとられなかったところである。 役に立たぬ智慧とか、きりのない、はてしも
ない議論に花を咲かせるとか、そうした目的を忘れた態度は釈尊のつねに没却せられた
ところである。
ここが仏教における教学というものが、つねに一つの成仏という目的をもっている所以
である。 人生における人格完成という唯一の目的を中心としてこそ、すべての
仏教的考え方がまわりめぐっているのである。
・・・今日、仏教を名としていかに多くの用もなく学的労作がなされていることで
あろうか。
==>> この言葉は、私にとっては非常に厳しい言葉です。
結論も出ないことに花を咲かせてどうすんだ? ってことですもんね。
後半の言葉は分かるのですが、楽しみとして、あるいは文化としての
考え方も少しは許してもらいたいなという感じがします。
p118
さらば、その縁起法とはいかなるものか。
ひと口に言ってみれば、おたがいに何ごとによらず、一つをほかの一つから切りはなして
は考えられないという理法である。 「此」というものがあるから、「彼」というものが
ある。 「此」というものが起こっているから、「彼」というものが起こっているという、
実に平凡きわまる、それでいて、いっさいの現象を支配している理法である。
==>> 縁起法という言葉がでてきました。
過去に読んで来た本からあちこちつまみ食いした私の頭の中では、
縁起 = 空 = 相依り = 相互依存 という大雑把な図式が出来
上がっています。
それは主に「中論」からの受け売りです。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/01/post-60a1.html
「「3 「中論」における「縁起」の意義」
ここで著者は クマーラジーヴァの訳によって仏教界での混乱が続いていた
ことを述べて、それでは、どう解釈すべきなのかを書いています。
p182
「中論」の主張する縁起とは相依性(そうえしょう)(相互依存)の意味である
と考えられている。
「行為によって行為主体がある。 その行為主体によって行為がはたらく。
その他の成立の原因をわれわれは見ない」
「陽炎のような世俗の事物は相依性のみを承認することによって成立する。
他の理由によっては成立しない。」
(苦しみの考察)においては、苦が自らによって作られた、他によって作られた、
自と他との両者によって共につくられた、無因にして作られた、のいずれでも
ないことを証明したあとで、チャンドラキールティは・・・・
「・・・すなわち相依性のみの意味なる縁起の成立によって(もろもろのことが
らの)成立が承認されねばならぬ」
・・・そして、中観派独自の解釈がここに解説されています。
p184
小乗においては、縁によって起こること、時間的生起関係を意味すると解されて
いたこの句が、中観派においては「あたかも短に対して長があるがごとし」とか、
あるいは「長と短とのごとし」というように全く法と法との論理的相関関係を
意味するものとされるに至った。長と短が相依ってそれぞれ成立しているように、
諸法は相互に依存することによって成立しているという。」
・・・上記のようにお釈迦様に時代的に近い小乗での縁起の解釈が、大乗の
鳩摩羅什さんの「中観」においては、論理的相関関係を意味するものに変化
したようです。
=== 次回その4 に続きます ===
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