永井均著「ウィトゲンシュタイン入門」を読む ― その2 天才か、変人か、狂人か。 言語は世界なのか?

永井均著「ウィトゲンシュタイン入門」を読む ― その2 天才か、変人か、狂人か。 言語は世界なのか?

 

 

今回はウィトゲンシュタインの「生い立ち」です。

 


 

「第一章     生い立ち」

 

p030

 

ルートウィヒ・ウィトゲンシュタインは、1889年4月26日、ウィーンで生まれた。

M・ハイデガー、 A・ヒトラーが生まれたのと同じ年である。

父カールは、ユダヤ人だがプロテスタントであり、オーストリア鉄鋼業界の大物で、

一家は大ブルジョア家族であった。 母レオポルディーネは、半分ユダヤ人だがカトリック

であり、子供たちは全員カトリックの洗礼をうけた。

 

われわれの主人公ルートウィッヒは、八人兄弟の末っ子であった。

兄四人、姉三人のうち、長男、三男、次男は、その後、あいついで自殺する

片腕のピアニストである四男パウルと、五男ルートウィッヒも、終生、自殺の誘惑と

闘い続けたようである。

 

==>> 大ブルジョア、そして男兄弟は次々に自殺。

     恐ろしく天才的な家族というイメージが、いきなり入ってきました。

     自殺した長男は音楽に、三男は演劇に、次男はチェリストとして才能を示して

     いたようです。また、三女はフロイトの友人であって、ショーペンハウアーや

     キルケゴールの哲学に親しみ、ルートウィッヒにも影響を与えたとあります。

 

p033

 

1911年、・・・ケンブリッジ大学のラッセルを訪ね、そのもとで学ぶことになる。

 

p034

 

ラッセルとホワイトヘッドの共著「数学原理」が出た翌年のことである。

ラッセルはこの時の模様を次のように語っている。

「私は、はじめは彼が天才なのか変人なのかよくわからなかったが、すぐに前者で

あるに違いないと思った」と。

 

==>> ここでラッセルというのは、下のリンクにあるように、バートランド・ラッセル

     のことです。 この本にも少し書いてありますが、下のリンクにはさらに

     詳しく ラッセルとウィトゲンシュタインの交流の様子が描いてあります。

 

「ラッセルの言葉」

https://russell-j.com/wp/?p=643

     「私は彼にもう就寝する時間だと言いたくなかった。というのは,私のそばを

離れると,彼は自殺するかもしれないと,多分私にも彼にも,思われたからである。

トリニティ・コレッジに来てからの最初の学期の終わりに,彼は私のところに

やって来てこう言った。「あなたは,私のことをまったくの馬鹿だと思います

か?」 私は言った。「どうしてあなたはそのようなことを知りたがるのですか?」

彼は答えた。「もしそうだとしたら私は飛行士になります。もしそうでなかった

ら哲学者になります。」

 

・・・・これを読むと、ウィトゲンシュタインというのは変人というよりも

狂人に近いように思えます。

「天才と変人は紙一重」と言いますが、この本を読み進むと、変人では

生ぬるいのではないか、狂人と言うべきではないかと思えてきます。

 

p039

 

私以外に生きものがいないとき、倫理はありえるか。

もし倫理が根本的なものであるならば、ありうる!

私が正しければ、ただ世界が存在するだけでは、倫理的判断は為しえない。

その場合、世界は、それ自体において、善くも悪くもない。

その世界に生きものがいるかいないかは、倫理の存在にとってはどちらでもよいことで

なければならないからだ。・・・・・」

 

==>> これはウィトゲンシュタインが書いたものです。

     おそらく、「根本的」の意味は「超越論的」「先験的」の意味では

     ないかと思います。 そうであれば、ここに書かれていることは

     私も正しいと思います。

     そして、この文章の最後には、

     「善悪は、主体によってはじめて成立する。 そして主体は世界には

     属さない。 それは世界の限界なのである。」と書いてあります。

 

     ・・・この最後の部分の論理展開は、私には、分かるようで分からない

     結論です。特に「主体は世界には属さない」の部分が理解不能です。

     もし世界=客体という意味であれば、主体は客体には属さないと解釈して、

     理解したことにはできそうですが・・・・

 

p044

 

・・・小学校に転任し、・・・・彼は、たとえば生徒たちのために何週間もかかって

猫の骨格の標本を作って見せるなど、どの任地においてもきわめて熱心に教育に取り組み、

かつ生徒たちからも慕われたようである。 だが、親たちはこの異様な教師に反発

抱き、26年の4月、一人の生徒に体罰を与えたことがきっかけとなって、退職を余儀なく

されることになる。

 

==>> 子どもたちには慕われたが、親たちには気持ち悪がられたということの

     ようです。 どんな体罰かは分かりませんが、現代であれば即刻クビでしょうね。

     子どもたちの柔軟な頭では受け入れられても、大人たちの固まってしまった

     頭には受け入れられないというのは、今も昔も変わらないのかもしれません。

     現代の不登校問題の根源がこの辺りに隠れているようにも見えます。

     いずれにせよ、自分の子どもを狂人の教室に預けられるかという話になって

     しまうかも・・・・

 

 

 

「第二章     像 前期ウィトゲンシュタイン哲学」

 

p047

 

「・・・この本の全意義は次のように要約されよう。 すなわち、およそ語りうることに

ついては明晰に語りうる、そして、論じえぬものについては沈黙しなければならない、と。

この本はそれゆえ、思考に限界を引こうとする。 いやむしろ、思考にではなく、

思考されたものの表現に限界を引こうとする。 というのは、思考に限界を引く

ためには、この限界の両側を思考できなければならない(それゆえ思考できないこと

も思考できなければならない)ことになるからである。

つまり、限界は言語の内部でだけ引くことができ、限界の向こう側は端的に無意味

であろう。」

 

==>> よくは分からないのですが、この本で重要なポイントは、この

     「論じえぬものについては沈黙しなければならない」という部分である

     ように思います。

      ここで、私が思ったのは、人間はどのように思考するのかということです。

     私の場合は、明らかに(と私は思うのですが)、言語によって考えている

     ようです。 それも、頭の中で私の声で頭の中の文字を読むような感じ

     で考えています。

     しかし、この世には、言語で考えるのではなく、フォトグラフィック・

     メモリーのように、いわば写真画像によって考える人もいると聞いています。

     (TEDSの講演で、そのような教授がいましたし、ある本で東大生の中にも

そのような人がいると書いてありました。 また、私の知人の一人がそれで

あると話してくれました。)

 

     ですから、「限界は言語の内部でだけ引くことができ」という点には、

     少しだけ疑問があります。 でも、私自身が言語で考えていますので、

     一応賛成できます。 確かに、限界の向こう側は無意味と言えると思います。

 

p049

 

・・・カントの直面した問題が、ウィトゲンシュタインの問題と同型であったことは、

明らかであろう。 ただし、カントは限界の向こう側にあるものについて、別に

「実践理性批判」を書いて、雄弁に語ったのではあるが。

 

カントとの対比で言えば、ウィトゲンシュタインの「論考」の主題は、言語の可能性

の条件を明らかにすることにあった、と言える。

つまりウィトゲンシュタインは、言語が世界について何ごとかを語りうるのはどういう

条件の下でなのか、を問題にしたのである。

 

==>> カントの「純粋理性批判」と「実践理性批判」を直に読んだことはない

     のですが、NHKブックスでその概説を読みました。

     その感想はこちらに書きましたが、率直なところ「カントさん、

     それはないでしょう~~」という感じでした。

    

     NHK「100分で名著」より西研著「カント:純粋理性批判」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/07/post-601eba.html

 

     カントさんは、純粋理性批判の後に、実践理性批判という本を書いているん

ですが、そこでは、上記の物自体の叡智界の話になっているそうです。

カントは、不死なる魂は、原理的に認識できないから、あるとも無いとも言え

ないとしているそうです。つまり、理性が暴走する世界の話です。

 

そこで西研さんがこのように解説しています:

実践理性は「完全なる道徳的世界とそこでの生き方」を理念として思い描き、

それをそのまま実現するように命じる・・・」

「現実世界にあって、道徳的に正しく生きることを支えてくれるのが、神への

信仰であるとカントは述べます。」

「人間は、みずからを道徳的存在として完成させるために死後も修練しな

ければならない、とカントはいいます。」

 

     ・・・これをお釈迦さんと比較するならば、お釈迦さんは仏教の祖とされて

     いながら、阿含経などによれば、形而上学は語らなかったとされています。

     つまり、「語り得ぬことは語らない」ということだと思います。

 

p050

 

答えはこうである。 言語が可能であることは、もちろんすでにはっきりしている。

およそ言語というものは不可能だ、などということはありえない。 だが、どういう

場合に、そしてどういう場合にだけ可能であるのかは、現実の言語活動をいくら観察

しても、それだけではわからない。 そして、それがわからなければ、まだ現実に

語られていない言葉については、それが語られうるか否かがわからないし、すでに

語られた言葉であっても、それが本当にちゃんとした意味をもった正当な言語である

のか、実は条件を満たしていないまがいものの言語にすぎないのか、判断することが

できない。

 

==>> こういう部分を読んでしまったので、私としては、言語とは何か、

     意味とは何か、というようなことを書いてある言語学や意味論の本を

     買うはめになってしまいました。

 

     しかし、上記の中で、「すでに語られた言葉であっても、それが本当にちゃんと

した意味をもった正当な言語であるのか、実は条件を満たしていないまがい

ものの言語にすぎないのか」という点については疑問があります。

というのは、既に世界中の国や地域でその話者人口が何人であれ、少なくとも

意志疎通をするために必要な「意味をもった」言語でなければ、生まれるわけ

がないと思うからです。

ただし、一方で、形而上学みたいな話になると、いわゆる空論、絵空事

というような無意味なことを語っていることもあるでしょうから、そういう

意味で著者は上記を書いているのかな・・・と感じます。

 

 

p051

 

・・・ウィトゲンシュタインの「論考」の、今まで説明してきた内容に関する限り、むしろ

より古い訳語である「先験的」の方が妥当である、・・・ 「先験的」とは、文字どおり、

経験に先行して、経験によらず解明する、という意味をもつ言葉である。

 

・・・外的関係は、観察や調査によって知られるものであるから、経験的関係と呼ぶことも

できる。  言語記号というものも聞こえる音や見える形としてとらえる限り、世界の中で

おこる一つの出来事にすぎない。 にもかかわらず、言語記号とそれによって記述される

世界のあり方との関係は、そのような外的・経験的関係ではないのだ。

 

 

p052

 

何も言わないならともかく、何かを言う以上は、われわれは言語と世界のこの関係の

外に出ることはできない。 そして、そのようにとらえられた場合、言語と世界の間の

関係は、独立にとらえられた二つの事象の間にたまさかに成り立つ外的な関係ではなく、

そもそもそれ以外の関係の仕方が考えられないような、内的な関係によって結ばれている

ことになる。 こうした関係は、観察や調査といった経験的探究によって明らかにされる

ような経験的な関係と対比して、先験的な関係であるといえる。

 

==>> これが真ならば、おそらく、観察や調査という方法に頼っているであろう

     言語学みたいなものは無意味ということになるのでしょうか。

     しかし、そうなってくると、先験的なものを明らかにできる方法、言語と

     いうものはどんなものになるのでしょうか。

 

p053

 

・・・「多摩川の上流に大雨が降った」という文は、多摩川の上流に大雨が降ったという

事態の表現としてしか理解できない。 そしてまた逆に、多摩川の上流に大雨が降った

という事態は「多摩川の上流に大雨が降った」という文の理解を通してしかとらえられ

ない。 独立に把握できる二つの事象の間に成り立つのではない、このような関係を、

内的関係というのである。

 

それでは、内的と言われるこの独特の関係は、いったい何によって成立っているのか。

「論理形式」を共有することによって、というのがウィトゲンシュタインの答えである。

・・・・先験的な語りえぬものの一つとして挙げた、あの論理形式である。

 

==>> なんだか、ややこしい話になってきました。

     しかし、とりあえず、ここまではついていけます。

     ほぼ言語学の領域に入ってきているようですが、私は「論理学」は苦手です

     ので、この論理形式という話にはついていけないかもしれません。

 

     この感想文を書いている間に、「認知言語学への誘い」という本をちらっと

     読んでみたのですが、論理形式で意味がきちんと伝えられるかについては

     どうも疑問があるようです。

 

 

p056

 

ウィトゲンシュタインは、世界は事実このようにできている、と独断的に主張しているの

ではないのだ。 そうではなく、およそわれわれの言語が確定した意味を持ち、世界に

ついてなにごとかを語りうるためには、世界はこのようにできているのでなければ

ならない、と主張しているのである。 

 

言語が意味を持つためには、それはある一定の構造を持たねばならない、したがって、

世界が言語の中に反映されうるためには、それは言語と同じ構造をもたねばならない、

というようにである。

言語と世界は論理形式を共有しなければならない、とはそういうことなのである。

 

==>> ここは、世界の構造が言語の構造と同じでなければ、言語は世界を語れない、

     ということになるのでしょうか。

     そういう意味であるならば、ここで頭に浮かぶのは

     「始めに言葉ありき」というフレーズです。

     どういう意味が込められているのか、私は知りませんが、こちらの解説が

     正しいとするならば・・・・

     https://novel-shoten.com/archives/1217

     「簡単に言えば、「アルケーはロゴスなり」。

「アルケー」の意味は、万物の始源・宇宙の根源的原理。

「ロゴス」の意味には、確かに「言葉」もあります。が、真実、真理、論理、

理性、概念、調和・統一のある法則など様々な意味もまた示します。

しかし、ことキリスト教において使われる場合は、ロゴス=キリスト

 (世界を構成する論理としてのイエス・キリスト、または神の言葉) です。

・・・という意味だそうです。

従って、ウィトゲンシュタインが言語と世界は論理形式を同じくしていると

いう話と一致しているように見えます。

 

また、仏教の方では、これは密教の本に出てきた話ですが、

例えば、「知識ゼロからの空海」という本によれば、

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/07/post-6c22dc.html

「p84

真言とは、真実そのものである大日如来が発した言葉である。

・・・真言宗では真言を唱えることは三密行のうちの口密にあたる。大日如来の

言葉である真言を、仏のように梵語(サンスクリット語)のままに唱えることに

よって、仏と共鳴して一体化できると考えられた。 

梵語を漢訳せず、漢字の音写で唱えるため、そのままでは意味はわからない。 

梵語そのものに神々をも動かす呪力があると考えられていたためだ。」

・・とありまして、「真言とは、真実そのものである大日如来が発した言葉

ある。 いわば、法の世界そのものを表現したともいえる。」

・・とも書いてあります。

つまり、言語が宇宙の法(大日如来)を表わすということではないかと思います。

 

ただし、明らかにこれらは、宗教による解釈であり、超越的であることに

なります。

 

p057

 

ウィトゲンシュタインは「論理空間の中の諸事実こそが世界である」と言っていた・・・

 

 

p058

 

論理空間そのものに関しては、偶然性の占める余地はまったくないが、その論理空間の

許容する可能性のうち、どれが現実化し、どれが現実化しないかは、逆に偶然によって

しか決定されない。 

 

・・・この例で言えば、可能性がこの八つであることは必然的だが、そのうちの

四番目が現に成立している現実だとすれば、それは偶然でしかない

論理の外では、すべてが偶然なのであり、それゆえ、世界が現にこのようにあるのは、

もちろん偶然である。

 

==>> ここで例として描かれているのは、「三つの事態」が現実になる組み合わせ

     を8つのケースに分けて、これを考えられる論理空間としています。

     そして、現実の世界になるのはその中の一つでしかないということです。

     まあ、私の頭で、ひらたく考えると、

     明日の10AMに、世界のすべての人々、それぞれがどのような「事態」

     になるかを考えた場合、その組み合わせが無数にあるってことであり、

     それが論理空間で可能性として考えられる組み合わせになり、

     実際に現実になるのはその中のたった一つの組み合わせである、ってことだと

     思います。

     そう考えれば、そりゃあ偶然としか言いようがない話だと思います。

 

それでは、次回は

「第三章       像 前期ウィトゲンシュタイン哲学」の中の

「3 言語はいかに世界をとらえるかーー写像と心理関数」に入ります。

 

 

=== 次回その3 に続きます ===

 永井均著「ウィトゲンシュタイン入門」を読む ― その3 世界を写し取る言葉、世界の意味は私の限界の範囲内で存在を与えられる?? (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

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