立花隆著「宇宙からの帰還」 ― その6 科学と宗教を統合するより高次なもの? エド・ミッチェル飛行士

立花隆著「宇宙からの帰還」 ― その6 科学と宗教を統合するより高次なもの? エド・ミッチェル飛行士

 

 

立花隆著の「臨死体験」に続いて「宇宙からの帰還」を読んでいます。

 

 


「第三章 宇宙からの超能力実験」を読んでいきます。

 

 

p341

 

・・・先行するいかなる警告シグナルもなしに、このシグナルが出るということは、

よほどの緊急事態以外考えられない。 そして、客観的にそういう事態は生じていない

のである。

 

コンピュータが誤判断をしているのは明らかだった。しかし、コンピュータのどこがどう

おかしくなったのか。 月着陸を目前にして、コンピュータの故障のために、それを

断念しなければならないとは。

 

ミッチェルは、ふと、子供のころ、昔のラジオが故障したときによくやったように、

コンピュータの横腹を手でドンと叩いてみた。

すると、なんと「計画中止」のシグナルが消えたではないか。

 

==>> この誤動作については、ヒューストンでの分析の結果、

     月着陸船の製造段階で何か導電性のゴミのようなものが残されて、無重力

     によってそれが浮かび上がって、回路のショートを起こすようなことに

     なったのではないかという話になったようです。

 

     まあ、しかし、それにしても、ラジオやテレビを手で叩いて直すということ

     を子供の頃に経験していた良かったですねえ。

     最近の子供たちにはこういう経験をする場があるのでしょうか。

 

 

p345

 

日本ではESP研究などと言うと、怪しげなエセ科学の代名詞のように思われているが、

世界各国で、特にアメリカとソ連では科学的研究が真面目につづけられている。

この両国が特に熱心なのは、ESP能力に軍事的利用の可能性を見ているからで、両国

ともその研究に軍事予算の一部が支出されている。

 

・・・大西洋を航行中の原子力潜水艦ノーチラス号と2000キロ離れたアメリカ本土

との間のテレパシー実験がある。 ・・・・75パーセントの確率で通信に成功した

とされている。

 

p346

 

そのミッチェルに会って話を聞いてみると、日本のESP研究家にしばしば見られる

ような、あらゆる非科学的なことを止めどなく信じて狐つきになったようなタイプの人間

とはまるで対極にいるような人物である

 

宇宙飛行士時代は、彼は最も思索的で最もインテレクチャルな宇宙飛行士といわれていた

そうだが、・・・・いかにも目立っただろうと思われるほど、重厚な学者タイプの人物

である。

 

p347

 

「・・・NASAをやめて以来、一貫して、人間の意識の研究だ。 ・・・・」

 

p348

 

彼の世界観は、アリストテレスのそれにきわめてちかい。 アリストテレスは、

世界を、可能態たる質料が形相を求め獲得して(あるいは形相が質料を得てといっても

よい)現実態に転化していくダイナミックなプロセスとして把握した

このプロセスの頂点には、完全なる現実態としての形相の形相=純粋形相がある。

この純粋形相が究極の原理(アルケー)であり、真に永遠の実体であり、万物の目的因

であり、運動因でもある。すなわち、これが神である。

 

==>> この部分を読んでいると、なんだか古代インドのウパニシャド哲学を

     連想させます。宗教的と言ってしまえば簡単なんですが、最先端の

     物理学でもこれに似たことを述べている理論物理学者もいますので、

     そう簡単に宗教だと言い切ることも難しいかなと思います。

 

 

p352

 

「いや、私自身はここ数年それから離れている。 超能力をテクニカルに求めること

は誤りであることに気づいたからだ。超能力はきわめてパワフルな能力だから、面白

半分にそれを扱うことは危険なのだ。 それを熱心に探求するあまり、精神に異常を

きたした人が昔から少なからずいる。

 

・・・精神を完全に浄化すれば、とぎすまされた鋭敏な感受性を保ちながら、それが

外界からいささかも乱されることがないという状態に入ることができる。

仏教でいうニルヴァーナだ。 そこまでいけば、人間が物質的存在ではなく精神的

存在であることが自然にわかる。

人間は物質レベルでは個別的存在だが、精神レベルでは互いに結合されている

ESPの成立根拠はそこにある。・・・・」

 

==>> ここは、エド・ミッチェルのインタビューの内容が書かれているところです。

     本人も少しは超能力があることを述べています。

     ところで、上記のニルヴァーナというのは涅槃とか解脱のことですね。

 

     「超能力をテクニカルに求めることは誤りである」という言葉で思い出した

     のは、フィリピンの霊能力を持っているとされる伝統的助産婦である

     ヒーロットの小母さんの言葉です。 幽霊を見ることができる人たち

     なんですが、具体的にはマッサージを仕事としているんです。

     しかし、仕事とはいいながら、「この能力は神に与えられた能力なので、

     仕事としてお金をもらったりしてはいけない」というようなことを

     いうんです。 偽物の霊能者が金稼ぎをしているということらしい。

 

p353

 

― あなたが神というとき、それは何なのか。あなたが信じているのは、キリスト教の

  神なのか。

 

「いや、私はキリスト教の神を信じていない。 キリスト教が教える人格紳は存在しない

と思っている。 神というのは、この世界で、この宇宙で現に進行しつつある神的な

プロセスを表現するために用いていることばにすぎない

 

― あなたは、はじめからクリスチャンではなかったのか。

 

「いや、私は熱心なクリスチャンだった。 私は南部バプティストのファンダメンタリスト

だった。 ・・・聖書に書いてあることのほうがすべて正しいという立場だ。

 

・・・科学的真理と宗教的真理の対立を何とか解消できないかと悩みつづけた人生だった

・・・結局、ある日、どちらの真理も、より高次のレベルの真理を、より低次のレベルで

部分的にしかつかんでいないことから対立が生じているのだと考えれば、問題はすべて

解消してしまうのではないかということがわかって、悩みを脱することができた」

 

p355

 

「・・・教団化された既成宗教はどれをとっても、いまや真のリアリティ、スピリチュアル

なリアリティから離れてしまっている。 私がいう宗教的真理というのは、教団教義の

ことではない

 

==>> このミッチェル飛行士の話は、非常に示唆に富む話だと思います。

     おそらく、科学的真理と宗教的真理をより高いレベルで統合するという

     イメージではないかと思います。

     それは、相対性理論と量子力学をより高いレベルで統合するという

     新しい理論を科学者が模索していることと、構造的に似ているように

     思います。 

     

p356

 

「・・・世界は有意味である。 私も宇宙も偶然の産物ではありえない。 すべての

存在がそれぞれにその役割を担っているある神的なプランがある。 そのプランは生命

の進化である。 生命は目的をもって進化しつつある。 個別的生命は全体の部分

である。 個別的生命が部分をなしている全体がある。 すべては一体である。

一体である全体は、完璧であり、秩序づけられており、調和しており、愛に満ちている

この全体の中で、人間は神と一体だ。・・・・・」

 

==>> これはほとんど古代インド哲学の梵我一如とか、密教の即身成仏のような

     感じになってきました。

     あるいは、素領域論を展開した「神の物理学」のような雰囲気、つまり、

     「完全調和の宇宙」にもつながりそうな考え方に見えます。

 

p358

 

人間というのは、自意識を持ったエゴと、普遍的霊的存在の結合体だ

・・・・人が死ぬとき、前者は疑いもなく死ぬ。消滅する。人間的エゴは死ぬのだ。

しかし、後者は残り、そのもともとの出所である普遍的スピリットと合体する。神と

一体になるのだ。・・・・キリスト教で人が死んで永遠の生命に入るというのも、

仏教で、死して涅槃に入るというのも、このことを意味しているだろう・・・」

 

==>> ここに来て、やっぱり、過去に読んだこの本に通じるところがあるなと

     思うわけです。

 

     理論物理学vs仏教哲学 「神と人をつなぐ宇宙の大法則」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post_11.html

     「p84

漂う自我体に水分子の電子がはまると幽霊になる・・・たとえば20歳で自我体

というのができる。 その前に死ぬとしますね。 自我体がない段階で死ぬ

から・・・。

・・・速やかに融合します。 もとの完全調和の世界に。 もっと端的にいえば、

3歳になるまでは即融合しますから、だからお墓を造ってはいけないんです。

東洋ではそうでしょ。 3歳までは神に帰るんですから。

 

      p85

自我体のある人が向こうに行ったら、肉体がないけど自我体を持ったまま?

・・・向こうには行けないんですよ、自我体があるから。・・・

空っぽの素領域だけの存在として、文字どおりそのへんに漂っているわけです

・・・たとえばロンドンなんかは、・・霧が深いでしょ。 ・・・水分中の中の

電子やクォークが、たまたま自我体として漂っている素領域の中にはまったら、

霧の中のおぼろげに体が見えることがあるんですよ。 それが幽霊。

 

==>> 完全調和の中にある「ひな型」の霊魂。

その霊魂に徐々に肉体と自我がくっついていって、20歳では

完全に「破れた世界」の「自我体」になる。 少なくとも3歳までは、

まだ「ひな型」のままである。つまり自我が無い。20歳以下の時に

死ねば、肉体が滅び、素領域からエネルギーが抜け、空っぽになり、

速やかに完全調和の「ひな型」に戻ってしまう。

20歳以上のがっつり自我体になった人間が死ぬとどうなるか。

そこに修行というか自我を消すような心の持ち方なり行為という

ものが関わってくるんだそうです。

自我が強いとなかなか完全調和の世界には行けずに、漂うそうです。」

 

     ==>> これは、理論物理学者が湯川秀樹博士の「素領域論」を展開して

          述べていることなんです。

          私にとっては、「へえ~~」とした言えないような内容ですし、

          物理学というより哲学のようにしか思えないんです。

          そういう哲学の中でも、最近は「汎心論」というのがありますし。

 

p361

 

「・・・その原初的体験は本質的には同じものだと思う。しかし、それを表現する段に

なると、その時代、地域、文化の限定を受けてしまう。 しかし、あらゆる真の宗教

体験が本質的に同じだということは、その体験の記述自体をよく読んでいくとわかる。

宗教だけに限定する必要はない。 哲学にしても同じことだ。 真にスピリチュアルな

体験の上に打ち立てられた哲学は、やはり質的には同じものなのだ」

 

==>> 私は、これにも賛同できます。

     宗教や哲学のみならず、おそらく芸術の分野も同じではないかと思うのです。

     その原初的体験をどう表現するかが異なるだけであると。

 

p361

 

「・・・イエスが「悔い改めて神の国に入れ」「生まれかわれ」というとき、意味している

ことはそれなのだ。 ギリシア語で「悔い改め」とは「メタノイア」という。 それは、

何か悪いこおをしてそれを反省すれば天国にいけるという意味ではなく、世界を全く

ちがった視点から見れば神的世界がすでにここにあるということなのだ

ヒンズー今日の伝統でソマティというのも、仏教のニルヴァーナも、あるいは神秘思想

でいう照明体験もすべて同じことなのだ」

 

==>> これは非常に興味深い解釈だと思います。特に「悔い改め」という言葉の

     意味が上記のような意味であることがキリスト教団の中でどのように扱われて

     いるのかが気になります。

  

     上記の中で「照明体験」という言葉は、イスラームの神秘主義である

スーフィズムにも出てくる言葉であるようです。

     こちらのサイトに、出てきています。

 

     「イスラーム文化 その根底にあるもの」

https://hiroki-hayashi.hatenablog.com/entry/2020/09/24/%E3%80%8C%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%96%87%E5%8C%96_%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%A0%B9%E5%BA%95%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%8B%E3%82%82%E3%81%AE%E3%80%8D%E4%BA%95%E7%AD%92%E4%BF%8A

     「神的実在から発出してくる強烈な光で、意識全体がそっくり光と化す。神的

実在とは存在の絶対的、形而上的根源のことであり、これが一種の光、この世の

ものならぬ霊光による意識の照明として体験される。これを「照明体験」という。

自我性を完全に脱却した私は、もはや私ではなく、神そのものである。」

 

p362

 

宇宙はその体験を持つためには最良の場所なのだ。 歴史上の偉大な精神的先覚者たちは、

この地上にいてコスミック・センスを持つことができた。 これは凡人にはなかなかできる

ことではない。 しかし、宇宙では凡人でもコスミック・センスを持つことができる

・・・宇宙空間に出れば、虚無は真の暗黒として、存在は光として即物的に認識できる。

存在と無、生命と死、無限と有限、宇宙の秩序と調和といった抽象概念が抽象的に

ではなく即物的に感覚的に理解できる。

 

==>> う~~ん、これは宇宙飛行士ならではの、実感のある言葉だと思います。

     そう言われてみれば、そうなのだなあ~~と類推ができる内容だと思います。

 

p366

 

「・・・面白いのは、物質的世界の理論をあくまで追求していったアインシュタイン

晩年になって、宇宙は機械仕掛けの物質というよりは、むしろ一種の思惟のごとき

ものではないかと考えるにいたったことだ。 物質に対するより深い認識を求めていく

うちに物質観がどんどん変貌し、ついにそこまでいたったわけだ」

 

==>> これも非常に興味深い話です。

     アインシュタインの神に対する考え方はいろいろ言われているようですが、

     こちらの動画での解説は割といい内容で分かりやすいのではないかと思います。

     https://www.youtube.com/watch?v=SSikjfFT8GQ&t=390s

 

 

さて、特に上記のエド・ミッチェルの考え方に、私はかなり共感できます。

宗教と科学を統合するようなより高いレベルの何かがあるのではないか。

それを実感した非凡な才能が、それを表現する場合に、さまざまな形で表現している

だけではないのか・・・・

 

次回は「第四章 積極的無宗教者シュワイカート」を読んでみます。

 

 

=== 次回その7 に続きます ===

 立花隆著「宇宙からの帰還」 ― その7(完) 無宗教者が信ずる神とは、 人類はバクテリアである (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

 

コメント

このブログの人気の投稿

環七のスナック喫茶・鈴: ネガティブ婆さんとポジティブ婆さんの会話

埼玉県・芝川サイクリングコース、荒川・芝川水門から大宮公園・氷川神社までの橋をすべて?撮影してみた

東京・白金台の国立科学博物館付属・自然教育園に紅葉を観にいったら、思いがけず「カワセミ」に会えた