立花隆著「宇宙からの帰還」 ― その7(完) 無宗教者が信ずる神とは、 人類はバクテリアである
立花隆著「宇宙からの帰還」 ― その7(完) 無宗教者が信ずる神とは、 人類はバクテリアである
立花隆著の「臨死体験」に続いて「宇宙からの帰還」を読んでいます。
「第四章 積極的無宗教者シュワイカート」
p369
英語でリベラルというとき、政治的自由主義とともに、宗教的自由主義、つまり伝統的
キリスト教の教えから離れることを意味することが多い。
・・・軍人が大半であった宇宙飛行士社会では、政治的には保守主義の空気が強かった
から、この点においても彼はユニークだった。
==>> これはラッセル・シュワイカートのインタビューの内容ですが、この飛行士が
関係したのは、アポロ9号で、月着陸船のテストが目的であった、地球軌道
での飛行だったそうです。
シュワイカートは「積極的無宗教者」と書いてありますが、日本人の場合は
大多数が「あなたの宗教はなんですか?」と尋ねられると返事に困り、
一応建前的には仏教あるいは神道を挙げるのではないかと思います。
もちろん、確固たる信仰を持っている人もいると思いますが。
私の場合は、「なんとなく無宗教者」あるいは「建前仏教徒&時々神道者」
というような、いわば日本文化的宗教者という感じだと思います。
ただし、フィリピンに十数年住んできた経験から言えば、海外では
「仏教徒です」と答えるのが習いになっています。
p370
「つまり、私はイエスが神の子であり、キリストであるとは信じられなくなったのだ。
・・・この点において、キリスト教の最も基本的教えから外れるわけだから、クリスチャン
を名乗るわけにはいかなくなった。 ・・・哲学を勉強するにつれ、無神論の立場からも、
非キリスト教的宗教の立場からも、責任倫理の根拠づけが可能であることを知り、悔いなく
キリスト教を離れた」
「宗教を含めて、この世界を観る体系的見方がいろいろある。自然科学もその一つだ。
人間中心主義もあれば、理性中心主義もある。 イズムは沢山ある。 そして、それぞれ
に独特の言語体系を作ってしまっている。
視野が狭い人は、一つの立場を取り、他の立場のものの見方に目を向けようとしない。」
==>> 私は基本的にこのような考え方に賛成します。
前回も書いたように、科学、宗教、芸術、その他様々な表現手段があって、
どの表現が自分にとって向いているか、好きなのかという違いでしかない
ように思うからです。
しかし、その中でも、客観的に検証する手段があるという意味においては、
科学的表現がより多くの人たちのコミュニケーション・ツールとしては
向いているのではないかと思います。
もちろん、科学的表現が時代によって右往左往することは認めますが。
p374
― どういう意味において、それは深い体験だったというのか。
「それを語るのは非常に難しい。 それは本質的に語って人に伝えることができない
ような体験。 語ること自体がそれを台なしにしてしまう恐れが強い体験。・・・」
p375
「宇宙体験でそれが起きた。そのとき普通は「ラッセル・シュワイカートがそこで
こんなことをしている」という風に、自分を他人のように客観視する。 ところが
宇宙ではそのとき、ラッセル・シュワイカートがそこにいると、個人的自分を見る
ことができず、「人間がそこにいる、そこで人間がこんなことをしている」と、個人では
なく、人間という種が見えたのだ。 そしてそのとき、人間という種に対して、自分の
体験を伝えねばならないという義務感が生じた。」
==>> ここでは、自分を客観視するという普通のこととは異なって、
自分が消えさり人間あるいは人類という種を客観視するという実感が
語られ、そこに義務感までもが沸き上がったことが語られています。
p380
地球は一つの巨大な生物(またしても比喩的にではなく文字通りに)であるというのだ。
地球は人間をはじめとするさまざまの生物が生きている「場」にすぎないのではなく、
それ自体が一つの生物であり、他の生物はこの巨大生物にいわば寄生している微小生物
にすぎないというわけである。 この巨大生物にラブロックは「ガイア」の名前を与えた。
==>> 「ガイア」という名前は、ギリシア語で地母神に対して与えられた名前で
あるそうです。 そして、ラブロックは「この古代人の世界観は、現代科学
の観察と一致する」と言ったそうです。
これからすぐに連想できるものとしては、最近流行りの「腸内フローラ」
でしょうか。 腸内フローラに限らず、人体はひとつひとつが生物である
とも呼べるような無数の細胞で出きていますし、細胞の中にあるものも
微小生物と呼べるでしょうから、人体自体が地球のようなものであり、
その意味において「ガイア」なのだと思います。
p380
「ラブロックに従えば、人間と地球との関係は、人間と人間の体内にいるバクテリアの
ようなものだ。 ・・・・彼のユニークなところは、その循環の精緻な科学的分析から、
これが物質の物理的循環ではあり得ず、巨大な有機体の体内循環としなければ解釈でき
ないということを科学的データをもとに示したところにある。
・・・人間の体内のバクテリアが、人間という巨大な生物存在が見えずに、人間の
肉体を単なる物質的環境にすぎないと思い、自分たちこそ最高の生物であると誇る
ようなものであるということだ。
・・・宇宙から地球を見たとき私の受けた精神的インパクトは、ちょうど、人間の体内
にいたバクテリアが体外に出て、はじめて人間の姿全体を目にして、それが生きて
動いていることを知ったときに受けるであろうようなインパクトだったのだ。」
==>> う~~ん、これは実に的確な比喩的、あるいは現実的表現だと思います。
私たちは「分かっちゃいないバクテリア」というわけです。
p382
「人類の進化史という観点から見たとき、・・・・ やがて月満ちて陣痛がきて
人間はガイアの外に産み落とされる。 それはおそらく人間より進化した新しい種の
誕生という形をとるだろう。 何億年もの昔、それまで海にしかいなかった生物が
はじめて陸に上がった。 ・・・・それに匹敵するような、何億年に一回あるかないか
という進化史の一大転換点が目の前にきている。・・・宇宙空間に、人間という生物が
進化して進出していくのだ。」
==>> この壮大なビジョンにはある種の感動を覚えます。
その人類の進化というものが、自然の摂理の結果として起こるのか、あるいは
科学の延長の結果として、例えばAI、遺伝子操作、人造人間などなどに
よって、開発されたものとして出現するのか、はたまた、人間が生みだした
科学というもの自体も自然の摂理、神の技の範囲内ということなのか。
p384
「核戦争が起こらないとしても、地球の上に人類のあまりよい未来はない。
・・・しかし、人類全体としては、多様な発展を宇宙でとげるだろう。
百年単位で見たときの人類の未来が、宇宙への進出にかかっていることは疑いのない
ところだと思う。 しかし、人間がいまのようにバカげた生活を続けていれば、
つまり、エネルギーを浪費し、資源を浪費し、環境を害し、しかもお互いに殺し合うと
いう愚行をつづけていれば、人類の持つ最大の可能性である宇宙への進出を不可能に
してしまうということも起こりうると思う。」
p386
「・・・神を信ずるものではないが、ナチュラルで、無限で、そして「イエス」と
いえるすべてのものについて、神に感謝を捧げたいという気持ちになるのだ」
==>> このラッセル・シュワイカート飛行士のインタビュー最後の言葉には、
宇宙空間での人類同士の戦争に対する懸念も少し書かれています。
そのような未来にしないような世界各国のリーダーの人類としての宇宙的、
ガイア的視野と賢人類たる資質を祈るしかありません。
そして、「神に感謝を捧げたい」というここでの「神」は、おそらく
アインシュタインの神でもあるのではないかと感じます。
=== 以下は著者・立花隆さんの「むすび」です ===
p387
ここで語られていることは、いずれも安易な総括を許さない。
人間存在の本質、この世界の存在の本質(の認識)にかかわる問題である。
そして、彼らの体験は、我々が想像力を働かせれば頭の中でそれを追体験できるという
ような単純な体験ではない。 彼らが強調しているように、それは人間の想像力を
はるかに越えた、実体験した人のみがそれについて語りうるような体験なのである。
p389
これだけのインタビューをものにするために、大変な苦労を積み重ねなければならな
かったが、その苦労をすべて忘れるほど、一つ一つのインタビューが面白かった。
宇宙飛行士たちにとってもそうであったらしい。 かなり多くの人が、「こんな面白い
インタビューははじめてだ」「こんなことを聞かれたのははじめてだ。 よく聞いてくれた」
「いままで人に充分伝えられなかったことをやっと伝えられたような気がする」などと
いってくれた。
宇宙飛行士たちから本書にあるような内容の話をこれだけまとめて聞き出したのは、
世界でもこれがはじめてである。
==>> さて、いかがだったでしょう。
立花隆さんのインタビューの凄さが少しでも伝わったようでしたら、
是非、この本を買って全部を読んでいただきたいと思います。
私がこの本を読もうと思ったのは、「臨死体験」という本を読んで、その体験内容が
宇宙飛行士の体験に共通するものがあると示唆されていたからです。
そして、その「臨死体験」を読んだ理由は、私の今の読書テーマが「意識とは何か」で
あったからでした。
私の目の前には、これから読書感想文を書くために積んである本が9冊あります。
「阿含経入門」(友松圓諦著)
「イスラーム哲学の原像」(井筒俊彦著)
「バーバラ・ハリスの臨死体験」(バーバラ・ハリス著/立花隆訳)
「臨死体験・下」(立花隆著)
「死後の世界」(ギャラップ著/丹波哲郎訳)
「共同幻想論」(吉本隆明著)
「時間は存在しない」(カルロ・ロヴェッリ著/冨永星訳)
「一度読んだら絶対に忘れない 世界史の教科書」(山崎圭一著」
「精神と物質」(エルヴィン・シュレーディンガー著/中村量空訳)
どれから感想文を書くべきか迷ってばかりなんですが、それと同時に新たに買って
読みたい本もどんどん追いかけてくるので全く片付きません。
ところで、何故わたしがこのようにいちいち、長々と、感想文を書いているのか。
それは、私の頭の中のメモリーが小さすぎることと、プロセッサーの能力が低いことと、
ニューラル・ネットワークの繋がりが悪く、せっかく読んだ知識が私のものとして
まとまっていくことがなかなか難しいからです。
要するに、忘れやすく、まとめる能力に欠けるので、なんとか外付けメモリーという
形でそれを補おうとしているとご了解ください。
それをいろいろやっている内に、自分なりの考えかたが ボワッと現れてくるのでは
ないかとかすかに期待しながら無駄な努力をしているってことになります。
では、皆々様、2022年が人類にとって素晴らしい年になりますように
神仏を参拝しながら、神仏頼みで頑張りましょう。
ちなみに私は寅年です。
今年も宜しくお願い申し上げます。
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