竹田青嗣+西研著「はじめてのヘーゲル『精神現象学』」― 8(完) 宗教vs論理学、自由を基盤とした社会の将来
竹田青嗣+西研著「はじめてのヘーゲル『精神現象学』」― 8(完) 宗教vs論理学、自由を基盤とした社会の将来
竹田青嗣+西研著「超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』」
「難解な書物が ここまでわかった! 「知の巨人」がとらえた近代のありよう」
という「超解読」な本を読んでいます。
「第五章
宗教」に入ります。
p254
ヘーゲルでは、「世界」は「精神」それ自体であり(絶対精神)、人間は、この「精神」
の本質を分有した個別の精神である。 そこで、人間の「理性」や「精神」は、世界の
本質(つまり自己自身の本質でもある)を経験的、概念的に認識しようとするのだが、
「宗教」は、それを、直接的にまた表象的に、「絶対者=神」というかたちで認知しよう
とする精神のありようである。
==>> この記述は、私に二つの本を連想させます。
ひとつは湯川秀樹博士が発想したとされる「素領域論」と、それを発展
させようとしている理論物理学者の保江邦夫教授のモナド論的アプローチを
含めた「形而上学的素領域理論」です。
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post_65.html
「p19
「完全調和の自発的破れとしての素領域と素粒子」
p20
つまり、真空の中に生じる完全調和の自発的破れの大多数は泡の如き3次元の
立体領域の形成を取ることになるが、その3次元の自発的破れの各々を「素領域」
と呼ぶ。 こうして真空の中に生じた自発的破れとしての素領域の全体を
「宇宙空間」あるいは「空間」と呼ぶ。」
そして、後半部分からは、今読みかけている立花隆著「臨死体験」です。
これはまさに、臨死体験した人たちのインタビューから伝わってくる
「直接的にまた表象的に絶対者=神というかたちで認知」するという
体験の数々が報告されているからです。
・・・そして、ヘーゲルの宗教の歴史に関する話は、
「自然宗教」―「芸術宗教」―「啓示宗教」と展開します。
p255
自然的宗教
この宗教形式の発展は、人間精神が自分自身を高めてゆくプロセス、「感覚的確信」―
「知覚」―「悟性」と対応している。 つまり、宗教としては、「光の神」―「動植物の
神」―「工匠の神」という発展のプロセスをとる。
p256
もっとも素朴な「自然宗教」は、人間精神がはじめて世界を一つのまとまり、そして意味
として捉える段階の意識を反映しているが、ここではまだ、「自己意識」は、明瞭なかたち
では現れていないことが分る。
==>> この三つの宗教の発展段階を眺めてみると、日本人の場合は、なんだか
この自然的宗教、つまり自然の中の八百万の神々が身について、未だに
離れていないような気持ちになります。
自然的宗教の最初に「光の神」というのが書いてあるんですが、それも
神道の天照大神を当然のように思い出しますからね。
p257
芸術宗教
「芸術宗教」の進展は、①「抽象的芸術品」(ギリシャ建築・彫刻や祭祀)―②「生ける
芸術品」(密儀・祝祭的競技)―③「精神的芸術品」(叙事詩・悲劇・喜劇)という道を
進んだ。
==>> 密儀や祝祭的競技というのを日本で考えてみると、もちろん卑弥呼の時代にも
あったのでしょうが、密儀とか秘儀で連想するのは密教の加持祈祷のような
ものですし、祝祭的競技となると神に奉納する相撲といったところでしょうか。
p259
啓示宗教(キリスト教)
やがて、このような時代背景から、人間の「不幸な自己意識の苦痛とあこがれ」を体現した
イエス・キリストの思想が登場してくる。 それは、自分を、分裂する精神として意識して
いる精神であり、一方で人間的自由の意識にめざめ、もう一方で、しかし現実の抑圧に
苦しむ人間精神の象徴的な表現である。
・・言いかえれば、まず、「絶対存在としての神」(=実体)が、キリストの姿、つまり
人間の自己意識の姿をとって世界に現れたという側面。 もう一方で、人間の「自己意識」
(=主体)のほうが、自分のありようを高めて「神」=実体に近づこうとする側面である。
p261
ギリシャ宗教や「旧約」(ユダヤ教)においては、神はまだ、天地の創造主、善と正義の
絶対支配者、といった言葉で表象されていた。 それは、人間を超えた超越的存在と
して「物語」化されていたのだ。
つまり、イエスの登場は、絶対神が、単に絶対的な超越者ではなく、「精神」的な存在と
してあること、つまり人間とその本質を共有するものであることを、潜在的にではあるが
人間に啓示するのだ。
==>> まずここで私が気になるのは「啓示」の意味です。
https://kotobank.jp/word/%E5%95%93%E7%A4%BA-58838
「人間の力では不可知の真理や神秘が、神などの超越者によって開示されること。
啓示を意味する欧米語の源泉となっているギリシア語「アポカリュプシス」
apokálypsisが、隠されているものの覆いが取り除かれることを意味している
ように、啓示とは、人間の目には隠されている神的な神秘が覆いを取り去られて
示される宗教的なできごとを意味する用語である。」
そして、二番目には、なぜヘーゲルでは、キリスト教とユダヤ教が区別され、
啓示宗教=キリスト教とされているのかです。
上記にはその理由が、「イエスの登場は、・・・人間とその本質を共有するもので
あることを、潜在的にではあるが人間に啓示する」となっています。
これを日本仏教、特に密教と比べてみると、大日如来は人格ではなく宇宙の法
という位置づけで、その分身として釈迦如来やら阿弥陀如来などの多くの仏
がいるとされていまして、即身成仏と言われるように仏と人間は一体である
みたいに言われています。
釈迦如来=歴史上のブッダは、いわばイエス・キリストと同じような位置づけに
なりますから、ブッダを預言者と考えるならば、日本仏教の場合は、多くの
如来という預言者を宇宙の超越者の下に認めているが、キリスト教では
イエス・キリストしか認めず、同根のユダヤ教やイスラム教は認めていないと
いう形になります。
それから、これは再度 立花隆著「臨死体験」(p482)に書いてあること
なのですが、臨死体験でいわゆる「絶対者」(神とは限らない)の存在を直接
感じたという人びとが「霊への感知が深まるのに反応して・・・反キリストから
サタンに至るまで、あらゆる名前で呼ばれ」るようになったという話です。
つまり、普通に考えれば、臨死体験で見たという「絶対者」はキリスト教の
絶対者だとか、それはイエス・キリストであるとか解釈して、歓迎すべき
ものに思えるのですが、現実は批判や中傷の対象となっているらしい。
これは私の邪推ですが、臨死体験を通じて、宇宙の絶対者あるいはイエス・
キリストのような人格に出会ったという人びとを、教会などで聖職者として
働いている人たち、その中でも絶対者を直接感じたことがない人たち、
が嫉妬しているのではないか、ということです。
自分たちこそが絶対者やイエス・キリストの代理人であって、フツーの
人間にそのような「神」との直接面談があってもらっては困るというような。
(もちろん、このような邪推ではなく、教義上でなんらかの差し支えが
あるのかもしれません。)
p264
ヘーゲルの哲学体系では、まず「世界」は神なる「絶対精神」であるという出発点が
あり、精神は無限に自己を対象化する自由な運動性という本質をもつ。 そして、歴史は、
「絶対精神」からの「個別精神」(人間)の分離としてはじまり、その対立の運動を
通して両者の統合が達成されるプロセスである、というかたちで構想されている。
・・・ヘーゲルはキリスト教の歴史(物語)を、こういった「絶対精神」の運動を示す
ものと解釈しているわけだ。
==>> ここでは、ヘーゲルの哲学の全体像をコンパクトに解説しているのですが、
「「絶対精神」からの「個別精神」(人間)の分離としてはじまり、その対立の
運動を通して両者の統合が達成されるプロセスである」というところは、
仏教でえいやっぱ~~で言いかえてみると、
「宇宙の法としての大日如来が、即身成仏の逆コースで人間という分身を生み、
その両者の間で縁起、相依り、または空という相互作用をしながら、現実の
人生などの現象を生み出している」と言えないでしょうかねえ。
かなり強引ですが。
p268
最後に、このキリスト教の歴史=物語は、人間が、自分自身を、「絶対精神」とその
本質を共有する存在として自覚してゆく歴史であることが示される。
==>> ちなみに、ヘーゲルがどんな生涯を送った人かについては、こちらでどうぞ。
https://kotobank.jp/word/%E3%83%98%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AB-129281
「18歳でチュービンゲンの神学校に入学(1788)、最初牧師となることを志した
が、のどの障害で発音が悪く、神学校の方針と対立したこともあって牧師となる
ことを断念する。親友ヘルダーリンとともにフランス革命に共感。卒業後スイス
で家庭教師となり、独自の生の哲学に基づくキリスト教批判のノートを書く。」
「彼の思想の原点にあるものは、ネオプラトニズムを下敷きにしたルネサンス
の自然哲学とドイツの神秘主義のなかに流れる、生命的存在の一元論である。
根元に存在する「一者」(プロティノス)が姿をさまざまに変容させて展開され
てゆく。神が自己を啓示するとは、すなわち、根元の一者である神が己を二つに
分裂させ、分裂という形で本質を現象させることだが、自己認識を達成すること
によってその分裂から自分を取り戻す。
この思想が近代の認識論哲学に与えたもっとも大きなインパクトは、主観と
客観という対立構造の成立そのものの説明を要求したという点にある。」
「ヘーゲル哲学は「歴史を最高の実体・動的に変化する理性体」とみなすという
歴史哲学と解されることによって、世界的な影響を及ぼした。これによって
ヘーゲルは理性中心の啓蒙主義的歴史観から、進歩の内在的な必然性という
実証主義的な歴史観(たとえばマルクス主義)へ、歴史観の転換を用意すること
になった。」
「第六章
絶対知」
p270
絶対知とは、まず第一に自己と対象の同一性(主観と客観の一致)の達成を意味する。
意識と存在との統一、対象のなかに自己を見出すこと、と言っても同じである。
絶対知とは、第二に、精神がみずからの本質である無限性の運動を純粋に自覚すること
を意味する。
p272
精神が精神自身を純粋に見るようになると、絶対精神=絶対知となる。 啓示宗教も
精神が自分を見てはいるのだが、しかしその仕方は表象的であるために、自己と対象
との同一性にまでは到達していない。
==>> ここを読んで非常に驚いたのですが、もしかしてヘーゲルという人は
臨死体験をしたのではないんだろうか。
というのは、今読んでいる立花隆著「臨死体験」に上記と同じような意味の
実体験をしたという臨死体験をした人たちの言葉がたくさんあるからです。
つまり、「意識と存在との統一、対象のなかに自己を見出す」とか、「精神が
みずからの本質である無限性の運動を純粋に自覚する」というところです。
ひらたく言えば、臨死体験の中で絶対者とか宇宙というようなものに
抱かれた感じがしたとか、既に死んだ肉親などとテレパシーのように
話した、あるいは以心伝心のようなことがあった。 そして、その世界
には、時間というものがなく、無限の中を自由に飛び回って、自分の
子ども時代にも飛んでいけるし、宇宙のかなたにも飛んでいけるという
ような発言があるんです。
p276
良心の知は、許しにおいて普遍的なものとなった。――行動する良心の悪を指摘して
やまない批判する良心の頑なさは、赦しにおいて放棄されたのだった。
精神の無限性――いったん個別性と普遍性とに分かれ対立してもつぎには和解して
一つになるという精神の運動――が顕現したことになる。
・・・「宗教」においてもやはり対象性と自己との和解は達成されているが、しかしそれは
「自体存在」の形式におけるものであった(意識自身の運動という仕方ではなく、自体存在
つまり本質実在である神の運動を表象する仕方で達成されてきた)。
p277
啓示宗教と良心の「この両側面の合一こそが、精神の諸形態の系列を完結させる」ので
あり、この合一によって、精神は「自分が何であるか」について絶対的に知ることに
なるのである。 そこで、啓示宗教と良心とを対比してみると、啓示宗教において
表象されていた契機が、良心においては自覚的反省的なものとなっていることがわかる。
==>> ここは、難しすぎて、私にはピンときません。
たぶん、啓示宗教はあの世の絶対者の世界のことで、良心とはこの世での
人間の世界での普遍性ということかなと思うのですが、その二つがどの
ように合一するのかという点が理解できません。
臨死体験でもすれば分るんでしょうけどねえ~~~。
p278
絶対知とは「自分を精神の形態において知るところの精神」だが、この精神が
精神自身を純粋に知るというあり方は、具体的には「概念的に把握する知」というあり方
となる。 ・・・これらの概念は、感覚的な具体性を一切脱落させた純粋な思考の
諸規定であり、それらは対象となってもそのまま精神の自己知であるようなもの、と
言える。 ・・・これを詳しく徹底的におこなうのがヘーゲルの第二の主著「(大)論理学」
となる。
p279
最初のうちは、実体をもろもろの具体的な形象として表象する意識のほうが、(哲学の
ように)実体を概念的に認識する自己意識よりも、はるかに豊かな内容をもっている。
しかし自己意識は次第に自分を豊かにして、実体の全体を自己のほうへともぎとっていく。
精神は経験をつみながら、自体(それ自体としてあると考えられるもの)を対自(理解
されたもの)へと変換していくのである。
==>> つまり、ここで言っているのは、結果的には概念的な認識のほうが、表象と
して認識する宗教よりも優位に立てるということのようです。
そして、それは「論理学」というものに発展するというヘーゲルの考え方
であるようです。
今の私は、残念ながら宗教的な表象としての認識というのはほぼ出来ません
ので、概念的な哲学的な理解の方が私に合っていると思うのですが、
それが論理学ということになると、アバウトな、詰めの甘い理解しかできない
私の性格からいえば、かなり絶望的になってしまいます。
結局、論理的な思考ができず、凡人の直感的な思考のレベルで止まってしまう
ってことです。
p280
論理――「精神現象学」は意識(知)と対象(真)のズレをばねに運動していった。
「論理学」は概念という場面を動くので、このズレはない。 そこでは対象(である
概念=思考規定)はそのまま自己知だからである。 これは「概念のもつ純粋な
限定性」によって運動していく・・・・・。
p284
絶対知において歴史が終わるということに違和感を持つ方もあるだろう。 しかし、
絶対知とは、結局、良心のことだった。 つまり、自由な存在としての自覚を獲得した
個人がどのようなかたちで他者や社会との関わりを了解すればよいか、という問いが
『精神現象学』の中核の問いであった。
p295
近代になって生まれた「個々人の自由を基盤とする社会」という理念を、私たちは
受け継ぎ発展させることができるか。 それともこれをまったく新たなものに
置き換えるべきか。 ・・・・ヘーゲルの『精神現象学』と『法の哲学』は力強く
「自由な社会には可能性がある」と答えている。
==>> 「自由な社会」である限りにおいて、人間には可能性があるということ
をヘーゲルは語っているようです。
しかし、現実の世界を見てみると、そのヘーゲルの思想を展開した
マルクス主義を基盤にしたいくつかの国の政治体制は、その人間の
「自由」を奪っているように見えます。
そして、そのような自由の剥奪は、戦前・戦中の日本にもありました。
自由というのはそれほど脆いものだということなのでしょう。
p292
近代社会は、20世紀に入ってますます大きな矛盾を露呈した。 われわれが社会の問題
にぶつかったころ、マルクス主義が社会思想の正統であり、近代の「自由な社会」は
やがてそれ自体克服されるだろうという展望が共有されていた。 しかしいま、この
展望はほとんどありえないものになった。 21世紀になると、「自由な社会」の
オルタナティヴは当分存在しえないことがますますはっきりしてきたからだ。
==>> この本は2010年に出版されたものです。
そして今、「ホモ・デウス」を書いたハラリ氏の将来展望へのコメントを
思い出すと、「オルタナティヴは当分存在しえない」ということが
妥当なことなのかは少々疑問に感じます。
そこには、生命工学や人工知能など最先端の科学技術が今までの社会の
あり方を急激に変えていくだろうという予測が描かれていて、
一部の新人類的エリートと無用になった一般人という社会が現出するの
ではないかという、カズオ・イシグロ著の小説「クララとお日さま」の
ような、人工的に進化した人類と、現世人類、そしてAI搭載のロボットと
いう「人びと」の社会が目の前に迫っているというのです。
そのような社会になった場合に、人びとはどんな社会体制、どんな政治体制
を選んでいくのか。 ヘーゲルが考えもしなかった世界と精神が展開して
いくのか、それともその新世界でもヘーゲルの思想は生き続けるのか。
やっと、「ヘーゲル」を読み終わりました。
最初にも書いたとおり、この「超解読!」の本がなければ、私はヘーゲルに近づくことは
なかっただろうと思います。
そして、私のような政治音痴が政治の歴史、思想の歴史を考えることもなかっただろう
と思います。
しかし、この本によって、少なくとも「自由」というものの根源的な重要さを理解すること
が出来ました。
==== 完 ====
===============================
コメント
コメントを投稿