竹田青嗣+西研著「はじめてのヘーゲル『精神現象学』」― 5 理神論? 唯物論? 功利主義? 啓蒙と信仰の対立

 

 

竹田青嗣+西研著「はじめてのヘーゲル『精神現象学』」― 5 理神論? 唯物論? 功利主義? 啓蒙と信仰の対立

 

 

竹田青嗣+西研著「超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』」

「難解な書物が ここまでわかった! 「知の巨人」がとらえた近代のありよう」

という「超解読」な本を読んでいます。

 

 


 

「第四章 精神」の続きです。

 

p161

 

国家権力は事実上、財富となってしまった。 財富は自体存在としての本質(普遍性と

持続性)を欠いているが、しかしこれも、人々に広く分かち与えられることによって、

普遍性を獲得し自体存在となることが出来るのである。

こうして、恩恵を施す富者と、富者から奪われる者(食客)との関係がとりあげられる

ことになる。

 

p162

 

対する食客の側の態度も、かつての封臣のように素朴なものではなく、「分裂」を含んで

いる。 たしかに彼は恩恵を施すものに感謝を抱くが、「この感謝の精神は、最も深い屈辱

感と最も深い反抗の感情を伴っている」。なぜなら、この意識の自己(自分の生存のカナメ

となるもの)は、ある疎遠な意識の権力の手中にあって、この意志の気まぐれに委ねられて

いるからである。

 

==>> この記述は、時代的にはフランス革命のすこし前、サロン文化の時代

     想定していると書いてあります。

     しかし、今現在の世界であっても、この構造は当てはまりそうです。

     実際に、新しい岸田内閣が、「成長と分配の好循環」という方針を示して

     「新しい資本主義の実現」を進めると言明しています。

     お隣の共産党一党独裁の国においても、最近は、富豪と庶民の格差が大きく

     なり過ぎたことを反映してか、もしかして紅衛兵時代のような揺り戻しが来る

     のではかいなとの憶測もあるようです。

     もっとも、後者の国は、庶民からの揺り戻しではなく、権力者側からのものに

     なりそうな気配ですが。

 

p164

 

対象世界にも意識の内部にも、自体存在と対自存在という二つの契機があって、その

二つは切り離せないものであることに気づく」という方向のほうが素直かもしれない。

しかしヘーゲルは、そのような結論ではなく、あらゆるものに固定的な真実などない

いう懐疑的・ニヒリズム的態度でもって締めくくっている。

 

==>> ここは、ヘーゲル研究者のいう「この分裂した意識は革命前夜の魂の

     状態である」という方向性に対する、解釈の難しいヘーゲルの態度に

     ついて述べています。

     私にもこの前段の部分はよく分かりませんが、後段の「あらゆるものに

     固定的な真実などない・・・」という部分については、ブッダの思想に

     似た響きを感じます。

     実際に、ヨーロッパの研究者の中には、初期仏教のブッダの思想が、懐疑主義だ

とかニヒリズムだとか評価しているものが多いそうです。

 

 

p165

 

どこにも本質というものがない現実世界から彼岸へと「逃避」して、そこに、純粋な思考

からなる本質の世界をつくりあげるのが、「信仰」の態度である。 これは「安らいだ

肯定的な普遍態」、つまり「自体存在」を求めようとする動機から起こったものだ。

 

われわれ(哲学的観望者)から見ると、彼岸の世界の内容は現実の教養の世界のそれと

同じであり、それは最終的には、精神のもつ三つの契機として理解されるべきものである。

 

p166

 

国家権力と対応するのが「絶対本質」(父、自体存在の契機)・・・財富と対応するのが

「自分を犠牲にする本質」(子、対自存在の契機)・・・・第一のものへの還帰(精霊、自体

的かつ対自的)

 

・・・ しかし信仰にとって、これら三つはそれぞれ異なったものである。

・・・概念的には理解されず「表象」(イメージ)として語られるのである(神がイエスと

いう人間の子として生まれ、人びとの罪を背負って十字架にかかり天に帰って行った、と

いうことは、精神の三つの契機としてではなく、実際に起こった事実であるとされる。)

 

==>> この辺りは、なかなか理解するのが難しいんですが、

     私なりの単純化した理解でいうならば、ヘーゲルのいう「精神」というものは

     思考による概念的な、論理的なものであって、上記の三つの契機に基づいて

     運動するものである。 

     一方で、「信仰」は、概念的ではなくイメージとしてかたられる「「事実」と

     されるものだということであるようです。

     このような意味であれば、初期仏教のブッダの思想は、信仰と呼ぶべきもの

     ではないように思います。

 

p167

 

純粋洞察のほんらいの対象は「純粋自己」である。 つまり、なによりも「自分が

洞察し納得すること」を求めるのであり、一切を「自己」化しようとする要求をもつ

(純粋洞察とは、ただ世界の空しさを語ることをやめ、むしろ積極的に世界の実相を

理解してそれを「わがもの」にしようとする自己意識であり、つまり近代的な理性の

ことである。・・・・)

 

p168

 

どう生きてよいかがさっぱり分からなくなったときに、人はどういう態度をとるか。

信仰と純粋洞察を、そのさいの二つの類型と考えてみるとおもしろい。 現実の相対的

諸目的を超えた絶対の真実を彼岸に求めるか、それとも、自分でもって考え納得

したい、納得できないことになど従わないぞ、という自分に重きを置く態度をとるか

人はその資質によってどちらかに傾くのではないだろうか。

 

==>> 「ただ世界の空しさを語ることをやめ、むしろ積極的に世界の実相を理解して」

     という記述は、おそらくヘーゲルの言う「精神」のように、人類の歴史を

     俯瞰するような態度を指しているのかなと思います。

     一方で、「世界の空しさを語ることをやめ」というのは、多分、懐疑主義や

     虚無主義(ニヒリズム)に陥ることをやめようということではないかと

     思います。

 

     信仰か純粋洞察かということについては、

     私の場合は、今のところは好奇心の方が勝っていますので純粋洞察をとります。

     ただし、好奇心と読書をしたいという欲求が無くなってきたら、おそらく

     信仰とまで行けるかどうか分かりませんが、宗教のイベント(お参り、

     瞑想会、写経会、写仏会、仏像鑑賞、その他)に現を抜かすことになるかも

しれません。

 

p169

 

やがて近代の思想は、まず、新しい“真の信仰”の運動(伝統的なキリスト教ではなく、

プロテスタントなど、近代の新しい信仰)の情熱として現れ、つぎに、世界の一切を、

より理性的、合理的に認識しようとする啓蒙思想の運動、つまり「純粋洞察」・・

というかたちをとって登場する。

 

p170

 

重要なのは、近代においてはじめて人間は、この理性の弁証法的運動を最高度に開花させ、

そのことで、世界をこのうえなく合理的で理性的な観点から認識しつくすような方法を

見出した、ということである。

 

==>> 私はキリスト教の歴史については、十分な知識はありませんので、

     特にコメントできる立場にはないのですが、二年程前に日比友好月間の

     イベントの展示をするに際して、我が故郷の長崎と天草の潜伏キリシタンに

     ついて調べたことがあります。

     もちろん、その時代は信長・秀吉・家康の日本の戦国時代ですが、

一方ヨーロッパでは、カトリックとプロテスタントの覇権争いで、フィリピンを

植民地としていたスペインがかなり危ない状況にあって、フィリピンから日本

にスペイン軍を派遣することが不可能な状況であった、というような話を

本から得ました。

 

そして、ポルトガルやスペインからの宣教師たちが日本での布教活動を始めた

ころに、キリスト教を「大日教」などと通訳したために、混乱が起こったことや、

日本の農民にキリスト教を説明したところ、「そういう宗教なら既にありますよ」

という返事が返ってきたという話もありました。

これは、特に浄土真宗(一向宗)がキリスト教に似ていたためかと思われます。

 

もし、江戸幕府が鎖国をしていなかったら、その後もヨーロッパの宗教、

自然科学、近代思想などが日本にも入ってきて、面白いことになっていたかも

しれないし、江戸文化が今のようには日本の伝統文化として育たなかった

のかもしれません。

 

そこで、横道に入りますが、フィリピンの簡単な年表を見て観ます。

https://pichori.net/Philippines/history/philipino_chronology.html

 

1543年、ミゲル・ロペス・デ・レガスピの遠征隊、スペイン植民地確立

1610年、日本を追放されたキリシタン大名、高山右近の一行がマニラに到着

1621年、マニラの日本人人口、3000人に達する(鎖国後、減少)

1897年、米西戦争勃発、米軍マニラ占領。

1898年、パリ講和条約でフィリピンの領有権が米国に移る

1935年、自治政府コモンウェルス発足。

1941年、日本軍(14軍、本間雅晴司令官)、リンガエン湾に上陸。

1942年、コレヒドール要塞陥落、在米軍降伏。

1946年、フィリピン共和国成立 1946年~

 

これを見ますと、1543―1897年までの354年間はスペイン

1898―1941年までの43年間はアメリカ

そして、1942―1945年の終戦までの3年間は日本に占領され、

通算でおよそ400年間、植民地となっていたフィリピンです。

これでは、フィリピン人による、フィリピン人の為の、フィリピンの文化も政治

も出来なかったことは無理もありません。

よく言われることは、スペインはキリスト教を、アメリカは教育を、そして

日本は・・・・を残した、だそうです。

 

 

p171

 

「啓蒙」は「信仰」の教えと鋭く対立するが、・・・・・

「絶対的なほんとう」(絶対本質)を求めているという点では同じだ・・・・

 

この「絶対的なほんとう」は、「信仰」では“彼岸の絶対者”として表象されているが、

「啓蒙」では理性による「世界の真理」の把握の情熱というかたちをとっているのだ。

 

p172

 

「啓蒙」の決定的な優位は、「世界」を合理的に認識することを通して、人間と世界の

関係自体、人間が作りだしたものであること、したがって、人は世界に何らかの仕方で、

“働きかけ”うるし、そのことで世界を“変えることができる”という自覚をもつ点にある。

 

p173

 

「啓蒙」は、「信仰」の主張する神の実在についての根拠を徹底的に批判する。

「啓蒙」からいうと、聖書だの奇跡などといったものは、何一つ実証的な証拠をもたない

作りごとにすぎない。 しかし、「信仰」にとっては、神についての「内的確信」こそが

重要であって、その実在についての知的な証拠は些末なつけたしなのだ。

 

==>> 私自身は「信仰」に入ったことがないので、敢えて「啓蒙」と「宗教」という

     比較をしたいと思います。

     確かに「啓蒙」は「宗教」に対してかなり優位であると思いますし、

     特に近代・現代の教育を受けた人たちの間では「啓蒙」の方が強いと思います。

     しかし、「信仰」というのは、ここでは「神」をいうものについて語って

     いますが、「信仰」の対象が例えば「科学」であっても成立するという

     意味においては、「内的確信」さえあれば「啓蒙」よりも「信仰」が

     勝つのではないかとも思います。

     (対象は、科学以外にも、政治的イデオロギー、芸術、果ては陰謀論まで

      いろいろあるだろうと思います。)

     もっとも、「科学」への「信仰」は、いうならば「啓蒙」の結果ではあるの

     ですが、「宗教」にしてもそこに「信仰」として入るには別のタイプの

     「啓蒙」というか「教化」が必要であることに変りはないと思うんです。

 

p174

 

「啓蒙」は、これまでのキリスト教的世界観に代わる、近代の新しい世界観を展開して

ゆくことになる。 それは大きく三つ、つまり「理神論」「唯物論」「功利主義」という

形をとる。

 

理神論・・・「父なる神」という観念は否定するが、しかし「絶対者」・・・の存在自体は

認める。

唯物論・・・究極的原因としての神を認めず、・・・「感覚の確実さ」だけを認めて、

観念それ自体の存在を否定する。

功利主義・・・あらゆる事物は、一方で「自体的」に(それ自身として)存在すると

同時に、他方で、「対他」としても存在する、とされる。・・・必ず他の存在「にとっての」、

あるいは「~のための」存在、という側面がある、という考えである。

 

==>> この三つの中で、私として馴染みがないのは功利主義なので、チェックして

     おきます。

     https://kotobank.jp/word/%E5%8A%9F%E5%88%A9%E4%B8%BB%E7%BE%A9-63351

     「行為の目的、行為の義務、正邪の基準を、社会の成員の「最大多数の最大幸福」

に求める倫理、法、政治上の立場。」

 

私自身は、若い時は自分が唯心論を信じていると思っていましたが、

上記の三つの中でどれに近いかと言えば、今は、理神論と唯物論の間

でふらふらしている感じかなと思います。

何か絶対的実在もあって欲しいし、感覚の確実さと観念の運動もあるように

感じるからです。

 

 

p179

 

「啓蒙」とはつまり、「世界とは何か」という問いを根本的に設定し直すのだが、その

出発点となるのは、世界の存在を「精神的」原理としてみるか、それとも「物質的」な

原理として見るべきか、という問いである。

 

 

p180

 

「唯物論」は、感覚に現れるものだけが確かなものだ、という点から出発する。

・・・それは最後に「純粋物質」の観念にゆきつく(この「純粋物質」はほぼカントの

「物自体」と同じ。 一般にはカント哲学は「観念論」と言われているが、ヘーゲルは

カントの「物自体」の考えに、「唯物論」の極限のかたちを見ている)。

 

==>> おお、このヘーゲルの考え方は非常に面白いですね。

     「純粋物質」というものを、仮に、「素粒子」と言いかえてみたらどうでしょう

     カントの物自体を「素粒子」としてみたらどうでしょう。

     そう思ってみれば、まさにカントは唯物論者ってことにできそうですね。

     言葉って本当に自由で便利ですね。定義を変えれば意味が変わる。

 

p183

 

「有用性」の考えは、純粋な信仰や理神論の立場から言えば、利益や効用を重んじると

いう点で、精神性に欠けた卑俗な思想とみなされる。 だが、「有用性」の思想は、

哲学的には、「純粋洞察」の展開の最終の境地であり、近代の「存在」概念の完成形態

と言えるものだ。

 

つまり、近代の「存在」思想は、存在の「有用性」という考えを見出すことで、はじめて

「純粋存在」(物質)や「純粋実在」(精神原理)といった、一面的で抽象的な志向性の

対立の場面を超え出る。

 

p187

 

啓蒙思想の「真理」、つまり世界のあらゆることがらが、「私にとって」だけでなく、

「人びとにとって」存在している、という洞察が、「社会」という存在の人間的本質

の洞察に結びつくことになる。

 

・・・人間にとっての「ほんとうのもの」という観念へと転化する。

 

==>> ここでは功利主義の「有用性」の考えを解説しているんですが、

     どうも私にはピンときません。

     事典に掲載されている程度の解説では、理解するのは難しそうです。

 

 

 

=== その6 に続きます ===

 竹田青嗣+西研著「はじめてのヘーゲル『精神現象学』」― 6 「主観的な善」と「社会的な善」の一致 (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

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